こっどもの頃は乞食のことを
「かんじんさん」が来たと
呼んでいました
意味も分からず、しかし
考えてみると
「勧進」ということは
立派な行です。
『勧進帳』という歌舞伎も
あります
安宅関で呼び止められた
弁慶が「勧進帳」を空んじ
読み上げるという場面です。
ということで
かんじん、というのは
立派な言葉なのですが
ものもらいに来る人を
「かんじんさん」と
呼んでいたのです。
講義では
「本当の人間としての
願というものを失ったら
坊さんというのは
ものもらいや。
人間以下になってしまう。
まあ、
坊さんも乞食(こつじき)
というんだけど、
乞食(こじき)とは
発音は違うけど、字は同じ
なんですよ。
けど、その発音が違うと
やっぱり坊さんも
乞食(こつじき)するという
のは生産せんというような
意味です。
それは、普通の意味の乞食の
乞食という意味じゃなしに、
生産というもの、
出家ですね。
家にいるということは、
これは生産生活に従う
ということですから、
それを出るということは、
生産生活から離れる
ということです。
しかしそれは、
働いとる人の問題を
背負うわけです。
生産事業に携わって、
そういうことを考える
余地のない人、人の問題。
つまり人類的な問題です。
個人の問題じゃないんです。
そういうものを背負う
ところにやっぱり家を出る。
そして乞食(こつじき)の
生活に入る。
その時やっぱりその、
乞食(こじき)に
なってしまうんじゃない、
願があるんだから。
人類的な課題というものを
背負うて、
その課題というものが
家におらせんのだ。
家より大きいんだから、
課題が。
そうすると今度はまあ、
初めてそこにですね、
供養を受けるという。
つまり、
供養する方がお礼を言う
んです。
自分のために、の問題を、
自分の問題を考えてもらう
んだから、えー、
人類の供養を受けると。
だからその時に、
別にくれーということを
言わないのです。
その、供養することによって
利益を受ける、
ものを供養した人が
利益を受けるのであって、
供養を受けた者は利益を
するんじゃないんですから。
だからして古い経典を
読んでみると、
有難うということを
言ってないんです。
お釈迦さまは供養を受けて
おられるけど。
黙然として聴許すると
書いてある。
供養を許すという。
有難うというようなことは
言わない。
有難うといったら
途端に乞食になって
しまう。」
という、大きな問題です。
こういうことが
あってでしょうか。
坊さんはお礼を言わんでも
いい、というようなことが
あったんです。
色々議論もあったのですが
その時、三浦先生は
「もの言わぬ
ご本尊に代わって住職が
お礼を言わなければ
いけない」
ということを言っておられ
ました。
お釈迦さまが托鉢に
出られた時
ある農夫が、
貴方も田を耕したらどうか、
と尋ねるのですね
そしたら、
お釈迦さまの答えが
自分は心の田を耕している
そういう表現です
人類の問題を背負っている
あなたに代わって
ということでしょう。
けど、難しい問題です。
やはり世間の中に生きている
私たちにとって
有難う、と言いすぎるのも
問題があるし
かといって、すまして
お礼の言葉を言わないのも
問題です
やはり、根底に
人間としての問題を
考え続けているという立場が
大事なことのように思います