大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸日本橋あれこれと一石橋のおもしろ由来

2011年02月08日 11時48分35秒 | 中央区・歴史散策
お江戸といったらまずは日本橋(橋のことです。)およそ420年前の天正18年(1590)に関八州を治めることを秀吉から任ぜられた家康公が始めて江戸に入府した時に見た景色は、葦が生い茂る潮の浜が広がる海辺の寒村だったのです。そんな土地に移封された家康公はどんな思いでこの景色を眺めていたのでしょうか?

当時、今の日比谷辺りは深く入りこんだ入り江で、江戸湾の波が打ち寄せる海岸だったのです。そしてこの日比谷入り江の東側には江戸湾に長く突き出した「江戸前島」といわれる半島が横たわっていました。この江戸前島は現在の神田から新橋までに達する長さの半島で、日本橋にあたる場所はこの半島のちょうど中央に位置しています。



そして家康公の江戸入府から13年後の慶長8年(1603)に征夷大将軍の宣下を受け、ついに江戸に幕府を開きます。これとともに家康公はいよいよ本格的に江戸の町づくりに着手します。まず、現在の駿河台近くにあった「神田山」を取り崩し、日比谷入り江を埋め立て陸地をつくり、江戸前島を中心に日本橋や京橋などの町屋(町人地)が造られていきました。なんと日本橋はこんな町づくりが始まった慶長8年には架橋されていたのです。

同時に江戸城の普請が進み、元和2年(1617)には現在の神田川にあたる堀割が開削されています。もちろんインフラの整備も進み、上水路や幹線道路が造られ、現在の平川(現在の日本橋川)が東へ延長され隅田川へと注ぎ込む川となっていきます。

日本橋が完成した翌年の慶長9年(1604)には一里塚が設置され、日本橋は五街道(東海道、甲州街道、中仙道、奥州・日光道中)の起点と定められ、日本橋を中心とした地域は名実共に江戸の中心地として繁栄していきます。

江戸城を中心とする江戸の町がほぼ完成するのは寛永12年(1635)の家光公の時代です。このことを家康、秀忠、家光三代にわたる江戸の大普請と呼ばれているものです。

この間に日本橋には魚市場(魚河岸)、京橋には青物市場(大根河岸)が設置されその賑わいは一日千両を稼ぎ出すと言われるほどでした。同時に伊勢や近江といった関西出身の商人たちが江戸店を開店し、現在の本町、大伝馬町、横山町、馬喰町から日本橋、京橋、銀座、新橋にいたる地域が商店街へと発展していきました。

こんな賑わいの様子を生き生きとした筆使いで描いた絵があります。『熈代勝覧』といわれるもので、江戸時代の文化2年の頃の今川橋から日本橋にいたる約760mに亘る88軒の問屋、店、および行き交う男1439人、女200人、子ども32人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿1匹、鷹2羽、ならびに屋号や商標が書かれた暖簾、看板、旗、などが克明に描かれています。


熈代勝覧の日本橋魚河岸の賑わいの部分

この『熈代勝覧』は日本橋三越へ通じる地下鉄コンコースに複製が展示されていますので是非ご覧になってみてはいかがでしょうか。当時の様子が手にとるように理解できるもので、できるものなら絵の中に飛び込んであの時代を体験してみたいと思うほどの出来栄えです。

さて、現在の日本橋ですがどっしりとした石造り2連のアーチ橋の姿をしています。明治44年に完成したもので、装飾部分には麒麟と獅子のブロンズ彫刻が施されています。明治時代の野外彫刻の代表的作品なのですが、橋の中央部分にある麒麟像は完成当時の東京市の繁栄を表現し、橋の四隅の獅子像は橋の守護を表現しています。

日本橋俯瞰
麒麟像
獅子像

明治44年に建てられた「東京市道路元標」と「日本国道路元標(レプリカ)」が日本橋室町よりの橋詰広場に展示されています。また、京橋寄りの橋詰広場は江戸時代には高札が掲げられた場所で、現在高札を真似た日本橋由緒書きが当時を偲ばせてくれます。

東京市道路元標
日本国道路元標

そして「日本橋魚市場発祥之碑」も建っています。記念碑の後ろには竜宮城の住人でもある「魚」がことごとく日本橋の魚市場に集ったことを表す「乙姫」の像が置かれています。

乙姫像

日本橋架橋から今年は100周年を迎えます。これを記念して日本橋の化粧直しが行われ、長年の汚れが落ち一段と白さが増しています。綺麗になった日本橋ですが、一部茶色く変色した部分があるのを知っていますか?
これは大戦末期の米軍の空襲による猛火で焼けた跡なのです。焼夷弾の直撃があったのかは定かではありませんが、歴史の証人としてあえてこの焼痕は残したそうです。

焼痕

それでは日本橋を後に、上流に架けられている一石橋へと向いましょう。三越日本橋本店の裏手、外堀の水が日本橋側に合流する場所でかつて江戸時代には「金座」が置かれ、現在は日本銀行本店を臨む辺りに架けられているのが一石橋です。

一石橋由緒書
一石橋柱

一石橋の名の由来が面白いもので、江戸時代に橋の北側の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助(ゆいのすけ)の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建されました。そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わっています。

この橋の袂に石標が一基忘れ去られたように建っています。「一石橋迷子しらせ石標」と呼ばれるものです。幕末の安政4年(1857)に建てられたもので、現在では柵で囲まれ、立ち止まって見る人もほとんどいない位に目立たない存在です。江戸時代には迷子は探し出すのには難しい時代で、親子が二度と逢えないことも少なくなかったようです。そこで迷子情報を張り出す掲示板のようなものが必要になったのです。石標の正面に「まよい子のしるべ」の文字が刻まれています。そして左側面の「たづぬる方」に迷子になった子供の特徴を記した紙を貼ります。一方、右側面の「志らする方」には迷子の所在を書いた紙を貼るといった情報伝達の手段として使われていたのです。この石標で何人の迷子が無事に見つかったのでしょうか?興味があるところです。

一石橋迷子しらせ石標
右側面
左側面





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