本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

乞食(こじき)・乞食(こつじき)

2023-11-02 19:13:22 | 十地経

こっどもの頃は乞食のことを

「かんじんさん」が来たと

呼んでいました

意味も分からず、しかし

考えてみると

「勧進」ということは

立派な行です。

『勧進帳』という歌舞伎も

あります

安宅関で呼び止められた

弁慶が「勧進帳」を空んじ

読み上げるという場面です。

 

ということで

かんじん、というのは

立派な言葉なのですが

ものもらいに来る人を

「かんじんさん」と

呼んでいたのです。

 

講義では

「本当の人間としての

願というものを失ったら

坊さんというのは

ものもらいや。

人間以下になってしまう。

まあ、

坊さんも乞食(こつじき)

というんだけど、

乞食(こじき)とは

発音は違うけど、字は同じ

なんですよ。

 

けど、その発音が違うと

やっぱり坊さんも

乞食(こつじき)するという

のは生産せんというような

意味です。

 

それは、普通の意味の乞食の

乞食という意味じゃなしに、

生産というもの、

出家ですね。

家にいるということは、

これは生産生活に従う

ということですから、

それを出るということは、

生産生活から離れる

ということです。

しかしそれは、

働いとる人の問題を

背負うわけです。

 

生産事業に携わって、

そういうことを考える

余地のない人、人の問題。

つまり人類的な問題です。

個人の問題じゃないんです。

そういうものを背負う

ところにやっぱり家を出る。

そして乞食(こつじき)の

生活に入る。

 

その時やっぱりその、

乞食(こじき)に

なってしまうんじゃない、

願があるんだから。

人類的な課題というものを

背負うて、

その課題というものが

家におらせんのだ。

家より大きいんだから、

課題が。

 

そうすると今度はまあ、

初めてそこにですね、

供養を受けるという。

つまり、

供養する方がお礼を言う

んです。

自分のために、の問題を、

自分の問題を考えてもらう

んだから、えー、

人類の供養を受けると。

 

だからその時に、

別にくれーということを

言わないのです。

その、供養することによって

利益を受ける、

ものを供養した人が

利益を受けるのであって、

供養を受けた者は利益を

するんじゃないんですから。

 

だからして古い経典を

読んでみると、

有難うということを

言ってないんです。

お釈迦さまは供養を受けて

おられるけど。

黙然として聴許すると

書いてある。

供養を許すという。

有難うというようなことは

言わない。

有難うといったら

途端に乞食になって

しまう。」

 

という、大きな問題です。

こういうことが

あってでしょうか。

坊さんはお礼を言わんでも

いい、というようなことが

あったんです。

色々議論もあったのですが

 

その時、三浦先生は

「もの言わぬ

ご本尊に代わって住職が

お礼を言わなければ

いけない」

ということを言っておられ

ました。

 

お釈迦さまが托鉢に

出られた時

ある農夫が、

貴方も田を耕したらどうか、

と尋ねるのですね

そしたら、

お釈迦さまの答えが

自分は心の田を耕している

そういう表現です

人類の問題を背負っている

あなたに代わって

ということでしょう。

 

けど、難しい問題です。

やはり世間の中に生きている

私たちにとって

有難う、と言いすぎるのも

問題があるし

かといって、すまして

お礼の言葉を言わないのも

問題です

やはり、根底に

人間としての問題を

考え続けているという立場が

大事なことのように思います

 

 

 

 

 

 

 

 

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YOGA=ヨーガ=瑜伽(ゆが)

2023-11-01 18:49:48 | 十地経

インドの言葉で

EとOは長母音になります

yoga という言葉もヨーガと

いうのがもとでしょう

それを経典では瑜伽(ゆが)

と音写しています

意味は「相応」(そうおう)と

訳します。

 

それでこの瑜伽という内容は

一応、辞書には

「調息(呼吸を調える)など

の方法で心を一点に集中し

奢摩他シャマタ(止)

毘婆舎那ビバシャナ(観)

即ち止と観の観行を修して

正理と相応すること」

というようにあります

 

つまり、瑜伽の内容は

止観による観行を修する

ということです。

意外な所で

止観とヨガが関係を

持っているのです。

 

布施とか智慧とか般若とか

いろいろ行というものを

いっているけど

すべて、止観という行に

納まるのでしょう。

 

それで、講義では 

「行というものには

方向がある。

何かに向かってという

方向があるし、

また別のいい方をすれば

行というものは

一つの動機をもっています。

 

何のために行を行ずるか

という。

行を起こしてくる動機が

あるでしょう。

そしてその動機という

ものが目的を与えている

そこに行に方向が

できるわけですね。

 

止観というのは何かというと

方法だと思うんです。

正覚という、

菩提というものを、

菩提心が自己を実現する

ための方法なのです。

それが止観なんです。

方法を行というんだ。

 

それはね、

止観というのは、

世親のこの唯識ですから

瑜伽の教学で、

瑜伽というのはこれが

止観なんです。

 

この頃よくヨーガと

いうでしょう。

あの瑜伽ですよ。

ヨーガというが、

ヨーガ行なんです。

つまり瑜伽行をする人。

瑜伽行をする人を

阿闍梨(あじゃり)と

いいます。」

 

ヨーガも一応

体を動かす動的なものと

静かに座る性的なものが

あります

しかし、今では

そういう静と動という

ものはあるんですけど

その根底になる

瑜伽唯識という教学的な

面は失われたようです

 

唯識教学というと

『唯識三十頌』に代表される

三十頌(じゅ)という

三十の偈(げ)よりなる

短い経典です。

玄奘三蔵(三蔵法師)も

インドへ行った目的の一つは      

この経典があったとも

いいます。

 

人間の精神構造

煩悩のあり方を解き明かした

経典です。

安田先生も他の講義では

この『唯識三十頌』も

講義されています。

ですから

この『十地経経』も

この唯識と深い関係を

もっています。

 

 

 

 

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