供養ということも
なかなか深い意味があって
供養を受けるに値するのか
という問題があります
そこに
阿羅漢(あらかん)という、
普通には羅漢さんとして
親しみある仏です
十六羅漢とか五百羅漢という
色々の表情をもった姿を
されています
この阿羅漢という仏は
アルハットという言葉を
阿羅漢と音写したのです
その意味は、
応供(おうぐ)とか、
殺賊(せつぞく)それから
不生(ふしょう)という
ことです
仏、ブツとも読みますが
ブッダ(目覚めた)という
言葉を仏陀と音写して
さらに略して「仏」と
しかし、仏といっても
その内容はたくさんあります
「名は体を表す」
ということがあって
仏の内容を表すとなると
一つでは表し切れないのです
そこで、
如来の十号(じゅうごう)
といって、
仏さまは十の名前を
もっておられます
その第一が
阿羅漢です、
さらに阿羅漢も
三つの名を
持っておられます
応供、殺賊、不生という
その中、応供というのが
供養を受けるにふさわしい
(相応)人という意味で
応供というのです
それから、
殺賊というのは
煩悩の賊を殺害した者
ということです
最後に、
不生(ふしょう)と
いうのは、
さとりの世界に入って
もはや再び迷いの世界に
生を受けない人
ということです
そこで、
仏の異名で最初に出てくる
阿羅漢は最も仏の内容を
表しています
応供という
供養を受けるに相応
(ふさわしい)者という
だから、
供養を受けるといっても
あだやおろそかでは
できないのです
今では何気なく
供養を受けていますが
はたして供養を受けるに
値するのか
もう一度振り返ってみる
必要があるようです
仏の十号は、それから
正遍知(しょうへんち)
正しく完全に真理を
覚った者、
等正覚、正等覚ともいい
この方がよく使います
明行足
(みょうぎょうそく)
明は智慧、行は実践
智慧と実践が完全である者
善逝(ぜんぜい)
善く逝ける者
迷いの世界をよく超えて
再び迷いに還らない者
世間解(せけんげ)
世間・出世間のことを
悉く知る者
俗にいう苦労人
無上士(むじょうし)
世間において最も尊い者
三界の尊ともいう
調御丈夫
(じょうごじょうぶ)
衆生をよく調伏し制御して
涅槃に導く者
天人師(てんにんし)
天と人との師匠
迷いにあるものすべてを
導くが天と人が最も多い
仏・仏陀
さとれる者、目ざめたもの
というのが如来の十号です
このなかでも
一番よく仏という内容を
表した言葉が
阿羅漢という、応供という
ことなのです
ですから、
供養ということも
本来は仏しか
受けることができない
ということに
なってくるようです。
(何の考えもなく
何の反省もなく、平気で
受けているのですが…)