大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸庶民の行楽地・洲崎弁天ってどんなとこ?【お江戸深川・江戸の海辺】

2010年10月19日 14時03分35秒 | 江東区・歴史散策
お江戸の行楽地を調べていると、頻繁にでてくるのが洲崎という地名。そして江戸時代を通じて風光明媚な江戸湾に面した景勝地で、季節ともなると釣りや潮干狩り、船遊びなどで大いに賑わったと書かれています。
そして歌川広重の名所図会にも描かれているのですが、その絵を見ると江戸湾の波が葦が生い茂る湿原に打ち寄せ、いかにも海辺の景勝地といったところです。
そして江戸後期には「東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地」として発展し、初日の出の名所として人気を集めたと言われています。

それではどこだと言うことで、一っ走り行ってきました。場所は江東区の東西線木場駅のすぐ側。現在は東陽町という地名に変わっていますが、ここがかつての洲崎海岸があった場所です。
そしてもう一つ、洲崎を有名にしたのが吉原と双璧をなす大歓楽街がここ洲崎にあったことなのですが、そんなことを知っているいる人がどれだけいるのだろうか、と思えるほど現在の洲崎にはそんな面影はまったく見当たりません。ただ「辰巳(たつみ)芸者」という言葉を聞くと、「あ~、あの辰巳芸者のいた場所なんだ。」と想いを馳せる御仁もいらっしゃるのでは?
実はこの大歓楽街があったのは明治から大正そして昭和18年ころまでの話です。話によると吉原にあった「大門」と同じように「洲崎大門」が歓楽街の入口に建っていたようです。

さてよく江戸前の海という言い方をしますが、江戸前の海はいったいどの場所の海の事をいっていたのだろう。
実はここ洲崎の海岸と品川洲崎の利田神社を直線で結んだ陸側の海を当時は「江戸前の海」と言っていたようです。

いまでこそ東京湾の海岸線は埋め立てによりはるか南へと移動していますが、江戸時代はここ洲崎が海岸線で江戸湾の波がチャッポン、チャッポンと打ち寄せていたのです。

洲崎神社鳥居

さて本日のお題の「洲崎弁天」ですが、これまたかなり由緒正しい神社なのです。
江戸時代からの名刹で、生類憐みの令で知られる五代将軍・徳川綱吉公の生母・桂昌院が守り神としていた元弁天社を、元禄13年(1700)に江戸城中の紅葉山(もみじやま)から遷したことが起源であると伝えられています。当時はご祭神を海岸から離れた小島に祀ったため「浮弁天」と呼ばれ、海難除けの社として地元漁民の信仰を集めていました。

洲崎神社の社殿

赤い鳥居をくぐってすぐ左脇に「波除碑」と「津波警告の碑」が建てられています。なぜこのような碑がたっているかというと、ここ洲崎周辺は寛政3年(1791)の台風の高潮で多くの死傷者を出し、洲崎弁天も大きな被害を受けました。このため幕府はこの一帯の土地を買い上げて空き地とし、居住を禁止したのです。そして被害の惨状を記した波除の碑を寛政6年(1794)に設置しました。

津波警告の碑
寛政時代の波除碑

本神社の社殿の右手奥に小さな池があり、その池の中の小さな島に弁天を祀る祠があります。

洲崎神社の弁天池

かつては風向明媚な海岸を望む場所にあったここ洲崎神社は、時代の変遷の中で住宅街に囲まれた場所に静かに佇んでいます。





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