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大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第27回 第2日目 JR二川駅前からJR小坂井駅まで

2015年08月24日 12時02分43秒 | 私本東海道五十三次道中記


第二日目の出立地点は昨日の終着地点のJR二川駅です。本日はここJR二川駅前から吉田宿(現豊橋)を経由して、御油宿手前のJR飯田線の小さな駅・小坂井駅までの12.2キロを歩きます。

JR二川駅舎





比較的新しい駅舎が印象的な二川駅を通り過ぎると、道は緩やかにカーブしながら3号線と交差する火打坂交差点へとさしかかります。交差点から前方を見るとそれほどのキツサではないのですが、いくぶん上り坂になっているのが分かります。東海道の旧道は交差点を渡り、そのまま直進して行きますが、左折すると岩屋観音へ向かう道筋です。

《岩屋観音》
岩屋緑地は南アルプスから続いてきた弓張山系の南端で、市街地の中に緑の二つの小山が浮かんでおり、誰もが直ぐに見つけることが出来ます。岩屋緑地は豊橋市の風致公園で、風致地区46.1haのうち緑地が約21haを占めています。
主峰の大蔵山が標高100m、もう一方の峰は岩屋山で山上に聖観音立像が建てられており、中腹にある岩屋観音と共に昔から街道を行く旅人の尊信を集めています。
天平2年(730)行基が諸国巡行のさい、この地に来て岩屋山の景観に魅せられ一尺一寸の千手観音像を刻み、岩穴に安置したのが岩屋観音の起源とされています。岩屋観音の像は1754年の吉田大橋(豊橋市役所北)掛け替えにともなう霊験のお礼として1765年にたてられました。しかし、それは太平洋戦争のときに供出されており、現在のものは1950年につくられたものです。また、もともとここは古くから東海道を旅する人の目印となっていたところで、1704~11の宝永年間には岡山藩主、池田綱政から、観音の霊夢により宝永の大地震の際に津波の難を逃れたお礼として、絵馬、黄金灯籠などがおくられている。それらはいずれも貴重なもので、豊橋市の文化財に指定され、大岩寺に保管されている。(この絵馬や黄金燈籠は白須賀の潮見観音に奉納するものであったが、まかり間違って岩屋観音に奉納されてしまいました。)

江戸時代の旅行案内の東海道名所図絵に「亀見山窟堂(きけんざん、いわやどう)と号す。大巌、堂後にあり、高さ八丈、幅廿丈余、岩形亀に似たり。故に山号とす」とあるところで、大きな岩山の上に観音像が立っているのが遠くからも見えるはずです。

窟(いわや)は直立50mもある大岩で、その岩の上に聖観音像が立っています。現在の観音像は、昭和25年(1950)に地元の寄進により再建されたものです。私たちは先を急ぐので岩屋観音の参拝は割愛して街道を進んでいきましょう。

だらだらした坂道を登っていきましょう。火打坂の交差点辺りが標高26mですが、私たちは標高差23mを克服し、標高49mのⒹ地点を目指しましょう。
本来であれば、この先の大岩北交差点まで行くのですが、ここから「ガーデンガーデン」裏手の道を通りショートカットルートを辿ることにします。そして再び、旧街道筋に合流します。

《火打坂》
その昔にはおそらく山深い寂しい道筋だったと思われます。
その名の由来は江戸時代、旅人たちは次の宿場である吉田(豊橋)に向かう途中、季節によってはこのあたりで薄暗くなったのではないでしょうか。
そして提灯に灯りをともすために「火打石」をカチカチと鳴らしたので、この名前が付いたといいます。

再び旧街道に合流し、私たちはほんの少しの間、木々の緑に覆われた岩屋山のちょうど麓の縁に沿って歩くことになります。



二川の宿場からすでに1キロ強を歩いていますが、街道の両側は何の変哲もない住宅街へと姿を変えてきます。
道幅は広くなり、街道らしい風情はあまり感じません。昭和30年代まではこの道筋には見事な松並木が並んでいたといいますが、その名残はまったくありません。

歩き始めて2km辺りの歩道に旧東海道の「クロマツの跡」が現れます。平成19年までは往還松の名残として1本の大きな松の木がこの場所に立っていたのですが、現在は切株だけが寂しげに残っています。
樹齢は150年、高さは11m、幹周りは2.34mの松の大木だったようです。



飯村南2丁目の交差点を越えると、道は狭くなり、車線区分がなくなり、道に白線を引って歩道帯にしています。安心して歩けるのは、側溝のブロックの上だけですので、歩行には十分気を付けてください。
ほんの少し先に「二軒茶屋こども公園」と書かれた小さな空き地があります。「茶屋」と名前がついているということは、この辺りが吉田宿と二川宿の中間地点であることから、立場茶屋があったのではないでしょうか。

この辺りで歩き始めて2.5キロを超えました。もしトイレが必要であれば、スギドラッグ(10:00~)又はサークルKを利用することをお勧めします。




住宅街の中を進む旧東海道の道筋はやがて柳生川に架かる殿田橋にさしかかります。江戸時代には73番目の飯村一里塚(いむれ)があったところで、それを示す石柱が殿田橋を渡った先の交差点の一角に目立たない存在で置かれています。

そして旧街道は殿田橋交差点で国道1号線と合流します。しばらくの間は単調な国道1号に沿って歩くことになります。

飯村一里塚から2.5km強で吉田宿(豊橋)の東総門跡に到着します。
右側にセガワールドが現れ、その後は国道1号に沿って東三輪、山中橋を渡り、三の輪町、伝馬町、そして円六橋と続いていきます。豊橋市街に近づいているので、国道1号に沿って賑やかな雰囲気が漂っています。



それほど印象に残らない国道1号に沿って進んで行きますが、歩き始めて5キロ地点を過ぎた辺りが「瓦町」の交差点です。三河は三州瓦で有名ですが、「瓦町」という地名から、昔から瓦職人が多く住んでいた地域だったのでしょう。その瓦町交差点手前の右側に立派な門構えのお寺が現れます。寺名は寿泉寺で宗派は臨済宗のようです。詳しい歴史などが分かりませんが、境内の三重塔が印象的です。





豊橋市の現在の人口は378,530人。古くから「穂の国」と呼ばれています。というのも古代、この地に存在した「豊な実」を意味しています。現在でも東三河一帯を「穂の国」と呼んでいます。
東三河一帯とは豊橋、豊川、蒲郡、田原、新城、設楽町、東栄町(とうえい)、豊根村(とよね)を指します。



吉田宿は二川宿から6キロ御油宿へ10キロ強の距離に位置しています。 
当初は豊川に架けられた橋の名から、今橋と呼ばれていましたが、池田輝政が城主となった1600年頃、縁起のよい吉の文字を取り入れて吉田に名前を変えたのです。 

豊橋は明治維新後に繊維産業と軍事施設で栄えた町です。このため第二次世界大戦の末期の1945年6月20日の米軍による猛爆撃よって、中心部、吉田宿のほとんどが焼失し、古い建物はまったく残っていません。
町の中に置かれているモニュメントのほとんどが再建されたものです。

吉田は豊川の流れに近接して築城された吉田城を有する城下町であると同時に、東海道の中では比較的大きな宿場の一つだったのです。 

東海道は城下の入口の東新町(江戸時代の町名は元新町)のところで、鉤型になっていました。当時の東海道はここで左折し、一本目の道を右折し、突き当たったところを右折し、西新町(同新町)交差点に出たようです。

その先が東八町ですが、交差点の北東角に、文化2年(1805)に住民達の手で建てられたという秋葉山常夜燈が建っています。 
江戸時代にはその先に吉田城の東総門があったので門番が監視していましたが、現在は四差路の信号交差点に変り当時の様子やその痕跡は残っていません。

さあ!それでは吉田宿内へと進んでいきましょう。東八町の交差点を跨ぐ大きな歩道橋を渡り、旧市街側へと移動します。歩道橋の上からはかなり幅のある道筋が走り、地方都市らしい路面電車が走っています。

東八町の交差点

歩道橋を下りると東総門のレプリカが置かれています。
街道時代には東惣門は宿の東の入口にあり午前六時から午後10時まで開けられ、それ以外は閉門され、付近に番所などが置かれ警備にあたっていました。

東総門のレプリカ

東総門に隣接するように店を構えるのが「八町もちや」です。二川駅前からここまで約6kmを歩いてきたので、甘い和菓子とともに休憩しましょう。

東総門を背にして50mほど歩いたら最初の角を右へ曲がりましょう。そしてそのまま直進し丸八ストアの角を左へ曲がります。左へ曲がったら2つ目の角を右折すると鍛冶町の信号交差点にさしかかります。
鍛冶町交差点を過ぎて、次の曲尺手町交差点へと進みます。ここまで道筋は3曲がりです。掛川宿でも同じように東海道筋は城下をいくつも曲がりながらつづいていました。



そして次の信号交差点が曲尺手町です。中央に植え込みがある幅広い道が左右に延びています。右へ進むと豊橋公園です。進行方向右手の植え込みに「曲尺手門跡碑」、左側の植え込みには「吉田宿」と刻まれた石碑が置かれています。

曲尺手門跡碑

本来の旧東海道筋は曲尺手町交差点を渡り直進しますが、本日の昼食場所が豊橋公園内となるため、いったん街道を逸れ公園へ向かいます。曲尺手町交差点からおよそ290mほどで公園入口に到着です。

昼食後、公園内の鉄櫓(くろがねやぐら)と豊川の流れを眺められる展望台へご案内いたします。
その後、旧街道へ戻ることにいたします。
このため本日の実際の歩行距離はマップ上に表記された12.2kmに1kmを加えた13.2kmと長くなります。

吉田城は築城当時(16世紀初頭)は今橋城とよばれ、今川方の牧野古白(まきのこはく)によって築城された城です。永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間で戦死すると、徳川(松平)家康が吉田城を取り、酒井忠次を城代として入れました。天正18年(1590)の小田原攻めの後、家康の関東移封により、吉田城は徳川氏の手から離れ、その代わりに豊臣秀吉配下の池田輝正が152,000石で入封しました。 

輝正は豊川の流れを背に、本丸を中心に二の丸、三の丸を配置し、それらを掘が同心円状に取り囲む半円郭式縄張りに拡張しましたが、慶長5年(1600)に姫路に移封となったため、工事は未完に終りました。 
吉田城には天守はなく、深溝松平時代に建てられた本丸御殿のみで、これも宝永の大地震で倒壊してしまいます。 四隅の石垣には櫓がありました。

江戸幕府成立後、家康は三河吉田藩の初代藩主に一族の松平(竹谷)家清(三万石)を任命しました。しかし嗣子が無く廃絶、代わりに松平深溝(ふこうず)忠利(三万石)が入りますがこれも二代で代わります。 
その後も藩主が目まぐるしく代わり、寛永2年(1749)に松平(大河内)の信復(のぶなお)が7万石で入り、ようやく藩主が安定し、明治維新まで七代続きました。(江戸時代を通じて三河吉田藩は11家が入れ替わりました。) 
大きな藩のように思えますが、実際は小藩で3万石から多くて7万石だったのです。
 
国道1号線の豊川に架かる吉田大橋の手前に、吉田大橋誕生の碑があります。それを見ると、明治政府の「いやがらせ」で吉田から豊橋に変えられた悔しさが読み取れます。 

というのも大政奉還の後、新政府は「吉田は伊予国(愛媛県)にもあるので、今までの吉田を改称し新しい名前を提出するように」と命じられます。そのとき豊橋、関屋、今橋の三つの中から豊橋が選ばれました。 
新政府に嫌がらせを受けた理由としては、吉田藩は将軍家に近い譜代大名であること、さらには尊皇でなかったことがあげられます。

吉田城は明治6年(1873)の失火により多くの建物が焼失し、その後陸軍の連隊が置かれましたが、現在は市役所と公園になっています。吉田城の遺構といえるのは城壁のみです。現在、城址にある櫓は昭和29年(1954)の豊橋産業文化大博覧会を記念して再建されたものです。

鉄櫓
鉄櫓
鉄櫓
櫓から眺める豊川の流れ

吉田城の櫓の見学を終えて、再び旧東海道筋へ戻ることにしましょう。
城址公園を出ると、右手に堂々とした建物が現れます。豊橋の公会堂です。

豊橋公会堂

戦前の昭和6年(1931)に市制25周年を記念して建設されたもので、現在国の登録有形文化財(平成10年に登録)に登録されています。
外観はロマネスク様式を基調とし、スペイン風の円形ドームを持ち、市の将来を象徴して四羽の鷲がつけられています。
正面から見るファサードは立派なものです。

鷲のレプリカ

公会堂を右手に見ながら国道一号線を跨ぐ横断歩道橋を渡りましょう。歩道橋の下には路面電車の線路が走っています。歩道橋を渡り、旧東海道筋へと進んでいきましょう。

途中の歩道脇に大手門跡の標が置かれています。かつて御城下であった頃、この場所に城への入口である大手門が置かれ、一般の旅人たちはここから先へは入ることができなかったのです。

大手門跡

大手門跡を過ぎて進んで行くと、呉服町の信号交差点にさしかかります。ここで再び、旧東海道筋に合流します。
呉服町交差点で右へ曲がります。すると路面電車が走る広い道へと出てきます。この道は田原街道と呼ばれています。田原街道に出てくる手前に吉田宿問屋場跡の標柱が置かれています。

問屋場跡が出てくるということは、この界隈が吉田宿のほぼ中心にあたる場所にさしかかったということになります。私たちは田原街道を横断して、さらに宿内を西へと進んで行きます。このあたりの地名は「札木」と呼ばれています。



交差点を渡るとすぐ右手に「喜の字」という蕎麦屋があり、その先に創業100年の歴史をもつ「丸よ」という老舗の鰻屋さんが店を構えています。その「丸よ」の店先に本陣跡の石碑と案内板が置かれています。

本陣跡碑

石碑を眺めつつ、鰻の蒲焼のいい匂いに誘われてつい店に入ってしまいそうです。三河の鰻は極上なので、さぞお高い鰻なのでしょう。
案内板によると、江戸時代の清須屋与右衛門本陣の跡地で、東隣には江戸屋新右衛門の本陣が二軒並んで建っていた、とあります。もう一軒の本陣は、隣の喜の字という蕎麦屋さんのところにあったのでしょうか?

吉田宿は、「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が……」 とか、「御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い………」と、いった俗謡が良く唄われくらいに、飯盛女の多かったことで知られる宿場でした。そして飯盛旅籠はこの札木周辺に集中していたといわれています。

本陣跡碑から50mほど進んだ左側の民家の壁面に脇本陣跡のプレートが嵌めこまれています。

話は変わりますが、豊橋の名物は「菜めし田楽」です。本陣跡からほんの僅かな距離に「若松園」という名前の店で食べることができます。またその先の「きく宗」でも「菜めし田楽」を食べることができます。きく宗は文政年間の創業の老舗で、菜めし田楽定食が1785円です。

※菜めし田楽(なめしでんがく):豆腐、サトイモ、こんにゃくなどに味噌をつけて、竹の串にさして炭火であぶったもの。
菜はだ大根の葉のことです。豊橋はからっ風が強く、古くからたくわんの生産が盛んに行われています。その大根の葉をご飯に混ぜたもの。

道筋は松葉公園の交差点を右折して北へ向きを変えます。そのまま北へ直進すると上伝馬交差点にさしかかります。この交差点を渡ると「西総門」のミニチュアが置かれています。

西の総門のレプリカ

吉田城の西総門があったところで、西総門は吉田城の西門であると同時に、吉田宿の京方の入口なので、吉田宿はここで終わります。なんともクネクネした吉田城下の道筋でした。



吉田城下そして宿場を抜けて、いよいよ豊川に架かる豊橋を渡り御油へと進んでいきましょう。

その豊橋を渡る前に神明社へと立ち寄ることにします。実は神明社境内には芭蕉の句碑が置かれています。
吉野紀行の途次、最愛の弟子に会うため吉田宿に泊まったその夜の句だそうだ。
「寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき   芭蕉」

神明社とあれば、当然御祭神は天照皇大御神、そして相殿には豊受姫大神であることから、伊勢神宮とは深い関係をもつ神社です。

《豊橋(とよばし)》
最初の架橋は天正18年(1590)に溯ります。当時、大橋120間(約220m)と言われた大きな木橋で「吉田大橋」とも呼ばれていました。江戸時代を通じて幕府が直接管理した「御用橋」で、明治維新までに33回も修理されています。
明治12年に「豊橋(とよばし)」と改名し、豊橋市の市名の由来となっています。大正5(1916)に木橋から鉄橋に付け替えられています。現在の橋は昭和64年に架橋されたものです。
現在の「豊橋」の上流の国道1号線の橋は「吉田大橋」と呼ばれています。豊橋の橋上からは先ほど訪れた吉田城の櫓を眺めることができます。街道時代に西からやってくる旅人も、橋上から見る櫓を眺めながら吉田城下にに到着したことを喜んだのではないでしょうか。

さあ!吉田宿を後に旅をつづけることにいたします。吉田宿内の道筋はとにかく良く曲がりましたが、豊橋を渡るとその道筋は面白味のない真っ直ぐな道がつづきます。旧東海道筋はここから三河国府の手前まで国道1号線にほぼ並行して、かなり長い区間が残っています。

満々と水を湛えて流れる豊川に架かる豊橋を渡ると、東海道はすぐ左へと曲がります。江戸時代には橋の袂に吉田湊があり、伊勢に向かう旅人を乗せた船が出ていたといいます。
数分歩くと「ういろう」と書かれた看板を掲げる和菓子屋があります。ヨモギ入りのういろうがこの店の売りです。

このういろう店のすぐ先の聖眼寺境内にも芭蕉の句碑が置かれています。この句碑は「松葉塚」と呼ばれているのですが、
芭蕉の呼んだ句の中に、その意味が隠されています。
「ごを焼(た)いて 手拭あぶる 寒さかな 芭蕉」

実は「ご」の意味は松の枯葉のことで、このことから「松葉塚」と呼ばれているそうです。
塚は明和6年に芭蕉の墓がある近江・大津の義仲寺から、墓の土を譲り受けて塚を再建したものです。また碑に刻まれた「芭蕉翁」の文字は、あの臨済宗の中興の祖である原の白隠によって書かれたものです。

この句は芭蕉が貞享4年(1687)の冬、愛弟子の杜国の身を案じて渥美半島へ向かう途中に詠んだものです。句の意味は「旅の宿に泊まって、松葉を焼いて濡れ手ぬぐいをあぶって乾かしていると、寒村の寒々とした旅情を感じる」

聖眼寺からわずかな距離に置かれているのが、お江戸から数えて74番目の「下地一里塚跡碑」です。
 


旧街道は右にカーブし、豊川から離れていきます。真っ直ぐのびる道を進んで、横須賀町交差点を過ぎると「瓜郷(うりごう)町」に入ります。その道の右側に史跡境界の標柱と案内が置かれています。どういう意味かというと、国の史跡指定地として、指定した範囲を表示したものです。
この場所から右に114mほど入ると、瓜郷(うりごう)遺跡の大きな石碑がある公園にでます。

瓜郷遺跡
瓜郷遺跡
瓜郷遺跡

遺跡は静岡の登呂遺跡よりも古く、弥生時代中期(今から二千年前)から後期にかけての住居跡で、竪穴式住居が復元されています。遺跡は豊川の沖積地の中でもやや高い自然堤防の上にあり、その当時は海岸に近く遺跡の北には湿地が広がっていたと推測されています。 

戦時中の食料増産のため、昭和11年の江川の改修工事の際、偶然発見され、昭和22年から27年にかけて5回、発掘調査が行われ昭和28年11月に国指定史跡になりました。 
出土したものは瓜郷式細頸壺瓜郷式土器、磨製石斧などで、豊橋市美術博物館に保管されています。

◇登呂遺跡
静岡市駿河区にある弥生時代の集落・水田遺跡。
昭和27年に国の特別史跡に指定。弥生時代後期に属し、1世紀頃の集落とされる。

街道に戻り小さな川を渡りますが、これが江川です。江川に架かる橋は鹿菅橋(しかすかはし)です。



鹿菅橋から500mほど歩く街道の左側豊橋魚市場(魚河岸)が現れます。豊橋魚市場は地方卸売市場です。愛知県知事の認可を受けて「株式会社豊橋魚市場」が開設者となり、卸売業者として営業しています。
→中央卸売市場とは開設者が都道府県、市など。

◇豊橋魚市場の歴史
明治10年(1877)豊橋市魚町でそれぞれ営業していた数軒の魚問屋が合同して「豊橋魚問屋」を設立
明治12年(1879)株式条例に基づき株式組織に改め「豊橋魚鳥株式会社」となる
明治40年(1907)に2社に分裂
①豊橋魚鳥株式会社
②丸中荷受会社
大正2年(1913)当時の市内有力者の仲介により再び合併し、社名を「株式会社豊橋魚市場」に変更
昭和41年(1966)手狭になった魚町から現在地の下五井町に移転して現在に至る
◇総敷地面積:9860坪

この辺りが豊橋市のはずれで、少し歩くと標識は小坂井町になります。豊橋市ともうお別れです。そして前方に堤防が見えてきます。この辺りから歩道がなくなります。そしてそこに流れている川は「豊川放水路」です。

豊川は古(いにしえ)の時代には飽海川(あくみがわ)、江戸時代に吉田川になり、明治以降は「とよがわ」と呼ばれるようになりました。川の距離が77キロと短いため、大雨が降るとすぐに洪水が起きました。江戸時代に川下の吉田宿を洪水から守るため、霞堤と呼ばれる、不連続の堤防が造られましたが、その後も災害は何回も起きました。 
明治に入り、豊川放水路の計画が起案され、昭和40年にやっと完成しました。 

旧街道をそのまま直進すると豊川放水路に架かる高橋があります。しかしこの高橋は歩道帯がなく、車の往来も激しいため歩行に際して危険が伴います。このためちょっと遠回りになりますが、いったん旧街道を逸れて国道1号線へと迂回し、小坂井大橋を渡り「菟足神社(うたり)」へと向かうことにいたします。

旧街道から右へ折れると、魚市場の場外市場が道筋の左右に現れます。私たちがこの辺りにさしかかる時間が午後ということで、市場の取引も終わり場内、場外とも閑散としています。場外市場を抜けると国道1号線に合流します。



前方に豊川放水路に架かる小坂井大橋が見えてきます。緩やかな坂道を登り小坂井大橋の東詰にさしかかると、ゆったりとした川の流れが眼の前に現れます。そんな光景を眺めつつ下って行くと、左側にニチレイ豊橋物流センターがあります。 
今回は旧街道の高橋を渡りませんが、旧街道に面したニチレイの門の先に、数本の松が植えられた場所があり、「子だが橋」と書かれた石碑が建っています。 

傍らの説明によると、今から千年前には神社の春の大祭の初日、この街道を最初に通った若い女性を生贄として捧げるという、人身御供の習慣があったといいます。ある年の祭の初日、贄(いけにえ)狩りの人が橋を見ていると、最初の若い女性が通りかかました。これで決まりと思ったが、女性は祭りを楽しみに帰ってきたわが子だった。 
こんな惨いことはないと、狩り人は苦しみ迷ったが、最後には自分の子だが仕方なしと決心し、神への生贄にしてしまいました。それから後、この橋を「子だが橋」と、呼ぶようになったと伝えられています。

東海道を歩いているとこれに似た話はいたるところにあります。思い起こせば、富士川の雁堤(かりがねつつみ)でもこれに似ている噺をした記憶があります。

小坂井大橋を渡るとまもなく国道1号の300kmポストが歩道脇に置かれています。思えば遠くにきたもんだ! といっても京都三条まではあと195kmです。
宮下交差点で国道151号(伊奈街道)を越えると、左手前方に菟足(うたり)神社の鎮守の森が見えてきます。

菟足神社本社殿
社殿の中の莵

菟足(うたり)神社は、延喜式神名帳に載っている式内社で、祭神の菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)は大和朝廷に貢献した武勇に秀でた葛城襲津彦の四世孫にあたる人物です。 
穂国(東三河の前名)の国造を務めた菟上足尼命は、雄略天皇時代に平井の柏木浜に祀られましたが、天武天皇白鳳十五年にこの地に遷座されたとあります。

また古代、秦の始皇帝が蓬莱島を求めて派遣した徐福一行は熊野に上陸し、その後当地に移り住んだという、徐福伝説が残る神社で、中世には菟足八幡社と呼ばれていました。神殿内には「菟」の神輿が安置されています。古くから開けたことは間違いないようで、境内の隣には貝塚がありました。 

また贄を奉げる風習はあったようで、今昔物語や宇治拾遺物語に三河の国守大江定基(赤坂宿に縁のある人物)が出家し寂照という名になり、三河の風まつりを見たところ、猪を生け捕り生きたままさばく様子をみて「早くこの国を去りたい」と思うようになったと書かれています。 

前述の「子だが橋伝説」に登場する神社はこの菟足神社で、現在は十二羽の雀を生け贄として神に捧げているといいます。

菟足神社を辞して、本日の終着地点のJR飯田線の小坂井駅へ向かうことにしましょう。駅までは400mの距離です。本日はJR二川駅を出発してここ小坂井駅までの12.2キロを完歩しました。

私本東海道五十三次道中記 第27回 第1日目 白須賀宿から二川宿(本陣)
私本東海道五十三次道中記 第27回 第3日目 莵足神社から御油そして赤坂へ

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私本東海道五十三次道中記 第27回 第1日目 白須賀宿からJR二川駅前まで

2015年08月24日 09時30分40秒 | 私本東海道五十三次道中記


前回26回の旅では天竜川袂の東詰めから始まりました。暴れ川と呼ばれた天竜川を渡り、西詰の中町を抜けて浜松市内へと辿ったのが第一日目。そして浜松城を見学し、ひたすら長く続く街道を西へと進み、舞阪宿を抜けて今切の渡しの渡船場跡を見てから弁天島駅へ着いたのが第二日目。
いよいよ三日目は弁天島駅前を出立し、新居の関所のある新居宿を抜けて、ここ白須賀宿手前の港屋食堂に到着しました。
総歩行距離32㎞を踏破した前回の旅でした。

さて27回目を迎える今回の第一目目は白須賀宿からJR二川駅までの約9.3㎞、第2日目にJR二川駅前から吉田宿(現豊橋)を抜けJR飯田線の小さな駅、小坂井駅までの約12.2㎞、最終日の三日目にJR小坂井駅から御油宿そして赤坂宿を抜けて東名高速の音羽蒲郡インター至近の「えびせん共和国」までの約11㎞、総歩行距離約32.7.㎞を歩きます。

その間、32番目の白須賀宿、33番目の二川宿、34番目の吉田宿(現在の豊橋)、35番目の御油宿そして36番目の赤坂宿と5つの宿場を辿ります。そしてこれまで歩いてきた遠州とお別れし、いよいよ三河の国へと足を踏み入れていきます。

新居宿からここ白須賀宿手前までの街道は田舎道を歩いているんだなあ、と感じる風情が漂っていました。長くつづく松並木は街道らしい雰囲気を味あわせてくれました。街道の遥か左手には遠州灘が広がっているのですが、街道からは残念ながら遠州灘の大海原の景色をみることができません。

本日の出発地点の港屋食堂からほんの僅かな距離を進むと旧街道筋へ戻ります。旧街道に面して蔵法寺の山門が構えています。

蔵法寺の山門

街道から緩やかにつづく参道を進むと山門が置かれています。当寺は江戸開幕前の慶長3年(1598)に曹洞宗の寺として開基され、その後、慶長8年(1603)には家康公から23石を賜り、寺勢は盛んとなりなんと寺領は街道を跨って遠州灘の海岸まで達していたといいます。江戸時代を通じて、将軍代替わりに際しては、寺の住職は朱印状書き換えのため江戸に参府したといいます。

本堂には海底から引き揚げられたという秘仏の「潮見観音(聖観音)」が祀られています。この潮見観音は60年に一度開帳されます。ご本堂の扁額は有栖川宮熾仁親王御筆です。(潮見大悲殿の書)

この潮見観音(聖観音)にまつわる話があります。その話は江戸時代の宝永4年(1707)10月4日に起こった宝永大地震と深く関係があります。尚、浜名湖の面積が広がり、今切を出現させた地震は戦国時代の明応7年(1498)に起こった明応地震です。
宝永の大地震が起こった当時の白須賀宿は現在の場所ではなく、海岸に近い平地に置かれていました。そんな平地に置かれた宿場の本陣に地震の前日の10月3日にたまたま宿泊していた大名家がいました。その大名家は備前岡山31万5千石の藩主の池田家宗家二代・綱政公です。

その池田綱政公の夢枕に潮見観音(聖観音)が現れ、このようにお告げになられました。「大危難あり、早々にこの地を去れ」
これを聞いた綱政公は夜が明けるのを待ちかね、10月4日の早朝に本陣を立ち、潮見坂を上りきった時に、突如として大地震が起きたのです。これが宝永の大地震です。この地震により白須賀宿は津波に流され、もちろん本陣も跡形もなく消え去りました。潮見観音(聖観音)のお告げによって九死に一生を得た綱政公は国元に戻った後、城内の慈眼堂に潮見観音(聖観音)を祀り、敬ったといいます。

池田宗家の藩主については、三代継政公と駿河原宿の松蔭寺(しょういんじ)の「白隠の擂鉢松」の話があります。ここでは詳しく述べませんが、備前岡山藩主の池田公は東海道の宿場にいろいろとエピソードを残すお家柄なのでしょうか。

蔵法寺本堂

また、海上安全を願う漁民の習わしとして、遠州灘を行き交う船は必ず帆を下げて観音様の名前を念じて通り過ぎることとされていたので、またの名を「帆下げ観音」とも呼ばれました。



それでは蔵法寺の境内を抜けて、まずは32番目の宿場町である「白須賀」へ向かうことにしましょう。

境内を抜け、当時の街道を彷彿させるように木々が鬱蒼と茂る坂道を少し登っていきましょう。勾配はそれほどキツクないのですが、潮見坂(600m)を登っていることを実感できます。勾配が緩やかになると、左手にちょっとした広場が現れます。

その広場の奥に目立たない存在で1本の松の木が植えられています。ここが「うないの松」でかつてここにあった大松の切り株と、この松をよんだ久内和光の歌碑があります。この場所も蔵法寺の境内です。※久内和光:当山第十六世嘯雲光均尚のこと。

うないの松

歌碑には次のような歌が刻まれています。
「いにしへにありきあらずは知らぬども あてかた人のうなひ松かぜ」
「うない」とは「うなじ」のことで、松があった位置が潮見坂の首にあたるところから名付けられました。

説明版によると「駿河守護であった今川義忠公(1436~1476)が応仁の乱の渦中、文明8年(1476)4月6日、遠江平定を終えて帰路に就く途中、ここ潮見坂(史実によると現在の静岡県の菊川で討たれたとなっている)で敵に討たれ、その亡骸を葬った(胴塚)上に植えられた松にて、昔から枝一本折っても「オコリ」をふるったと恐れられている故、ご注意下さい。」と書いてあります。尚、義忠は今川義元の祖父にあたり、駿河今川氏六代目の当主です。
※オコリ:間欠熱の一つ。隔日または毎日一定時間に発熱する病で、多くはマラリアを指します。

「うないの松」から50mほど進むと左手から道が合流してきます。これが新道です。この場所から下の方角を見ると海が見えるのですが、まさに「潮見」の場所といったところです。

潮見坂から遠州灘遠望
広重の白須賀景

余談ですが室町幕府六代将軍の義教は富士遊覧の旅で、この場所から富士を眺めたといいます。そしてこんな歌を詠んでいます。
「いまははや 願い満ちぬる 潮見坂 心惹れし 富士を眺めて」ほんとうに富士山がみえるのだろうか?

潮見坂は街道一の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されています。西国から江戸への道程では、初めて太平洋や富士山の見える場所として、旅人の詩情をくすぐった地です。安藤広重もこの絶景には関心を抱いたようで、遠州灘を背景にその一帯の風景を忠実に描いています。

さてこの潮見坂ですが、現在はそれほど急峻な坂道ではありません。しかし街道時代は旅人たちを悩ますかなりの登り坂だったようです。

そんな急な登り坂であるがゆえに、こんな伝説が残っています。それは「豆石伝説」と言われています。

この豆石伝説は2つのバージョンがあります。いずれの話も、この急峻な潮見の登り坂を上るにあたって「楽をしたい」と思う気持ちを表したものです。

《豆石伝説(まめいし)》その壱
昔、東海道での難所の1つといわれた潮見坂に、珍しい豆石というものがありました。そして、これを拾った人には幸福が訪れると伝えられ、街道を往来する多くの旅人は、潮見坂にやってくると、この豆石を探し求めたそうです。
ある時、わがままなお姫様が江戸から京への旅に出ました。しかし、東海道の長い道中のため、旅の疲れから途中で駄々をこねてはお供の者は、そのつどいろいろとなだめながら連れてまいりましたが、
潮見坂にさしかかると、長くて急な上り坂のため、いよいよ動こうとはしませんでした。
そんなお姫様に「この潮見坂には豆石というものがあります。そして、これを拾った人はみんな幸福になれるといわれています。どうかお姫様もよい人に巡り会って幸福になれますように、豆石をお探しになってみたらいかがでしょうか。」
と、お供の者が言うと、お姫様も、「そうか、これはなかなかおもしろい。それでは、わたしもそれを拾って幸福になりたいものだ。」
と、早速喜々として豆石を求めて坂を登ったと伝えられています。

《豆石伝説(まめいし)》その弐
ある時、初老の夫婦連れが京見物のために江戸から上ってきました。二人は長旅の疲れも出て、新居宿からは駕籠に乗って吉田宿(豊橋)まで行くつもりでした。ちょうど、潮見坂ののぼり口に来たところで、2つの駕籠が止まり地面に降ろされました。
2人は何事かと思い駕籠かきに尋ねました。
すると、「ここは白須賀宿の潮見坂といって、世にも珍しい豆石というものがあります。そして、この豆石を拾うとだれにも幸福がやってくるといわれます。そこで、お客さんにも幸せになっていただくよう、これから歩いて豆石を探していただきたいのです。」
と言い、坂上まで歩くことをすすめました。そこで、2人は「それなら私たちもそれを拾ってもっと幸せになってみたい」
と、手を取り合って坂をのぼっていきました。潮見坂は当時難所でしたので、駕籠かきもこのように豆石の話を客にすすめては、この坂で自分たちの疲れをいやしたといわれています。

合流地点からはそれほど急な坂道ではありません。そんな坂道を進むと、もう白須賀宿歴史拠点施設「おんやど白須賀」に到着です。街道の左手奥に仕舞屋風の建物が現れます。

おんやど白須賀

※東海道宿駅開設400年を記念して、白須賀宿の歴史と文化に関する知識を広め、資料の保存と活用を図るため設置されました。
●開館時間:10:00-16:00
●休館日:毎週月曜日
●入館料:無料
●☎053-579-1777
●トイレの設備あり

館内はそれほど広くはありませんが、ここ白須賀宿の歴史に関する資料を展示しています。当時の街道の様子を描いたジオラマや甲冑などが展示されています。
また、冷たいお茶が飲める無料のサーバーも備わっているので咽喉を潤すこともできます。





「おんやど白須賀」から少し歩くと右手に白須賀中学校が現れます。そして道を挟んで「潮見坂公園跡」という石碑が建っています。

>「潮見坂公園跡」

この場所は天正3年(1575)の長篠の戦いで勝利した信長が尾張に帰る時、家康公が茶亭を新築して信長をもてなしたところと伝えられています。

長篠の戦い:信長・家康軍と武田勝頼との戦い。信長軍は3000丁の鉄砲で三段撃ちを考案し武田の騎馬隊を大敗させました。勝頼はその後、天正10年(1582)に信長の甲州征伐で追い詰められ、天目山で自害しました。

また明治天皇が江戸(東京)で行幸される途中に休まれた場所です。現在は公園ではありませんが、大正13年4月に町民たちの勤労奉仕によりこの場所に公園が造られ、その時に明治天皇御聖跡の碑が建てられました。

その公園の跡地に白須賀中学校が置かれています。この場所には明治天皇御聖跡碑の他にたくさんの石碑が置かれているので「潮見坂上の石碑群」と呼ばれています。潮見坂を登ってくる途中に「チラッ」と見えた遠州灘の景観をここからも見えるはずですが……。

さあ!それではお江戸から数えて32番目の宿場町「白須賀」の宿内へと進んでいきましょう。



私たちは東から京へのぼる旅をつづけていますが、逆に東下りの旅人達は三河の国から遠江に入って最初の本格的な坂道を登り、潮見坂上から広々とした遠州灘を眺めながら、いよいよ東国が近づいてきたと実感したのではないでしょうか。
潮見坂を登りきると、道は緩やかな下り坂へと変ります。そして白須賀の東町へと入って行きます。

この東町あたりはまだ宿内ではありませんが、道筋には連子格子の家がところどころに並び、かつての宿場の面影を残しています。とはいえ、期待したほどの古い家並みは多くありません。

さてここ白須賀の宿場は江戸時代の宝永4年(1707)以前は潮見坂の上ではなく、坂下の元町に置かれていました。実はこの年に起こった宝永大地震で宿場は大津波に襲われ壊滅してしまい、翌年に再度津波の被害に遭わないよう、坂上の現在地に宿場が移設された歴史があります。

さらに道を下って行くと白須賀宿の東の入口にあたる曲尺手(かねんて)にさしかかります。曲尺手とは、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていました。 

曲尺手手前の右角に「鷲津停車場往還」と刻まれた道標があります。鷲津は新居町駅の次の駅のことです。この道は鷲津駅に繋がっているのでしょう。道標には駅までの距離が書いてあります。それでは白須賀宿の中心「伝馬町」へと進んでいきましょう。

白須賀宿は遠江国の西端に位置し、東海道五十三次の32番目の宿場です。お江戸日本橋から70里22町(約275km)の距離にあります。

宿場中心の伝馬町へ入っていきますが、宿場内を貫く街道の家並みには古さを感じさせるものはありません。それでもこれまでもいくつかの宿場町で見てきたような江戸時代の屋号を記した看板が家々に掲げられています。

天保14年(1843)に編纂の東海道宿村大概帳によると、白須賀宿は東西十四町十九間(約1.5km)で加宿である隣の境宿村を含めて、人口は約2704人、家数は613軒で、本陣は1軒、脇本陣も1軒、旅籠屋は27軒の中規模な宿場でした。

静かな雰囲気を漂わせる宿内を進んでいくと、僅かながら店舗が現れるエリアへと入ってきます。そんなエリアの一画にあるJA(農協)のはす向かいの美容院と隣のお屋敷の間に本陣跡の説明版が置かれています。白須賀宿の本陣職は大村庄左衛門で、本陣の規模も建坪が183坪、畳敷231畳、板敷51畳と大きなものでした。本陣跡の左隣が脇本陣跡です。
この辺りが白須賀宿の中心といった場所なのですが、かつての宿場を感じさせる歴史的な建造物は残っていません。

宿の中心を過ぎて白須賀駐在前信号交差点を渡ると、すぐの右側の家の角に「夏目甕麿(なつめみかまろ)邸址と加納諸平(かのうもろひら)の生誕地」の石碑が置かれています。夏目甕麿は伊勢松阪の本居宣長の門下に入り、国学の普及に努めたという人物です。加納諸平は、甕麿の長男で紀州和歌山の藩医の養子となり、晩年には紀州国学者の総裁となったという人物だそうです。



さらに道を進んで行くと、左側に「火防地」にさしかかります。宝永4年の大津波によって宿場が高台に移り、これ以降津波の心配はなくなったのですが、こんどは高台であるが故に、冬になると西風に悩まされます。

藁葺屋根の家々が並んでいたため、いったん火災になると、風にあおられ、あっというまに大火になってしまいます。その予防策として考案されたのが、「火防地」で宿場内には三地点、六ヶ所に設けられていました。

火防地跡

火防地は間口二間(3.6m)、奥行四間半(8.1m)の土地に、常緑樹の槙(まき)を10本ほど植えたといいます。

火防地の先の右側に「庚申堂」があります。天和元年(1681年)に立山長老に建てられましたが、現在の建物は天保12年(1841年)に再建されたものです。この地方にある庚申堂の中では最も大きく、堂々たる鬼瓦が目を引きます。
そしてお堂の前には「見ざる、聞かざる、言わざる」の3匹の猿がどういうわけだか2匹と1匹に分かれて像が置かれています。

庚申堂の先の右側にもかつて「火防地」があったことを示す小さな石柱が置かれています。



道筋を辿って白須賀宿の西端へと進んでいきましょう。現在は西町という地名になっていますが、このあたりは江戸時代には境村で白須賀宿同様、旅籠を営むものがいて、白須賀宿の加宿になっていました。

ということはまだ白須賀宿内をでていないのですが、街道時代には加宿と本宿が一体となって運営されていたのでしょう。そして少し歩くと右側の古い家の前に夢舞台東海道 境宿の道標が置かれています。

かつての境村にはこんな話が残っています。

《勝和餅(かちわもち)》
時は天正18年(1590)、太閤秀吉が小田原攻めへの途中、境宿(駿河と三河の国境あたり)の1軒の茶店に立ち寄りました。
茶店には93歳の爺と82歳の婆が暮らしていましたが、生業らしいことはしていなかったので、団子に「そてつの飴」を入れて餅にして、木の葉に包んで売っていました。この餅を秀吉に差し上げると「この餅は何というものか」と尋ねたといいます。
すると老夫婦は「これは、「せんく開餅」と申します。
その昔、後醍醐天皇の御時、赤松円心という御方がこの餅を戦場へお持ちなされたと承っております。「そてつの飴」が入っておりますから、腹持ちがよいと、先祖が書き残しております。
私どもも、これによって生命をつなぎ、長く安楽に暮らしております」と答えました。

秀吉は「これはめでたい餅であろうぞ。長命のめでたいことはよく判ったが、お前はよくも猿に似ていることよ」と、しきりにお笑いになりました。この年の八月に秀吉は勝ち合戦で帰国の折、またまたこの所に床几を御立てなされて、婆に御褒美をくださいました。
そして、「今度はこの餅を『猿がばばの勝和餅』と申せ」と仰せられました。

境宿は別名、番場(ばんば)と呼ばれていました。そのため「猿がばんば(番場)の勝和餅」とも言われています。そして境宿のお祭りの若衆のことを、今でも「勝和連」と呼んでいます。

戦国時代のことですから、白須賀の町は坂下にあった頃です。そう考えると、白須賀本宿から離れていた境宿にはこの茶屋1軒しかなかったのでしょう。秀吉の小田原征伐は、水軍を含めて総勢21万とも言われています。少なくとも数十万の軍勢がこの白須賀を通過して行ったことでしょう。尚、平成の世にあって、この勝和餅はもうありません。

尚、広重の東海道五十三次・二川之景は本来の二川宿ではなく、ここ「猿がばんば(番場)」の景色を描いているといわれています。

白須賀宿の西端に位置する境地区にはほんの少し古さを感じさせる家が残ってます。ただ江戸時代のものではないようです。そんな一画に「高札建場跡」の小さな石柱が置かれています。建場ということは、茶屋があったことを意味しています。

江戸時代の宝永4年(1707)の大津波以前は坂下の元白須賀が宿場だったので、この辺りに旅人達の休憩場所である「建場」が置かれていたと思われます。そして、坂上に宿場が所替えになってから、境村が加宿となってからは建場が廃止されたと思われます。

さあ!間もなく白須賀宿の西の端にさしかかります。旧街道筋は左手からの道と合流し、道幅が広くなります。そしてその道筋の左側に「村社・笠子神社」の参道入り口がありますが、この笠子神社の参道入り口辺りで白須賀宿が終わります。



歩き始めて3キロを過ぎて信号交差点を渡ると、小さな川にさしかかります。川幅は2間(3.6m)ほどの川で、架かる橋は川幅を若干上回る4mという小さな橋です。

そんな小さな川の名は「境川」と呼ばれています。古来、三河遠江の間で境界を巡って何度となく戦が繰り広げられていました。そしてこの二つの国の境となっているのが境川で現在でも静岡県と愛知県の県境をなしています。

県境の表示

それにしても静岡県は広かったですね。伊豆の国から駿河そして遠江と3国に跨って旅をしてきました。なんとその距離約45里(180キロ)もあったんです。昔の人もこの距離を5日から8日ほどかけて旅をしたのでしょう。しかし、その間には富士川、興津川、安倍川、大井川そして天竜川と大河が流れ、これらの川が止められれば更に日数が加わり、難儀をしたはずです。

そんなことを考えながら三河の国・現在の豊橋市へと入っていきましょう。境川橋を渡り、左下の畑の中を見ると、石仏が一体ぽつねんと立っています。祠もなく寂しげな雰囲気を漂わせています。

旧東海道筋は一里山東交差点で国道1号と合流し、ここから二川ガード南までの4キロにわたって国道1号に姿を変えています。一里山東交差点からすぐに一里山交差点にさしかかります。この辺りは江戸時代には立場茶屋があったところのようです。しかし現在、この場所には民家はなく、変化のない無味乾燥な景色が広がっています。そんな殺伐とした道筋の脇の小高い場所に崩れた祠の中に3体の馬頭観音が収まっています。

そしてちょっと左に目を移すと、一里塚の看板が置かれています。ということは馬頭観音が置かれている小高い場所こそが一里塚の盛り土だったわけです。そしてこの小高い盛り土を「一里山」と呼んでいるのです。この一里塚は「細谷一里塚」と呼ばれ、江戸から数えて71番目にあたります。

江戸時代にはこの一里塚や松並木は吉田藩(現豊橋)の管理下に置かれていました。ところが明治に入り、政府は一里塚を民間に払い下げたことで、南側は宅地に変ってしまいました。現在残る北側の塚(土盛り)は東西10m、南北14m、高さ3mの規模をもっていますが、当時の姿のままなのかは定かではありません。

さあ!ここから4キロ先まで国道1号線に沿って歩いていきましょう。幹線道路のためか、大型トラックがものすごいスピードで走り抜けていきます。そして街道を歩いていて目に入ってくるのは広々とした畑ばかりです。この辺りの畑ではキャベツ栽培がさかんに行われています。広々とした景色が広がる中を東海道の道筋は二川宿へと延びています。

街道時代も一里山から二川宿までは民家がまったくない松並木が延々と続いていた道筋だったようです。そんな寂しい道筋には盗賊がたびたび現れたといいます。このため江戸道中記には「夜道つつしむべし」と記述され、夜間の通行を慎むよう促していました。平成の世にあっても、この区間の両側には広々とした畑が広がり、店らしい店はほとんどありません。





マップ⑤、⑥、⑦と辿りマップ⑧へと入ってきます。
弥栄下、三ツ板を通り、豊清町茶屋ノ下、籠田(この信号手前にサークルKがあります)、三弥町交差点を過ぎると、左側に大きな工場が現れてきます。シンフォニア・テクノロジーという会社です。この工場を眺めながら歩いていると、右側には新幹線の線路が走っています。



長かった国道一号沿いの行程は二川ガード南交差点でやっと終わります。交差点を右折し、新幹線の高架下をくぐり、緩やかに左へカーブしていくと梅田川に架かる筋違橋にさしかかります。そしてその先の東海道線の踏切を越え、すぐ左に曲がると「二川宿」の町並みが見えてきます。お江戸から33番目の二川宿に到着です。

二川宿

二川宿
家数は328軒、本陣、脇本陣各1軒、人口1468人、33番目の宿場です。2ヶ所の枡形と当時の町割がほぼ残り、本陣や旅籠、商家が宿場の様子を今に伝えています。
尚、二川宿の宿内の距離は六町三十六間(約700m)、加宿の大岩町は五町四十間(約600m)の長さをもっていました。

宿場の成立は慶長6年(1601)の東海道整備と同時期ですが、その当時二川村は小さく、問屋業務を二川村だけで担うことが難しく、隣の大岩村と共同して行うことが幕府から命じられました。しかし共同業務とはいえ、大岩村とは1.3㌔も離れているため、幕府は正保元年(1644)、二川村を西に、大岩村を東に移動させて両村を接近させ、大岩村を二川宿の加宿とし大岩町に問屋を設けました。これが西の問屋といわれるもので、そして東問屋が西の問屋からさらに西よりに置かれました。
ということは西の問屋はもともとの二川宿の問屋場で、西の問屋場の西に置かれた東問屋は移動してきた大岩村の東問屋だったということなのではないでしょうか。

さあ!いよいよ二川宿です。宿内に入る手前に二川宿案内所があります。川口屋というタバコ屋さんですが、この建物の角に日本橋から72番目の一里塚跡が置かれています。

川口屋
一里塚跡
一里塚跡

一里塚から少し先を右折すると曹洞宗の十王院というお寺があります。天正13年(1583)に私庵として始まり、十王堂とも念仏堂とも呼ばれています。境内には寛永19年(1632)に建てられた、二川新町開山の石碑があります。碑文には「後藤源右衛門は二川宿開宿当時の本陣と問屋を勤めた人物で、寺を開いた一翁善得はその祖である」と書かれています。

そして街道を進んで行くと、右側に南無妙法蓮華経と書かれた大きな石碑が現れます。
日蓮宗の妙泉寺の入口です。当寺は貞和年間(1345~50)に日台上人が建てた小庵でしたが、寛永~明暦(1624~58)頃観心院の日意上人が信徒の助力を得て再興し、さらに万治3年(1660)現在地に移転して山号を延龍山と改めたといわれています。
街道から少し奥まったところに堂宇を構えるこの寺の境内には芭蕉の句碑が置かれています。
紫陽花塚と呼ばれるもので、寛政10年(1798)の建立です。句碑には「阿ちさゐや藪を小庭の別座敷」と刻まれています。
※この句は元禄7年(1694)に江戸深川で詠んだものです。

この辺りの街道沿いには間口が狭く、奥行きのある古い家が処々に散見されます。お江戸日本橋を出立して、これまで32の宿場を辿ってきましたが、かつての宿場の雰囲気を色濃く残している光景をほとんど見ていません。
私たちはここ二川で宿場らしい雰囲気が漂う家並みにやっと出会えることができます。二川では街道時代の歴史的建造物の保全、修復、復元に力を入れており、商家、旅籠、本陣の建物が当時の姿のまま残っています。
街道沿いの家々の玄関先には白地で「二川」と染め抜かれた暖簾と一輪挿しの花が飾られて、現代の旅人たちの目を楽しませてくれます。ほんの少し街道時代にタイムスリップしたかのような気持ちになるかもしれません。

そんな光景を眺めながら進むと、道の右側に白壁に囲まれた二川八幡神社の鳥居が現れます。

当社は鎌倉時代の永仁3年(1195)に、鶴岡八幡宮より勧請し創建されたと伝えられています。その当時、毎年八月十日に行われていた湯立神事は、幕府から薪が下付され、幕府役人をはじめ多くの人々が集まり賑わったといます。(現在は十月にこの神事が行われているようです。)



八幡神社の鳥居を過ぎて小さな川を渡ると二川宿の入口にあたる曲尺手(かねんて)にさしかかります。道が折れ曲がる右角に古めかしい建物が連なっています。この建物は江戸時代から味噌やたまり醤油を造ってきた商家で、今でも「赤味噌」を製造販売する「東駒屋(商家駒屋)」です。この商家駒屋の脇には二川宿を南北につなぐ古道(瀬古道)があります。非常に趣のある古道で時間の流れが止まったような錯覚すら覚えます。

商家駒屋平面図

商家駒屋は二川宿で商家を営むかたわら、宿の問屋役や名主を務めた田村家の遺構です。平成15年に豊橋市指定有形文化財に指定され、その後、平成24年から26年の3年間で駒屋のすべての建物を江戸時代から大正の姿に修復・復元工事を行い、平成27年11月1日より一般公開されています。
◆開館時間:09:00~17:00
◆休館日:月曜日(祝日の場合は開館し、翌平日休館・年末年始(12月29日~1月1日)
◆☎:0532-41-6065

それでは二川本陣資料館へと進んでいきましょう。
その本陣資料館の東側に隣接して建つのが豊橋市指定有形文化財の旅籠屋「清明屋」です。清明屋は江戸時代の後期寛政年間(1789-1801)頃に開業した旅籠屋で、代々八郎兵衛を名乗っていました。
現在の建物は文化14年(1817)に建てられた旅籠屋遺構で、主屋(みせの間)・ウチニワ・繋ぎ棟・奥座敷が「うなぎの寝床」のように細長く連なっています。本陣のすぐ隣にあったことから、大名行列が本陣に宿泊した際には、家老など上級武士の宿泊所ともなりました。

清明屋平面図

二川本陣
二川本陣

私たちはこれまで武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江と辿ってきましたが、各宿場で本格的な本陣の遺構建築を見たことがありませんでした。脇本陣は舞坂で見学はしましたが本陣遺構の見学はここ二川が初めてなのです。

二川宿本陣は、文化4年(1807)から明治3年(1870)まで本陣職を勤めた馬場家の遺構で、改修復元工事により主屋・玄関棟・書院棟・土蔵等を江戸時代の姿にもどし、大名や公家など貴人の宿舎であった建物を一般公開しています。
旧本陣のご当主馬場八平三氏は、昭和60年に全国的にも貴重な歴史的建造物であるこの本陣遺構の永久保存と活用を願って、屋敷地を豊橋市に寄付しました。市ではこれをうけて同62年に二川宿本陣を市史跡に指定し、翌年から改修復元工事に着手し、同時に二川宿ならびに近世の交通に関する資料を展示する資料館を建設し、二川宿本陣資料館として平成3年8月1日に開館しました。

本陣平面図



本陣内
本陣内の展示
本陣内の展示
本陣玄関
本陣の付属施設

一連の建物が完全な形で保存されている貴重な建築物です。3年にわたり全解体・改修復元工事を行い、間取図の残る江戸時代末期の姿にもどし、平成17年から一般公開されています。

尚、江戸時代に公家、大名、幕府役人などが旅の途中に宿泊休憩した専用施設を本陣といいますが、現存するものは非常に少なく、東海道ではここ二川宿と草津宿のみです

●入館料:一般400(320)円、小中高生100(80)円 ( )内は30名以上の団体
●開館時間:09:00-17:00(ただし入館は16:30まで)
●休館日:月曜日(ただし、月曜日が祝日または振替休日の場合はその翌日)
●接待茶屋:江戸情緒あふれる本陣主屋座敷にて、有料で抹茶の接待が受けられます。
 1服(菓子付き)300円
 *毎週土・日曜日および祝日(振替休日を含む)午前10時30分~午後4時
☎0532-41-8580

二川宿本陣からほんの少し進むと道が若干折れ曲がった場所にさしかかります。ここが2つめの枡形です。この曲尺手の左側に高札場跡の石碑が置かれています。そして二川宿の西の出入口になっていた場所です。ここからが加宿大岩町に入ります。
大岩地区に入ると、古い家並みはほとんど現れなくなります。

曲尺手から右手にのびる道を進むと大岩寺が山門を構えています。曹洞宗の寺院で千手観音がご本尊です。もともとは岩屋山麓に堂宇を構え岩屋観音に奉仕した六坊の一つだったのですが、正保元年(1644)の二川移転とともに現在地に移転してきました。

枡形の右側の民家の前には西問屋場跡の石柱が建っています。この問屋場は江戸時代に大岩町の方にあったものです。

その先の四つ角にある交番の前には郷倉跡の石碑が置かれています。四つ角を右へ進むと突き当りに大岩神明宮があります。
神明宮は文武天皇弐年(698)に、岩屋山南に勧請したのが始めといわれ、正保元年(1644)の大岩村移転とともにここに遷座してきました。境内は広く鬱蒼とした木々に覆われています。

四つ角から街道を進むと、左側の「おざき」という店の前に立場茶屋の石碑が置かれていますが、本陣からわずか700mしか離れていないのに立場が置かれていたのでしょうか?



ここから道幅が少し広がり、ほんの僅かな距離でJR二川駅前に到着します。白須賀の潮見坂下の蔵法寺から9.3キロを完歩して第一日目を終了します。

私本東海道五十三次道中記 第27回 第2日目 二川宿駅前から豊橋のJR小坂井駅まで
私本東海道五十三次道中記 第27回 第3日目 JR小坂井駅から御油そして赤坂へ

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私本東海道五十三次道中記 駿府・府中宿から丸子(鞠子)宿へ(其の二)

2013年05月07日 18時47分17秒 | 私本東海道五十三次道中記
安倍川を渡り、手越を抜けて丸子(鞠子)宿への旅を続けます。少将井神社をあとに旧東海道筋はやや道幅を細めつつ丸子(鞠子)宿へと延びています。
それほど変化のない道筋を900mほど歩くと旧街道は現在の東海道と合流します。合流後、200mほどで再び東海道と分岐し、旧街道の入口にさしかかります。

旧街道に入ると右手にお堂が一つ見えてきます。古めかしいお堂は子授地蔵大菩薩と名付けられているようです。この辺りの地名がすでに丸子となっているので宿の入口はかなり近くなっているような気がします。

子授地蔵大菩薩
丸子への道筋

子授地蔵大菩薩のお堂から400mほどで大きな交差点にさしかかります。道なりに進むと交番があるので丸子宿への道筋を確認してみました。親切なおまわりさんが丸子宿の地図を示しながら、丸子(鞠子)宿の入口まで20分ほどの距離であることを教えてくれました。
ちょうどこの辺りが現在の丸子の中心街らしく、静鉄ストアやバスターミナルなどが次から次へと現れてきます。

交番から500mほど歩くと旧東海道は左へと分岐していきます。それまで太い道筋が街道らしい細い道へと変わっていきます。分岐地点からおよそ350mほど歩くと丸子(鞠子)宿の江戸見附跡の案内板が現れます。

丸子江戸方見附跡
丸子江戸方見附跡

駿府(府中宿)から5.7㌔の地点に到着です。古い街道筋に入ってきたのですが思ったより新しい街並みが続いています。交番でもらった地図の説明書きには丸子(鞠子)宿にはそれほど古い建造物は残っていないとのこと。田舎の街道筋にあるような古びた街並みを期待したのですが、ちょっと期待薄のようです。

いよいよ丸子(鞠子)宿へと入っていきます。細い道筋の両側は新しい住宅がつづき、古びた、寂れたという感じはまったくありません。な~んだ、と落胆気味に歩いていると、面白いことにすべての民家ではないのですが、家々の玄関口に〇〇屋、××屋と書かれた木の看板が掲げられています。
おそらく江戸時代には宿場内で旅籠や商店を営んでいた家柄だったことを示しているのではと勝手に想像した次第です。

軒先に下げられた屋号の木版

そして処々に本陣跡、脇本陣跡、立場跡などの標が立てられ、宿場町らしい雰囲気を醸し出しています。

丸子(鞠子)宿は江戸から数えて20番目の宿場町です。宿場の規模は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋24軒、宿内家数は211軒、人口は795人の東海道中で最も小さな宿場でした。

丸子下宿
街道脇の馬頭観音祠
丸子川の流れ
宿内の道筋
脇本陣跡
問屋場跡
本陣跡
お七里役所跡

江戸見附跡からおよそ750mほど歩いたところに丸子(鞠子)宿で最も有名なお店である「丁子屋」がまるで真打登場といわんばかりに現れます。
芭蕉が「梅わかな、丸子の宿のとろろ汁」と詠んだ有名な「とろろ汁」の店です。

丁子屋
丁子屋

茅葺屋根の古めかしい造りの店構えは丸子宿のランドマーク的存在です。なんと創業が慶長元年(1596)といいますから今から417年前のことです。
残念ながらこの日は別の場所で昼食を済ませてしまったため、名物とろろ汁は賞味せずに外観だけを見て去ることにしました。
尚、現在丸子には老舗の丁子屋以外にかなりたくさんのとろろ汁屋があります。特に観光施設として知られている「駿府匠宿」周辺には何軒もの「とろろ汁」のお店が並んでいます。

次回、丸子(鞠子)宿から次の岡部宿を歩く際にここ丁子屋を起点にするつもりです。その時に是非「とろろ汁」を食べてから出立するつもりです。

営業時間:11:00~19:00
定休日:毎週木曜日・月末のみ水曜と木曜が連休
電話番号:054-258-1066

駿府・府中宿から丸子(鞠子)宿へ(其の一)





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私本東海道五十三次道中記 駿府・府中宿から丸子(鞠子)宿へ(其の一)

2013年05月07日 17時33分14秒 | 私本東海道五十三次道中記
今年のゴールデンウィークは4月29日から5月5日まで訳あって駿府(静岡市)に滞在していました。この間、天候に恵まれ静岡市からも富士山をくっきりと眺めることができました。

そんな好天に恵まれた5月3日に駿府の府中宿(現在の静岡市)から上方へ向かって一つ先の丸子(鞠子)宿への散策を敢行しました。府中宿から丸子(鞠子)宿への距離は1里16町(5.7㌔)と比較的短めです。

まずは駿府城のお堀端を歩き、かつての御城下を貫く七間町通りへと進んでいきます。県庁所在地である静岡市は東海地区では一二を争う大都会で、ここ七間町通りにはたくさんの店が並び、多くの人出で賑わっていました。

駿府城の外堀

七間町通りを駒形通り交差点を右へ折れて「ときわ通り」へと入ります。そして数ブロック行ったところで、左へ折れて「新通り」へと入り、安倍川の袂を目指して一直線に進んでいきます。この新通りがかつての東海道筋にあたるようです。

七間町通りの札の辻
七間町通りの商店街

まっすぐに伸びる新通りを進むとやがて「弥勒」という地名のあたりで太い道筋の「本通り」に合流します。その合流する手前の交番脇に江戸時代は「川会所」が置かれていたようです。現在は川会所が置かれていたことを示す案内板が置かれています。

川会所跡

そしてその案内板を過ぎると右手に「弥勒緑地」なる小さな公園があり、その公園の一画に「由比正雪公墓跡」と刻まれた大きな石碑が置かれています。

由比正雪墓

そんな風景を横目にいよいよ安倍川の袂へと歩を進めていくと、左手に現れるのがかの有名な安倍川餅の老舗店「石部屋」です。

安倍川餅の石部屋

街道の茶店然とした店構えに「安倍川もち」「からみもち」と染め抜かれた大きな暖簾が軒下に張られてひときわ目立っています。
お店の創業は明治に入ってからのようですが、江戸時代には多くの旅人が安倍川を渡る前にここで小腹を満たして旅だったと記されています。

石部屋店内

私も誘われるように店の中に吸い込まれ、一人前600円の黄粉のからみもちと安倍川餅のセットを味わうことにしました。上品な甘さの黄粉とこしあんに包まれた餅はさすが石部屋の安倍川餅。まさに逸品です。

からみ餅と安倍川餅のセット

小腹を満たして、いよいよ安倍川を渡ることにします。全長490mの安倍川橋を渡ると、地名は「手越」と変わります。

安倍川橋
安倍川

ここ「手越」は安倍川を挟んで上方側の渡し場があったところです。ちょうど丸子(鞠子)宿を貫く東海道が安倍川に至る場所です。
そんな手越には東海道筋の湘南や伊豆でしばしば登場する「曽我兄弟」に所縁のある少将井(しょうしょうのい)神社が街道から少し奥まったところに質素な社殿を構えています。

少将井神社鳥居

由緒ありそうな社名なのですが、行き当たりばったりの私にとって詳しい社伝がわかりません。案内地図に従って住宅地の奥へと進んでいきます。そして背後の山裾に鳥居と小さな社殿が現れました。

少将井神社社殿

そして解説版を読んでみるとこんなことが記されていました。
創建は1193(建久4)年で、主祭神は素戔嗚尊です。またこの地は鎌倉時代の美人姉妹、千手と少将君(しょうしょうのきみ)の親である手越長者の屋敷の跡地であったと言われています。そのため、このあたりのことを古くは長者屋敷や御殿と呼び、なんとその御殿は源頼朝が上洛するときに本陣として使われたそうです。

社殿

さて、ここで登場する少将君とは曽我兄弟の父の仇である工藤祐経が富士の巻狩りの際に催された夜の宴で侍らした女性なのです。 この宴が行われた夜に工藤祐経は曽我兄弟に仇討ちされるのですが、兄十郎は討死、弟五郎は捕らえられ処刑されてしまいます。 「曽我物語」では、少将君は弟五郎が処刑されることを知ると嘆 き悲しみ、善光寺で出家したと記されています。(一方、兄、十郎の菩提を弔ったのは虎御前で、彼女も善光寺で尼になったと記されています。)



この神社が少将井神社と呼ばれるようになったのは、この場所こそ少将君が生まれた場所であったからと思われます。そして少将君はこの少将井神社に合祀されています。

一方、千手は源頼朝の妻、北条政子の女官だったのですが、一ノ谷の戦いで捕虜となった平重衡が 鎌倉に護送されると、頼朝は、重衡の武士としての器量の良さに感銘し、御所内に1室を与え、千手をその女官として付けたのです。その後、重衡 は南都焼き討ちの総大将であったため、東大寺や興福寺が重衡の引き渡しを要求し、その結果奈良に連行され木津川で斬首されました。
それを知った千手は「吾妻鏡」では失神し、その3日後に息絶えたとありますが、「平家物語」では善光寺で出家し尼になり、重衡の菩提を弔ったとあります。

白拍子の像

その千手(千寿)をモデルに境内に白拍子の像が一体置かれています。
訪ねる人も少ない少将井神社の境内は飾り気のない社殿が寂しそうに佇み、すこし離れた場所に白拍子の像がポツネンと置かれている奇妙な神社といった印象です。

社殿

手越から丸子(鞠子)宿の江戸見附までおよそ2.5㌔といったところです。

其の二へつづく。

私本東海道五十三次道中記 駿府・府中宿から丸子(鞠子)宿へ(其の二)





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私本東海道五十三次道中記・箱根西坂~幽玄な趣・霧に閉ざされた杉木立~

2013年04月26日 16時29分15秒 | 私本東海道五十三次道中記
標高846mの箱根峠を越えると、あれよあれよという間に標高が下がってきます。甲石坂を下ると805mと標高を下げてきます。とはいってもまだ800mの高さです。

そして辿りついたのがお江戸から数えて26番目の山中一里塚です。国道一号から再び旧街道に入る場所の傍らに一里塚の石柱が置かれています。この場所にはかつて接待茶屋があり旅人たちにさまざまな便宜を図っていました。私たちは再び雨が降り続く中、霧に閉ざされた杉木立の中へと続く旧街道へと入り込んでいきます。

山中一里塚跡

街道脇には兜石や徳川有徳公(吉宗公)の記念碑が置かれています。

兜石
徳川有徳公(吉宗公)の記念碑

石畳の街道は雨に煙る杉木立の中を下っていきます。周囲の杉木立は霧に閉ざされ幽玄の世界を演出しています。こんな風景も雨や霧が煙る時以外はお目にかかれないと思えば、悪天候も苦にならなくなってきます。

霧に煙る杉木立

石原坂が終わりに近づくころに路傍に置かれているのが「念仏石」です。かなり大きな石?でおそらく箱根火山が爆発した時の溶岩の名残ではないでしょうか。

念仏石
南無阿弥陀仏の石柱(宗閑寺)

念仏石とは箱根山中で無念にも行き倒れた旅人を山中集落の宗閑寺で供養したことからこう名付けられたといわれています。杉木立に遮られ陽射しが届かない路傍にひっそりと佇んでいます。合掌。

念仏石を過ぎると、石畳道は大枯木坂へと入っていきます。杉木立は途切れ視界が明るくなってきます。そんな道筋には人が植えたと思われる水仙が白い花を咲かせ、道筋に変化をつけています。




ふと気が付くとなんと可憐な花が霧の中で揺れています。自然に群生しているとは思われないのですが、標高700mに咲く可愛らしい花です。

小枯木坂の杉並木1
小枯木坂の杉並木2
小枯木坂の杉並木3

大枯木坂が終わると今度は小枯木坂(願合寺石畳)へと続いていきます。この720mにわたってつづく平坦な石畳の道筋には再び杉木立(杉並木)が広がり霧に包まれまるで墨絵でも見ているような幽玄な世界が待っていました。この願合寺石畳は三島市が修復したもので非常に歩きやすく、足元を気にせず安心して歩ける区間です。

この小枯木坂(願合寺石畳)を抜けると標高560mの山中城下に到着です。

私本東海道五十三次道中記~箱根西坂・吾妻嶽地区の259本の杉並木~
私本東海道五十三次道中記~箱根西坂・箱根峠(846m)への石畳道~
私本東海道五十三次道中記~箱根西坂・雨に煙る笹竹のトンネルと甲石坂~
三島・初音ケ原の松並木と石畳
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私本東海道五十三次道中記~箱根西坂・雨に煙る笹竹のトンネルと甲石坂~

2013年04月26日 15時46分42秒 | 私本東海道五十三次道中記
箱根東海道の最高地点846mを越えると、まさに旧街道はひたすら下り、下りの道筋に姿を変えます。そんな下りの行程の最初の下り坂が甲石坂の石畳です。

甲石坂の入口には道標が置かれ、「是より京都百里、是より江戸25里」と刻まれています。かつて京側より江戸に向かう旅人達はこの道標を見て、その日の宿泊地である小田原へと急いだのではないでしょうか?
一日10里を歩いたといわれる江戸時代の旅人はここから2日で江戸に到着したことになります。

甲石坂入口の道標

そんな道標を横目に甲石坂へと踏み込むと、すぐに東屋が現れます。その東屋の周辺には「兜石跡」、「八ツ手観音像」などが置かれています。
すでに行政地域は静岡県に入り、地名は函南と変わっています。

東屋周辺
兜石跡
八ツ手観音像

いよいよ三島への下りの行程が始まります。甲石坂入口あたりから街道の両側には箱根竹(笹竹)が群生しています。その箱根竹がまるで覆いかぶさるように繁茂する場所が始まります。

甲石坂入口

まるで笹竹のトンネルのように石畳の道に覆いかぶさっています。雨に煙る笹竹のトンネルは幻想的な風景を作り出しています。
おそらく晴れている時でも、これだけの笹竹に覆われていると陽射しはかなり遮られるのではないでしょうか?

笹竹トンネル1
笹竹トンネル2
笹竹トンネル3
甲石坂1
甲石坂2

甲石坂の石畳の道筋は杉木立は少なく、むしろ笹竹が群生している場所を貫いているようです。およそ760mにわたってつづく甲石坂は再び国道1号線に合流し江戸から26番目の山中一里塚へつながっていきます。

私本東海道五十三次道中記~箱根西坂・吾妻嶽地区の259本の杉並木~
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私本東海道五十三次道中記~箱根西坂・箱根峠(846m)への石畳道~

2013年04月26日 15時06分19秒 | 私本東海道五十三次道中記
箱根関所跡の江戸口から京口にいたるほんのわずかな距離を抜けるといよいよかつての箱根宿の始まりです。……が、まっすぐにのびるかつての宿内の道筋には宿場町を想起させるような古い建物は一軒も残っていません。あるのはお土産を売るお店ばかりです。

箱根関所(江戸口)
箱根関所

私たちはお土産屋さんが並ぶ道筋を歩き、東海道筋へと進んできます。三島町を過ぎると芦川の交差点にさしかかります。この交差点で旧街道は国道一号と分岐し、宿のはずれへと入っていきます。

箱根宿の土産屋

その道筋の途中、街道の左に朱色の鳥居を構える駒形神社が現れます。芦川集落のはずれといった場所で、この辺りが箱根宿のはずれにあたります。

駒形神社

駒形神社から40mほど進んでいくと、いよいよ箱根峠へと至る登りの坂道の入口が見えてきます。その入口の傍らに佇むのが「芦川石仏・石塔群」です。古くから箱根地域は地蔵信仰が行き渡っている場所で、箱根全山のいたるところに地蔵が鎮座しています。おそらく旅の安全を願う旅人を見守るために置かれていたと思われます。

芦川石仏・石塔群

そんな石仏に安全祈願をして、箱根峠へ至る石畳の坂道を進むことにします。

向坂入口

石仏が置かれている場所の標高は730mあります。ここから標高846mの箱根峠まで116mの標高差を一気に克服しなければならないのです。
東坂の登りで経験済みではあるのですが、やはり登りは体にこたえます。

芦川の石仏群を坂の入口として、まず現れるのが「向坂」そして「赤石坂」「釜石坂」「風越坂」「挟石坂」と次から次へと坂の名前が変わっていきます。

向坂1
向坂2
向坂3
向坂4

向坂を超えると旧街道は国道1号線の下をくぐるようにトンネルになっています。トンネルをくぐると数段の石段がのぼり、さらに上へと石畳のスロープが始まります。

国道1号の下をくぐる旧街道

この坂さえ上りきれば、あとはひたすら下るだけ、と自分に言い聞かせながらキツイ坂道を踏みしめて進んでいきます。およそ600mの距離の登りの石畳道が終わるころに現れるのが、国道に合流するための「ものすごく急な階段」です。わずか20数段の階段なのですが、登りの石畳で疲れ切った体にはかなりこたえます。

赤石坂
赤石坂1
釜石坂
釜石坂1
風越坂
風越坂1
国道と合流する手前の階段

歯を食いしばって階段を登りきると、目の前には箱根新道と国道1号線の分岐点が現れます。



私たちは車の往来に気を付けながら国道一号筋へと入り、東海道箱根最高地点846mをめざし最後の登りを目指します。

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私本東海道五十三次道中記~箱根西坂・吾妻嶽地区の259本の杉並木~

2013年04月26日 13時59分35秒 | 私本東海道五十三次道中記
私たちの東海道街道巡りは先月4月は箱根湯本から旧街道東坂を辿り元箱根港までのおよそ10キロを登りつめ、芦ノ湖畔へと到着しました。

そして来月5月はいよいよ箱根東海道の最高地点である箱根峠(846m)を越えて、三島宿への西坂の下りへと進んでいきます。そんなことで4月24日に雨にもかかわらず下見のために西坂の下りを果敢にも挑戦してきました。

標高732mの元箱根港は芦ノ湖の湖面が霞むほど雨で煙っていました。三島まで10キロ越えの下りを思うと気が重くなります。

さあ!いよいよ出立です。箱根神社の一の鳥居に見送られるように、まずは芦ノ湖畔の元箱根港から函根恩賜公園まで国道1号に沿ってつづく杉並木を歩くことにします。すでに箱根東坂では杉木立の中を貫くようにのびる旧街道石畳を嫌というほど歩いてきましたが、これはあくまでも杉木立であって人為的に植えられた並木ではありません。

杉並木

東坂行程で見た杉並木はドンキン地区((権現坂を下りきった部分から芦ノ湖畔まで)に並ぶ76本の見事な杉並木でしたが、ここ吾妻嶽地区(芦ノ湖畔から恩賜公園駐車場前まで)の杉並木はなんと259本も残っています。樹齢400年弱といわれる杉の大木がおよそ300mにわたってつづいています。

杉並木

江戸期から残る箱根町地区の並木杉の数は420本ほど残っています。
ドンキン地区:76本(権現坂を下りきった部分から芦ノ湖畔まで)、吾妻嶽地区:259本(芦ノ湖畔から恩賜公園駐車場前まで)、新谷地区:26本(恩賜公園駐車場から関所まで)、向坂:59本(芦川集落はずれから挟石坂手前まで)

杉並木

まさに昼尚暗い杉並木の道が続きます。箱根旧街道の並木杉はその多くは明治時代に宮ノ下から元箱根を結ぶ道路建設の費用に当てるため伐採され、かろうじて芦ノ湖畔の並木杉だけが江戸時代の風情を残しています。

杉並木
杉並木

杉並木に入る前には雨がひとしきり強くなってきたのですが、巨木の杉がつづく旧街道では杉の枝葉が雨を遮ってくれているようで、さほど雨が苦になりません。街道を整備した先人たちは距離を知るための一里塚を設置し、雨風そして陽射しをしのぐために街道に木を植え、旅人たちに利便を提供してくれたのです。

過ぎ去った時代の旅人たちも東坂を登りきり、平坦となった芦ノ湖畔の杉並木で目の前に広がる湖面を眺めながらしばしの休息を楽しんでいたのではないかという思いを馳せてみました。

そんな思いを頭に巡らせていると、もう箱根関所跡の江戸口にさしかかってきます。この江戸口までのほんのわずかな道筋にも杉並木が残っています。

関所へつづく道筋の杉並木

箱根関所を越えると、西坂地区の最初で最後の箱根峠に至る上りの坂道が始まります。

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私本東海道五十三次道中記~小田原城の戦国時代の庭園発掘と名物「柳屋ベーカリーの餡パン」

2013年02月21日 15時39分50秒 | 私本東海道五十三次道中記
先日2月19日(火)に東海道五十三次街道めぐりの下見のために小田原宿から箱根湯本までのおよそ6㎞を歩きました。
生憎の雨というより、ミゾレ混じりの冷たい雨が降り続く中の街道歩きになってしまいました。

小田原城天守

小田原駅からJRの線路に沿って小田原城へと登城。若干の登り坂となるころ、歩道にそってなにやら目隠しが続きます。
かつては天守下の駐車場があった場所なのですが、目隠しの隙間から覗き見ると、発掘作業の途中のように敷地全体が掘り返されています。

発掘現場

その目隠しにこんな新聞記事が貼ってありました。
「小田原城跡:発掘調査 曲輪から庭園跡出土 戦国期、城中心の可能性 /神奈川」
小田原城跡「御用米曲輪(くるわ)」の発掘調査で、戦国時代の庭園跡が確認された。同曲輪では今夏に小田原北条氏の主殿の一部とみられる「礎石建物跡」が確認されているが、新たに庭園跡が見つかったことで、同曲輪内に戦国期小田原城の中心の一つがあった可能性がさらに高まった。

発掘現場

※曲輪:城郭内にある一定区画を分かつ区域である。郭(くるわ)とも書く。曲輪は防御陣地・建造物を建てる敷地・兵の駐屯施設として城郭の最重要施設

10年から開始した同曲輪の調査は、江戸時代の米蔵など遺構整備に伴うものだが、主殿級の建物の一部と庭園跡がセットで見つかったことにより、同曲輪の整備方針は見直しを迫られそうだ。

庭園跡から出土したのは、池に水を引き入れるための石組水路や築山(つきやま)、庭石などで、礎石建物跡と石組水路の軸線がほぼ一致していることも分かった。石組水路には地元の風祭(かざまつり)石や鎌倉石が使われているほか、五輪塔の火輪部分だけを貼り付けた護岸遺構も見つかった。

調査に当たっている市文化財課は、本丸側の山を借景にした庭園で、福井県にある戦国大名・朝倉氏の一乗谷城「湯殿跡庭園」に類似したものとみている。借景にした山は江戸時代になって崩され、曲輪内の埋め立てに使われたことで、主殿や庭園跡など戦国時代(16世紀中~後期)の遺構が良好に残存したと見られている。

調査が進めば、まだ見つかっていない主殿や庭園の全容が解明される可能性もある。さらに、京都とのつながりが深い戦国大名・北条氏の生活様式や文化水準を知る手がかりにもなりそうだ。
毎日新聞 2012年12月29日 地方版

小田原城天守

ロマンを感じる戦国時代の遺跡ではありませんか。小田原北條氏が誇った難攻不落の小田原城天守下に城主のための主殿と庭園があって当然のこと。関八州を治めた北條氏の栄華の名残りが400年の歳月を経て、私たちの目の前に姿を現したことに感激です。

城内の河津さくら

そんな発掘現場を横目で見ながら、天守下へと進みます。かつて天守下の本丸跡には象がいて訪れる人の目を楽しませてくれていたのですが、その像もすでに亡く象舎もなくなり整地されています。

常盤木門
銅門

時折、雨が雪に変わるさんざんなこの日、そうそうにお城から退散し国道一号線の箱根口へと移動しました。

箱根口から見た東海道筋

箱根口交差点を右へ折れて箱根湯本方面に進むこと僅か50mのところに店を構えるのが、小田原では蒲鉾、梅干し、干物に次いで名物となっている「柳屋ベーカリー」の餡パンです。

柳屋ベーカリー

店構えも老舗然として趣ある風情を漂わせています。創業は大正10年(1921)ということです。

柳屋ベーカリー

自動ドアではない入口から店内に入ると、横長のショーケースの上に種類ごと(10種類)に分けた「餡パン」が並んでいます。
どれもこれも美味しそうなのですが、個人的には「こしあん」をお勧めしたいですね。上品な甘さのこしあんが薄皮に包まれ、口の中に入れると自然に溶けていくような「餡」は絶品です。

かなり人気の店のようで、人気の「こしあんぱん」はあっという間に売り切れてしまうようです。できれば午前中から午後の早いうちまでにお店に行かれたほうがいいでしょう。




尚、値段は
こしあんぱん:147円
つぶしあんぱん:147円
栗あんぱん:189円
桜あんぱん:189円

ちょっと小振りのあんぱんですが、一度食べたら病みつきになる「美味しさ」です。

住所:神奈川県小田原市南町1-3-7
電話:0465-22-2342
営業時間:09:30-16:00
定休日:日曜・祭日





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私本東海道五十三次道中記~大磯宿から二宮そして国府津~(其の三)

2012年12月25日 16時04分36秒 | 私本東海道五十三次道中記
統監道(とうかんみち)を辿ると、大磯中学校前信号の先にある横断歩道橋の袂にでてきます。そのまま国道一号線に沿って右側を進んでいいのですが、大磯名物の松並木の風情を間近に感じるためには左側を進むべきでしょう。というのは旧東海道の本来の道筋は西へ向かう下り車線側なのです。

若干の足の疲れを感じながら歩道橋の階段を上り橋上にでると、下り車線側に沿って見事な松並木が目に飛び込んできます。
橋上からは松並木が延々と続いているようにみえるのですが、およそ300mに渡って街道らしさを味わえる道筋のようです。

歩道橋上から見る松並木

松並木が始まる場所の左側には大磯中学校の長い塀が続いています。この大磯中学校の敷地はかつて第3代・9代の内閣総理大臣を務めた山県有朋の別荘「小淘庵 ( おゆるぎあん )」があった場所です。

中学校の塀が始まる辺りからこれまでの街道巡りの中で初めて見るような大きな幹回りの松ノ木が現れます。樹齢300年以上と言われる大木で、幹の直径がなんと1m超えという古木です。

街道の松並木
街道の松
街道の松

その昔、街道を旅する人たちは相模湾の潮風を袂に、キラキラと輝く海原と遥か彼方に見える島影を眺めながら小田原への旅路を急いでいたと思うと感慨深いものがあります。

そして海風で幹が傾き、さらに幹がグニュ~と曲がった「そなれの松(磯馴松)」が1本立っています。

そなれの松(磯馴松)

この「そなれの松」は江戸時代の文久2年(1862)に市村座で初演された『白浪五人男』の一人である南郷力丸(なんごうりきまる)の「渡り科白」の中で鎌倉から大磯に至る湘南の地名の一つとして出てきます。
その一説は「さてどんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯馴(そなれ)の松の曲りなり……」です。

さらにこの科白の中の「小ゆるぎ」の「ゆるぎ」とは波の動揺を表す言葉ですが、かつて現在の大磯町と二宮町は相模国余綾郡(ゆるぎぐん)と呼ばれていました。そして今でも大磯から国府津あたりまでの海浜一帯を「こゆるぎの浜」と呼んでいます。

「こゆるぎ」とは何とも響きのいい名前です。広々とした相模湾のゆったりとした波間と波頭を照らす陽射しがキラキラと揺れるさまは「こゆるぎ」の名にふさわしいものです。

大磯中学校が途切れると次のブロックには古河電工の大磯荘の入口が現れます。ここはかつて旧陸奥宗光邸と旧大隈重信邸を併せた敷地で、二人の邸宅を旧古河財閥の古河市兵衛が買い取ったものです。

古河電工の大磯荘の長い塀沿いの松並木を歩くと、次に大磯プレイスと呼ばれるリゾートマンションが現れます。ここは旧佐賀藩主である鍋島直大(なおひろ)の邸宅があった場所です。

滄浪閣跡

そして大磯プレイスを過ぎると左手に大きく開けたスペースが現れ、今は何も使われていない建物がど~んと構えています。
ここが大磯で最も有名な邸宅である伊藤博文公の滄浪閣があった場所です。歩道に面して「滄浪閣跡」の石柱が置かれていますが、かつての建物は今はなく、この場所は昭和26年(1951)に西武鉄道に売却され、1954年には大磯プリンスホテルの別館となり、2007年まで西武グループとして営業を続けてきました。その後、当施設は売却されることが決定され、大手建設会社が交渉権を得ることになりました。
しかし歴史的建造物として大磯町が25億円で買収計画を立てましたが、建設会社の提示価格と大きな開きがあることから大磯町は買収を断念しています。今後は新たな所有者に保存を要望することとなりますが、荒れ果てた滄浪閣は何も語らず寂しそうに佇んでいます。

旧滄浪閣の次のブロックにはなにやら由緒ありそうではあるのですが、誰にも使われず廃墟のような雰囲気を漂わす洋館が一つ建っています。この場所がかつて西園寺公望の別邸があった場所です。

さきほどの旧滄浪閣と旧西園寺公望の別邸の境目に細い路地が海岸へ向かって180mほど伸びています。舗装もされない海岸へと延びる道なのですが、路地からは滄浪閣と西園寺公望邸の荒れ果てた敷地を垣間見ることができます。

路地を進むうちに、ふいに前方が開け美しい相模湾が目の前に現れます。これまでの道中で初めて出会う海原です。実は路地を進むと現れるのが「大磯こゆるぎ緑地」と呼ばれる海岸を見下ろす高台の遊歩道だったのです。

緑地といっても松の木がたくさん植えられているわけではないのですが、晴れているときはなだらかに湾曲する湘南の浜と沖合には大島をはじめ伊豆七島の島影、そして右へ目を移すと伊豆半島のシルエットがまるで絵葉書のような美しさで眼前に展開します。

大磯こゆるぎ緑地

わずか120mほどの遊歩道ですが、後ろ髪を引かれる思いで本来の旧街道へと戻ることにしました。

旧街道に戻るとあの美しい松並木も途切れてしまいました。

其の四へつづく

私本東海道五十三次道中記~大磯宿から二宮そして国府津~(其の一)
私本東海道五十三次道中記~大磯宿から二宮そして国府津~(其の二)





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