止観と、止と観
訳さずにいうと
止が奢摩他・シャマタ
観が毘婆舎那・ビバシャナ
奢摩他、毘婆舎那という
言葉で経典では出てきます
布施とか智慧とか般若とか
色々いうけど、
それらはすべて止観という
ことに納まるんです。
そこで、
「その止観というのは
どういうものかと、
これは僕の考えですけど、
方法論としてみる場合には
止というのは、
これは、
止めると書いてあるけど、
停止するという具合に
書いてありますけど、
これは現代的な意義を
もっとると思うんです。
非常に不思議なことは、
フッサールの現象学の
方法が出とるからです、
止というようなとこに。
あらゆる関心を
括弧に入れると、
ものを括弧することだと。
もっといえば、
己というものの考えを
捨ててという。
己の考えを立てていくん
じゃないんだ。
己の考えを捨ててという。
私を捨てて、ええ、
無心に見よという。
私によって見るんじゃない
我というものを捨てて
見よという。
で、その、正見というのは
眼というのがね、
なんかを見たといいうたら
真理を見たんでしょうや、
正見というのは、
一切諸法の。
その、
我々が流転しとるのは、
その考えの上に、
自分らの考えの上に
煩悩を起こすんです。
煩悩によって業を作り、
業によって苦果を受けとる
というんで、
何というか、あの、
立場を、我々の立場を、
立場というものが問題で
あってですね、
正見と邪見というのが
大事なんです。
この問題を最後まで解決
していくというと、
立場の問題になるんです、
立っとるね。」
ここでは「止」という
ことだけですが、
この講義のあとブームに
なったのが、
「括弧に入れて」
という言葉です。
色々関心はあるでしょう
けれど、
そういうことを
括弧に入れて一つに
集中すると、
三浦先生も、
高校生に対して、
「勉強以外にも色々関心が
あるでしょうけれど、
高校の3年間は
そういうことを
括弧に入れて、勉学に
集中してください」と、
話されておられました。
人間の心というものは
ほったらかしにしていたら
千路に乱れて
色々の関心に振り回されて
あっという間に時間が
過ぎ去っていくものです
いろいろありますけれど
やはり何かをなすと
いうことになったら
自分の好きなこと、
反対に嫌なことも
括弧に入れて
集中しなければ
何もできないと思うのです
止観ということは
このあと出てきますが
「括弧に入れて」
というを思い出しました。
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