最終日の三日目の旅は昨日の終着地点のJR飯田線・小坂井駅から始まります。
すでに愛知県(三河)に入って二川、吉田(豊橋)を辿ってきました。本日はここJR飯田線・小坂井駅から35番目の宿場町である「御油」、36番目の「赤坂」を経て、東名高速の音羽インター至近の「えびせん共和国」までの11kmを歩きます。途中、御油から赤坂の間には日本の名松100選に選ばれている「御油の松並木」を堪能していただきます。それでは出立です。
その前に昨日参拝した兎足神社の徐福伝説について復習しておきます。
莵足神社社殿
莵足神社の莵の神輿
《兎足神社の徐福伝説》
今から2000年前、縄文時代から弥生時代へと時代が変わる頃、中国大陸の秦帝国に徐福という人物がいました。
徐福は始皇帝に遥か東の海に蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛洲(えいしゅう)の三神山があり、そこには仙人が住み、不老長寿の薬があるというので、是非行ってみたいと申し出ました。
そして大船団を組み、東方へと船出をし、何日もの航海の後、どこかの島に到着しました。実際に徐福がどこの島に到着したかは定かではありませんが、日本各地にこの徐福の伝説が残っています。
尚、徐福の子孫は日本で秦氏を称しています。
JR飯田線の小坂井駅前から旧街道筋へ進んでいきましょう。歩き始めるとすぐにJR飯田線の踏切を渡ります。踏切の左手には小坂井駅の小さな駅舎が見えます。私たちの旅でJR飯田線の線路を跨ぐ機会はこれが最初で最後です。
これからの道筋は名鉄名古屋本線の路線とほぼ並行して進んでいきます。
《JR飯田線》
JR飯田線は豊橋駅と中央本線辰野駅を結ぶ195.7kmのローカル線です。営業区間内に起終点駅を含んで94もの駅があり、平均駅間距離は約2.1km。全線を乗り通すと所要約6時間かかります。そして飯田線は、全国の鉄道ファンが一度は乗ってみたいと憧れる「聖地」でもあります。
豊川稲荷の最寄り駅である豊川を出ると、線路は単線となりにわかにローカルムードが漂うようになってきます。
飯田線のほとんどの駅は無人駅で、駅前には洒落た商店もなく閑散としています。また車掌さんが各駅で降りて、ホームで切符を回収したり、社内では切符販売と忙しく動き回っています。
踏切を渡るとすぐに道がカーブします。そのカーブする角に松の木があり、その下に秋葉常夜燈と秋葉神社の祠が置かれています。
東海道の道筋は宿地区(江戸時代の宿村)へとさしかかります。この辺りは吉田宿と御油宿との中間地点にあたるので、江戸時代には旅人達が休息をとる「茶屋」があったところです。
街道の右手にアクティブコーポレーションあんじゅ宿の建物を過ぎて、最初の角を左へ進むと、およそ400m先にこんどは名鉄名古屋本線の伊那駅があります。
街道は茶屋地区へとはいってきます。茶屋という地名からこの辺りに立場があり茶屋が置かれていたのでしょう。宿場ではなかったのですが、街道脇には「宿場寿し」が店を構えています。
フードオアシスあつみを過ぎると街道の左側の駐車場の脇に伊奈立場茶屋加藤家跡と書かれた貧弱な標柱が置かれています。ここが茶屋本陣、加藤家の跡です。加藤家は「良香散」という腹薬を売っていたことで有名でした。
駐車場の中の左側に金網に囲まれた一角があり、説明板と当時の井戸跡と芭蕉と烏巣(うそう)句碑が建っています。
「かくさぬそ宿は菜汁に唐が羅し」(芭蕉)
「ももの花さかひしまらぬかきね哉」(烏巣)
烏巣は加藤家の生まれで、京都で医者を営んでいたが、芭蕉とは親交があった俳人です。
「かくさぬそ宿は菜汁に唐が羅し」(芭蕉)
芭蕉が烏巣の家に泊まった時、客人にも質素な菜汁と唐辛子しかでてこないことに感銘したという意味。
ちなみに唐辛子江戸時代に信州高遠藩主内藤氏の江戸藩邸下屋敷(現在の新宿御苑)の菜園で栽培を始めたのを発端に、近郊の農村でも盛んに栽培されていました。江戸野菜の一つに数えられています。
「ももの花さかひしまらぬかきね哉」(烏巣)
隣家との境にある桃の木は花の盛りを迎えている。その花はどちらからでも愛でることができて、隣家との境も桃の木の所有者もはっきりしないという意味。
少し歩くと右側に「山本太鼓」が店を構えています。その太鼓屋の前に一里塚跡の標柱が建っています。 江戸から数えて75番目の「伊奈一里塚」です。
山本太鼓
伊奈一里塚跡
街道脇に店を構える山本太鼓店ですが、店構えはしっかりしたもので、店内を覗くと綺麗に整理され、太鼓や祭り用具などが陳列されています。これだけの店構えを維持することができるということは、それなりに商売が成り立っていることの証ですが、どれほどの需要があるのでしょうか?
近くには須佐之男神社がありますが、ここ一社では山本太鼓店の商売は成り立たないはずです。まあ、どうでもいいことなのですが。
さあ!この先にある佐奈川の佐奈橋を渡ると小田淵で豊川市に入ります。
名鉄名古屋本線小田渕駅の近くは古い民家が残っています。街道右側の少し入ったところに、冷泉為村の「散り残る 花もやあると 桜村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ」という 歌碑が置かれています。
冷泉為村(1712~1774)は江戸時代の冷泉家の当主で冷泉家中興の祖と言われています。この歌は彼が一度だけ江戸に行った際、当地桜町で詠んだものです。
白川に架かる五六橋を渡り、更に細い川幅の西古瀬川に架かる西古瀬橋で渡ると、街道の左右には工場郡が現れます。
工場群を眺めながら進んで行くと、31号線に突き当たります。本来であればこのまま真っ直ぐ進んで行けるはずなのですが東海道筋はここで分断されています。いったん右か左へ迂回し、向う側へと渡らなければなりません。左右どちらへ行ってもいいのですが、右折して京次西交差点へ進む方が距離的には短いはずです。
いずれにしても31号線を渡り、再び旧街道筋に戻り進んで行くと、この先で国道1号に合流します。合流後しばらくは国道1号に沿って歩くことになります。
白鳥5丁目西で旧街道は国道1号と合流します。合流すると道筋はほんの少し上りとなり、名鉄名古屋本線の線路を跨ぐように先へ延びていきます。水田が広がる景色を眺めながら、国府(こう)の町へと進んでいきます。
国府(こう)は古くから開けた場所で、「穂の国」の中心にあったことで知られています。奈良時代には三河の国府が置かれ、国分寺、国分尼寺が建てられ、総社(県社八幡宮)も造営されました。
尚、三河の一の宮は豊川市の「砥鹿(とが)神社」です。
国府町藪下交差点で旧街道筋は国道1号から左手に分岐します。車の往来が激しい国道1号の道筋に比べて、旧街道は静けさを取り戻したように落ち着いた雰囲気を醸し出し古い趣ある家が散見されます。
少し歩くと道の傍らに、半増坊大権現と書かれた石柱の上に、注連縄(しめなわ)を付けた小さな社が 祀られています。
半僧坊大権現は浜松市引佐にある奥山半僧坊のこと。半僧坊は方広寺の守り神で明治14年の山火事で本堂などの建物が焼けましたが、半僧坊仮堂と開山円明大師墓地が焼け残ったことから、火除けの神として全国に広がったとあるので、この石柱もその頃、建てられたのではないでしょうか?
その先には、高さ2メートル5センチの大きな秋葉常夜燈が建っています。この常夜燈は江戸時代に火除けの神として信仰を集めた秋葉山の常夜燈で寛政十二庚申(1800)に国府村民達の手で建立したものです。
国府は宿場町ではないのですが、吉田宿(豊橋)と御油宿の間に立場が置かれた場所です。旧街道筋は名鉄名古屋本線の国府駅からは離れていますが、細い道筋の両側に商店が並んでいます。おそらく以前は賑やかな商店街として多くの買い物客で賑わっていたのではないでしょうか。
道筋は新栄町2丁目の交差点にさしかかりますが、ちょうど交差点手前辺りが街道時代に「立場」が置かれていた場所です。新栄町2丁目の交差点を渡ると、街道の左奥に高膳寺が堂宇を構えています。
実はこの高膳寺がある辺りに「田沼意次」の「田沼陣屋」が置かれていました。「賂政治」であまりにも有名な田沼意次は安永元年(1772)に老中筆頭となり、ここ国府村も領地の一部として拝領しました。寺の境内には田沼の領地の境界を示す「従是南相良領」の石標が残されています。
ちなみに意次時代の所領の総石高は5万7千石ですが、これは相良藩だけの石高ではなく、駿河・下総・相良・三河・和泉・河内の7か国に跨って拝領した石高です。
尚、藤枝市の久遠の松で知られている「大慶寺」には天明6年(1786)に田沼意次が失脚した後、相良城は破却されるのですが、城内の屋敷の一部が解体され大慶寺に移築されています。
その先に白い土塀と石垣、そして大きな樹木が見えてきます。近づくにつれてものすごく大きな境内を持つ神社であることが分かります。大きな樹木が繁茂している立派な神社で「大社神社(おおやしろ)」といいます。
大社神社
大社神社参道入り口
大社神社鳥居
大社神社社殿
石垣と白い土塀は旧街道に沿って100mにわたってつづいています。その土塀を支える石垣は近くにあった田沼陣屋(老中田沼意次の所領)の石垣を移築したものです。
「社伝によると、天元・永観(978~985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとある」。
社蔵応永7年(1400)奉納の大般若経典書には、奉再興杜宮大社大神奉拝600年と有る事から、天元・永観以前より当社地には何らか堂宇が存在し、そこへ改めて出雲より勧請して、神社造営をしたものと考えられる。
また14代将軍家茂公が第二次長州征伐に際して、慶応元年(1865)5月8日に戦勝祈願をされ、短刀を奉納したと伝わっています。また、明治5年(1872)には大社神社は国府村の総氏神となっています。
ということで、祭神は出雲の大国主命(大國霊神、大己貴命)。拝殿の鬼瓦には「菊」の紋がついています。夏には手筒花火の奉納が行われるようです。
社殿向って左手奥に、進雄神社(すさのおじんじゃ)(天王宮)と、御鍬稲荷神社(みくわいなりじんじゃ)が祀られています。進雄神社には進雄神(すさのおのみこと)(牛頭天王)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)の三柱が祀られています。
そして御鍬稲荷神社には天照坐皇大御神(あまてらしますすめらおおかみ)、宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)の三柱が祀られています。神社の表参道を入ってすぐのところにも左右に秋葉神社、金毘羅神社が祀られています。
尚、この地は国府であったことから国分寺が置かれていたのですが、国分寺跡は国府駅の東に置かれていました。
大社神社を過ぎてすぐ右側の信用金庫の駐車場の一角にお江戸から76番目の「御油一里塚跡」の標柱が置かれています。
御油一里塚跡を過ぎると、その先に比較的大きな交差点が現れます。この交差点が姫街道と東海道の追分です。万葉集に高市黒人が「妹もわれも 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつ る」と詠んだ「二見の道」がここだといいます。
姫街道は東海道の脇往還で本坂道とも呼ばれ、ここ御油から豊川、本坂、三ケ日、気賀を経て、天竜川の手前の萱場で東海道に合し遠州見附宿(磐田市)に至る約60キロの行程です。私たちは見附宿で東側の姫街道の始点をすでに見ています。そして女改めが厳しかった新居関を避ける女性たちが通ったことから姫街道と言われていました。
右側に中日新聞販売所があり、その隣に大きな常夜燈と二つの道標が建っていますが、以前は道の反対の東側にあったもので、右側の道標には「國幣小社砥鹿神社道 是ヨリ汎二里卅町 (明治十三年建立)」と記されていますが、 砥鹿神社とは三河国一の宮のことです。
左側の道標には秋葉山三尺坊大権現道と刻まれていて、遠州にある秋葉山への道標で明治16年の建立です。
秋葉山三尺坊は三尺坊大権現を祀る秋葉社と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(あきはでら、しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆の寺院で人々には秋葉大権現や秋葉山などと呼ばれていました。道標の脇にあるのは御油の人達が建てた秋葉山永代常夜燈で「右○○、左ほうらいじ」と書かれています。
秋葉三尺坊は剣難、火難、水難に効くという信仰で、江戸中期に大流行し、一に大神宮、二に秋葉、三に春日大社と言われ、江戸中期から明治初期までに各地で秋葉神社の勧請や常夜燈が造られました。
追分を過ぎると街道左手に小高い山並みが見えてきます。国府の町からそれほど離れていないのですが、なにやら長閑な雰囲気が漂ってきます。さあ!御油宿は目と鼻の先です。
まもなくすると音羽川に架かる御油橋(旧五井橋)が見えてきます。小さな橋を渡ると御油宿です。
御油橋を渡るとすぐ左に若宮八幡社の石柱がありますが、小さな社と一対の狛犬と桜の木があるだけです。
それでは御油宿内へと進んでいきましょう。静かな雰囲気を漂わす宿内ですが、街道時代を感じさせるような古い家並みは残っていません。御油橋から220mほど歩くと道の右側に「ベルツ花夫人ゆかりの地」の案内板がぽつんと置かれています。
ベルツ花夫人は元治元年(1864)に東京神田で生まれ江戸・明治・大正・昭和を生きた人物です。そして明治政府がドイツから招いた日本近代医学の祖といわれるベルツ博士と結婚した女性です。
明治38年(1905)に任期を終えたベルツ博士と共にドイツへ渡りましたが、博士が亡くなってから大正11年(1922)に帰国して昭和11年(1936)に74歳で亡くなりました。
夫人の父親の生まれた家がこの場所にあった戸田屋という旅籠だったことから、花夫人は御油とゆかりがあるんですね。
尚、ベルツ博士は日本の医術の進歩に貢献した方で、特に草津温泉の効能を理解し草津の温泉療法を世に広めたことで有名です。このことから「草津温泉の恩人」とも言われています。草津温泉にはベルツ記念館があります。
ベルツ花夫人の案内板が置かれている三叉路は江戸時代には宿場特有の鉤型(曲手)なっていたようで、ここを右折し、少し進むと右側の空地に問屋場跡の表示が置かれています。
空地になっているところに安藤広重の御油宿絵のレリーフがあります。広重の浮世絵は太った留女が旅人を強引に宿に引っ込もうとしている場面です。
御油宿は徳川幕府が慶長6年(1601)に整備した東海道と同時に誕生した宿場ですが、開宿当時の伝馬朱印状には赤坂宿と御油宿の二宿が併記されていました。
朱印状の伝馬継立に関する定めには「下り伝馬は藤川の馬を五井(御油)まで通し、五井(御油)の馬にて吉田まで届可申候。上り伝馬は吉田の馬を赤坂まで通し、赤坂の馬にて藤川まで届可申候」と記述されていました。
よって開宿当時は御油と赤坂は一宿扱いされていたようですが、ほどなくしてそれぞれ独立した宿場になったようです。
天保14年(1843)に編纂された東海道宿村大概帳 によると宿内九町三十二間(1298m)に本陣4軒、316軒の家が並んでいましたが、旅篭が62軒と家数から比較すると旅籠の占める割合が高い宿場だったようです。旅籠の数が多かったので旅籠同士の客引きが盛んで、広重が描いたように「留め女」が客引きを行う光景がよく見られたのでしょう。
道筋が突き当たる場所が宿場の中心であった「仲町」です。街道時代には本陣や定飛脚所などが置かれていた場所です。
さて、ここで御油の名を天下に知らしめている「松並木」に関わる資料館があるので、街道からほんの少し外れて立ち寄ることにしましょう。
御油の松並木資料館
国の天然記念物に指定されている御油の松並木と東海道五十三次35番目の宿場として栄えた御油宿に関する資料が展示されています。江戸時代の御油宿の街並みの復元模型や広重の浮世絵版画、近世交通文書や、旅装束などの資料約130点のほか、入口には亀甲模様のついた巨大な松の根っこ(樹齢380年)がシンボルとして置かれています。
※資料館の入口脇に舌代(ぜつだい)と記された案内板が置かれています。:舌代とは口で言う代わりに文書にしたもの。(申し上げますの意味)
■開館時間:10:00~16:00(12:30~13:30は休館)
■休館日:月曜日
■入館料:無料
■問い合わせ:0533-88-5120
■トイレあり
松並木資料館を辞して街道筋へと戻ることにします。街道を直進していくと「イチビキ」 という味噌とたまり醤油の製造会社が現れます。そのイチビキの駐車場の前に本陣跡碑と表示看板が建っています。御油宿にあった四軒の本陣の一つです。なお、御油宿には脇本陣はありません。
右側にイチビキ第1工場があり、漆喰壁の倉の脇に旅籠大津屋の表示が置かれています。
街道時代に大津屋という名で旅籠を経営していましたが、飯盛り女を多く抱えていたことで知られています。
そんな大津屋にはこんな逸話が残っています。
ある時、飯盛り女五人が集団自殺してしまったことがあり、主人はすっかり「飯盛り旅籠家業」が嫌になり、味噌屋さんに転業したという話が伝えられています。
「イチビキ」の創業は安永元年(1772)ですが、当時の味噌作りは原始的なものだったようで、明治時代に東大卒の子孫が技術的な改革をしたことで今日まで続いているとあります。
イチビキを過ぎると、街道左手に「東林寺」への参道入り口が現れます。この辺りが御油宿の西のはずれです。
さあ!それでは御油宿から次の宿場・赤坂宿へ向かうことにしましょう。隣の赤坂宿までは僅かに16町、たった1700mの距離です。御油宿を出ると上五井という地域にはいります。
あの有名な松並木の手前には公民館があり、その前には国道沿いに点在していた馬頭観音などが一か所に集められて並んでいます。
※上五井:行基がここを通ったとき、5つの井戸を掘ったといいます。
五つの井戸、すなわち「五井」が「御油」に変じたのではないでしょうか。
街道を歩いて行くと左側に十王堂が建っています。十王は冥界で死者の罪業を裁判する十人の王のことで、彼等の裁判を受けて次に生まれてくる場所が決まると伝えられています。この思想は平安後期に日本に伝えられ、鎌倉時代に全国に伝わったようです。このお堂は明治中期に火災に遭い再建されたものですが、江戸時代の絵図に描かれているので十王堂は古くからあったようです。
さあ!いよいよお待ちかねの「御油の松並木(日本の名松100撰の一つ)」へと進んでいきましょう。これまでの街道旅でそれなりの松並木を歩いてきました。直近では舞阪の松並木を歩いてきましたが、個人的にはここ御油の松並木がその美しさは勝っているのではと………。
松並木は慶長9年(1604)に整備されたもので昭和19年11月に国の天然記念物に指定されています。
松並木入口
天然記念物に指定されるだけのことがあり、その背丈は高く幹も太くなった松が整然と並んでいます。そして並木の長さはなんと600m、松の木は280本も続いています。尚、当初は600本以上あったといいます。
国の天然記念物に指定されているわりには、美しい並木にそぐわない現代の駕籠(車)が多数行き交い、排気ガスでやられないのかと心配です。280本のうち100年以上が30本、補植松が250本あります。
尚、遠州・舞坂の松並木は700mの長さに340本の松が残っています。
松並木
松並木
松並木
松並木
松並木
十辺舎一九の東海道中膝栗毛で弥次さん、喜多さんが旅籠の留め女に「この先の松並木には悪い狐がいて旅人を化かすから、ここに泊まった方がよい」と脅されるのですが、先にたった喜多さんを追って松並木にさしかかると、喜多さんが松の根っこに座って待っていました。弥次さんはキツネが喜多さんに化けたと思い、取り押さえ、手ぬぐいで縛り上げて赤坂宿へ連れていった」という場面が記述されています。そんな場面を思い浮かべながら美しい松並木の下を歩いていきましょう。
御油の松並木を抜けるとすぐに赤坂宿の東見附があった場所にさしかかります。見附とは宿場の入口に石垣を積み、松などを植えた土居を築き、旅人の出人を監視したところです。赤坂宿では江戸方(東)は関川地内の東海道を挟む両側にあり、京方(西)はその先の八幡社入口の片側にありました。
東の見附は寛政8年(1796)代官辻甚太郎のとき、ここからちょっと先の関川神社前に移されたようですが、その後再びここに戻されました。なお見附は明治6年に一里塚などと共に廃止されています。
少し歩くと左側に関川神社が鳥居を構えています。関川神社は平安時代に三河国司となった大江定基の命をうけた赤坂の長者、宮道弥太次郎長富がクスノキのそばに、市杵島媛命(宗像三女神のうちの一柱)を祭ったのが始めと伝えられています。社殿脇の大クスは推定樹齢約800年といわれる大木です。
木の根元からえぐられている部分は、慶長14年の十王堂付近の火災の火の粉が飛び「焦げたもの」と伝えられています。
関川神社
境内には芭蕉の句碑が置かれています。
芭蕉句碑
「夏農月(夏の月) 御油よ季いてゝ(御油よりいでで) 赤坂や」
この句は夏の夜の短さをわずか16丁(1.7km)で隣接する、赤坂と御油間の距離の短さにかけて詠ったものです。
この句の通り、御油宿から赤阪宿まではあの美しい松並木がなければ一つの宿場かと思ってしまうほどの近さです。
街道の右手の郵便局を過ぎると、左手に長福寺の山門が構えています。平安時代のころ三河の国司だった大江定基を想いつつ病気で死んだ赤坂の長者の娘「力寿姫(遊女)」の菩提を弔うために建てられた寺で、山門の門額には三頭山と書かれています。
大江定基が寄進した恵心僧都の手によると伝えられる聖観世音菩薩が祀られています。
【大江定基と力寿姫の悲恋】
東海道を歩いていると、時の為政者や武将と白拍子、遊女との浅からぬ関係の話がいくつも出てきます。
ここ三河の国にもこれに似た話があります。それが大江定基と力寿姫との悲恋のお話しです。
時は平安時代の中頃に溯ります。京の都から三河の国造(くにのみやつこ)としてやってきた大江定基(中級貴族)という実在の人物にまつわる話です。
大江定基は豊川の菟足神社の「風まつり」の生贄の話ですでに登場しています。
「風まつり」の生贄の話から定基という人物は心優しい人柄であったことが窺がわれます。
そんな定基がある日、家来をつれて領内を見回っていたところ、透きとおった優しい笛の音が聞こえてきました。定基は笛の音に引き寄せられるように足を進めていくと、そこは赤坂の長福という長者の屋敷でした。垣根越に笛を吹く一人の美しい娘が見えました。
その娘は長福の娘で名は「力寿(りきじゅ)」いいます。定基は力寿の美しさに見とれてしまいました。
そして収穫の祝に力寿を呼び、定基は自らが弾く琵琶と、力寿が奏でる笛を合わせました。
二人の奏でる音は息のあったものでした。
それからというもの、定基は力寿のことを思うようになり、力寿もしだいに定基に心を寄せていきます。
そんな幸せな時が4年ほど過ぎ、いよいよ定基は国司の任期を終えて京の都へ帰ることになります。
力寿は定基との別れのことを思いつめ、そのことがもとで重い病気にかかってしまいました。
定基は力寿の回復を念じ、必死に看病したのですが、力及ばず力寿は亡くなってしまいます。
力寿を心から愛していた定基は、亡骸に7晩添い寝して「口吸い」=キスしたところ、もはや異臭を放つことに気づき、泣く泣く埋葬し、後に出家したといいます。
※定基は日本で記録に残る最初に「キス(くちづけ)」をした人。
定基は力寿の菩提を弔うために赤坂に長福寺を建て、寺の裏手の高台に力寿の墓を建てました。
さらに豊川市にある財賀寺に「文殊楼(力寿山舌根寺/ぜっこんじ)」を建てました。(長福寺から東北方面に5㎞)
※舌根寺は廃寺となり、現在は財賀寺が法灯を引き継いでいます。
※舌根とは欲望を断つという意味
この後、定基は出家し寂照(じゃくしょう)を名乗り、比叡山に学び、その後、宋にわたり彼の地で亡くなったと伝えられています。
まもなくすると赤坂紅里(べにさと)の交差点にさしかかります。この交差点を右へ進むと名電赤坂駅です。紅里とはかっての色町を連想させる地名ですが、このあたりが赤坂宿の中心だったところです。街道の左に置かれた立派な門の近くに、松平彦十郎本陣跡と表示された案内板があります。
松平彦十郎は当時、本陣と問屋を兼務していましたが、文化年間より問屋は弥一左衛門に代わり、幕末には弥一左衛門と五郎左衛門の二人で執り行なわれていました。赤坂宿には本陣は1軒、脇本陣3軒ありました。
また、旅籠数は62軒(置屋、茶屋を含めると80戸を超えていました)、人口1304人で御油宿とほぼ同じ規模です。
紅里交差点を過ぎてまもなくすると街道左に「伊藤本陣跡」があり、伊藤本陣跡の隣には街道の風情を思いっきり漂わせている旅館「大橋屋」が現れます。
大橋屋
江戸時代には「旅籠伊右衛門鯉(こい)屋」という屋号で旅籠を営んでいた家系で、東海道で唯一、営業を続けていた最後の旅籠でしたが、残念なことに創業366年目の2015年3月に店を閉じることになりました。
大橋屋の創業は古く、慶安2年(1649)に溯ります。建物自体は正徳6年(1716)頃の建築で、間口9間(約16m)、奥行23間(約41m)ほどの大きさですが、赤坂の旅籠では比較的大きい方であったといいます。
入口の見世間や階段、二階の部屋は往時の様子を留めています。
この貴重な歴史建造物は豊川市に寄贈され、その後は一般公開されるとのことです。
◆問い合わせ
大橋屋 TEL:0533-87-2450
旅籠大橋屋 見学について(要予約)
見学時間 10:00~16:00
大橋屋
大橋屋
赤坂宿は享保18年(1733)の頃の家数は349軒です。小さな宿場にもかかわらず旅籠が83軒もあった上、隣の御油宿とは僅かに、16丁(1.7km)しか離れていないので、客の奪い合いが激しかったと言われています。このため旅籠家業だけでは食べていけないため、飯盛り女を抱える飯盛り旅籠が必然的に増えていきました。このような現象は御油でも同じなのですが…。
「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」、「御油や赤坂、吉田がなけりや、親の勘当受けやせぬ」と、俗謡で詠われたように赤坂宿の繁栄は飯盛女によるところが大きかったようで、音羽町(旧赤坂町、旧長沢村、旧萩村が合併し誕生)の資料によると、飯盛女の多くは、近隣の村々の農家や街道筋の宿場町出身の娘たちでした。
寛政元年(1789)の『奉公人請状之事』には「年貢に差しつまり、娘を飯盛奉公に差し出します。今年で11歳、年季は12年と決め、只今御給金1両2分確かに受け取り、御年貢を上納いたしました。とあり住民の生活が豊かでなかったことから、子女を飯盛女として奉公させざるを得ない状況だったといいます。
大橋屋の隣に「高札場の木柱」が目立たない存在で置かれています。注意しないと通り過ぎてしまいます。
伊藤本陣跡の裏にあるのが浄泉寺で、境内に大きなソテツがあります。
安藤広重の「赤坂 旅舎招婦図」には赤坂宿の旅籠風景が描かれていますが、この絵の中に旅籠鯉屋の庭のソテツが描かれています。
しかし明治20年頃の道路拡張により、旅籠から浄泉寺境内に移植されたもので推定樹齢は260年という「ソテツ」です。
本堂と離れて建っている薬師堂は赤坂薬師といい赤い幟が林立しています。
街道をほんの少し進むと左側に赤坂休憩所「よらまい館」が現れます。平成14年にオープンした赤坂宿の旅籠をイメージした休憩施設です。
当時の建築様式を再現し2階には赤坂宿を描いた浮世絵を展示しており、宿場町として栄えた江戸時代の様子を観覧できます。
また内外にベンチを配し旅行者が足をのばしてくつろげる空間になっており、トイレ・駐車場なども設置してあります。
■休館日:月曜日
■問い合わせ:豊川市観光協会(0533-89-2206)
よらまい館の先の右側に「赤坂陣屋跡」の表示が置かれています。
三河国の天領を管理するため幕府が設けたもので、国領半兵衛が代官のときに豊川市の牛久保から移ってきました。幕末から明治にかけては、三河県の成立にともない三河県役所となり、明治2年6月に伊那県に編入されると、静岡藩赤坂郡代役所と改めました。明治4年の廃藩 置県により伊那県が額田県に合併されると赤坂陣屋は廃止されました。
赤坂陣屋跡を過ぎると、すぐに赤坂宿の西のはずれにさしかかります。そんな場所の街道脇に西見附の標柱が現れ赤坂宿は終わります。
赤坂宿を抜けると、次の宿場町は藤川宿です。道筋は山間の道を進んで行きます。
赤坂宿の西見付の標を右手に進むと「郷社八幡宮」の鳥居があります。鳥居をくぐると杉の森八幡宮が社殿を構えています。
当社は大宝二年(702)、持統上皇が東国御巡幸の折、勧請したと伝えられる古い神社です。寛和2年(986)の棟礼が現存するといいます。境内には一つの根株から二本の幹が出ていることから、夫婦楠と呼ばれる大クスは、推定樹齢千年を数える風格ある古木です。
それでは街道を進んでいきましょう。そのまま歩いていくと、家並みもめっきりと少なくなり、車もほとんど通らない静かな道に変ります。右側に音羽中学校の校舎が見えてきます。右側に開運毘沙門天王尊の石柱が細い道の角に建っています。その先に医院があり、その先には薬局が店を構えています。左側の道傍には栄善寺の石碑が建っています。
栄善寺は西暦1272年に円空上人の開基で、弘法大師がこの地で大日仏を刻み、盲目の男を治したという伝説が残っている寺です。
さらに街道を進むと長沢(旧長沢村)に入ってきます。道の左側に八王子神社の石柱が建ち、左側の秋葉山常夜燈は寛政12年の建立です。
さあ!まもなく第27回の旅のエンディングが近づいてきました。街道を進むと小川に架かる八王子橋を渡ります。
橋の手前に「一里山庚申道是ヨリ……」と書かれた道標があります。
橋を渡ると前方に有料道路の「三河湾オレンジロード」が走っています。旧街道はオレンジロートのガードをくぐって前方へつづいていきます。
私たちはオレンジロードをくぐったらすぐ右へ折れて、国道1号線の「音羽蒲郡インター」の交差点方向へ向かいます。そして今回の旅の終着地点の「えびせん共和国」へと進んでいきます。
2泊3日の行程で総歩行距離32キロを歩き通しました。たいへんお疲れさまでした。
私本東海道五十三次道中記 第27回 第1日目 白須賀宿から二川宿(本陣)
私本東海道五十三次道中記 第27回 第2日目 二川宿(本陣)から莵足神社
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