大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

行秋のお江戸・浜離宮恩賜庭園探訪

2015年11月06日 16時37分06秒 | 中央区・歴史散策
秋晴れの下、久しぶりにお江戸の名勝として知られる浜離宮恩賜庭園へ行ってきました。というのも大江戸散策徒然噺の散策イベントで浜離宮恩賜庭園のガイドをするための下見を兼ねての訪問です。
前回の訪問からおよそ1年以上は経過していると思います。

浜離宮恩賜庭園

地下鉄大江戸線の汐留駅を降りて浜離宮を目指すのですが、ご存じのように汐留界隈は「シオサイト」と言われる高層ビルが林立するエリアに変貌しています。東京に住んでいても皆目方向が分からないくらいにビル群がひしめき、空も隠れるほどの摩天楼街となっています。

地下鉄から浜離宮への案内指示に従って地上にでるのですが、まったく方向がわかりません。もし案内当日にこのありさまではまず道に迷ってしまいます。
まずは勘を頼りに浜離宮方面へ歩を進めます。幸運にも勘が当たったのですが、浜離宮の大手門付近はなにやら大きな工事をしているらしく、簡単に道を横切れない状況です。

ひとまずもと来た道を引き返し、今度は中の御門へ向かう道筋を探します。ここで気が付いたのですが、大手門を目指すよりはビルの谷間を抜けて、中の御門へ向かう方が道路の横断がたやすくできることでした。

中の御門から入城して、園内を一周して大手門から退場しても全く問題はありません。

中の御門にも入場券を買う受付があります。私事ですが今月11月下旬で65歳になります。本日11月6日の入場ではありますが、もう65歳と同じなので「65歳です」と告げると入場料は150円になりました。入場券にも65歳以上と入っています。

入場券
浜離宮のパンフレット

さて、中の御門からまずは花木園へと向かいます。ここには大きな東屋があり休憩場所になっています。そんな東屋の傍らに小さな茶屋が店を構えていました。以前はなかったのですが、新しくできたようです。

茶屋

さて、ここ浜離宮について簡単に説明しておきましょう。
この庭園ができたのは江戸時代の承応3年(1654)に甲府宰相綱重公がそれまで徳川将軍家の鷹狩場であった場所を埋めたてて造ったのが始まりです。
この綱重公は三代将軍家光公の子供で異母兄弟には四代将軍になった家綱公と五代将軍になった綱吉公がいます。
ということはこの綱重公だけが将軍になれなかった人物なのですが、順当にいけば当然将軍になった方です。しかし不幸にも四代将軍家綱公が亡くなる2年前に綱重公は亡くなってしまったのです。

異母兄弟の家綱公が慶安4年(1651)に将軍に宣下されたのはまだ11歳の頃です。次男である綱重公は家綱公が将軍になったときはまだ7歳の坊やですが、将軍の兄弟ということで幕府は綱重公に破格の待遇を与えています。なんと若き綱重公に甲斐の甲府に25万石を与え、徳川御三家に準ずる家紋大名としたのです。

ですから綱重公がここ浜離宮に土地を拝領したのは10歳の時なのです。当時は浜離宮という名称ではなく、綱重公の別宅として甲府お浜御殿と言われていました。
しかし、思いもよらず綱重公の子供の綱豊が六代将軍家宣となります。家宣公は将軍になるや否や、父である綱重が造ったお浜御殿を徳川将軍家直属の屋敷庭園に格上げし、むしろ江戸城の出城のような性格にしてしまったのです。

これ以降、お浜御殿は将軍家のお庭として、将軍や御台所の遊興の場、さらには朝廷からの勅使の饗応の場としての役割を担い、徳川幕府終焉の幕末まで存続したのです。

将軍家のお庭は明治維新を迎えてから新政府の迎賓館として姿を変えていきます。これによって浜離宮と名を変えていきます。

そんな歴史を思い浮かべながらお庭の散策とまいりましょう。

花木園から木々に覆われた道筋を辿っていきましょう。



木々に覆われた道筋を抜けると目の前に現れるのが浜離宮の中でも中心的な場所である「潮入り池(大泉水)」です。
その池のほとりにはかつて置かれたいた茶屋が復元されています。一つは松の茶屋です。

松の茶屋

もう一つが燕の茶屋です。以前来たときはこの茶屋はなかったのですが、まだ復元されて間もないような佇まいです。

燕の茶屋

この2つの茶屋は昭和19年まではオリジナルとして残っていたのですが、戦争末期の米軍の空襲で焼失してしまったのです。
かつての装いで復元されているのですが、外見は白木の白さが目立ち、それほど趣を感じません。難を言えば、ガラス戸になっているのが何とも無粋なのです。
いたしかたありません。なにせ平成の時代の建材を使っての復元ですから……。

それでは潮入り池に架かる「お伝い橋」を渡ることにしましょう。

お伝い橋

お伝い橋の上からは潮入り池の広がりと池の端の景色が一望できます。

潮入り池
潮入り池
燕の茶屋
小の字島

お伝い橋を進んで行くとなかほどの中の島へと繋がります。中の島には大きな茶屋があり、ここでは有料の茶菓子を提供しています。江戸時代にもここに茶屋が置かれ、将軍、御台所がここから庭を眺めたと言われています。

中の島茶屋
中の島茶屋
中の島茶屋

お伝い橋を渡りきると、前方に小高い築山が現れます。これが富士見山です。階段があるので登っています。富士見と名付けられているので、かつてはここから富士山を遠望できたのでしょう。今では高層ビル群が邪魔をして富士山を見ることはできません。

富士見山から
富士見山から

富士見山を下り、道筋を右手へ進むと運河の縁へと出てきます。江戸時代にはここは江戸湾に面していた場所です。

運河の縁

運河の縁から再び潮入り池へと戻り、少し進むとかつて「海手茶屋」があった場所にでてきます。

海手茶屋跡

もしかしたらこの場所に海手茶屋が復元されるかもしれませんね……。
この辺りで潮入り家に架かるもう一つの橋である「海手お伝い橋」を渡り反対側へ移動します。
すると前方に面白い形の築山が見えてきます。

築山

これは江戸時代にここで鴨狩を行った場所で、庚申堂鴨場と呼ばれています。
この鴨場には潮入り池とは別の独立した池があります。この池は当時から鴨の生息場所だったようです。
そんな鴨を狩るためにつくった仕掛けといったほうがいいのかもしれません。

鴨場の仕掛け

鴨場を過ぎると前方に別の築山が見えてきます。樋の口山と呼ばれています。この場所も当時は江戸湾の美しい景色をながめるためにつくられた展望台です。

樋の口山

この樋の口山の側には新樋の口山と呼ばれる別の築山があります。樋の口山には登れませんが、新樋の口山には登ることができます。築山の上から右手を眺めるとレインボーブリッジが見えます。

新樋の口山から

新樋の口山へ登る手前にあるのが「水門」です。この水門は江戸時代からあるもので、海水を取り込むためのもので、潮の干満による水位の高さで潮入り池の様子が変わるように調整していたようです。

水門

新樋の口山を下り、運河の縁を進むと階段状の石段が見えてきます。ここが「将軍お上がりの場」と言われている場所です。
当時から水辺にあったのですが、水辺に造られていたということは、船がこの場所に着いたことを意味します。
しかも「将軍お上がりの場」ということですから、将軍だけが使用した船着き場といえます。

将軍お上がりの場
将軍お上がりの場

六代将軍家宣公以降の各将軍がお浜御殿に来る際、必ず船を使ったかは定かではありませんが、将軍家には将軍専用の御座船があります。その御座船を直接この「お上がりの場」に接岸したのかどうか。

六代将軍家宣公以降、13代家定公まではここお浜御殿はさぞ楽しい場所だったに違いありません。しかし14代家茂公と15代慶喜公にとっては悲しく、やるせない場所になってしまいます。

家茂公は幕末の長州征伐のため大阪に滞在中、21歳の若さで急死してしまいます。そして遺骸は大坂から船で運ばれ、ここお浜御殿の将軍お上がりの場に着いたのです。
また、慶喜公は慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いで官軍に敗れ、大阪から船で江戸に逃げ帰ってきます。そして着いたのがここお浜御殿の将軍お上がりの場です。

浜離宮庭園の散策も将軍お上がりの場を過ぎると終盤を迎えます。将軍お上がりの場の側には現代の船着き場があります。この船着き場は浅草とお台場を結ぶ水上バスと東京観光汽船の船が発着します。

さあ!大手門へ向けて進んでいきましょう。前方にはシオサイトの高層ビル群がまるで屏風のように立ちふさがっています。



大手門に着く手間に見事な松の木が現れます。300年の松と呼ばれているものです。この松は六代将軍の家宣公がここを将軍家の専用の庭にしたときにお手植えされたものと言われています。そう考えれば確かに300年は経っています。

300年の松
300年の松

300年の松を過ぎると、お浜御殿の正門として使われていた大手門に到着です。

大手門

秋晴れのこの日、平日の浜離宮ですが、園内にはたくさんの外人旅行客が訪れていました。日本人よりもはるかに多い数です。
都心のど真ん中に位置し、且つ外国人に人気の築地中央卸売市場(築地魚河岸)にも近いことで、浜離宮はアクセスしやすいのでしょう。いずれにしても美しく整備された浜離宮は私たち日本人にとっても自慢できる名勝・史跡です。





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