人を愛し、妻を愛し、仕事を愛し
住んでいるところを愛すれば
必ず成功する秘訣といわれています。
なるほど
そうすれば愛は力を発揮するものです
「愛」ということも
普通に使う場合と仏教でいう場合と
ではまったく意味が違ってきます。
英語ではLOVEです
Love is force made
といえば、「愛は力」
ということのようです。
愛をLOVEと誰が訳したのだろう
そう思って調べると
Listen 人の話を聞く
Over Look 周りを見つめる
Voice 声をかける
Excuse 赦す、ゆるす
の頭文字をとってLOVEに
なったということです。
ラブといってもただ愛するだけでなく
そこにもう少し深い意味が
潜んでいるようです。
漢字でいう「愛」は
原義はものをめぐむこと、
ひいて、いたわるという意味に
そこから、いつくしむ、かわいがる
あいする、というような意味が
でてきたようです。
仏教では「愛」といえば
煩悩の一つで
貪り執着すること。
渇いた者が水を求めて
止まないように、渇愛とも
言われています。
「貪」むさぼりの心で
ちょっと欲しいな、
という思いが愛になります
それが発展して、
どうしても欲しいとなると、
「取」という心に、
いろいろ理由付けを考え
それは自分にとってどうしても
必要なんだと、となった心です。
そうしていろいろ努力する心を
「有」といいます。
ほしいという「愛」の心は
どうしても欲しいと「取」になり
どうやったら手に入れられるかと
努力工夫する心を「有」といいます
仏教で、
「愛は力なり」ということは
小さな欲しいという心も
ほっておくと、取・有、と
発展して力を持ってきて
自分で制御できなくなる
ということになります。
ただ、「愛」でも
善い方に使う場合もあります
菩薩の修行法の中に
「四摂の法」(ししょう)
ということがあります。
布施摂・愛語摂・利行摂・同事摂
のなかで、相手を思いやり
まごころの言葉をかけることを
愛語といいます。
同事・というのは
同じ心になるということで
子供が痛い痛いと泣くとき
どうしてこうしてと
理屈を言うより
一緒になって痛いね、痛いね
といってあげるように
上から目線ではなく
同じ目線になるということです。
最近では「愛」という言葉も
一人で勝手に歩きだし
それぞれの思惑で使っている
ような気がします。
LOVEということも
本来は人の話を無心になって聴き
そして、見守り続け
元気をなくしたら声をかけ
失敗しても間違っても許してあげる
そういう寛大な心を頭文字をとって
LOVEとしたのは名訳だと思います
仏教でいう愛も
あだや疎かに出来ないし
英語のLOVEという愛も
私たちが考える簡単な愛
でもないということも
慎重に考え直さなければ
いけないような気がします。
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