大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

隅田川の流れと石川島そして中央大橋周辺の史蹟探訪

2011年01月26日 23時10分24秒 | 中央区・歴史散策
隅田川が江戸湾に流れ込む河口は江戸時代には江戸前の海と呼ばれていました。ちょうど現在の永代橋がかかるあたりを境にして江戸湾が広がっていたと考えていいでしょう。その永代橋の沖合いに浮かんでいたのが石川島と佃島、そして陸側には霊岸島、鉄砲洲そして明石の海岸が続いていました。

江戸時代の後期、11代将軍家斉公の時代に寛政の改革を断行した松平定信は火附盗賊改方長谷川平蔵宣以(鬼平)の建議によってここ石川島に「人足寄場」を創設したことで知られています。

今回は私が住む江東区からは門前仲町から越中島方面を目指し、中央区への入口にあたる相生橋を渡り、石川島そして佃島へと進むルートを辿ります。相生橋上からは石川島に林立する「リバーシティ21」の高層マンションの絶景が目に飛び込んできます。

相生橋を渡るとすぐに右方向へ進みます。この道を進むと前方に中央区の八丁堀方面へと繋がる「中央大橋」が見えてきます。隅田川に架かる橋の中でもかなり斬新なデザインで、現代感覚に溢れています。平成5年に竣工したもので、橋の主塔の上部は兜をイメージしてデザインされたものです。実は架橋地点はかつて「鎧島」と呼ばれていたため、鎧の対にあたる「兜」をデザインしたと言われています。

この中央大橋をデザインしたのはフランスの会社です。どうしてフランスの会社がデザインしたかというと、隅田川はフランスのパリ市内を流れるセーヌ川と友好関係にあります。このことからフランスのデザイン会社にデザインを発注したのではないでしょうか。
フランスのデザイン会社が「鎧島」のことを知っていたのかは定かではありませんが、外国人がイメージする日本はサムライの鎧と兜と考えれば、兜をデザインに取り入れた理由は確かにうなずけます。
また、中央大橋の主塔真下の台座の上に、当時、パリの市長であったシラク氏(後のフランス大統領)から贈られた「メッセンジャー像」が置かれています。メッセンジャー像はフランスでは航海の安全を司る神と言われています。

隅田川と中央大橋

この橋を渡る手前の石川島東部分の石川島公園にはあまり知られていないモニュメントが置かれています。パリ広場と呼ばれるもので、東京都とパリ市の友好関係を記念して造られたものです。なぜこんな所にあるのかと不思議に思うのですが、前述のようにパリとの関係はまず隅田川とセーヌ川が友好河川であるということ、シラク氏から贈られた3本のマロニエの木が石川島公園内に植えられていたということ、もう一つ、中央大橋の中ほどには、パリ市から贈られた「メッセンジャー像」が飾られていることに由来しているのではないでしょうか。パリ広場には子供達が手をつないだ様子をモチーフにした、銀色のアーチ型モニュメントがあります。「友情から未来へ」の銘板がモニュメントの上部に掲げられています。

パリ広場のモニュメント
友情から未来へ

このパリ広場のすぐ側には「日本初の民営洋式造船所 発祥の地」の碑が建っています。

日本初の民営洋式造船所 発祥の地
蒸気軍艦「千代田形」

碑文によると「米国ペリー艦隊が来航した嘉永6年(1853)に幕府の命を受けた水戸藩がこの地に石川島造船所を創設した。同造船所は洋式帆装軍艦「旭日丸」をはじめ、日本人によって設計、建造された最初の蒸気軍艦「千代田丸」など数多の艦船を次々と建造、造船技術を通じてわが国産業の近代化に大きく貢献した。
明治維新後の明治9年(1876)に平野富二によりわが国初の民営洋式造船所として再スタートし、その後明治22年(1889)には 渋沢 栄一などの協力により会社組織となり、有限責任石川島造船所、株式会社東京石川島造船所の社名の下、明治から大正・昭和にかけて多くの軍艦・商船を世に送り出してきた。この地での造船事業は昭和14年(1939)に造船部門が東京深川区豊洲へ移設したことで幕を閉じた。
その後、石川島重工業株式会社、石川島播磨重工業株式会社と社名が変更される中で当地は日本屈指の重機械類の専門工場として活躍してきたが昭和54年(1979)の工場大移転により、その長い歴史を終えた。」と書かれています。

中央大橋を渡り、かつての霊岸島側へ向いましょう。橋上から少し下流を眺めると奇妙な形のモニュメントが目に飛び込んできます。ちょうど亀島川が隅田川に注ぎ込むあたりです。



霊岸島検潮所・量水標跡」と呼ばれています。明治初期に利根川や隅田川、荒川などの主要河川に量水標を設置し、ここで得た平均水位を基準面として使用しました。東京近郊では明治6年(1873)にここ霊岸島に検潮所を設け東京湾の平均潮位を基準としたことで、これを記念したモニュメントです。
そして明治24年に現在の国会議事堂前にある憲政記念館敷地内に創設された「日本水準原点」の標高(24.4140m)はここ霊岸島検潮所の平均潮位を基準に決定したものです。

今でこそ隅田川のスーパー堤防がつづく霊岸島河岸ですが、かつては東京湾(江戸湾)の波が打ち寄せる海岸地帯であったことを伺わせる貴重な史蹟ではないでしょうか。

中央大橋を渡り、八丁堀方面へとほんの少し亀島川に沿って進むと、趣ある橋が現れます。一見しただけでも歴史を感じさせるデザインです。昭和7年に架けられた鉄橋で「南高橋」と呼ばれています。
橋の本体には旧両国橋の一部が使われているそうです。旧両国橋は明治37年(1904)に架けられた三連トラス橋で、関東大震災で被害を受けたため、中央部分を南高橋に移設、部分補強をして再利用したものです。この南高橋は都内に現存する明治期の鉄骨橋梁としては2番目に古いものだそうです。

南高橋

この橋を渡り隅田川に沿って南下すると鉄砲洲神社、そして聖路加国際病院へと進みます。

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