八正道の最初に出てくる
のは、正見(しょうけん)
です。
この正見が八正道の目的で
その内容が次に出てくる
七つの方法です。
ですから、
正見ということが
仏教の目的になります。
講義では、
「ものを見るという場合に
我々の苦しんでいるのは
煩悩を起こしたから
苦しんでいるのではない。
その煩悩というものをです
ね、煩悩が力を持ってくる
のは見ない、
つまり間違った見解の上に
煩悩がはたらくんです。
その見解を取ってしまえば
煩悩があっても
はたらきようがないんです
自分の心に自分が
だまされるんです。
それだから
ものを正しく見る
ということが、
仏教では一番大事な
ことになる。
こりゃあ非常に素晴らしい
道じゃないでしょうかね。
信ずるとか、祈るとか、
加持とか祈祷とか、
そんなことを言わずに、
正しくものを見よと。
つまり認識による
解脱です。
認識だけが人間を解放する
正しい認識を明らかにする
方法が止観なんです。
それはまず第一に、
己を止めて、
ものそのものになるという
己を止めて、
ものそのものになると、
そういうのが止なんです。
我々がものを見てですね、
その上に我々が
本当に初めからものを見て
その上にやっとるなら
苦しむはずがない。
我々が絶えず真理の上に
生きとるんならですね、
苦しむはずがない。
どうも色々違ってくる
ところをみると
本当に見とらんのです。
結局、
真理を見とるんじゃない。
やっぱり真理を解釈して
自分の考えの上に立っとる
だから
その自分の考えを放棄して
ものそのものとなって見よ
と。
ものそのものになれば
ものが何であるかは
もの自身が語ってくると
いう。
だから観という字は、
これ(見)が大事なんです
これは現という、
これと同じことなんです。
観-現-見。
あるいは正見ですね。
正見というのは
現れることなんです、
見るということですね。
この、見という
ものを見る。
ものを見るんじゃない。
そのものになればですね、
もの自身が現れてくる。
我々の考えがあるというと
ものが現れようがない
場所をふさいどるんだから
だから
己を去ってみれば、
そこにもの自身が
自分を開いてくる。
だからして、
止観というのを
別の言葉でいえば、
ものをして
ものを語らしめる方法や。
我々がつかむ
方法じゃないんだ。」
これは他の講義でも
よく出てくる言葉ですが
ゲルマニカ・テオロギア
という本があって
その内容に、
最大の問題は
「私が、私の、私を、
私に」
私というものを手放すこと
が出来ず、
私が、私の、私を、私に、
という
こだわりを捨てることが
できない
それが問題だ。
ということが出ています。
やはり、「私」という
それがものを正しく見る
ことを邪魔をしている。
何かしら
問題は同じことを感じます
ですが、
こちらでは
「痛みのために
うめくのです」
という言葉で
結ばれています。
問題は同じでも、
仏教では
「己を去ってみれば」
ゲルマニカの方では
「痛みのためにうめく」
と、違ってくるところが
面白いと思います。