本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

解脱(げだつ)

2023-11-17 17:51:50 | 十地経

「解脱」この言葉も

よく出てきますので

何回書いていても、どうも

仏教語らしからぬように

思うのです

「解」という字

角を書いて、刀を書いて

その下に牛を書く

何とも物騒な漢字です。

もとの意味はやはり

牛を解体するところから

きているようです。

 

そのことが

ものを解析するとか

ものごとのもつれを解く

さらに、ときあかす

そういう意味になってきた

ようです。

 

それで「解脱」ということ

は、ヴィモークシャの訳で

解き放たれたこと、

というのが原語の意味です

私たちにとっては

煩悩に縛られていること

から放されて

迷いの苦をすること、

または

迷いの世界を度(わた)り

超えるという意味で

度脱(どだつ)ともいい

ます。

 

ここのところの講義は

西洋の思想の考え方が

出てきて、

「アラーとユダヤ、

どっちもエルサレムを

通らんと承知せん。

あそこのエルサレムと

いうことを中心に出た宗教

というものの特色は、

何というか、

エホバといっているのは

とにかくその、

唯一神でしょう。

だからして無限の排外性を

持っとるんですよ。

あれ、

提携ということは

成り立たんのです。

一つを認めるということは

他を敵とすることだ。」

 

何か今の問題にも関係

してくるような感じです

私たち多神教というか

八百万の神様方のなかで

生きている私たちには

理解しがたいものがある

ようです。

 

分からないなりに

いろいろ調べてみると

改めて

思い知ることがあります

イスラエルということの

もとの意味は、

「神が支配する」という

ことのようです。

 

やはり、信仰といっても

神との契約がもとで

イスラムの世界では

信仰告白・礼拝・喜捨・

断食・巡礼という信仰行為

ということがあるようです

 

そこで、

仏教ということをみると

解脱という、

解き放たれる

自分自身の煩悩から

解放される

そこに神さまは出てこない

自分が自分で自分を解放

するという、

普通では考えられない

宗教でしょう。

 

その解脱も

ただひたすらに瞑想して

解脱するのではなく、

耳で仏法を聞いて解脱する

「解脱の耳をすまして

  仏法を聞く」

という言葉もあるように

「聞・思・修」という

三慧が必要になってきます

 

そこで講義の最後も

「人間が自分の能力を

もって自分を超える道が

発見されたということは

非常に珍しいことだ。

人間が他の力で解脱する

のじゃなしに、

人間が自分自身に解脱する

力をもっとると。

 

にもかかわらず

その力を失わしとるのは

考えが失わさしとるんだと

考えを捨てれば、

人間は自分の、

自分で自分を解放する

だけの力を持っとると。」

 

これは凄いことだし

他に依らず、

自分自身がその力を

内包しているというのです

これは他の宗教と

決定的に違うところの

ように思うのです。

 

しかし、反面

人間は他の力が欲しい

という心も持っています

そして頼りたいという。

仏教の難しさは

ここにもあるように

思うのです。

 

 

 

 

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