本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

解脱(げだつ)

2023-11-17 17:51:50 | 十地経

「解脱」この言葉も

よく出てきますので

何回書いていても、どうも

仏教語らしからぬように

思うのです

「解」という字

角を書いて、刀を書いて

その下に牛を書く

何とも物騒な漢字です。

もとの意味はやはり

牛を解体するところから

きているようです。

 

そのことが

ものを解析するとか

ものごとのもつれを解く

さらに、ときあかす

そういう意味になってきた

ようです。

 

それで「解脱」ということ

は、ヴィモークシャの訳で

解き放たれたこと、

というのが原語の意味です

私たちにとっては

煩悩に縛られていること

から放されて

迷いの苦をすること、

または

迷いの世界を度(わた)り

超えるという意味で

度脱(どだつ)ともいい

ます。

 

ここのところの講義は

西洋の思想の考え方が

出てきて、

「アラーとユダヤ、

どっちもエルサレムを

通らんと承知せん。

あそこのエルサレムと

いうことを中心に出た宗教

というものの特色は、

何というか、

エホバといっているのは

とにかくその、

唯一神でしょう。

だからして無限の排外性を

持っとるんですよ。

あれ、

提携ということは

成り立たんのです。

一つを認めるということは

他を敵とすることだ。」

 

何か今の問題にも関係

してくるような感じです

私たち多神教というか

八百万の神様方のなかで

生きている私たちには

理解しがたいものがある

ようです。

 

分からないなりに

いろいろ調べてみると

改めて

思い知ることがあります

イスラエルということの

もとの意味は、

「神が支配する」という

ことのようです。

 

やはり、信仰といっても

神との契約がもとで

イスラムの世界では

信仰告白・礼拝・喜捨・

断食・巡礼という信仰行為

ということがあるようです

 

そこで、

仏教ということをみると

解脱という、

解き放たれる

自分自身の煩悩から

解放される

そこに神さまは出てこない

自分が自分で自分を解放

するという、

普通では考えられない

宗教でしょう。

 

その解脱も

ただひたすらに瞑想して

解脱するのではなく、

耳で仏法を聞いて解脱する

「解脱の耳をすまして

  仏法を聞く」

という言葉もあるように

「聞・思・修」という

三慧が必要になってきます

 

そこで講義の最後も

「人間が自分の能力を

もって自分を超える道が

発見されたということは

非常に珍しいことだ。

人間が他の力で解脱する

のじゃなしに、

人間が自分自身に解脱する

力をもっとると。

 

にもかかわらず

その力を失わしとるのは

考えが失わさしとるんだと

考えを捨てれば、

人間は自分の、

自分で自分を解放する

だけの力を持っとると。」

 

これは凄いことだし

他に依らず、

自分自身がその力を

内包しているというのです

これは他の宗教と

決定的に違うところの

ように思うのです。

 

しかし、反面

人間は他の力が欲しい

という心も持っています

そして頼りたいという。

仏教の難しさは

ここにもあるように

思うのです。

 

 

 

 

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明晰かつ判明

2023-11-16 17:22:25 | 十地経

クラール・ウント・

   ドイトッリヒ

先生はよくドイツ語で

このことを話されました

「明晰かつ判明」と

仏教というと何か難しい

ような気がするのですが

本来は、明晰そして判明と

はっきりして簡潔なもの

ということでしょう。

 

迷いのスパイラル

といいますか

無明・業・識という

迷いの連鎖があります

無明という

本当のことが分からない

分からないだけなら

それでいいのですが

分からないと

間違ったことを本当のこと

としてそれに執着して

離そうとしないのです

 

間違った思い込みで

業、行いをしてしまいます

その行為いは

意識の上に定着し

間違った意識がさらに

間違いの行為をしてしまう

という

悪循環が続くのです。

 

ですが、

仏教の教えはもっと簡潔で

明かなものなのでしょう。

複雑にしているのは

自分自身の考えです。

その根底には

自分にとって何が得か

何が損になるのか

そういう算盤を常に

はじいている。

 

そういう心が複雑にし

分からなくしている

のでしょう。

お釈迦さまの頃は

「諸善奉行・諸悪莫作」

(しょぜんぶぎょう・

 しょあくまくさ)

善いことは行え

悪いことはするな

という簡単なことで

皆が納得し行ったのです

 

ところが

微妙な人間の心のひだ

表には算盤をはじかない

ようにしながら、

裏ではちゃんと算盤を

はじいているというような

なかなかややっこしい

心が出てくるのです

それらの心を

見逃さなかったところに

複雑になっていった点が

あるように思います。

 

そこで講義では

「仏教の複雑なのは

何にも仏教の自慢には

ならんと思うんです。

非常に簡潔であってですね

明晰である点です。

 

ものを見ることによって、

ものをして

ものを語らしめる。

それによって

我々はものを、

ものによって

かえって我々がものを

知るんじゃない。

ものによって

我々が知らされるんです。

 

自分を知れば

そこに煩悩が起こっても

それに動かされることが

できないという、

非常に簡潔な道ですね。

これに

僕は魅力を感じるんだ。」

 

だから本来は

明晰にしてかつ簡明である

というのが仏教の教え

だと思います。

煩悩を絶つというか

そうではなく、

煩悩のはたらく場所を

よく見る

すると

煩悩のはたらきようがない

ということが

正見の智慧だと思います。

 

 

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八正道とアシュタンガヨガ

2023-11-14 19:54:26 | 十地経

ヨガ(ヨーガ)は

お釈迦さまの時代よりも

ずっと以前からインドでは

行われていたのでしょう

お釈迦さまが出家されてた

時も、瞑想と苦行は

一体のものとして

行われていました

 

ということで

最初は瞑想から入られ

次には苦行をするという

結跏趺坐のまま数週間単位

で精神統一をするという

そのためには

その体を維持するためには

肉体的にも精神的にも

強いものが求めら

それがヨーガの行にも

求められたようです

 

最近、アシュタンガヨガ

ということを聞きました

ちょっと気になったのは

アシュタということ

これはインドの言葉で

8を意味します

ですから

アシュタンガというのは

アシュタ=8

アンガ=支、部分という

ことです

直訳では八の支則という

意味になります

 

八正道もインドの言葉では

アーリヤ・アシュタンガ・

マールガといいます

アーリヤとは聖なる、

アシュタは8で

マールガは道という意味で

直訳すると

八聖支道、

八正道となります

 

アシュタンガヨガという

のも、実際は見たことが

ないのですが

ネットで見てみると

結構アクロバティックな

運動をするのです

まあ、こういうことも

集中力を保つためには

必要なことかもしれません

 

やはり、心といっても

強い肉体を持たなければ

思考に耐えないということ

もあるのかも知れません

数週間にわたって座禅して

瞑想するのですから

 

9月ですか

風邪をこじらせて

咳も止まらず熱も出る

そういう体では

思考するということは

不可能に近いものです

熱に耐えるとか

咳をこらえるのに

全エネルギーを使って

しまいます

 

それで講義ですが 

いよいよ、この巻も

終わりになってきます、

ヨーガということから

仏教ではそれは

方法であって目的でない

その方法が止観という

ことを生み出して

己を止める、やめると

もの自身が語ってくる

そこに止観が成り立つと

 

「人間が

自分の能力をもって自分を

超える道が発見された

ということは

非常に珍しいことだ。

人間が他の力で解脱するん

ではなしに、

人間が自分自身に解脱する

力を持っとると。

にもかかわらず

その力を失わしとるのは

考えが失わしとるんだと。

 

考えを捨てれば、

人間は自分の、

自分で自分を解放する

だけの力を持っとると。

これは本来の力を

回復するということですね

こういう要素がある。」

 

ということです。

因みに

アシュタンガヨガの

8支則とは

1.禁戒(破戒を禁ず)

2.勧戒(戒を勧める)

3.坐法

4.呼吸

5.内観

6.集中

7.瞑想

8.三昧

ということです

八正道の8は

1.正見

2.正思

3.正語

4.正業

5.正命(正しい生活)

6.正精進

7.正念(憶念不忘)

8.正定

になります。

八正道の目的は

最初の正見です

仏教ではお経もそうですが

最初に目的が出てきます。

つまり結論が出るのです

その以下が

その内容になってきます

正思、正語、正業は

身口意の三業で

日常行っていること

それを正命(生活)

それを常に努力する

それを忘れず(正念)

それによって正しい定

三昧を得るというとこ

になってきます。

 

何となく似ている所も

ありますが、八支則の方は

目的の正見ということが

はっきりしないようです

 

八正道では

正見というのが目的で

さとりの智慧

正見を実現するために

正思と正定

ですから

止観ということが

正見を成就する方法に

なるわけです。

 

 

 

 

 

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無念無想は解脱じゃない

2023-11-13 19:56:19 | 十地経

「釈迦の時代はインドでは

苦行というものがあった。

苦行とヨーガというのが、

これが外道の、

つまり仏陀の時代の

実践方法なんです。

それを釈迦はやってみた。

徹底的にやってみたんです

いい加減にやらずに。

もうあばら骨だけに

なっとる、骸骨のような

そこまで徹底したんです」

 

 

お釈迦さまの苦行を思い

部屋にはこの姿の像を

置いています

祖父が大事にしてたもの

なんです。

 

経典にはその様子を

書いてあります。

「身には衣服を着けず、

つねに裸体で、

礼儀を無視した。

食事への招待を断り、

魚・肉・酒をとらず、

一日一食より始めて

半月に一食をとるに

至った。

 

野菜、なま米、胡麻の粉、

草の実、牛糞、木の根や実

自然に落ちた果実のみを

食し、

 

麻の衣、墓場に捨てられた

屍を包んだ衣、

捨てられたぼろで作った衣

樹皮の衣などを着し、

 

常に髭や頭髪を抜きとる行

直立の行、不坐の行、

つねにうずくまる行、

棘のある床に臥す行、

一日三回水浴する行

などを行った。

常に森林に住み、

墓場で屍の骨を床として

休んだ」

と、

凄まじい修行の様子を

窺い知ることができます。

一日三回の水浴とは

食事の時だけ水を出る

ということです。

 

「それで苦行というものの

まったく無駄なことを

知ったんや。

無意味なんだと。

苦しみが解脱させる

というようなことは

まったく無意味なんだ。

 

妄想に過ぎんと、

勇敢にこれを捨てた。

それだから牛乳を飲んだ。

しかも娘から捧げられた

牛乳を飲んだものだから

ついとった人は、

あいつは堕落したと

皆逃げ出した。

 

けど、

ヨーガは採用したんだ。

苦行は捨てたけど、

ヨーガの方は用いた。

そして仏教の

いわゆる観の組織の中に

入れたんです。

 

で、八正道では正定を

波羅蜜では禅定波羅蜜と

いうのが、

そのヨーガを入れたんです

だけど

仏教はこれをですね、

一つの方法として認めたん

であって、

目的として認めたんじゃ

ないんです。

 

ヨーガの方ではこれは

目的なんだ。

ヨーガというと、

無念無想みたいな状態ね。

無念無想みたいな状態が

解脱だと思っている。

それは解脱ではない。

 

解脱は智慧以外に

解脱はないんです。

無念無想の状態は、

解脱でも何でもない。

それをですね、

ヨーガを目的として

修するところに外道が

あるんでしょう。

 

どこまでもやっぱり

観ですね。

ものと一つになる

というのがヨーガだ。

そしてそうすれば

もの自身が自分を語って

くると。

それによって

我々は初めてものを知ると

こういう意味です。」

 

お釈迦さまの時代

瞑想と苦行というのは

一体のものとして

考えられています

最初は瞑想をされ

その次に苦行をされた

その両極端(苦行・瞑想)

は捨てられて

中道という道を

見つけられたのです。

 

講義でも

このヨーガというものを

よく取りあげておられます

先生にとっても

問題になったのでしょう。

ヨーガと唯識というもの

まったく正反対に思える

この二つが繋がっている

ということが興味ある

ところです。

 

 

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「東寺音舞台」TV放送

2023-11-12 09:30:42 | 住職の活動日記

いよいよ今夜

「東寺音舞台」がTV放送

があります

 

11月12日

深夜0時30分~1時24分

MBS・TBS系列で

全国放送です

 

遅いですが

宜しかったらご覧になって

下さい

 

とても感動ものですよ!

 

プログラム

*声明

*夢想

 

*眠れる森の美女より

 第18曲 間奏曲

 ナターシャ・オシポワ

 

*Holy Nights

 Whats My Name?

 Imagine

 The Others

 以上 MIYAVI

 

*ワルツ形式による

     カプリス

*リベルタンゴ

 以上 上野耕平

 

*喜歌劇「微笑みの国」

 より 君は我が心の全て

*朝の歌

 以上 笛田博昭

 

*真言とミゼーレ

 

*わがキエフ

  ナターシャ・グジー

*鳥の歌 カタルーニャ民謡

  ナターシャ・オシポワ

  ナターシャ・グジー

 

*セイキロス

  ~古代から宇宙へ~

 

*あなたに栄光を

 

というプログラムですが

一部変更があるかも

しれません。

 

 

 

 

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正見の智慧。観-現-見。

2023-11-10 20:31:34 | 十地経

八正道の最初に出てくる

のは、正見(しょうけん)

です。

この正見が八正道の目的で

その内容が次に出てくる

七つの方法です。

ですから、

正見ということが

仏教の目的になります。

講義では、

 

「ものを見るという場合に

我々の苦しんでいるのは

煩悩を起こしたから

苦しんでいるのではない。

その煩悩というものをです

ね、煩悩が力を持ってくる

のは見ない、

つまり間違った見解の上に

煩悩がはたらくんです。

 

その見解を取ってしまえば

煩悩があっても

はたらきようがないんです

自分の心に自分が

だまされるんです。

それだから

ものを正しく見る

ということが、

仏教では一番大事な

ことになる。

 

こりゃあ非常に素晴らしい

道じゃないでしょうかね。

信ずるとか、祈るとか、

加持とか祈祷とか、

そんなことを言わずに、

正しくものを見よと。

つまり認識による

解脱です。

 

認識だけが人間を解放する

 

正しい認識を明らかにする

方法が止観なんです。

それはまず第一に、

己を止めて、

ものそのものになるという

己を止めて、

ものそのものになると、

そういうのが止なんです。

 

我々がものを見てですね、

その上に我々が

本当に初めからものを見て

その上にやっとるなら

苦しむはずがない。

我々が絶えず真理の上に

生きとるんならですね、

苦しむはずがない。

 

どうも色々違ってくる

ところをみると

本当に見とらんのです。

結局、

真理を見とるんじゃない。

やっぱり真理を解釈して

自分の考えの上に立っとる

 

だから

その自分の考えを放棄して

ものそのものとなって見よ

と。

ものそのものになれば

ものが何であるかは

もの自身が語ってくると

いう。

 

だから観という字は、

これ(見)が大事なんです

これは現という、

これと同じことなんです。

観-現-見。

あるいは正見ですね。

正見というのは

現れることなんです、

見るということですね。

 

この、見という

ものを見る。

ものを見るんじゃない。

そのものになればですね、

もの自身が現れてくる。

我々の考えがあるというと

ものが現れようがない

場所をふさいどるんだから

 

だから

己を去ってみれば、

そこにもの自身が

自分を開いてくる。

だからして、

止観というのを

別の言葉でいえば、

 

ものをして

ものを語らしめる方法や。

我々がつかむ

方法じゃないんだ。」

 

これは他の講義でも

よく出てくる言葉ですが

ゲルマニカ・テオロギア

という本があって

その内容に、

最大の問題は

「私が、私の、私を、

 私に」

私というものを手放すこと

が出来ず、

私が、私の、私を、私に、

という

こだわりを捨てることが

できない

それが問題だ。

ということが出ています。

やはり、「私」という

それがものを正しく見る

ことを邪魔をしている。

何かしら

問題は同じことを感じます

ですが、

こちらでは

「痛みのために

 うめくのです」

という言葉で

結ばれています。

問題は同じでも、

仏教では

「己を去ってみれば」

ゲルマニカの方では

「痛みのためにうめく」

と、違ってくるところが

面白いと思います。

 

 

 

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止観ということ

2023-11-09 20:08:37 | 十地経

止観と、止と観

訳さずにいうと

止が奢摩他・シャマタ

観が毘婆舎那・ビバシャナ

奢摩他、毘婆舎那という

言葉で経典では出てきます

 

布施とか智慧とか般若とか

色々いうけど、

それらはすべて止観という

ことに納まるんです。

 

そこで、

「その止観というのは

どういうものかと、

これは僕の考えですけど、

方法論としてみる場合には

止というのは、

これは、

止めると書いてあるけど、

停止するという具合に

書いてありますけど、

これは現代的な意義を

もっとると思うんです。

 

非常に不思議なことは、

フッサールの現象学の

方法が出とるからです、

止というようなとこに。

 

あらゆる関心を

括弧に入れると、

ものを括弧することだと。

 

もっといえば、

己というものの考えを

捨ててという。

己の考えを立てていくん

じゃないんだ。

己の考えを捨ててという。

私を捨てて、ええ、

無心に見よという。

 

私によって見るんじゃない

我というものを捨てて

見よという。

 

で、その、正見というのは

眼というのがね、

なんかを見たといいうたら

真理を見たんでしょうや、

正見というのは、

一切諸法の。

 

その、

我々が流転しとるのは、

その考えの上に、

自分らの考えの上に

煩悩を起こすんです。

 

煩悩によって業を作り、

業によって苦果を受けとる

というんで、

何というか、あの、

立場を、我々の立場を、

立場というものが問題で

あってですね、

正見と邪見というのが

大事なんです。

 

この問題を最後まで解決

していくというと、

立場の問題になるんです、

立っとるね。」

 

ここでは「止」という

ことだけですが、

この講義のあとブームに

なったのが、

「括弧に入れて」

という言葉です。

色々関心はあるでしょう

けれど、

そういうことを

括弧に入れて一つに

集中すると、

 

三浦先生も、

高校生に対して、

「勉強以外にも色々関心が

あるでしょうけれど、

高校の3年間は

そういうことを

括弧に入れて、勉学に

集中してください」と、

話されておられました。

 

人間の心というものは

ほったらかしにしていたら

千路に乱れて

色々の関心に振り回されて

あっという間に時間が

過ぎ去っていくものです

 

いろいろありますけれど

やはり何かをなすと

いうことになったら

自分の好きなこと、

反対に嫌なことも

括弧に入れて

集中しなければ

何もできないと思うのです

 

止観ということは

このあと出てきますが

「括弧に入れて」

というを思い出しました。

 

 

 

 

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究極的関心

2023-11-08 19:23:54 | 十地経

色々な関心事はある

のですが、

いざ、

本当に最終的な関心はと、

問われると

考え込んでしまいます

 

今は、お金ということが

とても強い関心事です

儲けるという

そしてお金を手にする

ということが

何よりも一番の関心事です

学生の頃から起業して

お金を稼ぎだす

若い人にとっては

こういうことが一番の

関心あることでしょう

 

少し勿体ない気もします

昔から、

働かざる者食うべからず

という言葉があります

しかし、

学生という立場は

この働くということを

免除されているのです

社会に出て働くために

その基礎となる学ぶという

姿勢を身につけてほしい

ということです

一見無駄とも思える

勉学に励む

すぐには役に立たないかも

しれませんが

学ぶということ

 

フィロソフィーという

言葉があります

智を愛する、といいます

何かそういう

智を愛するという

そういうことを学ぶのが

学生ということでしょう

仏教的には

学生(がくしょう)

といいます

 

お釈迦さまにとって

究極的関心事とは

生れは王子さまです

地位もありお金もあり

ゆくゆくは王様です

普通いう

我々が欲しいと思うものは

すべてそろっていたのです

 

しかし、

すべてを捨てて

出家されたのです

乞食(こつじき)の姿に

なって、道を求めて

修行に入られた

見方を変えれば

もし悟りを開かれなかった

のであれば

大変な問題児というか

大バカ者というか

国を捨てたというのは

一国の人たちを路頭に

迷わせてしまうのです

 

ついに、釈迦族は

滅ぼされてしまうのですが

それほどまでしてでも

抑えきれない

関心事というものは

それこそ究極的関心という

ものでしょう

 

「人間という意味は、

ただ消費しとるという

意味ではないのです。

人間とは、

主体的人間というものは

なんかその、

要求を持っとるんだ。

 

願というものがあるんです

願というものが

ないときには人間の存在、

それでないというと、

それは生物と変わらんです

その生物まで落ちてくると

更に物質まで落ちてくる

より仕方がない。

 

物質は死んだもんだが、

生物は生きたもんだと。

その生きたもんだという

意味を完成するのは

願というものが

なければならんでしょう。

 

ただ起きて、ものを食って

腹がふくれて眠ると。

また眼を覚まして

ものを食うと、

そういう連続ではですね、

どうもやった意味が

全体として出てこないね。

 

そういうもんで

死んでしまっても、

生きとったんでも

あんまり区別がないんだ。

何のために生きた

ということがないんだから

 

為というのは、

何か、

願が与える方向ですね。

まあその、

願というものがなければ

教育も努力も

何もないです。

食って寝てという

そういうものだけです。」

 

というように

講義では出ています

どんなに王子であろうと

すべてのものが

揃っていても

食って寝て、

それだけではどうにも

ならない虚しい

空虚なものが襲ってきた

のでしょう

そういうところに

出家の原因があるように

思うのです

 

私たちにとっても

究極的な関心とは

何かということを

考え直してみないと

いけないような気がします

こういうことを

外国の方は

アルティメットコンサーン

Ultimate・concern

と呼んだのでしょう。

 

こういうところに

宗教問題があるように

思うのですが。

 

 

 

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供養を受けるにふさわしい者

2023-11-06 20:28:27 | 十地経

供養ということも

なかなか深い意味があって

供養を受けるに値するのか

という問題があります

 

そこに

阿羅漢(あらかん)という、

普通には羅漢さんとして

親しみある仏です

十六羅漢とか五百羅漢という

色々の表情をもった姿を

されています

 

この阿羅漢という仏は

アルハットという言葉を

阿羅漢と音写したのです

その意味は、

応供(おうぐ)とか、

殺賊(せつぞく)それから

不生(ふしょう)という

ことです

 

仏、ブツとも読みますが

ブッダ(目覚めた)という

言葉を仏陀と音写して

さらに略して「仏」と

しかし、仏といっても

その内容はたくさんあります

「名は体を表す」

ということがあって

仏の内容を表すとなると

一つでは表し切れないのです

 

そこで、

如来の十号(じゅうごう)

といって、

仏さまは十の名前を

もっておられます

その第一が

阿羅漢です、

さらに阿羅漢も

三つの名を

持っておられます

応供、殺賊、不生という

その中、応供というのが

 

供養を受けるにふさわしい

(相応)人という意味で

応供というのです

それから、

殺賊というのは

煩悩の賊を殺害した者

ということです

最後に、

不生(ふしょう)と

いうのは、

さとりの世界に入って

もはや再び迷いの世界に

生を受けない人

ということです

 

そこで、

仏の異名で最初に出てくる

阿羅漢は最も仏の内容を

表しています

応供という

供養を受けるに相応

(ふさわしい)者という

だから、

供養を受けるといっても

あだやおろそかでは

できないのです

 

今では何気なく

供養を受けていますが

はたして供養を受けるに

値するのか

もう一度振り返ってみる

必要があるようです

 

仏の十号は、それから

正遍知(しょうへんち)

 正しく完全に真理を

 覚った者、

 等正覚、正等覚ともいい

 この方がよく使います

 

明行足

(みょうぎょうそく)

 明は智慧、行は実践

智慧と実践が完全である者

 

善逝(ぜんぜい)

 善く逝ける者

 迷いの世界をよく超えて

 再び迷いに還らない者

 

世間解(せけんげ)

 世間・出世間のことを

 悉く知る者

 俗にいう苦労人

 

無上士(むじょうし)

 世間において最も尊い者

 三界の尊ともいう

 

調御丈夫

(じょうごじょうぶ)

衆生をよく調伏し制御して

 涅槃に導く者

 

天人師(てんにんし)

 天と人との師匠

 迷いにあるものすべてを

 導くが天と人が最も多い

 

仏・仏陀

 さとれる者、目ざめたもの

 

というのが如来の十号です

このなかでも

一番よく仏という内容を

表した言葉が

阿羅漢という、応供という

ことなのです

 

ですから、

供養ということも

本来は仏しか

受けることができない

ということに

なってくるようです。

 

(何の考えもなく

何の反省もなく、平気で

受けているのですが…)

 

 

 

 

 

 

 

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黙然として聴許す

2023-11-05 18:04:11 | 十地経

供養を受けられる時の

お釈迦さまの言葉です

黙然、黙って

聴許(ちょうきょ)、

聞き入れ許す

ということです。

とても、毅然とした

ある種の威厳のようなものを

感じる言葉でもあります。

 

昔の話で

一休さんが法事に呼ばれた

いつものボロボロの衣で

出向いたところ

乞食坊主は帰れと

追い返された

そこでお寺に戻り

今度は金襴の立派な衣を

来てお邪魔したところ

床の間の立派な部屋に

通されご馳走が出てきた

そこで

やおら衣を脱いで

そこにたたんで

私は失礼します

どうぞ衣にご馳走をあげて

下さいと

 

供養ということも

今では、法事とかで

亡くなった方に食べ物、お茶

それからお花、燈明を

お供えすることを指しますが

それもありますが

お供えを受けて

それに対して説法することも

供養といいます

なかなか幅広い意味をもった

言葉なのです。

 

それから、

五条大橋のたもとには

扇供養塚なるものがあり

ひろく、櫛供養、仏壇供養

というものまであります

ただの物というだけではなく

今まで働いてくれた

物に対しての心を見る

ということで

供養と言うのでしょう。

 

安田先生も

ほとんど職に就かれなかった

覚えている限りでは

一時、

大学の講師をされていた姿を

見ました、

それもダブルのスーツで、

ですから、

仕事に就かれなかった

何かの折、

「食えんようになったら

死ぬときや」

と、仰っておられました

矢張り自分の命を懸けて

聞法しておられたのです

 

私たちのような

呑気な話ではないのです

 

そういうところから

出てくる言葉が

「聴許することを許す」

ということでしょう。

供養することを許す、

という。

非常な厳しさを感じます。

 

「忙しい」

という言葉も使いように

よっては便利な言葉で

「今日も明日も忙しいので」

といわれると

それ以上は言えないものです。

ある面では

忙しいということは

それだけ世の中から

求められている人、という

意味をもっています。

 

しかし、

それを許さなかったのは

師の三浦先生です

そういう言葉を発したなら

「なんと呑気な話や」

「坊主として一番先に考える

のは人間としての生き死にの

問題だろう、

忙しいと言って

自分を誤魔化すな。」

という檄が飛びます。

 

アンパンマンの歌にもある

「何のために生まれて

 何をして生きるのか

 答えられないなんて

 いやだ」

ということが、

人間の根本問題を表して

いるように思います。

 

先日来、ページが進みません

供養ということも

調べてみると

なかなかごつい問題のある

言葉です。

私たちは

ほんの一部分の意味でしか

使っていないようです。

 

 

 

 

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