隅田川河岸から対岸に江戸時代の漁師町「佃」の町並が見えるあたりが、明治時代の初期の頃に外国人居留地として異国情緒を醸し出していた「明石町」です。明石町の名の由来は、対岸の佃島を淡路島に見立てると、播磨の国の明石にある「明石の浦」の風景に似ていることから名付けられたと言われています。
そんな風向明媚な明石の海岸沿いに造られたのがいわゆる「外国人の町」で、当時は西洋建築様式で建てられた学校や病院、教会、住宅が並ぶ、西洋文化の香りが色濃く漂う「ハイカラ」な場所だったのです。現在、その場所には聖路加国際病院がエキゾチックな佇まいを見せています。
そんな現在の明石町でかつての異国情緒の名残りを探してみました。
明石町と言えば、この地を代表する「聖路加国際病院」でしょう。この病院も外国人居留地と無縁ではありません。明治35年(1902)に宣教師トイスラーによって発足した病院です。当時は聖路加病院と呼ばれていましたが、大正6年(1917)に聖路加国際病院に改称しています。
現在、当病院の敷地内に宣教師館として建設された西洋風の建物「トイスラー記念館」が立っています。この建物は明治時代のものではありませんが、昭和8年に隅田川に面した場所に建てられたものです。2階建ての瀟洒な佇まいを見せています。尚、太平洋戦争末期の米軍の空襲では、ここ明石町が外国人居留地であったことで空襲からは免れ、この宣教師館も被災せずに残ったものです。平成10年に隅田川河畔から聖路加国際病院の敷地内に移築され復元されています。
トイスラー記念館
トイスラーの銘版
このトイスラー記念館の入口に通じる小道の脇に「アメリカ公使館跡の記念碑」が置かれています。
そもそも幕末の安政5年(1858)6月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、翌年安政6年(1859)年東京港区麻布にある善福寺をアメリカ最初の公使宿館と決定、同年8月に初代公使ハリスが到着しました。
アメリカ公使館跡の記念碑
その後、明治8年(1875)に明石の外国人居留地に公館を新築し、公使館としての体裁を整えました。そして明治23年に現在の虎ノ門裏のアメリカ大使館へ移転しています。
伊豆半島の海岸で切り出された石材で造られた記念碑が5基置かれています。2基には当時のアメリカの国章である盾、1基には星と鷲と盾、2基には五陵の星が刻まれています。当時の公使館の様子は今となっては知るよしもありませんが、言い伝えによると木造2階建てのクリーム色で塗られた瀟洒な洋館だったようです。
そしてもう一つ、明石小学校の前にある堂々としたファサードの「カトリック築地教会聖堂」はまるでヨーロッパの街角にふと迷い込んでしまったような佇まいを見せています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/e8/5eca51558370d857b310200685aad8b2.jpg)
この教会は明治7年(1874)に長崎、横浜に次ぐキリスト教会として明石町の外国人居留地に建設されたものです。聖堂自体は明治11年に創建されましたが、関東大震災で焼失したため、昭和2年(1927)にフランスのパリにある聖マグダレナ天守堂を模して、ギリシャ神殿パルテノン様式で再建されました。正面ファサードを飾る6本のドーリア式の柱と正面切妻の壁にはバラとチューリップのレリーフが刻まれ、ヨーロッパの香りを感じる空間を演出しています。
カトリック築地教会聖堂
切妻のレリーフ
明石町一体にあった外国人居留地は幕府が欧米各国と締結した不平等条約改正を待って、明治32年(1900)に廃止されます。明石町の築地居留地は横浜の居留地に比べ、あまり発展はしなかったようです。横浜居留地が横浜港の発展とともに隆盛していった結果、商社などの外国企業も横浜に根を下ろしてしまって、東京へ移転しようとはしなかったためです。その反面キリスト教各宗派の宣教師たちが明石町に移住し、教会などを建設したり、現在の大学の礎となる私塾がここ明石町に開設されるなど、教育機関誕生の地としての役割を担っていました。
立教学院発祥の地碑
尚、外国人居留地の異国情緒溢れる建物は関東大震災でそのほとんどが焼失してしまい、見るべき洋風建築は残っていないのが非常に残念です。
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そんな風向明媚な明石の海岸沿いに造られたのがいわゆる「外国人の町」で、当時は西洋建築様式で建てられた学校や病院、教会、住宅が並ぶ、西洋文化の香りが色濃く漂う「ハイカラ」な場所だったのです。現在、その場所には聖路加国際病院がエキゾチックな佇まいを見せています。
そんな現在の明石町でかつての異国情緒の名残りを探してみました。
明石町と言えば、この地を代表する「聖路加国際病院」でしょう。この病院も外国人居留地と無縁ではありません。明治35年(1902)に宣教師トイスラーによって発足した病院です。当時は聖路加病院と呼ばれていましたが、大正6年(1917)に聖路加国際病院に改称しています。
現在、当病院の敷地内に宣教師館として建設された西洋風の建物「トイスラー記念館」が立っています。この建物は明治時代のものではありませんが、昭和8年に隅田川に面した場所に建てられたものです。2階建ての瀟洒な佇まいを見せています。尚、太平洋戦争末期の米軍の空襲では、ここ明石町が外国人居留地であったことで空襲からは免れ、この宣教師館も被災せずに残ったものです。平成10年に隅田川河畔から聖路加国際病院の敷地内に移築され復元されています。
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このトイスラー記念館の入口に通じる小道の脇に「アメリカ公使館跡の記念碑」が置かれています。
そもそも幕末の安政5年(1858)6月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、翌年安政6年(1859)年東京港区麻布にある善福寺をアメリカ最初の公使宿館と決定、同年8月に初代公使ハリスが到着しました。
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その後、明治8年(1875)に明石の外国人居留地に公館を新築し、公使館としての体裁を整えました。そして明治23年に現在の虎ノ門裏のアメリカ大使館へ移転しています。
伊豆半島の海岸で切り出された石材で造られた記念碑が5基置かれています。2基には当時のアメリカの国章である盾、1基には星と鷲と盾、2基には五陵の星が刻まれています。当時の公使館の様子は今となっては知るよしもありませんが、言い伝えによると木造2階建てのクリーム色で塗られた瀟洒な洋館だったようです。
そしてもう一つ、明石小学校の前にある堂々としたファサードの「カトリック築地教会聖堂」はまるでヨーロッパの街角にふと迷い込んでしまったような佇まいを見せています。
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この教会は明治7年(1874)に長崎、横浜に次ぐキリスト教会として明石町の外国人居留地に建設されたものです。聖堂自体は明治11年に創建されましたが、関東大震災で焼失したため、昭和2年(1927)にフランスのパリにある聖マグダレナ天守堂を模して、ギリシャ神殿パルテノン様式で再建されました。正面ファサードを飾る6本のドーリア式の柱と正面切妻の壁にはバラとチューリップのレリーフが刻まれ、ヨーロッパの香りを感じる空間を演出しています。
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明石町一体にあった外国人居留地は幕府が欧米各国と締結した不平等条約改正を待って、明治32年(1900)に廃止されます。明石町の築地居留地は横浜の居留地に比べ、あまり発展はしなかったようです。横浜居留地が横浜港の発展とともに隆盛していった結果、商社などの外国企業も横浜に根を下ろしてしまって、東京へ移転しようとはしなかったためです。その反面キリスト教各宗派の宣教師たちが明石町に移住し、教会などを建設したり、現在の大学の礎となる私塾がここ明石町に開設されるなど、教育機関誕生の地としての役割を担っていました。
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尚、外国人居留地の異国情緒溢れる建物は関東大震災でそのほとんどが焼失してしまい、見るべき洋風建築は残っていないのが非常に残念です。
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