大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸築地周辺の江戸そして幕末・明治の遺産巡り

2011年02月09日 16時03分34秒 | 中央区・歴史散策
連日多くの人の来場で賑わう築地市場の場内・場外の周辺には江戸時代から明治にかけてこの場所を飾ったさまざまな施設があったことをご存知でしょうか?



そもそもここ築地という土地が築かれたのはいつ頃だったのかを検証してみましょう。
それは今から350年ほど遡った明暦の時代のことです。江戸時代を通じて未曾有の大惨事となったあの「明暦の大火(1657)」で江戸の市中の三分の二が焼失し、約10万人もの死傷者をだしてしまいました。

これほどまでに被害が拡大した大きな理由として、第一にあげられることが「あまりに江戸市中の建物が密集していたこと」と言われています。開幕以来、発展してきた江戸の町は家康、秀忠、家光の三代にわたる「天下普請」によって寛永12年(1635)頃にはほぼ街としての基盤が完成しました。しかしながら、江戸に押し寄せる地方からやってくる多くの人々を受け入れるだけの余裕ある都市計画が追いつかず、江戸の町は「密集地帯」と化していたのです。そんな時に起きたのが「明暦の大火」だったのです。

幕府はそれまでの都市造りの考え方を構造的に変えなければと考え、まず内郭(内掘)に集中していた武家屋敷を内郭の外へと分散させ、併せて寺社地の郊外への移封を断行していきます。
そして、新たな土地の開墾を行うべく江戸湾の埋め立てを開始します。その工事で造成されたのが、地を築いた場所のとおり「築地」だったのです。

そして地を築く工事の過程での出来事があります。大火の後、万治年間(1658~61)にかけての埋め立て大工事は困難を極めます。ある日、工事をしていると海中から稲荷明神様の像が現れ、これを祀ったところ、江戸湾の波浪がおさまり工事がはかどった、という故事から創建されたのが現在、海幸橋至近にある読んで字のごとく波を除ける「波除稲荷神社」なのです。

波除神社本殿
波除神社獅子頭(雌)
波除神社獅子頭(雄)

この神社には天保時代に奉納された「天水鉢」があります。実は江戸時代今の築地市場の南半分に位置するあたりが尾張徳川家の蔵屋敷があったのです。藏屋敷には国表から運ばれる米や特産品が定期的に運ばれてきたのですが、この天水鉢は尾張藩の船が無事航海できるよう祈願して荷揚げ人夫たちが奉納したものです。

ついでにこの波除神社に至近にある海幸橋の親柱の由来についてご紹介しましょう。かつてはこの場所には旧築地川東支川が流れ、市場内への入口にあたることから、豊魚を祈願して「海幸橋」と名付けられました。
現在、川は埋め立てられその面影はほとんど残っていませんが、かつての橋が架けられていた4隅に親柱が残されています。そのうち2基が非常に趣あるデザインのもので鋼鉄製で造られています。
実はこの鋼鉄製の親柱はアムステルダム派のデザインを取り入れたもので昭和2年に設置され、現在中央区の文化財として保存されています。

波除神社脇の親柱
市場入口脇の親柱

さて、江戸時代の寛政の頃、ここ築地市場があった場所にそれはそれは見事な造りの名園があったのですが、ここでいう名園はお隣にある「浜離宮(浜御殿)」のことではありません。
実は寛政4年(1792)にこの地を拝領した松平定信公(楽翁)が工夫を凝らして造り上げた「浴恩園」という浜屋敷があったのです。今となってはその欠片すら見当たりませんが、当時の園内には「春風池」と「秋風池」という2つの池を配し、その池の周囲には築山が築かれていたといいます。そんな様子を刻んだ銅版画が市場内の水神社の土台部分の目立たない場所に嵌め込まれています。

浴恩園絵図
浴恩園銅版画

そしてこの浴恩園の屋敷は明治5年に、海軍省が置かれることになります。そして浴恩園に築かれた「築山」には「海軍卿旗(かいぐんきょうき)」が掲揚されたことで、この築山を「旗山」と呼ばれるようになったのです。この海軍発祥之地である築地市場内の水神社の入口にはこれを記念して石碑が立っています。その碑面には「旗山」の文字がくっきりと刻まれています。

市場内の水神社
旗山碑

それでは海幸橋口から市場を退出し、晴海通りへと進んでいきましょう。晴海通りに出てすぐに右へ折れた歩道脇に立てられているのが「軍艦操練所跡」の説明書です。
これは幕末に幕府が運営した操練所のことなのですが、この操練所が開設される前はご存知のように長崎に開設された「海軍伝習所」が前身です。長崎の海軍伝習所では勝海舟や榎本武揚らが学んだことは有名な話です。
しかし安政4年に長崎はあまりに遠くて不便であることから、ここ築地にあった幕府講武所内に軍艦教授所を新たに設け、旗本や御家人などを対象に軍艦の操舵技術を学ばせたのでした。安政6年には軍艦操練所と改称され、あの勝海舟が教授方頭取となったのです。

この軍艦操練所跡地のすぐ側に、幕末の慶応4年(すなわち明治元年)になんと日本初の本格的洋風ホテルが建てられました。その名を「築地ホテル館」といいます。和洋折衷様式の築地ホテル館は当時では非常に珍しく、連日多くの人が見物に訪れたといいます。建設には現在の清水建設の前身である「清水組」が担当しています。
しかし残念な事に完成してからわずか4年足らずで焼失してしまったため、「幻のホテル」と言われています。

築地ホテル館

さらに晴海通りを勝鬨橋方向へ進んでいきましょう。ちょうど勝鬨橋を渡る手前右側にガス灯と石碑が置かれています。この石碑が「海軍経理学校の碑」です。明治7年(1874)に芝に海軍会計学舎が開設されたのが海軍経理学校の始まりです。明治21年に築地にあった海軍兵学校が広島の江田島に移転したことに伴い、浴恩園跡地に海軍会計学舎が移ってきました。そして明治40年に海軍経理学校となり大正を経て、昭和20年9月敗戦と共に歴史を閉じています。

海軍経理学校の碑
かちどきの渡しの碑
勝鬨橋俯瞰

このように築地周辺には江戸後期から幕末にかけて、新しい時代への礎ともなる海軍関係の施設が集中していたことになります。江戸湾に面する良好の地であった築地は幕末から明治の国防の要として「日本海軍」の聖地であったのではないでしょうか。

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