江戸時代には日本橋、新橋と並ぶ御公儀橋3橋のうちの一つとして、御公儀橋を表す擬宝珠が橋の欄干に掲げられていました。平成の御代、すでに京橋という名の橋はなく、かつて川が流れていた上には日本橋と同様に首都高速が走っています。
そんな京橋界隈に江戸の名残り探しに出かけてみました。現在の京橋界隈は日本橋地域の再開発と張り合うように至る所でビルの解体と新築工事が目白押しの状態です。ちょうど鍛治橋通りと中央通りが交差する角では中央通りを挟んで大規模ビルの建設が始まり、歩道の脇には工事のための囲いがつづき町の景観が大きく変わっています。
その工事現場を囲う塀に過ぎ去った時代の京橋の様子を撮った写真が掲示され、つい見入ってしまうほどです。
かつての京橋が架けられていた場所は、現在の町名で「京橋3丁目」にあたり、ちょうど高速道路が中央通りを跨いでいるところです。すなわち銀座1丁目のちょっと手前の位置です。
この場所に京橋にまつわる歴史的な事象を記念するモニュメントや碑があちこちに立っているのをご存知でしょうか。中央通りを足早に行き交う人々もつい見逃してしまいそうなこれらのモニュメントたちは江戸から明治そして大正、昭和へと時代が移る中で、「この場所に確かに存在したんだぞ」と言いたげに佇んでいます。
まず銀座方面に向って左側の歩道を歩き、ちょうど警察博物館の前辺りまで進んでみましょう。頭上には高速道路が走り、その高架の下には「銀座ミカレディ」の店舗入口がある辺りに置かれているのが「京橋の親柱」です。
京橋の親柱
江戸時代は木橋だった京橋は明治に入り石造アーチ橋となり、明治後期には鉄橋に架け替わり、大正時代にはアールデコ調のモダンな装いになったといいます。しかし昭和34年(1959)の京橋川の埋め立てに伴い橋は撤去されてしまいました。
現在、中央通り沿いの歩道には石造親柱が3基残され、このうち擬宝珠を持つ2基の親柱は明治8年にアーチ橋となったときのものです。それぞれに「京橋」と「きやうはし」と刻まれています。
「きやうはし」の親柱
また照明装置がついた親柱は大正11年の架け替え時のもので、なにやらロマンを感じる時代ものです。
この大正時代の親柱のデザインをそのまま模した交番が中央通りを挟んで置かれています。東京警視庁もなかなか味なことをするもんだと感心した次第です。
大正時代の親柱
親柱のデザインをそのまま模した交番
この親柱のすぐ脇に置かれているのが、「煉瓦銀座の碑」です。はて煉瓦銀座とはいったい何のことをいっているのかというと、実は明治5年に銀座一体は大火に見舞われたのです。この大火後、銀座一体は大規模な区画整理を行うと同時に、銀座煉瓦街の建設に着手しました。このときの街並みを設計したのが英国人トーマス・J・ウォートルスという方で、銀座の街並みはジョージアン様式の煉瓦造りの建物が並んでいたのです。大火の翌年には銀座通りの煉瓦街が完成したといいます。
煉瓦銀座の碑
煉瓦銀座の碑の銘板
それでは中央通りを渡り、京橋の親柱のデザインを模した交番がたつ側へと向いましょう。高速道路下に設けられている小さな喫煙場所に立てられているのが「江戸歌舞伎発祥の地碑」です。かなり立派なものですが、中央通りの歩道から若干それているので、気が付かないで通り過ぎてしまう恐れがあります。
江戸歌舞伎発祥の地碑
江戸歌舞伎発祥の地碑
中村座紋
そもそも江戸歌舞伎の発祥は江戸初期の寛永元年(1624)の頃といいます。その始まりは猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が当時の中橋南地(現在の京橋)に猿若座の櫓をあげたことです。この櫓をあげるということは、幕府の許しを得たうえで興業ができるということを意味しています。
そしてこの櫓には座紋をあしらい、どこの芝居小屋であるかを表しています。ちなみに中村座は「隅切角に逆さ銀杏」を採用されています。もともと中村座の座紋は「鶴が空から舞い降りてくる」デザインでしたが、元禄三年に、将軍家に生まれたお姫様に鶴姫という名が付けられたのをはばかり、銀杏の葉に変えました。面白いことに銀杏の葉を逆さにすると、鶴が翼を拡げた形に似ているんですね。
隅切角に逆さ銀杏
両国江戸博の芝居小屋
尚、中村座は幕府の方針により度々小屋が移動します。寛永9年(1632)には禰宜町、慶安4年(1651)には上堺町へと移転し長く興業をしていたのですが、天保の改革により天保13年(1842)に淺草浅草寺の裏手の猿若町へ強制的に移転させられてしまいます。そして明治22年(1872)に歌舞伎座が開場し今に至っています。
この「江戸歌舞伎発祥の地碑」のすぐ側にもう一つ碑が立っています。「京橋大根河岸青物市場跡碑」です。日本橋界隈が魚河岸で賑わったように、ここ京橋界隈は江戸時代から大根を中心とした野菜の荷揚げ場で、江戸の庶民のための青物市場が開かれていました。
京橋大根河岸青物市場跡碑
京橋大根河岸青物市場跡碑銘板
この青物市場は関東大震災で壊滅し、魚河岸とともに築地の市場に移転しています。ですから築地市場には鮮魚部門と青果部門が並存しているわけです。
大正時代とはいえ、東京のど真中の日本橋と京橋に鮮魚と青果の市場があったなんて、周辺地域はなんと生臭かったことか……。
最後に京橋界隈ではないのですが、中央通りが終わる8丁目、すなわち新橋に近いところにこんな歴史があることを発見しました。ちょうど天麩羅の天国の角を曲がり、最初の路地の入口にそれこそ目立たない存在で碑が置かれています。「芝口御門跡」といわれるものです。ほんとうに目立ちません。実は江戸時代の宝永の頃のお噺です。
芝口御門跡
銅版
朝鮮通信使の江戸参府に際して、我が国、日本いや将軍家の権威や威光を示すため、新橋の北詰に城郭の門と同じ様な「桝形門」がこの場所に築かれたのです。この門は「芝口御門」と呼ばれていましたが、享保9年に火災で焼失し、その後再建されなかったといいます。このため石垣も撤去されてしまいました。現在、この芝口御門を記念して当時の門の様子を描いた銅版が埋め込まれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/ad/e684f0f4619ea5407c52c65d4f5c0c14.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/e3/cf23692bdc07c2291b2b6eb316d45c80.jpg)
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そんな京橋界隈に江戸の名残り探しに出かけてみました。現在の京橋界隈は日本橋地域の再開発と張り合うように至る所でビルの解体と新築工事が目白押しの状態です。ちょうど鍛治橋通りと中央通りが交差する角では中央通りを挟んで大規模ビルの建設が始まり、歩道の脇には工事のための囲いがつづき町の景観が大きく変わっています。
その工事現場を囲う塀に過ぎ去った時代の京橋の様子を撮った写真が掲示され、つい見入ってしまうほどです。
かつての京橋が架けられていた場所は、現在の町名で「京橋3丁目」にあたり、ちょうど高速道路が中央通りを跨いでいるところです。すなわち銀座1丁目のちょっと手前の位置です。
この場所に京橋にまつわる歴史的な事象を記念するモニュメントや碑があちこちに立っているのをご存知でしょうか。中央通りを足早に行き交う人々もつい見逃してしまいそうなこれらのモニュメントたちは江戸から明治そして大正、昭和へと時代が移る中で、「この場所に確かに存在したんだぞ」と言いたげに佇んでいます。
まず銀座方面に向って左側の歩道を歩き、ちょうど警察博物館の前辺りまで進んでみましょう。頭上には高速道路が走り、その高架の下には「銀座ミカレディ」の店舗入口がある辺りに置かれているのが「京橋の親柱」です。
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江戸時代は木橋だった京橋は明治に入り石造アーチ橋となり、明治後期には鉄橋に架け替わり、大正時代にはアールデコ調のモダンな装いになったといいます。しかし昭和34年(1959)の京橋川の埋め立てに伴い橋は撤去されてしまいました。
現在、中央通り沿いの歩道には石造親柱が3基残され、このうち擬宝珠を持つ2基の親柱は明治8年にアーチ橋となったときのものです。それぞれに「京橋」と「きやうはし」と刻まれています。
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また照明装置がついた親柱は大正11年の架け替え時のもので、なにやらロマンを感じる時代ものです。
この大正時代の親柱のデザインをそのまま模した交番が中央通りを挟んで置かれています。東京警視庁もなかなか味なことをするもんだと感心した次第です。
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この親柱のすぐ脇に置かれているのが、「煉瓦銀座の碑」です。はて煉瓦銀座とはいったい何のことをいっているのかというと、実は明治5年に銀座一体は大火に見舞われたのです。この大火後、銀座一体は大規模な区画整理を行うと同時に、銀座煉瓦街の建設に着手しました。このときの街並みを設計したのが英国人トーマス・J・ウォートルスという方で、銀座の街並みはジョージアン様式の煉瓦造りの建物が並んでいたのです。大火の翌年には銀座通りの煉瓦街が完成したといいます。
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それでは中央通りを渡り、京橋の親柱のデザインを模した交番がたつ側へと向いましょう。高速道路下に設けられている小さな喫煙場所に立てられているのが「江戸歌舞伎発祥の地碑」です。かなり立派なものですが、中央通りの歩道から若干それているので、気が付かないで通り過ぎてしまう恐れがあります。
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そもそも江戸歌舞伎の発祥は江戸初期の寛永元年(1624)の頃といいます。その始まりは猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が当時の中橋南地(現在の京橋)に猿若座の櫓をあげたことです。この櫓をあげるということは、幕府の許しを得たうえで興業ができるということを意味しています。
そしてこの櫓には座紋をあしらい、どこの芝居小屋であるかを表しています。ちなみに中村座は「隅切角に逆さ銀杏」を採用されています。もともと中村座の座紋は「鶴が空から舞い降りてくる」デザインでしたが、元禄三年に、将軍家に生まれたお姫様に鶴姫という名が付けられたのをはばかり、銀杏の葉に変えました。面白いことに銀杏の葉を逆さにすると、鶴が翼を拡げた形に似ているんですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/26/fa2f74272e404f54bcf83733c6f2c54b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/11/410935a1365ad9acff8483d5435f0e91.jpg)
尚、中村座は幕府の方針により度々小屋が移動します。寛永9年(1632)には禰宜町、慶安4年(1651)には上堺町へと移転し長く興業をしていたのですが、天保の改革により天保13年(1842)に淺草浅草寺の裏手の猿若町へ強制的に移転させられてしまいます。そして明治22年(1872)に歌舞伎座が開場し今に至っています。
この「江戸歌舞伎発祥の地碑」のすぐ側にもう一つ碑が立っています。「京橋大根河岸青物市場跡碑」です。日本橋界隈が魚河岸で賑わったように、ここ京橋界隈は江戸時代から大根を中心とした野菜の荷揚げ場で、江戸の庶民のための青物市場が開かれていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/9b/6526821e550c90827b3b2f7059f1735a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/df/eafd05aa90ec0a619a6fadab221eec0d.jpg)
この青物市場は関東大震災で壊滅し、魚河岸とともに築地の市場に移転しています。ですから築地市場には鮮魚部門と青果部門が並存しているわけです。
大正時代とはいえ、東京のど真中の日本橋と京橋に鮮魚と青果の市場があったなんて、周辺地域はなんと生臭かったことか……。
最後に京橋界隈ではないのですが、中央通りが終わる8丁目、すなわち新橋に近いところにこんな歴史があることを発見しました。ちょうど天麩羅の天国の角を曲がり、最初の路地の入口にそれこそ目立たない存在で碑が置かれています。「芝口御門跡」といわれるものです。ほんとうに目立ちません。実は江戸時代の宝永の頃のお噺です。
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朝鮮通信使の江戸参府に際して、我が国、日本いや将軍家の権威や威光を示すため、新橋の北詰に城郭の門と同じ様な「桝形門」がこの場所に築かれたのです。この門は「芝口御門」と呼ばれていましたが、享保9年に火災で焼失し、その後再建されなかったといいます。このため石垣も撤去されてしまいました。現在、この芝口御門を記念して当時の門の様子を描いた銅版が埋め込まれています。
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