本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

究極的関心

2023-11-08 19:23:54 | 十地経

色々な関心事はある

のですが、

いざ、

本当に最終的な関心はと、

問われると

考え込んでしまいます

 

今は、お金ということが

とても強い関心事です

儲けるという

そしてお金を手にする

ということが

何よりも一番の関心事です

学生の頃から起業して

お金を稼ぎだす

若い人にとっては

こういうことが一番の

関心あることでしょう

 

少し勿体ない気もします

昔から、

働かざる者食うべからず

という言葉があります

しかし、

学生という立場は

この働くということを

免除されているのです

社会に出て働くために

その基礎となる学ぶという

姿勢を身につけてほしい

ということです

一見無駄とも思える

勉学に励む

すぐには役に立たないかも

しれませんが

学ぶということ

 

フィロソフィーという

言葉があります

智を愛する、といいます

何かそういう

智を愛するという

そういうことを学ぶのが

学生ということでしょう

仏教的には

学生(がくしょう)

といいます

 

お釈迦さまにとって

究極的関心事とは

生れは王子さまです

地位もありお金もあり

ゆくゆくは王様です

普通いう

我々が欲しいと思うものは

すべてそろっていたのです

 

しかし、

すべてを捨てて

出家されたのです

乞食(こつじき)の姿に

なって、道を求めて

修行に入られた

見方を変えれば

もし悟りを開かれなかった

のであれば

大変な問題児というか

大バカ者というか

国を捨てたというのは

一国の人たちを路頭に

迷わせてしまうのです

 

ついに、釈迦族は

滅ぼされてしまうのですが

それほどまでしてでも

抑えきれない

関心事というものは

それこそ究極的関心という

ものでしょう

 

「人間という意味は、

ただ消費しとるという

意味ではないのです。

人間とは、

主体的人間というものは

なんかその、

要求を持っとるんだ。

 

願というものがあるんです

願というものが

ないときには人間の存在、

それでないというと、

それは生物と変わらんです

その生物まで落ちてくると

更に物質まで落ちてくる

より仕方がない。

 

物質は死んだもんだが、

生物は生きたもんだと。

その生きたもんだという

意味を完成するのは

願というものが

なければならんでしょう。

 

ただ起きて、ものを食って

腹がふくれて眠ると。

また眼を覚まして

ものを食うと、

そういう連続ではですね、

どうもやった意味が

全体として出てこないね。

 

そういうもんで

死んでしまっても、

生きとったんでも

あんまり区別がないんだ。

何のために生きた

ということがないんだから

 

為というのは、

何か、

願が与える方向ですね。

まあその、

願というものがなければ

教育も努力も

何もないです。

食って寝てという

そういうものだけです。」

 

というように

講義では出ています

どんなに王子であろうと

すべてのものが

揃っていても

食って寝て、

それだけではどうにも

ならない虚しい

空虚なものが襲ってきた

のでしょう

そういうところに

出家の原因があるように

思うのです

 

私たちにとっても

究極的な関心とは

何かということを

考え直してみないと

いけないような気がします

こういうことを

外国の方は

アルティメットコンサーン

Ultimate・concern

と呼んだのでしょう。

 

こういうところに

宗教問題があるように

思うのですが。

 

 

 

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