大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

幕末流行の今だから、やっぱり桜田門!【お江戸・幕末桜田の門】

2010年10月18日 12時05分11秒 | 千代田区・歴史散策
NHK大河ドラマ「龍馬伝」も慶応の時代に入り、龍馬暗殺まであと6ヶ月と終盤へとさしかかってきた。また映画「桜田門」の宣伝プロモーションもテレビで頻繁にオンエアされている中で、お江戸散策徒然噺のお題としては幕末の一大エポックを演出した「外桜田門」は絶対にはずせない素材です。

乾濠から桜田門を俯瞰

「太平の眠りを覚ます 上喜撰 たった4杯で夜も眠れず」
こんな川柳が江戸の庶民の間で囁かれた裏には、浦賀沖に軍艦4隻を率いてやってきたペリーの黒船来航という一大事件に幕府が右往左往する様を的確に表しているんですね。
嘉永6年(1853)の最初のペリー来航で開国を迫ったものの、時の若き老中、阿部正弘は日本人特有の「のらりくらり戦法」で、回答を翌年に延ばし、その間に黒船撃退法を諸大名をはじめ、果ては庶民にまで募る始末。翌年安政元年(1854)に再来航したペリーは7隻の艦隊を率いて、恫喝的に開国を迫り、ついには「日米和親条約」が締結されたのはご存知の通り。これにより幕府の鎖国政策は外圧によって、あっけなく破られてしまったのです。
そして大きく時代が変わってゆく中で、日本の舵取りに奔走した老中・阿部正弘はその心労からか和親条約締結の2年後の安政3年に39歳という若さで病没してしまいます。

阿部正弘の死後、幕府は2つの大きな課題を抱えていました。一つは13代家定公の将軍継嗣問題ともう一つが初代総領事ハリスが要求する日米修好通商条約の交渉でした。この2つが複雑にからみ、幕府内部には勢力争いが生じていたのです。この深刻な問題を幕府権力をもって強行に突破しようとした一人の男がいたのです。
それが彦根藩主から一躍、時の人となった「井伊直弼」だったのです。

そんな最中の安政5年4月、重大な局面に陥っていた時に設けられる大老職に井伊掃部頭直弼が任ぜられたのです。まず解決を図らなければならなった事案が日米修好通商条約の調印なのですが、実はこの調印の期日をハリスとの間ですでに取り決められていたのです。その期日は同年の7月27日だったのです。
しかしこの条約調印には水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬らの、所謂、将軍継嗣問題で争っている「一橋派」の面々の反対行動が伴っていたのです。
同時に日米修好通商条約の調印には朝廷の勅許が不可欠であったのですが、ハリスからの強硬な申し出に安政5年6月15日に調印してしまうのです。これが世に言う「違勅調印」です。この「違勅調印」は一橋派の直弼攻撃の絶好の機会を与えてしまう結果となるのです。

さらに将軍継嗣問題においても前述の一橋派が押す慶喜と紀州の徳川慶福(よしとみ)を押す南紀派の対立は激しさを増していきます。この南紀派の筆頭がほかならぬ井伊直弼なのですが、日米修好通商条約調印後、間髪を入れず、同月6月25日に幕府は紀州徳川慶福(家茂)を14代将軍に決定したのです。

条約調印と将軍継嗣の二つの問題を大老・井伊直弼の主導の下、一応の解決はみたものの政局はむしろ複雑、そして混迷の度合いを更に深めていきます。
こうした情勢の中で、井伊直弼は二つの問題を処理した余勢をかって政敵の一掃にとりかかっていきます。
この行動があの「安政の大獄」と言われる尊王攘夷派に対する粛清です。この粛清の対象となったのは、一橋派の水戸斉昭、松平慶永をはじめ、反対派の大名、公卿、廷臣らに及んでいきます。
特に条約調印に激怒した時の天皇である孝明天皇が水戸藩に下した攘夷の勅諚は、逆に幕府大老の井伊直弼の逆鱗に触れたことは疑いの余地がない事実なのです。
これにより水戸藩降勅の首謀者を梅田雲浜と断じ、これを捕縛したことに「安政の大獄」の端緒が開かれたのです。

水戸藩に対する井伊直弼の圧迫と追及はすざましく、徳川御三家という家柄にもかかわらず水戸家存亡の危機と言われるまで追い詰められていきます。そんな状況の中で幕府、すなわち井伊直弼の強硬な態度に号を煮やした水戸藩士がいたのです。高橋多一郎、住谷寅之助と関鉄之助を中心とする藩士が企てた計画が井伊直弼暗殺なのです。密かに脱藩した彼らは江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに大老襲撃の手筈を整えていきます。
いうところの万延元年(1860)3月3日の「桜田門外の変」なのです。

春というにはその日は季節はずれの大雪。水戸藩浪士ら18人は五つ半(午前9じ頃)には大老・井伊直弼の登城の行列を見物する江戸の庶民に混じって待っていたのです。この日、3月3日は雛の節句(上巳の節句)ということで諸侯の登城日と定められていたのです。
いよいよ井伊直弼の行列が桜田門にさしかかったその時、一人の浪士が行列へと進み出て「捧げまする」「捧げまする」と言いよると同時に一発の銃声が響き渡ります。この銃声を合図に他の浪士全員が行列へと切りかかります。不意を付かれた井伊の従士達は反撃にでるのですが、おりしも大雪ということで、全員が雨合羽を着用し、不運なことに刀には雪水が入らないように柄袋をかぶせ、ご丁寧にもさらにコヨリでとめていたため反撃に遅れをとってしまったのです。
この襲撃で井伊直弼の首があげられ、桜田門外の雪は鮮血で真っ赤に染まっていきました。浪士組は18人中一人が闘死、4人が自刃、8人は自首したが5人が逃亡したのでした。

尚、幕末当時の井伊直弼の上屋敷は現在の国会議事堂前の憲政記念館がある場所で、桜田門まで僅か600m足らずの距離です。

さてこの事件がおこった桜田門ですが、国の特別史跡に指定されているほど重要な御門です。乾濠と日比谷濠の境に位置する門で、典型的な枡形門を形どっています。外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)の二重構造になっていて、高麗門を入ると桝形とよばれる四角形の広場があります。この広場は門から打って出る兵の待機場所であると同時に敵に攻められた時はここに敵兵を引き入れ周囲から弓・鉄砲などで攻撃するような造りになっています。大正12年(1923)の関東大震災で一部が破損、鋼鉄土蔵造りに改修され今に至っています。

桜田門の高麗門と渡櫓
桜田門の渡櫓
枡形から見る渡櫓
渡櫓を抜け皇居外苑を望む

桜田門へのアプローチとしてお勧めなのが、前述の憲政記念館から徒歩で乾濠へとなだらかな坂を下り、濠に沿って前方に見える桜田門を眺めながら進むルートです。左手には乾濠に流れるようになだらかな傾斜を見せる土塁と吹上の緑がまるで絵葉書の写真を見るように続きます。そして桜田門に近づくにつれて、遥か前方には日比谷のビル群が見えてきます。150年前、同じ道程を進んだ井伊直弼の行列を脳裏に浮かべながら幕末の想いを偲んでみてはいかがですか。





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