本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)

2021-03-03 20:31:56 | 十地経

仏教の中に「唯識」という教学が

あって、その中の言葉ですが

あまり聞きなれない

「遍計所執性」ということが

出てきます。

 

自分の考えに固執することを

「所執」といいます。

遍計ヘンゲというのが唯識独特の

用語です。

遍計の計は計度ケタクということ

度も、忖度ソンタクというように

タクと読みます。

これはものを対象化してとらえる

という分別のはたらきのことです

 

講義の中で、

「実というのは一つの分別の固執

なんです。

実でないものを実と考える。

実というのは遍計所執ですね。

実というのは実と執されるもの

それを否定するんです。

つまり遍計所執を否定すると。」

というように出てきて、

「遍計所執」ということが

気にかかり、

 

別な見方として

安田先生のお弟子さんで

仲野先生という方がいらして

この方は安田先生の講義を

実に分かり易く説いておられます

ので紹介します。

 

「唯識では、遍計所執を

よく亀毛にたとえます。

この亀毛というのは

亀の毛のことです。

結婚式の図案によく使います。

亀に長い毛がスーッと伸びている

絵がよく描いてあるでしょう。

これは動物学者に言わせると、

世界のどこにもこんな亀はいない

そうです。

これは想像したものです。

人間の考えで作ったものです。

 

私たちは、あるものとないものを

混同して考えることがあります。

人を批判する場合でもそうです。

ちょっとした悪いところだけを

見て、良いところを見落とす

ということがよくあります。

「あんなやつはだめだ」と

すぐいってしまう。

自分の感情と事実とを混同して

しまうわけです。

 

ここで問題になるのは、

その考えたことを本当にあるもの

だと思うことが行き過ぎだ

ということです。」

 

というように話しておられます。

人間は何でも

自分の都合のいいように考え

考えだけで終わればいいのですが

考えたことがあるように

分別してしまうそこが

問題のようです。

遍計所執というのは

自分がなんでも分別してしまう

そういうことをやめよ

といっているのでしょう。

 

無ということも空ということも

そういう分別をやめよ

と言っているのですが

空といえば、また空を考える

それほど人間は分別が非常に

強いということです。

 

ということを踏まえて、

辞書に書いてある遍計所執は、

種々な縁から生じた実体のない

存在を実我実法であると

はからい執著する迷いの心と、

その識の対象となる境と、

この識と境によって心外に

実在する誤認された存在のすがた

(遍計所執)をいう。

というように出ています。

実に難しい言葉ですが、

厳密を極めるためには

こういう言葉にならざるを

得ないのでしょう。

 

合わせて読んでみると

何となく分かるのではないかと

思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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