供養を受けられる時の
お釈迦さまの言葉です
黙然、黙って
聴許(ちょうきょ)、
聞き入れ許す
ということです。
とても、毅然とした
ある種の威厳のようなものを
感じる言葉でもあります。
昔の話で
一休さんが法事に呼ばれた
いつものボロボロの衣で
出向いたところ
乞食坊主は帰れと
追い返された
そこでお寺に戻り
今度は金襴の立派な衣を
来てお邪魔したところ
床の間の立派な部屋に
通されご馳走が出てきた
そこで
やおら衣を脱いで
そこにたたんで
私は失礼します
どうぞ衣にご馳走をあげて
下さいと
供養ということも
今では、法事とかで
亡くなった方に食べ物、お茶
それからお花、燈明を
お供えすることを指しますが
それもありますが
お供えを受けて
それに対して説法することも
供養といいます
なかなか幅広い意味をもった
言葉なのです。
それから、
五条大橋のたもとには
扇供養塚なるものがあり
ひろく、櫛供養、仏壇供養
というものまであります
ただの物というだけではなく
今まで働いてくれた
物に対しての心を見る
ということで
供養と言うのでしょう。
安田先生も
ほとんど職に就かれなかった
覚えている限りでは
一時、
大学の講師をされていた姿を
見ました、
それもダブルのスーツで、
ですから、
仕事に就かれなかった
何かの折、
「食えんようになったら
死ぬときや」
と、仰っておられました
矢張り自分の命を懸けて
聞法しておられたのです
私たちのような
呑気な話ではないのです
そういうところから
出てくる言葉が
「聴許することを許す」
ということでしょう。
供養することを許す、
という。
非常な厳しさを感じます。
「忙しい」
という言葉も使いように
よっては便利な言葉で
「今日も明日も忙しいので」
といわれると
それ以上は言えないものです。
ある面では
忙しいということは
それだけ世の中から
求められている人、という
意味をもっています。
しかし、
それを許さなかったのは
師の三浦先生です
そういう言葉を発したなら
「なんと呑気な話や」
「坊主として一番先に考える
のは人間としての生き死にの
問題だろう、
忙しいと言って
自分を誤魔化すな。」
という檄が飛びます。
アンパンマンの歌にもある
「何のために生まれて
何をして生きるのか
答えられないなんて
いやだ」
ということが、
人間の根本問題を表して
いるように思います。
先日来、ページが進みません
供養ということも
調べてみると
なかなかごつい問題のある
言葉です。
私たちは
ほんの一部分の意味でしか
使っていないようです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます