クラール・ウント・
ドイトッリヒ
先生はよくドイツ語で
このことを話されました
「明晰かつ判明」と
仏教というと何か難しい
ような気がするのですが
本来は、明晰そして判明と
はっきりして簡潔なもの
ということでしょう。
迷いのスパイラル
といいますか
無明・業・識という
迷いの連鎖があります
無明という
本当のことが分からない
分からないだけなら
それでいいのですが
分からないと
間違ったことを本当のこと
としてそれに執着して
離そうとしないのです
間違った思い込みで
業、行いをしてしまいます
その行為いは
意識の上に定着し
間違った意識がさらに
間違いの行為をしてしまう
という
悪循環が続くのです。
ですが、
仏教の教えはもっと簡潔で
明かなものなのでしょう。
複雑にしているのは
自分自身の考えです。
その根底には
自分にとって何が得か
何が損になるのか
そういう算盤を常に
はじいている。
そういう心が複雑にし
分からなくしている
のでしょう。
お釈迦さまの頃は
「諸善奉行・諸悪莫作」
(しょぜんぶぎょう・
しょあくまくさ)
善いことは行え
悪いことはするな
という簡単なことで
皆が納得し行ったのです
ところが
微妙な人間の心のひだ
表には算盤をはじかない
ようにしながら、
裏ではちゃんと算盤を
はじいているというような
なかなかややっこしい
心が出てくるのです
それらの心を
見逃さなかったところに
複雑になっていった点が
あるように思います。
そこで講義では
「仏教の複雑なのは
何にも仏教の自慢には
ならんと思うんです。
非常に簡潔であってですね
明晰である点です。
ものを見ることによって、
ものをして
ものを語らしめる。
それによって
我々はものを、
ものによって
かえって我々がものを
知るんじゃない。
ものによって
我々が知らされるんです。
自分を知れば
そこに煩悩が起こっても
それに動かされることが
できないという、
非常に簡潔な道ですね。
これに
僕は魅力を感じるんだ。」
だから本来は
明晰にしてかつ簡明である
というのが仏教の教え
だと思います。
煩悩を絶つというか
そうではなく、
煩悩のはたらく場所を
よく見る
すると
煩悩のはたらきようがない
ということが
正見の智慧だと思います。
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