「釈迦の時代はインドでは
苦行というものがあった。
苦行とヨーガというのが、
これが外道の、
つまり仏陀の時代の
実践方法なんです。
それを釈迦はやってみた。
徹底的にやってみたんです
いい加減にやらずに。
もうあばら骨だけに
なっとる、骸骨のような
そこまで徹底したんです」
お釈迦さまの苦行を思い
部屋にはこの姿の像を
置いています
祖父が大事にしてたもの
なんです。
経典にはその様子を
書いてあります。
「身には衣服を着けず、
つねに裸体で、
礼儀を無視した。
食事への招待を断り、
魚・肉・酒をとらず、
一日一食より始めて
半月に一食をとるに
至った。
野菜、なま米、胡麻の粉、
草の実、牛糞、木の根や実
自然に落ちた果実のみを
食し、
麻の衣、墓場に捨てられた
屍を包んだ衣、
捨てられたぼろで作った衣
樹皮の衣などを着し、
常に髭や頭髪を抜きとる行
直立の行、不坐の行、
つねにうずくまる行、
棘のある床に臥す行、
一日三回水浴する行
などを行った。
常に森林に住み、
墓場で屍の骨を床として
休んだ」
と、
凄まじい修行の様子を
窺い知ることができます。
一日三回の水浴とは
食事の時だけ水を出る
ということです。
「それで苦行というものの
まったく無駄なことを
知ったんや。
無意味なんだと。
苦しみが解脱させる
というようなことは
まったく無意味なんだ。
妄想に過ぎんと、
勇敢にこれを捨てた。
それだから牛乳を飲んだ。
しかも娘から捧げられた
牛乳を飲んだものだから
ついとった人は、
あいつは堕落したと
皆逃げ出した。
けど、
ヨーガは採用したんだ。
苦行は捨てたけど、
ヨーガの方は用いた。
そして仏教の
いわゆる観の組織の中に
入れたんです。
で、八正道では正定を
波羅蜜では禅定波羅蜜と
いうのが、
そのヨーガを入れたんです
だけど
仏教はこれをですね、
一つの方法として認めたん
であって、
目的として認めたんじゃ
ないんです。
ヨーガの方ではこれは
目的なんだ。
ヨーガというと、
無念無想みたいな状態ね。
無念無想みたいな状態が
解脱だと思っている。
それは解脱ではない。
解脱は智慧以外に
解脱はないんです。
無念無想の状態は、
解脱でも何でもない。
それをですね、
ヨーガを目的として
修するところに外道が
あるんでしょう。
どこまでもやっぱり
観ですね。
ものと一つになる
というのがヨーガだ。
そしてそうすれば
もの自身が自分を語って
くると。
それによって
我々は初めてものを知ると
こういう意味です。」
お釈迦さまの時代
瞑想と苦行というのは
一体のものとして
考えられています
最初は瞑想をされ
その次に苦行をされた
その両極端(苦行・瞑想)
は捨てられて
中道という道を
見つけられたのです。
講義でも
このヨーガというものを
よく取りあげておられます
先生にとっても
問題になったのでしょう。
ヨーガと唯識というもの
まったく正反対に思える
この二つが繋がっている
ということが興味ある
ところです。
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