大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第30回 第3日目 石薬師、庄野を辿り関西本線・井田川駅前まで

2015年10月26日 13時18分12秒 | 私本東海道五十三次道中記


第三日目の出発地点はここ采女のサークルK前からです。
サークルKは幹線道路の国道1号に面しています。ひっきりなしに大型のトラックが行き交っています。そんな1号線に沿って歩き始めることにしましょう。
本日はここから44番目の石薬師宿、45番目の庄野宿を経て関西本線の井田川駅までの11キロを踏破いたします。

采女のサークルK前





采女サークルKを出立して、国道1号線に沿って500mほどで采女南交差点があります。交差点を左折すると国分の集落があり、西の畑の中に「伊勢国分寺跡」があります。

ところで「采女」とは珍しい地名ですね。その発祥は定かではありませんが、飛鳥時代(592年~710年)に地方の豪族たちが自分の娘を天皇家に献上するしきたりがあったといいます。その娘たちのことを采女と呼んでいました。
これはある種の人質の意味合いが含まれ、豪族たちが天皇に服従したことを示すものであったのです。
采女は主に天皇の食事の際の配膳が主な業務とされていますが、天皇の側に仕える事や諸国から容姿に優れた者が献上されていたため、妻妾としての役割を果たす事も多く、その子供を産む者もいたようです。

采女は地方豪族という比較的低い身分の出身ながら容姿端麗で高い教養を持っていると認識されており、天皇のみ手が触れる事が許される存在と言う事もあり、古来より男性の憧れの対象となっていました。

ここ三重県の采女の地名は21代雄略天皇(古墳時代の456~480)に仕えていた三重出身の采女が天皇の許しを得てこの地の名前にしたといわれています。

さて、国分寺ですが天平13(741)年、45代聖武天皇の詔により各国に建てられた官営の寺院で、一般的に僧寺と尼寺が置かれました。伊勢国の国分寺は鈴鹿市国分町にありました。

この国分寺があった場所は鈴鹿川左岸の標高43m前後の段丘の上にあり、眺望がよく且つ水害の恐れのない土地です。大正11年10月12日に、国分町字堂跡一帯の37、180㎡が史跡伊勢国分寺跡として指定されました。この遺跡は僧寺跡と考えられています。

奈良時代中期の伊勢国の役所である国府は鈴鹿市広瀬町にあったため、国分寺とは約7km離れています。国府は現在の鈴鹿郡、国分寺は河曲郡(かわのぐん)と分かれて置かれていたようです。国分寺跡は街道筋からかなり逸れているので、訪問は割愛します。

采女南の交差点の先はデーラー(自動車販売店)やガソリンスタンドが並んで続いています。采女南交差点から400m程歩くと鈴鹿市国分町で、小谷バス停手前の三叉路で国道1号線と別れて左の道に入るのが東海道です。
国分町信号交差点を過ぎると、四日市市から鈴鹿市へと入ります。右側に二つのお堂がある前を通り、少し歩くと下り坂になり、木田町大谷交叉点で国道1号線に合流します。



坂を下りきり、信号手前の右手の地下道を使って国道の反対側に出ると右手は自由が丘団地です。国道の歩道を100mほど歩くと団地が終わります。このあたりから道は左にカーブを始めます。浪瀬川を渡ると国道は上りながら大きく左にカーブしますが、その先で道筋が二股に分かれます。旧東海道筋は右の細い道で、団地の端から150m程です。そしてここがお江戸から44番目の宿場町、石薬師宿(いしやくししゅく) の入口です。

国道1号と分岐して旧街道筋が右手へと延びています。その分岐点に石薬師宿と刻まれた石柱が置かれています。この場所には「北町の地蔵堂」がありますが、ここが石薬師宿の江戸方出入口にあたります。このお堂には延命地蔵が祀られています。

石薬師宿江戸方
北町の地蔵堂

東海道石薬師宿の石碑の傍らに「信綱かるた道」と称して佐佐木信綱の歌の色紙が36首掲示されています。来年(2015年)にはこれを50首まで増やすそうです。 
「四日市の 時雨蛤(しぐれ)日永の 長餅の 家土産(いえずと)まつと 父は待ちにき」

ここ石薬師宿は宿場町としての歴史地区であると同時に、明治から大正、昭和にわたって歌人、歌学者として活躍した佐佐木信綱の生誕地として知られています。そんな場所柄から宿内は信綱にかかわる建造物が残っています。 

安藤広重の「石薬師宿」の景は石薬師寺と山を背景に数軒の藁屋根の家が描かれています。そして石薬師宿は元和2年(1616)に四日市宿と亀山宿の間が長いために造られた新宿です。しかし、多くの旅人が伊勢神宮詣でのために「日永の追分」から伊勢街道へと向かい、その後、脇街道を利用して「関宿」へと辿ったことで、宿が成立したにもかかわらず、旅人達の利用は少なかったと言われています。そんなことで宿場の経営は厳しかったようです。早く言えば「寂れた宿場」だったようです。

石薬師宿景

石薬師宿は幕府領(天領)であり、宿場ができるまでは高宮村と呼ばれていましたが、宿場ができても総家数は241軒、宿内人口は990人と宿場の規模が小さかったのです。本陣は3軒ありましたが、脇本陣はなく、時代によって異なりますが旅籠が15軒に対し百姓が130軒で、石薬師宿は農村的な性格を有していたのです。



江戸方から少しの間は上り坂で、上りきったあたり(マルフク辺り)から石薬師宿で、古い家が残っています。右側に大木神社の鳥居が現れますが、社殿は200m程奥にあります。

大木神社の鳥居

大木神社は延喜式に記載されている古い神社で、蒲冠者といわれた頼朝の弟、源範頼とゆかりのある神社です。実は宿場の京寄りに堂宇を構える石薬師寺の近くに「御曹司社」という小さな祠があります。この御曹司社は大木神社の末社です。
この御曹司社は源範頼を祀っていますが、御曹司社の近くに範頼ゆかりの「蒲桜」があります。蒲桜は範頼と深い関係があるのですが、この話は後ほど説明いたします。

街道を進んで行くと、右側に立派な建物が見えてきます。この建物は本陣だった小澤家です。

小澤家

案内板には「昔はもっと広い屋敷だったというが、国学者・萱生由章はこの家の出で、元禄の宿帳には赤穂藩浅野内匠頭の名も見える。」と記されています。

小澤家の少し先の右側にあるのが天野記念館です。この建物はタイムレコーダーで有名なアマノ(株)の創業者がふるさとのために建てて贈ったものです。

天野記念館
天野記念館碑

天野記念館の左隣は佐佐木信綱が昭和7年(1932)に故郷に寄贈した「石薬師文庫」で、建物前の四角い石碑には「佐佐木信綱」「佐佐木幸綱」の歌が刻まれています。

石薬師文庫

佐佐木信綱は明治から大正、昭和にわたって歌人、歌学者として、万葉集の研究にあたった人物で、佐佐木幸綱は彼の孫にあたります。佐佐木信綱は石薬師文庫を贈るにあたり「これのふぐら良き文庫たれ 故郷のさと人のために若人のために」という歌を詠みました。建物の右側に地元の人たちが昭和40年の信綱死後2年祭に上記の歌を刻んだ記念碑を建てています。

石薬師文庫の左側にある連子格子の二階建ての家が佐々木信綱の生家で、信綱は一家が松坂に移住するまでの幼少期をこの家で過ごしました。生家の前には佐佐木信綱の歌碑があります。その隣には佐佐木信綱資料館があります。

佐佐木信綱資料館
資料館内部
資料館内部
資料館前の街道

佐佐木信綱資料館を後にして、人通りもなく閑散とした街道を進んでいきましょう。資料館先の交差点を渡ると左側に山門を構えるのが真宗高田派「浄福寺」です。ご本尊は阿弥陀如来で、佐佐木家の菩提寺だった寺です。山門入口の左側には佐佐木信綱の父、佐佐木弘綱の記念碑があり、彼の歌が刻まれています。

浄福寺
浄福寺



浄福寺を過ぎると、街道の両側は住宅がつづき、古い家並みはまったく現れません。道はその先で左にカーブし、その向こうに国道1号を跨ぐ瑠璃光橋があり、橋を渡ると右手に石薬師寺が堂宇を構えています。

瑠璃光橋

東海道名所図会に「高宮山瑠璃光院石薬師寺」とある寺で、本尊は弘法大師が自ら彫ったと伝えられる石仏薬師如来で、菊面石に彫刻してあるといい、石薬師宿という名は全国的に有名なこの寺から付けられたと伝えられています。



石薬師寺の由来記には「今から約1200年前の聖武天皇の神亀3年(726)に泰澄がこの地を訪れ、堂を建てたのが始まりと伝わっています。そして嵯峨天皇の弘仁3年(812)に弘法大師が自ら薬師如来像を刻んで開眼供養をされました。そして嵯峨天皇によって当寺が勅願寺になり、この時期に堂坊も整い、その規模も塔頭寺院も十二ヵ寺院、寺領も三町に達するほどの大寺院となりました。   
しかし天正3年(1575)の織田軍による兵火で諸堂坊舎はことごとく灰燼に帰したましたが、幸いにも本尊の薬師如来は難を免れましたた。その後、神戸(かんべ)藩5万石の城主「一柳監物直盛(ひとつやなぎなおもり)」が江戸時代の寛永11年(1626)に諸堂諸坊を再建し現在に至っています。

石薬師ご本堂

境内には佐佐木信綱が昭和7年8月にこの寺で詠んだ歌碑が置かれています。
「峰時雨 石薬師寺は広重の 画に見るがごと みどり深にし」

ご本堂
鐘楼堂
境内
境内

その他にも西行法師や一休禅師、西行法師、松尾芭蕉の歌碑が置かれています。 
「名も高き 誓いも重き 石薬師 瑠璃の光は あらたなりけり」(一休禅師) 
「柴の庵に よるよる梅の 匂い手やさしき方もある 住いかな」(西行法師) 
「春なれや 名もなき山の 薄霞」(松尾芭蕉) 
石薬師寺を出ると石薬師宿は終わります。

石薬師寺の山門を出てまっすぐ(東方面) 行くと左側に「蒲冠者範頼之社」と書かれた石柱が建つ神社があります。

蒲冠者範頼之社

蒲冠者範頼は源頼朝の弟ですが、武道、学問に優れていたので、それらの願望成就の神様として祀られてきたもので、地元では「御曹子社」と呼ばれています。また神社の南約60mのところに「蒲桜」と呼ばれる山桜があります。
伝聞によると寿永年間(1182~1184)の頃、源範頼が平家追討のため、西に向かう途中、石薬師寺で戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにさしたところ、芽を出してこの桜になったといわれています。

石薬師寺の前からは道はなだらかな下り坂になっています。坂が終わると左に古い家があるところで、道が二又になっています。私たちは右の道筋へと進んで行くと蒲川橋へとさしかかります。

蒲川橋を渡ると左側に大きな石標と常夜燈が立っています。案内板には「ここは石薬師の一里塚があったところで、江戸時代には榎の木が植えられていたが、昭和34年の伊勢湾台風で倒れてしまった。」と記されています。
お江戸日本橋から102番目(約401km)、京都三条大橋からは23番目(約96km)に位置に置かれた一里塚です。昭和52年(1977)に新たに榎を植え40年経った今、こんなに大きく育ちました。

石薬師一里塚遠望



一里塚を過ぎると、にわかに周辺の風景は変わってきます。それまでの住宅街の様相は一変し、田園地帯へと入っていきます。
旧街道筋がこんなところに通っていたとは思えない道筋です。といのも関西本線の線路の敷設や国道1号が造られたことによって、本来の道筋が大きく変わってしまったことによるものです。とはいえ、これまで旧東海道を歩いてきて、こんな一面の畑の中を歩くのは小夜の中山の茶畑の中を歩いたことを除いてあまりありません。

畑の中の東海道
畑の中の東海道

本来の旧東海道はJR関西本線の線路を斜めに横切るようにできていましたが、現在その道は消滅しています。かつての東海道筋ではありませんが、私たちは一里塚跡からゆるやかな坂道を進み、その先のJR関西本線の線路下のガードをくぐります。ガードくぐると目の前は広々とした畑が現れます。その畑の縁の農道のような道を進んで行きます。
 
道はゆるやかに左にカーブしながら右手の国道1号線に沿って進みますが、道筋はその先で国道1号下のガードをくぐります。


 
ガードをくぐったらすぐに左へ折れ、その先で右へ曲がります。そして畑の中を進んで行くとT字路にさしかかりますが、右手にはJR関西線の踏切があります。私たちは左へ曲がって小さな川を渡り、その先の陸橋下をくぐって進んで行くと国道1号線に合流します。ここから庄野宿の入口までは1.4km程の距離です。





あまり面白味のない国道1号にそって進んでいきましょう。庄野宿の東木戸までは国道1号線に沿って進んでいきます。1号線の左側には鈴鹿川が流れています。道筋は緩やかな勾配の登り坂となり、右手には日本コンクリート工業の大きな工場の敷地が見えてきます。そして、国道1号は大型のトラックがスピードを上げて走り抜けていきます。日本コンクリート工業の敷地が途切れる庄野北交差点で右折しやっと国道1号とお別れです。そしてすぐに現れる庄野町西の信号交差点が庄野宿(しょうのしゅく)の江戸方の出入口です。

一級河川の鈴鹿川は三重県と滋賀県の県境にある鈴鹿山脈の那須ケ原岳(標高800m)の東麓に源を発して、三重県の北部を東進しながら四日市の南端の伊勢湾に注ぎ込んでいます。川の総延長は約40kmです。

庄野宿江戸方

庄野宿は江戸から45番目の宿場ですが、宿場が成立したのは寛永元年(1624)とかなり遅い時期です。天領(幕府直轄地)だったこの地に鈴鹿川東の古庄野から移住させられてきた人を合わせ、70戸で宿場を立ち上げた、といいます。草分け36戸、宿立て70戸といわれる言葉のように宿場作りにはかなり苦労したようです。宿場は南北八町(約1000m)の長さで、加茂町、中町、上町の三町から構成されていました。宿場の規模は総家数211軒、宿内人口は855人、本陣は1軒、脇本陣が1軒、 旅籠は15軒しかありませんでした。安藤広重の庄野宿の景は「庄野の白雨(にわかあめ)」です。



広重の庄野の景は東海道五十三次中の傑作とされ、庄野宿を「雨の中を急ぐ旅人と薮の中の数軒の人家」という構図で描いています。宿の入口の石柱からなだらかな上り坂になっていて、道の両脇にはわずかながら古い家が残っています。



静かな雰囲気を漂わす宿内を進んでいきますが、宿場であった風情が感じられません。道筋に古い家並みが残っていないからなのでしょう。そんな道筋を歩いていくと、やおら立派な仕舞屋風の建物が現れます。

庄野資料館パンフレット

この建物が平成10年に公開された庄野宿資料館です。この建物は江戸時代に油問屋を営んだ小林家の跡です。立派な連子格子の建物は屋敷の一部を創建当時の姿に復元し、庄野宿に残る膨大な宿場関係資料を展示しています。

庄野宿資料館

その先の民家の壁に問屋場跡を表示した案内板があります。庄野宿は四日市宿と亀山宿間が長かったので新設された宿場ですが、石薬師宿からわずか3キロ弱と短いことに加えて、伊勢詣の旅人たちは手前(東)の日永追分やこの先(西)の関宿で伊勢街道に入ってしまうため、庄野宿内の通行量が少なく、宿泊者は三分の一と大変少なかったようです。石薬師宿と同じような憂き目にあっていたのです。 

問屋場は御伝馬所ともいい、問屋2名、年寄4名、書記(帳付)、馬差各45名が半数で交替してつめていました。宿場の経営は難しかったようで、幕府は宿場の不振を理由に文化12年(1815)、石薬師と庄野の二宿に対し、配備しなければならない人足百人、伝馬百疋の定めを半減させ、人足五十人、伝馬五十疋に削る処置を行っています。そんな歴史的な背景を思うと、庄野宿はこじんまりとした宿場で申し訳なさそうに佇んでいるといった印象です。右側の庄野集会所の前に「庄野宿本陣跡」の標柱が立っています。

庄野宿本陣跡

標柱には「本陣は寛永元年(1624)には沢田家が担当し、 間口十四間一尺、奥行二十一間一尺、二百二十九 坪の家だった。」と記されています。また隣りには「距津市元標九里拾九町」と書かれた「道路元標」が建っていて、これによると「亀山へは二里三町」の距離です。

交差点の右角に「高札場跡」の表示が置かれています。交差点を過ぎて少し行った右側の床屋の壁に「郷会所跡」の表示板があります。郷会所は助郷の割当を受けた各村の代表(庄屋や肝煎)が集会する場所です。江戸後期になると、助郷人馬の割当が多くなり、減免陳情のための会合が繰り返されたそうです。

郷会所跡を過ぎると街道の右奥に常楽寺がちらりと見えます。そしてその先の右側に「延喜式内川俣神社」と彫られた大きな石柱があり、常夜燈には「天保十五甲辰歳小春」と刻まれています。鳥居をくぐって川俣神社に入ると右手には大きく育ったスダジイの巨木が存在感を示しています。「スダジイはブナ科の常緑樹で、樹齢300年、高さ11m、幹周り6mの古木で、県の天然記念物に指定されています。」

川俣神社のスダジイ

街道に戻り、少し行くと庄野宿の東の入口にあったのと同じ、庄野宿の石柱が現れます。その先は汲川原町で国道と交差し立体交差になっています。ここの庄野宿の石柱が京側の入口で、ここで庄野宿は終わってしまいます。あっけなく終わってしまったという感じです。



旧道街道筋は汲川原町交差点で国道1号と637号線が交わります。ここでも旧東海道筋は637号と国道1号によってズタズタに分断されています。本来の東海道同筋は斜め左へと直進していたのですが、かつての道筋は消滅しています。立体交差になっているので、まず県道637号を渡り、再び国道1号線を渡ってタイヤショップ側へ進みます。タイヤショップの脇の道を下りていくと旧東海道へと入ります。

東海道はここから亀山まで国道1号線と平行しながら残っています。田畑の道を道なりに行くと汲川原東バス停がある集落に出ます。左側の民家の角には「平野道」の道標があります。平野は鈴鹿川対岸の平野町のことです。ここは江戸時代は汲川原村だったところで、道の反対に高札場があったようですが、その面影はなく古い家もありません。

街道の左側に本願寺派の「真福寺」があり、少し行くと道の左前方に大きな椿の木があり、その横に女人堤防碑が立っています。汲川原村は鈴鹿川と安楽川の合流地点であったため、村人は度重なる水害に悩まされていました。その洪水に悩まされていた村民たちが神戸藩に堤防の補強を願い出ましたが、対岸の神戸藩は城下町を守るため、堤防の補強は許可しませんでした。このため汲川原村の村民たちは打ち首覚悟で六年の歳月をかけ、約400mの堤防を造りました。そして面白いのは男性が作業を行うと目立つので、女性が夜間にひそかに堤防を造ったと言われています。今から170年前の文政12年(1829)のことです。 

女人堤防碑の近くに「従是東神戸領」と刻まれている「領棒石」と「燈籠」が立っています。領棒石は亀山藩中富田との境界からここに移設したものです。右側には「山神碑」と「常夜燈」があります。山神碑は江戸時代からここにあったといいます。「手洗石」は文化10年(1813)のもので、その他、「常夜燈」もあり、道の裏には「古墓群」もあります。そしてその先へと進むと中富田町(旧中富田村)に入ります。



少し先の三叉路では右の道を行くと100m程先の左側に「式内川俣神社」があり、鳥居の左側には大正15年の「常夜燈」、右側の石柵の中には「中富田一里塚跡碑」「従是西亀山領」と書かれた領棒石が立っています。江戸から103番目(約404㎞)、京都三条から22番目(約91㎞)に置かれた一里塚です。
なぜか社殿が街道に背を向けて建てられています。

中富田一里塚跡碑

享和3年(1803)発行の「東海道亀山宿分間絵図」には「汲川原村との境に領棒石が置かれ、その右(西の方角)に 中富田一里塚、高札場、そして、川俣神社」という順に描かれています。また「高札場の前には大名や公家を接待する御馳走場があった。」ことも記されています。境内には樹齢600年の楠の大木や山神碑、安政三年の手洗石があります。そして江戸時代にはここから亀山藩領となっていました。 

西富田町(旧西富田村)に入ると両脇は住宅地で、右側に天台真盛宗の「常念寺」が山門を構えています。かつてここには延命地蔵尊を祀る平建寺がありましたが、安政地震後に常念寺が移転してきたといいます。その先の四つ角には「ひろせ道」と書かれた道標がありますが、右折して北方に行くと広瀬町があります。広瀬町にはここ伊勢の国の国府が置かれていた場所です。
 
上り気味の坂道を進んで行くと、前方に堤防が近づいてきます。その登り坂の左側に「川俣神社」が社殿を構えています。この辺りに川俣神社が多いのは各村が鈴鹿川系の河川の水害から逃れようと建てたことによるのでしょう。
鳥居の脇の常夜燈は慶応2年(1866)のものですが、元は大筒川辺にあったらしいとのこと。近くの道標には「右 ひろせ 左 はたけ」と刻まれています。 

境内には戦国時代当時の神戸城主、織田信孝(信長の三男)が愛した「無上冷水井」跡の石碑が建っています。ここには「庚申塚」「献燈」(1803年)「座標」の石柱「和泉橋」の橋柱などが置かれています。 

実は戦国時代にはこのあたりは神戸氏が治めていた土地なのですが、この神戸氏は永禄11年(1568)に信長の侵攻を受けると、その時
の当主である真盛は信長の三男である信孝を養子に迎えることを条件に和睦に応じました。その後、真盛は信長の家臣として活躍しました。
一方、養子となった信孝は15歳で元服をした後、神戸の当主となるのですが、天正10年(1582)の本能寺の変の後、織田家の跡目を狙って織田姓に戻しています。信長なき後、信孝は柴田勝家とお市の方の結婚を取り持ち、そのことから結局は柴田勝家ともども秀吉の軍門に下ることになり、最終的には自害に追い込まれています。

そんな信孝が神戸にいたころに飲んでいた井戸水のことを「無上冷水井」と呼んでいたようですが、この無上冷水の意味がよくわかりません。無上ですから、この上なくといった意味だと思います。そして冷水ですから、「この上なく冷たい水?」ほんとかいな?

堤防に上ると安楽川の水の流れと共に長閑な田舎の風景が目に飛び込んできます。そして安楽川に架かる和泉橋が対岸へと延びています。江戸時代には土橋が架けられていたとあり、出水の時は渡しとなったといいます。



それでは幅の広い河川敷を伴う安楽川にかかる長い和泉橋を渡り、和泉町へ入っていきましょう。橋を渡ると正面に井田川小学校があります。橋を渡ったら右折して堤防の上の道を川に沿って100m程進んでいきましょう。右手には安楽川の流れと対岸の笹林、そしてその背後に連なる鈴鹿連山がまるで一枚の絵のように美しい景色を見せてくれます。
そして土手道から左へと向かう道筋へ入っていきます。安楽川と別れて左へカーブする道に入ると和泉町の集落ですが、古い家はほとんどありません。

右にカーブする手前の右側の狭い道の両側に「右 のぼ道」と刻まれた「道標」が置かれています。左は江戸時代のもの、右は大正3年のもので、「のぼの」とは能褒野神社(のぼのじんじゃ)のことでしょう。ここから能褒野神社まで直線で約2.2キロの距離があります。

※能褒野は日本武尊が死去した地と伝えられています。ここに置かれているのが能褒野神社です。神社の周辺には日本武尊の陵墓と言われる古墳がいくつかあったのですが、明治12年(1879)に時の内務省が「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳を日本武尊の墓であると治定し、能褒野陵としました。

この道標をすぎると、本日の歩行距離も10キロに達します。さあ!本日の終着地点まで残すところ1キロに迫ってきました。



旧東海道筋はこの先で641号線に合流します。合流する手前の右側の小高い場所に「極楽山地福寺」が堂宇を構えています。地福寺の右側の空地に「明治天皇御小休所」の碑が立っています。そして道筋は少し下り坂となり641号線へと合流します。

合流後、すぐに関西本線の踏切を渡ると道筋は大きく左へとカーブを切っていきます。そして鈴鹿市から亀山市へと入ります。踏切を渡り500m進むと関西本線の井田川駅前に到着です。駅舎は比較的最近に整備された様子で、駅前には綺麗なロータリーがあります。
そしてここ井田川駅から日本武尊ゆかりの能褒野(のぼの)神社まで直線で約2キロと近いことから、ロータリーの脇に日本武尊の像が置かれています。
とはいえ、駅前は閑散として商店らしきものはまったくありません。エンディングの場所としては寂しさを感じます。

私本東海道五十三次道中記 第30回 第1日目 桑名七里の渡しから四日市富田へ
私本東海道五十三次道中記 第30回 第2日目 四日市富田から四日市宿を抜けて采女のサークルKまで

東海道五十三次街道めぐり・第三ステージ目次へ





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

私本東海道五十三次道中記 第30回 第2日目 四日市富田から四日市宿を抜けて采女のサークルKまで

2015年10月23日 07時35分04秒 | 私本東海道五十三次道中記


さあ!第二日目が始まります。
昨日の終着地点である「フレスポ四日市富田」が本日の出発地点です。

本日はここフレスポ四日市富田を出立して、まずは5.5キロ先の四日市宿を目指します。その後、お江戸からちょうど100番目の「日永一里塚」を経て、東海道と伊勢街道の分岐点の追分を抜け、日本武尊ゆかりの「杖衝坂(つえつきざか)」を越えて、采女のサークルKまで15.5キロを歩きます。
ちょっと長めの行程ですが、晩秋の伊勢街道を辿ってまいります。



四日市富田は比較的大きな町で、なんと三岐鉄道、関西本線そして近鉄名古屋線が交わるターミナルで、町全体に賑やかな雰囲気が漂っています。旧街道は住宅街を縫うようにくねくねと曲がりながらつづいています。

歩き始めるとすぐに三岐鉄道と近鉄の高架をくぐります。昔は庚申橋といっていた小さな一里塚橋があり、橋を渡った右側に目立たない存在で98番目の「冨田一里塚跡」の碑が置かれています。

冨田一里塚跡

江戸時代初期に東海道が開設され、大名行列や伊勢参りなどの多くの旅人が行きかい、 同時に立場になっていた冨田(とみだ)はたいへんな賑わいを見せていました。

その当時、冨田には多く茶屋があったそうですが、茶屋の名物が焼き蛤だったのです。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では喜多八が茶屋の名物の焼き蛤で騒動を起こしています。

膝栗毛には「富田の立場にいたりけるに ここはことに焼はまぐりの名物、両側に茶屋軒を並べ往来を呼びたつる声にひかれて茶屋に立ち寄り」とあり、冨田の茶屋の競争が激しかった様子が描かれています。

弥次郎兵衛と喜多八が焼き蛤でめしを食ったまではいいが、焼き蛤が喜多八のへその下に落ちてやけどするはめになり、「膏薬は まだ入れねども はまぐりの やけどにつけて よむたはれうた」という狂歌が落ちになっています。

道をすすむと左側に八幡神社が現れます。八幡神社の祭神は応神天皇で明治42年の神社統合令で鳥出神社に合祀されましたが、昭和49年、現在地に社殿を建てて再建されたものです。八幡神社の境内には力比べに使われたというおよそ100㎏の横長の丸い石(力石)が置かれています。

八幡神社

江戸時代には八幡神社が富田の西端で、鬱蒼とした鎮守の森で覆われ昼でも暗かったと伝えられています。現在は私鉄の近鉄が通っていることからこの辺りは開発が進み、民家が密集しています。道をそのまま進むと正泉寺に突き当たってしまうので、手前の三叉路のクリーニング屋の角を右に曲がります。



三叉路を右へ曲がると、商店が並ぶ仲町通りへと入って行きます。道筋の先の右側に富田地区市民センターが見えてきます。
その前に「右 富田一色、東洋紡績、川越村」と書かれた道標が置かれています。これは大正6年10月に建てられたものです。また富田小の正門脇には「明治天皇御駐れん跡」の立派な石碑も置かれています。

明治天皇は明治元年(1868)9月20日、京都を発ち、25日に富田茶屋町の広瀬五郎兵衛方に御少憩になり、富田の焼き蛤を賞味なられた。そして同年12月19日、京都に戻られる途中も小休止されました。更に明治2年に神器を奉じて東京に遷都されたときと、明治13年陸軍大演習で行幸された際もここに立ち寄られています。そんな折に明治天皇は富田の焼きハマグリをご賞味されたといいます。
明治天皇が休憩された屋敷は東海道に沿った現在の富田小学校から富田地区市民センターにかけてあった。」という説明板があります。

道筋は十四川へとさしかかってきますが、川を渡る手前の左側に大きなお寺が堂宇を構えています。真宗高田派の寺院で善教寺といいます。

善教寺本堂

当寺には重要文化財に指定されているご本尊の阿弥陀如来立像が祀られています。以前は国宝に指定されていました。この立像の製作年代は鎌倉時代中期(1240年代)に溯ります。また立像内部には鎌倉時代の文書が多数納入されているのが発見されました。門前にはかつて阿弥陀如来像が国宝に指定されていたことを示す大きな石碑が置かれています。

善教寺石碑

その先には十四川が流れています。この河岸には桜並木が両岸1.2㎞にわたって、ソメイヨシノが約800本植えられています。この桜並木は日本の桜の会より全国表彰を受けたことがあります。

十四橋を渡ると南富田(旧茂福村)となり、街道右側に薬師寺が山門を構えています。当寺には弘法大師が彫った60年に一度開帳される秘仏の薬師如来が祀られています。この薬師如来は大同年間(806~810)に疫病に苦しんでいた住民のために弘法大師が自ら彫られてものだそうです。

薬師寺からほんの僅かな距離を歩くと、街道右側に立派なお寺が現れます。真宗本願寺派の光明院常照寺です。
開山は天文7年(1538)、寛文年間(1661~1673)に天台宗から浄土真宗本願寺派に改宗しました。
ご本堂は明治42年(1909)の再建で、鐘楼と山門も明治末期の建築です。鐘楼の鐘は昭和27年(1952)の四日市大博覧会で展示されていた「平和の鐘」を譲り受けたものです。

常照寺ご本堂

常照寺を過ぎると、道筋は明らかに「鉤の手」状に鋭角的に曲がります。その曲りに「新設用水道碑」という大きな石碑と、その脇に「力石(19kgと120kg)」が置いてあります。茂福町(もちぶくまち)の力石と呼ばれているものです。

力石
力石

「明治時代中期、二つの寺の御堂を再建するため土台石の奉納があった。その際、地固めに集まった人達の間で、休憩時に奉納された石を持ち上げ力競べを行なわれた。茂福地区ではその後も大正の終わりまで力競べが続いた。」と説明版に記されています。

鉤の手を左に曲がると、再び大きく右手に曲がる次の鉤の手が現れます。その右角の一画に堂宇を構える立派なお寺があります。本願寺派の林光山證圓寺(とうしょうじ)といいます。

證圓寺山門
證圓寺境内

天文年間(1532~1555)に浄土真宗本願寺派に改宗したお寺です。戦国時代末期、茂福城主の茂福盈豊(もちぶくみつとよ)が織田信長家臣の滝川一益に伊勢長島で謀殺され、後に茂福城は落城します。その後、盈豊(みつとよ)の遺児は家臣に匿われて逃れ、後にその子孫が證圓寺住職を務めたといいます。

しばらく行くと右側に茂福(もちぶく)神社の石柱が立っています。茂福の産土神として地元では崇敬されています。茂福神社は元禄16年(1703)頃の東海道分間絵図に天王社と記載されていましたが、明治28年(1895)に現社名の茂福神社に改称されました。その後、明治42年(1909)に鳥出神社にいったん合祀されましたが、昭和25年(1950)に鳥出神社からご祭神を分祀し、茂福神社が再興されました。茂福神社は路地を入って300m程行かなければなりません。

茂福神社の参道入口を過ぎると、本日の歩行距離は2キロに達します。



そのまま進むと産業道路64号線と交叉する八田三丁目西交差点にでます。このあたりは自動車販売店や工場が多く、これまで歩いてきた道筋の風景とは異なる雰囲気が漂っています。

無味乾燥なあまり面白味のない道筋を進み、前方の米洗川(よないかわ)を渡る手前の右側に「羽津の常夜燈」といわれた燈籠が置かれています。

これまでとはちょっと異なる風景が続く中を進むと、米洗川(よないがわ)があり、橋を渡ると八田町へと入ってきます。

米洗川という川名ですが、「こめあらいかわ」とつい読んでしまいがちですが、「よない」と読むようです。
川の名の由来は志氐神社(しでじんじゃ)の天武天皇伝説に関係があるようです。志氏の氏の下に一を付けるのが本当のようです。米洗(よない)の名は、古の時代、天武天皇が伊勢神宮遥拝に供える御神酒を作るため、住民に麹づくりを教え、この川で麹にする米を洗ったことに因んでいます。

※志氐神社の参道入口が米洗川から約1キロ先のあります。

志氐(しで)とは珍しい名前です。その由来は天武天皇が皇子であった時に、壬申の難をさけて、吉野から鈴鹿を経て桑名の頓宮(とんぐう)にお出ましの途中、迹太川(とおがわ)の辺で天照皇大神宮を遥拝するため、ここに木綿(ゆふ)取重(しで)て御身の禊(みそぎ)をなされたので「志氐」の名がおこり、神社の名となったと伝えられいます。
そしてここでいう「シデ」とは神道のお祓いで神主さんがもつ「御幣(ごへい)」のことを指します。シデを「紙垂」と書くこともあります。

米洗川を渡ると、道筋は住宅街へと入ってきます。道筋にはちらほらと「窯」の文字が現れてきます。というのも四日市は万古焼の故郷ということもあり、街道筋に窯元が点在しています。そんな道筋を進んで行くと、街道右手に小さなお堂がぽつねんと置かれています。

地蔵堂

このお堂は地蔵堂でその傍らに伊勢国八幡神社碑があります。かつては八幡村という村名の由来になった八幡神社が鎮座していましたが、この八幡神社は明治41年(1908)に志氐神社に合祀されています。



桑名から旅を始めて、街道を飾る往還松の並木はほとんど姿を消してしまい、見ることができませんでした。かつては畷道にそって美しい松並木が並んでいたのですが、昭和34年の伊勢湾台風で被害を受けて姿を消してしまったといいます。
そんな往還松の名残である1本の松の木はこのあたりの地名が「川原須」ということから「かわらずの松」と命名され、街道脇に現れます。樹齢200数十年の古木ですが、寂しげに街道脇に聳えています。

かわらずの松

そして、しばらく歩くと享保10年(1725)に建てられという志氐(しで)神社の鳥居が現れます。
志氐神社の創建は定かではありませんが、社伝によると垂仁天皇の御世(前29~70年)ともいわれています。

志氐神社の鳥居

この志氐(しで)神社への参道入口が東海道筋にあることで、ここには面白い石が置かれています。この石は妋石(みよといし)と呼ばれているもので、街道を挟んで2つ置かれています。志氐(しで)神社にはイザナギ・イザナミという夫婦の神様が祀られていることから、縁結び、夫婦円満のご神徳があります。そのことから古来より、東海道を行き交う多くの旅人はこの妋石(みよといし)をなでて縁結び、夫婦円満を祈願したといいます。

妋石
妋石

志氐(しで)神社の鳥居からほんの少し進むと、街道右手に「八十宮(やそのみや)御遺跡」という大きな石碑がある光明寺が山門が現れます。光明寺は真宗本願寺派の寺です。

光明寺山門前
光明寺山門

時代は江戸時代の正徳の頃(1700年代の前半)のお話です。八十宮は吉子内親王(よしこないしんのう)の幼称で、異母兄に東山天皇、同母兄に有栖川宮職仁親王(よりひと)がいます。八十宮は生後1ヵ月で時の7代将軍、徳川家継公と婚約しましたが、夫となる家継もわずか6歳でした。しかし婚約した2年後に家継が死去したため史上初の武家への皇女降嫁、関東下向には至らなかったのです。

ということは八十宮自身、僅か1歳7か月で後家となってしまったのです。その後、八十宮吉子内親王は出家し、法号を浄琳院宮(じょうりんいんのみや)と称され、45歳で亡くなりました。ちなみに墓所は京都の知恩院にあります。

八十宮と光明寺の関係なのですが、宮は出家後、青蓮院(皇室と関わりが深い京都にある天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つ)所属の別殿に住まわれましたが、その時、光明寺第5世俊応の妹つね(宮名:岡田)が宮付きの青蓮院御曹司として召されました。宮は宝暦8年(1758)8月に薨去され、その際に、位牌と遺物3品がつね女に下賜されました。これらの品々は光明寺に奉安されていましたが、昭和20年(1945)の四日市空襲の際に収蔵庫が罹災し焼失してしまいました。

光明寺を過ぎると道が左へカーブ、すぐに右カーブ、そして国道1号線に合流します。ここから車の往来が激しい国道1号に沿って1キロ弱歩いていきます。ここまで来ると四日市市街までは目と鼻の先です。



金場町の交差点には小さな道標が立っています。
道標の表面には「右くわな 左四日市道」、右面には「右四日市、大矢知道」とあり、左面には「大正12年1月3日」、陰刻に「羽津四区除雪紀・・」と刻まれています。三ツ谷町交差点の角には四日市名物の「なが餅」を販売する「笹井屋」の支店が店を構えています。笹井屋の本店はこの先の「三滝川」を渡った袂に店を構えています。

金場町の交差点から700mほど歩くと、国道1号から分岐するように道筋が左へと入って行きます。その道筋に入る左手に「多度神社」が祠を構えています。明治18年(1885)に創建された神社です。
伊勢の国の二宮に列せられる多度神社の分社です。主祭神はアマテラスとスサノオの誓約で生まれたアマツヒコネノミコトです。
このことから神宮との関係も深く、「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かければ片参り」と言われ、古くから伊勢神宮に参拝するにあたって、多度神社も併せて参ることで「両参り」になるよう言い伝えられています。

そのまま進んで行くと海蔵川に突き当たり、東海道筋はいったん途切れてしまいます。「三ツ谷一里塚跡(99)」の石碑が海蔵川の土手際に置かれています。
江戸日本橋から99番目(約389km)、京三条大橋からは26番目(約110km)となる一里塚です。

三ツ谷一里塚跡

江戸時代の東海道の海蔵川には土橋が架かっていました。元禄3年(1690)の「東海道分間之図」には海蔵川に突き出た辺りに一里塚が記されています。昭和20年に川を拡張した際、一里塚だったところは川の中に入ってしまいました。土手際にあるこの石碑は最近になって建てられたものです。

東海道分間之図には海蔵川を「かいぞ川」と書いてありますが、国道に架かる橋には「かいぞうばし」と刻まれています。 
国道にかかる海蔵橋を渡ったらすぐ左折します。その少し先で道筋は二股になるので、右側へとつづく道が東海道です。とはいっても、この道筋は古い家がある訳でもなく民家と商店が続くだけです。

かいぞ川の眺め
かいぞうばし



かつての宿場のエリアへと入っていきますが、ここもご多分に漏れず、古い家並みはまったくのこっていません。国道1号線は旧街道にそって右手を走っています。

旧東海道筋を南下していくと、大きな信号交差点を渡ります。ほんの少し行くと、街道右手に宝来軒という和菓子屋が現れます。当店の名物は「大入道せんべい」です。

大入道とは日本古来の妖怪なのです。実は市内に社殿を構える諏訪神社で行われる例祭で使われる山車の中に「大入道山車」があります。この山車にはからくり人形が乗せられているのですが、首をのばしたり、舌をだしたり、目を剥くなどの仕掛けが施され、祭りに訪れた人々の目を楽しませたといいます。

諏訪神社で使われていた山車はかつては30基ほどあったのですが、戦災でそのほとんどが焼失してしまいました。幸いにも大入道山車は焼失を免れ、現在でも毎年8月第1日曜日に行われる「大四日市まつり」で登場します。

交差点から200mほど行くと小さな川の袂に「嶋小のだんご」の看板を掲げた「嶋小餅」が店を構えています。江戸時代の文政年間の創業。

更に進むと、三滝川に架かる三滝橋が見えてきます。その橋の袂にも「創業元禄 文蔵餅 三滝屋」の看板を掲げた店が現れます。

三滝川

さあ!この三滝橋を渡るといよいよお江戸から43番目の宿場町「四日市」の東木戸です。

広重の四日市宿の浮世絵は、川に突き出た縄手道の上に突然強風が吹き、吹き飛ばされた笠を追う男と 板橋を歩いて平然と立ち去る男を描いていますが、浮世絵にある三重川は三滝川のことで、海蔵橋から700mほどの距離です。

四日市の景

四日市宿は三滝橋を渡ったところから諏訪神社の手前までの六町二十間(約700m)の短い宿場町ですが、宿内人口は6890人 、家数1561軒、本陣2軒、旅籠111軒と比較的多いのです。

これは四日市が伊勢参詣に使われる伊勢街道の追分(分岐点)にあり、陸海交通の要所で商業が盛んな土地だったことによります。
江戸時代の寛永年間に刊行された「東海道名所図会」には「当駅海陸都会の地にして商人多く、宿中繁花にして、旅舎に招婦見えていと賑はし」と書かれています。

三滝橋を渡ると右側に「笹井屋菓子店」が店を構えています。

笹井屋

笹井屋は名物の「なが餅」を売る店で、創業は天文19年(1550)という極め付けの老舗菓子店です。日永(ひなが)の餅、長餅、笹餅などと呼ばれていましたが、現在は「なが餅」になっています。
津藩36万石藤堂家の始祖、藤堂高虎が足軽時代から「吾れ武運の長き餅を食うは幸先よし」と好んで食べたという菓子で、長き餅の名の通り、細長い餅の中に餡を入れて焼いた素朴な味で、程よい甘さが残ります。
なが餅(画像は笹井屋さんのHPから)
なが餅
◆笹井屋
住所:三重県四日市市北町5-13
電話:059-351-8800
◆なが餅7個(竹紙包み)¥648円(税込)

四日市はかっては浜辺の美しいところで、諸国の物産が集散する港町として栄えたところです。江戸時代以前から数多くの市場が開かれ、やがて毎月四日に立つようになったそうです。そこから四日市の名がついたと言われています。 

現在の四日市は空襲によって市内の大部分が壊滅しました。そしてその後の石油コンビナートによる海岸部の埋め立てにより、江戸時代の姿を思い浮かべること全く出来ません。街道の左右には普通の家やビルが建ち並び、古い建物は皆無です。

そんな雰囲気の旧街道の右側の福生医院が「問屋場跡」で、近藤建材店が「帯や本陣跡」、その先にある黒川農薬商会が「黒川本陣跡」です。しかしながらどれも解説板もないので不親切きわまりないのです。



旧街道はその先で164号線と交わる交差点にでてきますが、交差点を渡ると正面に「田中仏具」の看板があるビルの交叉点に出さしかかります。道はここで右にカーブするのですが、カーブする左側に「すぐ江戸道」の道標が立っています。

「すぐ江戸道」の道標

この道標には「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」>、「京いせ道・ゑどみち」、「文化庚午冬十二月建」と刻まれた道標で、文化7年に造られたものです。この先の「江戸の辻」に建っていたものを昭和28年に複製し、当地に置いたもので本物は個人蔵とのことです。「すぐ」とは「まっすぐ」の略です。

江戸時代の東海道はここから諏訪神社の前に向かって斜めに横断していましたが、区画整理で様相を一変し、それを辿ることはできません。この道標がある仏壇屋周辺がかつての宿場の中心地だったと思われます。道標のところで右に曲がり、国道1号線に出たら左折、最初の信号で国道を渡り、正面にあるアーケード形式の「スワマエ表参道商店街」に入ります。

スワマエ表参道のアーケードに入るとすぐ右側に「諏訪神社」が社殿を構えています。諏訪神社は建仁2年(1202)、信州諏訪の諏訪大社に勧請し分祀した神社で、当地の産土社です。また江戸時代の四日市宿の京側入口は諏訪神社でした。

諏訪神社社殿

私たちは諏訪神社に立ち寄り、その後、賑々しい飾り付けが施されたアーケード内を歩き四日市駅へと通じる中央通りへと向かいます。
アーケード内を貫く旧街道に「大入道」の大きなからくり人形が置かれ、首を伸ばしたり、縮めたりして注目を浴びています。
中央通に出ると右手奥に近鉄の四日市駅のターミナルビルが現れます。さすが三重県を代表する人口31万の都市の表玄関といった感じです。

この辺りは大変賑やかなエリアで駅ビルには百貨店が併設され、周辺には飲食店やホテルなども並び、さすが近鉄の駅前といったところです。私たちの本日の昼食は中央通りに面して店を構える「たまゆら」和食御膳を楽しみます。

昼食後、私たちは中央通を駅方面へ進み、ガードをくぐり反対側へ移動し、鵜森神社へと向かいます。。近鉄四日市駅の西側にある鵜森神社の周囲は、室町時代には浜田城があったところです。浜田城は現在の鵜ノ森公園のところに文明2年(1470)、田原孫太郎景信の三男の田原美作守忠秀が築城し、その後、藤綱、元綱など四代続きましたが、織田信長の部将、滝川一益に攻略されて落城しました。なお田原孫太郎景信は俵藤太秀郷の子孫とされ、鵜ノ森神社には、俵藤太秀郷が祀られています。

鵜森神社社殿
俵藤太稲荷
俵藤太稲荷



鵜森神社から別のルートを辿り、再び旧街道筋へ戻ることにします。中浜田町に入ると、道幅も狭くなり、これまでよりも古い家が筋道に現れます。この辺りは戦災を免れたのかもしれません。街道はゆるやかに右へカーブをします。その先で街道は四日市あすなろう鉄道内部(うつべ)線と並行して走ります。そして内部線の赤堀駅入口へとさしかかります。

古い街並みが続くこのあたりは赤堀集落と呼ばれ、 慶応年間(1865~1868)頃には居酒屋や傘屋、種屋、畳屋など多くの商家が立ち並んでいたといいます。右側に立派な古い建物があり、案内板に「寛延3年(1750)創業・鈴木薬局(旧鈴木製薬所)」とあります。

鈴木家は300年近く続く家柄で、第4代の勘三郎高春が寛永3年(1750)、蘭学の盛んな長崎に赴き、漢方を伝授され、赤万能即治膏萬金丹などの膏薬を製造、販売する旧家です。現在残る建物は嘉永5年(1852)に建てられたもので、がっちりした建物には歴史の重みが感じられます。 



赤堀駅を過ぎて、小さな落合川を渡ると前方が小高くなってきます。その一段高い所にあるのが「鹿化川(かばけがわ)」です。川を渡ると街道は「大宮神明社」へとつづく参道入口にさしかかります。

大宮神明社
大宮神明社鳥居
大宮神明社参道

「大宮神明社」は垂仁天皇の時代に倭姫命が天照大神を伊勢に遷す際、この社に一時留まったという伝えがあり、名所記に「松林のうちに、天照太神の社あり」と記されている神社です。
前身は500mほど西の岡山の地(現在の四日市南高校辺り)にあった「舟付明神」で、400年ほど前に炎上した後、現在の地に移ってきました。当時の岡山は海に面していた。と案内板に記されています。
尚、摂社の二柱大神社は大己貴命(おおなむちのみこと)少彦名命(すくなびこなのみこと)を祭神に祀り、病気平癒の神として名を知られています。鳥居からまっすぐにのびる参道の向こうに社殿が見えます。

大宮神明社への参道入口の先に信号交差点があり、右手に行くと内部線の日永駅があります。このあたりは相変わらず古い街並みがつづきます。更に進むと右側に真宗高田派の興正寺が山門を構えています。

興正寺山門

興正寺は貞観6年(864)の創建といわれる古刹です。天正2年(1574)に旧地(津の一身田)より現在地へ移って以来、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の保護を受けました。天白川の流れが境内の西・南辺を囲むように流れているのは、天白川築堤の際、滝川一益の命により堀の役目とするよう川筋を曲げたことが理由と伝わり、昔の人はこの堤を滝川堤と呼んだといいます。その先の小高い所を流れているのが天白川です。



天白川に架かる橋を渡ると右側に両聖寺が堂宇を構えています。信号交差点を越えると右側に名所記に「ひなの村。この村にも太神宮の御やしろあり」と記されている日永神社が社殿を構えています。

日永神社鳥居

神戸藩主本多家の崇敬が厚かったという日永神社はその昔、南神明社といった古い神社でしたが、創建の時期はよく分かりません。明治40年に周囲の神社を合祀して現在の名前になったとあります。 

境内の片隅にある「石柱」は日永追分の神宮遥拝鳥居の傍らに立っていた道標です。案内板には「嘉永弐年(1849)に現在の道標に替えられた時、この道標が不用になり、近くの追分神明社に移され、明治の神社統合により追分神明社が合祀された際、道標もここに移されたと推定される。と記されています。石柱の正面には「大神宮いせおいわけ」 右側に「京」 左側に「山田」 、裏面に「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 專心」と刻まれていて、明暦2年(1656)に專心という僧侶の手で建てられたことが分かります。 

隣にある長命山薬師堂薬師如来像は平安末期から鎌倉期のものといわれ、市の有形文化財に指定されています。 

さあ!いよいよ感動のお江戸日本橋から数えて100番目の一里塚が近づいてきます。一里塚といってもいつものように跡を示す石柱なのですが、その佇まいがなんとも寂しいのです。記念すべき100番目の石柱は建物と建物の間の狭いスペースに目立たない存在で私たちの前に突然現れます。気が付かなければ通り過ぎてしまいます。

いずれにしても江戸から100番目となる「日永(ひな)一里塚跡」の碑が立っています。記念すべき100番目の一里塚跡なのですが、その佇まいからまったく感動を覚えません。
江戸日本橋から100番目(約393km)、京三条大橋からは25番目(約105km)となる日永(ひな)一里塚跡です。

日永一里塚跡



「日永一里塚跡」から1㎞強歩くと、旧街道は国道1号と合流します。国道1号と合流してから150mほど進むと、三叉路にさしかかります。ここが「日永(ひな)の追分」です。

日永追分

日永(ひな)の追分は東海道と伊勢参宮道との分岐点で、東海道中の四日市宿と石薬師宿の間に位置することから間の宿ともよばれ、街道時代には周辺にたくさんの旅籠や立場茶屋などが並んでいたといいます。

現在の分岐点には三角形の敷地が造られ大きな鳥居が置かれています。

追分の鳥居

日永(ひな)の鳥居は安永3年(1774)、久居出身の渡辺六兵衛という商人が江戸から京都に行く途中、ここから伊勢神宮を遥拝するのに鳥居がないのは残念と、この土地を購入し江戸の伊勢出身者に募って建立したものです。

桑名の一の鳥居に対し二の鳥居といわれるもので、この鳥居も伊勢神宮の遷宮に合わせて、二十年毎に建て替えられることになっています。現在の鳥居は昭和48年(1973)の式年遷宮の際に、伊勢神宮内宮の別宮の一社、伊雑宮(いざわのみや)の鳥居を昭和50年に移設したもので9代目にあたります。

鳥居の脇には常夜燈や道標等が立っていますが、嘉永2年(1849)建立の道標には「右 京大坂道」、「左 いせ参宮道」と刻まれています。伊勢街道は鳥居の下を通っていましたが、道路改修の際、現在のように道がずらされ、三角地は小公園になってしまいました。
鳥居の脇にはなんと湧き水が!飲めるようです。

追分の湧水

江戸時代にはこの付近に数軒の茶屋があり、鈴鹿を目指す者も伊勢に向かう者もここで休憩して身支度をしたり、腹ごしらえをしたのでたいへん賑わった場所なのです。また団扇が特産で、特に夏には日永団扇を土産物として買い求める旅人が多かったといいます。
日永追分から右に分かれる道が東海道筋で、左へ行くのが伊勢街道で、伊勢神宮に至ります。

日永のうちわ



道標通り右へ行くと内部線の追分駅があり、内部線の踏み切りを渡ったらすぐ左の細い道に入ります。4年前まではこの細い道に入るとすぐに「追分まんじゅう」の岩嶋屋があったのですが、今はありません。残念!

ここ追分茶屋の名物は「まんじゅう」だったのです。東海道中膝栗毛」の中で弥次さん喜多さんは「名物の饅頭のぬくといのをあがりやあせ。お雑煮もござります。」と茶屋の客引きにあい、美人のいる鍵屋に入ったのだが、居合わせた金毘羅参り途中の旅人と饅頭の食べ比べをすることになり、賭けに負けてしまう。相手は手品を使い食べた振りをしていたのが後で分かり悔しがる、という話です。

道筋はマセ美容室を過ぎると、やや左へとカーブを切っていきます。その先に堂宇を構えるのが大蓮寺、そして隣接するように慈王山観音寺があります。

観音寺門前

観音寺は禅宗の一派の黄檗宗の末寺です。山門は四脚門形式で、屋根の両端に異国風のマカラを上げています。観音寺の左脇の路地を入って行くと小許(古)曽神社(おごそじんじゃ)が社殿を構えています。観音寺を過ぎ、東海道筋は鋭角的に右へ曲がります。



旧小古曽村の集落を進むと、旧街道は連続して鉤の手のように曲げられます。この鉤の手は街道時代からももので、かつてこの辺りに大きな寺院があり、このため街道の道筋を寺院の境内に沿ってつけたことで、このように鋭角的に曲げられたと言われています。最初の角を右に折れると、その道の奥に真宗高田派の願誓寺の山門が見えます。

旧小古曽村は河村家が代々、庄屋を務めており、江戸時代の寛政年間(1789~1801)には「大人良薬 天元養気円」や「小児薬 健脾円」を自ら開発、販売を手掛けたといいます。これらの薬は上方で人気が高まり、その後、広く世間に広まったといいます。

願誓寺の山門を見ながら、今度は左へ折れて進んで行くと、前方にこの辺りでは唯一の立派な建物として目立つ山中病院が見えてきます。この山中病院を過ぎると、左奥に四日市あすなろう鉄道・内部線の終点駅「内部駅」があります。

内部駅

ターミナルステーションなのですが、ローカル線そのものの小さな、小さなほったて小屋のような駅舎で、駅周辺に商店街があるわけではありません。洒落たコーヒーショップもコンビニもありません。このためトイレを借りるには困る場所です。
緊急の場合は内部駅のホームにトイレがあるので、駅員にお願いすれば借りることは可能です。

そんな内部駅を横目で見ながら小古曽三丁目交差点を渡り、旧街道筋へと入り、進んでいくとまもなく内部川に架かる橋の袂へとさしかかります。そして内部川に架かる内部橋を渡ります。
橋上から眺める景色は、大都市四日市の香りは薄れ、ローカル色を漂わせるような雰囲気に変わります。そして私たちが進む方向には小高い山が控えています。



内部川は古には三重川と呼ばれたようで、万葉集の第九巻に「わが畳 三重の河原の磯うらに 斯くしもがもと 鳴くかはづかも」(伊保麻呂)と詠われています。江戸時代には橋があったといいますが、旧道は橋の袂でいったん途切れているので、左側に走る国道1号の内部橋を渡って対岸へ向かいます。対岸は四日市市采女町です。 

采女とは宮廷で天皇に仕えていた給仕など雑用をする女官のことで、地方豪族から未婚の美女がつかわされました。地名の「采女」は21代雄略天皇に仕えていた三重出身の采女が天皇の許しを得てこの地の名前にしたといわれています。 

橋を渡り終えたら右側の階段で下に降りて国道の下をくぐりぬけ、直ぐに右折すると国道に平行する小道で、青い橋で川を渡ると左側にマックスバリュの駐車場があります。駐車場の脇の道を進み直進していきます。
そしてこの先にあの日本武尊が傷ついた体を曳きづりながら登ったという杖衝(つえつき)坂へと延びています。日本武尊は第12代景行天皇の皇子で各地を征討した武人です。

マックスバリュのあるところから、ほんの少し登り坂のような道筋を進み、突き当たったところで右折し、国道1号にでる手前(Ⓐ地点)を左へ曲がります。少し行くと道の正面の小高くなっているところに「金比羅堂(Ⓑ地点)」が建っています。金比羅堂の境内には日本武尊の墓と伝えられるものがあります。

古事記には「日本武尊は幾多の苦難の末に東国を平定して帰途についたが、伊吹山で荒ぶる神の祟りを受けて深手を負った。大和に帰るため伊勢国に入り、このあたりまで来た時、急坂で登れなくなり、持っていた剣を杖してようやく登ることができた。」と伝わっています。このことからこの坂を「杖衝坂(つえつきざか)」と呼んだようです。
日本武尊はこの時、「吾か足は三重の勾がり(まがり)の如くして、はなはだ疲れたり」といったといいます。この「三重」が現在の三重県の名の由来といわれています。

尚、日本武尊の墓はここ杖衝(つえつき)坂には置かれていません。傷ついた体を引きずりながら、杖衝(つえつき)坂を登り、伊勢国能褒野(ノボノ)にたどり着くも、ここで力尽きてしまいます。故郷を想う日本武尊の魂は白鳥となり、大和に舞い降りると、さらに天高く飛び立っていったそうです。

そして伊勢国能褒野で亡くなられたという古事記、日本書紀の記述に基づき、全長90m、後円部の径54m、同高さ9mと三重北部最大の前方後円墳が、明治12年に内務省により「日本武尊御墓」と定められ、現在も宮内庁により管理されています。

金比羅様の前を過ぎると杖衝坂は左右とカーブし勾配が急に険しくなってきます。杖衝坂の長さは200m程ですが、高低差が50~60mとかなりの急坂です。

坂の中腹には昭和4年(1929)に県が建てた「杖衝坂」の石碑があり、その先に「芭蕉句碑」が置かれています。

杖衝坂の石碑
芭蕉句碑

芭蕉の「笈の小文」に「貞亨4年(1687)、 美濃より十里の川舟に乗りて、むかしも桑名よりくはでと詠る 日長の里に馬かりて杖つき坂をのぼるほどに 荷駄打ちかへりて 馬上がり 落ちぬ 」とあり、「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」という季語がない句を詠んでいます。句碑を建てたのは、村田鵤州(かくしゅう)で、宝暦6年(1756)のことです。

芭蕉の句の意味は「歩いて登ればこんなしくじりをしなかったのに、庶民(芭蕉を指す)の身ながら、おこがましくも馬に乗ったばっかりに、急な坂で荷鞍が打ち返り、落馬してしまった。この坂は遠い昔、景行天皇の皇子、日本武尊が重い病をおして、都に帰りたい一心から、腰の剣を杖にして、吾が足三重に曲がる程疲れたとおっしゃりながらも、あえぎあえぎ越えられたのだった。 歩いてのぼればよかったのにもったいないことをした。」ということのようです。

杖衝坂には弘法大師の伝説も残っています。水に窮していた村人が、弘法大師が杖で指し示す場所を掘ったところ、清水が湧き出たという「弘法の井戸」が今も残っています。



その井戸の下手にもう一つ井戸があり、こちらは「大日の井戸」と呼ばれています。地元の伝承ではかつて坂の中腹にあった大日堂の閼伽水(あかみず、仏に手向ける水のこと)として使われた井戸と伝えられています。



急坂を登りつめると「血塚社」があります。日本武尊が坂をようやくの思いvで登り終え、血止めをしたところといわれています。

坂を登りきると道筋はほぼ平坦となり、その先で旧街道は国道1号と合流します。合流するちょっと手前にちょっとした広場が現れます。その広場から右手後方っvを眺めると、四日市のコンビナートの煙突や市街がパノラマのように広がっています。
私たちが進む道筋の右側は国道1号が走っています。



「采女一里塚碑」は国道1号を隔てた反対側にある出光のガソリンスタンドとマルエイ設備の間に置かれています。江戸日本橋から101番目(約397km)、京三条大橋からは24番目(約100km)となる一里塚跡です。国道1号線の反対側にあるため遠目でしか見ることができませんが、僅かばかりの石碑が置かれているだけで、旧東海道の面影も残っていません。

道の左側にある「豊冨稲荷神社」は平安時代後期の寛治2年(1088)創建の古社で、江戸時代には参勤交代の大名が通行する際に庶民や旅人が土下座する土下座場があったといいます。
江戸時代の街道の道幅は場所によって違いはありますが、一般的におおよそ3間(約5.4m)は確保されていたといいます。しかし場所によっては3間を確保できず狭い道幅の個所があったようです。
そんな場所に行列を邪魔しないように、道幅を一部膨らませ、土下座する場所を造ったようです。

ただし大名行列に遭遇した場合、かならずしも土下座をしなければならないということではなかったようです。よく「した~に、した~に」と言いますが、これは将軍家、御三家、一部の雄藩の行列で使われたもので、この場合は土下座をする必要があります。
一般の大名の場合は「かたよれ、かたよれ」と言ったようで、この場合は街道脇に控えて、土下座する必要はありませんでした。

さあ!まもなく第二日目の終着地点の采女のサークルK前に到着です。近鉄富田駅周辺からここまでちょっと長めの15.5キロの歩行距離でした。

第三日目の出発地点はここ采女のサークルK前からです。明日はここから44番目の石薬師宿、45番目の庄野宿を経て関西本線の小さな駅・井田川までの11キロを踏破いたします。

私本東海道五十三次道中記 第30回 第1日目 桑名七里の渡しから四日市富田へ
私本東海道五十三次道中記 第30回 第3日目 石薬師、庄野を辿り関西本線・井田川駅前まで

東海道五十三次街道めぐり・第三ステージ目次へ





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

私本東海道五十三次道中記 第30回 第1日目 桑名七里の渡しから四日市富田へ

2015年10月21日 10時17分12秒 | 私本東海道五十三次道中記


前回の3日目は東海道の街道めぐりの旅の中でも最も感動的な「海上七里」の船旅を体験しました。
尾張の国の「宮の渡し」から桑名までの、およそ2時間30分の船旅は徒歩の旅とは違った趣と江戸時代の旅人と同じような気分で束の間の休息を味わえたのではないでしょうか。
そして私たちはいよいよ伊勢国へと足を踏み入れます。思えば遠くへ来たもんだ!私たちの東海道の旅も残すところ伊勢国、近江国、山城国の三か国になりました。
そんな伊勢国は私たちにどんな感動を与えてくれるのでしょうか?それでは出立です。

桑名住吉浦

おっと!出立前に大切なことを忘れていました。
桑名と言えば、ご存じ「焼き蛤」。当然、これを食してからの出立とまいりましょう。

焼き蛤

江戸時代の初期、慶長6年(1601)に幕府は東海道の宮宿と桑名宿の間は海上七里を船で渡ると定めたのです。
明治維新で街道の様々な施設や渡しが廃止され「七里の渡し」も姿を消してしまいました。
このため前回のような船をチャーターする以外は宮の宿場から桑名の宿場へと辿るためには、国道1号または26号を歩くか、名古屋から近鉄線に乗って桑名へ移動するしかありません。
ちなみに宮宿から桑名宿までの陸路での距離はおよそ28キロ(7里)あります。

30回を迎える私たちの東海道の旅はここ桑名宿の入口に近い「住吉神社」が出立地点となります。
神社前の2基の常夜燈は材木商達が寄進したもので「天明八戌申年十二月吉日」と刻まれています。

桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として、十楽の津と呼ばれ、米や木材などいろいろな物資が集散する商業都市として発達していました。住吉浦には全国から多くの廻船業者が集まり、これらの人達によって航海の安全を祈り、江戸時代の中期に大阪の住吉大社から勧請して住吉神社を建立したのです。ちなみに住吉大社は航海の神、湊の神を祀っています。

住吉浦の駐車場の前の道を挟んで反対側にあるのが「六華苑」です。六華苑はここ桑名の名家として知られていた諸戸清六氏の屋敷跡です。諸戸氏の御先祖は長島一向一揆の時から大庄屋で、かつての木曽岬町(現在の長島)に居を構えていました。
しかし清六氏の父、清九郎が幕末の弘化4年(1847)に塩問屋の商売に失敗し、ここ桑名に移ってきました。その時、父が残した借金は千両以上で、手元に残ったものは二十石積みの小さな船が一艘だけでした。清六は債権者に「無利子10か年」の返済を頼み込んで、寝る間も惜しんで、コメの仲買業に励み、なんと3年で借金を完済してしまいました。
折しも、明治維新を迎え、時代が大きく変わって行く中で、清六は事業を更に拡大させ、その後はとんとん拍子に運が開け、多くの政府要人、三菱財閥の岩崎弥太郎などの信頼を得て、明治11年(1878)には大蔵省御用商人になりました。
そして明治18年にこの場所に土地を購入し、居を構えたのです。清六は明治39年に61歳で亡くなっています。

◆大正2年(1913)に完成した建物はジョサイヤ・コンドルの設計。洋館と和館が連結された様式で上野池之端の旧岩崎邸に似ている。庭園は国の名勝に指定されています。

安藤広重の「東海道・桑名」の絵は桑名城を背景に七里の渡しの帆掛け舟が描かれています。
桑名宿は東海道五十三次で42番目の宿場で、旅籠では宮宿に次いで2番目に多い宿場でした。元禄14年の東海道宿村大概帳によると宿内の総家数2544軒、宿内人口は、男子4390人、女子4458人、計8848とあり、本陣が2軒、脇本陣が4軒、旅籠は120軒あったと記されています。

前述の通り、江戸時代には尾張から桑名にくるには海路の「七里の渡し」によるか、川路の佐屋街道を利用するいずれかの方法を利用していました。
街道時代には京や大阪に向かう人の他、お伊勢さん詣の旅人の利用が多かったので、桑名宿の賑わいはたいそうなものだったと思われます。

そして 明治に入り徒歩の旅から列車の旅へと変っても、しばらくは揖斐川上流の大垣との間に人荷の流通があり、船着き場は客船や荷物船の発着場となっていました。しかし鉄道網の整備が進み、さらには陸路での輸送手段が発展するとともに、これら船を利用する運搬手段は廃れていってしまいました。



かつての船着き場があった場所には伊勢神宮遙拝用の一の鳥居が建っています。

七里の渡し碑
かつての船着き場
伊勢神宮遙拝用の一の鳥居

江戸時代の天明年間(1781~1789)に伊勢国のはじめの地にふさわしい鳥居をと願い、矢田甚右衛門と大塚与六郎が関東諸国に勧進して建てたのが始まりです。明治以降は20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮のたびに伊勢神宮の宇治橋外側の鳥居(一の鳥居)を削って建て直されています。

その脇にある常夜燈(常燈明)は江戸や桑名の人達の寄進によって天保4年(1833)建立されたもので、以前は鍛冶町の東海道筋に置かれていましたが、交通の邪魔になるのでここへ移築されたといいます。
昭和37年の伊勢湾台風で倒壊した後、元のままの台石に安政3年(1856)銘がある上部を多度大社から移して再建しました。

一の鳥居の先にお城の櫓のような建物が見えています。実はこのあたりにはかつてこの場所にあった桑名城の三の丸がありました。
城内にあったことを示す櫓が再現されていますが、この櫓は蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)と呼ばれています。

蟠龍櫓
蟠龍櫓

桑名城には元禄大火後に51の櫓があったと記録されています。その中で河口に位置する七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。広重の桑名の景でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。

「蟠龍」とは天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として、中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。この「蟠龍」をかたどった瓦があったことから、蟠龍櫓と呼ばれています。
◇利用可能時間(2階展望室一般開放時間):午前9時30分~午後3時
◇休館日:月曜日
尚、この櫓は「水門統合管理所」として使用されているものですが、内部には展示物が数点置かれています。また見晴のきく大きな窓がないので、眺めはイマイチ!

さて住吉神社から旧船着場へと歩いてくると、右手に大きな料亭風の建物が見えてきます。
この建物は江戸時代に大塚本陣がおかれていた「料亭船津屋」の建物です。尚、現在、船津屋は結婚式場に姿を変え、その名称もモダンな「THE FUNATSUYA」と英語表記になっています。

THE FUNATSUYA
THE FUNATSUYA

そしてその隣に「山月」と看板がでているのが「料理旅館」として営業をしていた「山月」です。「営業をしていた」と記述したように、現在は店を閉じています。ここ山月のある場所はかつて「駿河屋本陣」が置かれていました。

その山月の玄関口にも石碑が置かれています。石碑には「勢州桑名に 過ぎたるものは 銅の鳥居に 二朱の女郎」と刻まれています。「銅の鳥居」はこの先の春日神社の青銅の鳥居のことです。また「二朱の女郎」については、「二朱」は「二朱判銀」で二枚で銀一分に、八枚で金貨一両にかわります。一分以上掛かる遊女が高級遊女で「二朱女郎」は一段落ちる遊女なのです。

【泉鏡花の歌行燈と船津屋】
明治42年秋、泉鏡花は講演旅行のため、後藤宙外(ごとうちゅうがい)、笹川臨風(ささかわりんぷう)らとともに桑名を訪れました。小説『歌行燈』は、その時の旅情をモチーフにした作品。そして、彼らの泊まった船津屋は、主要舞台のーつとなる湊屋のモデルとなった。この小説は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」を参考にして書かれています。登場人物も弥次郎兵衛、捻平という老人たちを主人公に、2人の滑稽なやりとりで進行していきます。そして作品の中で弥次郎兵衛と捻平が馬車で湊屋へ向かう場面では、板塀や土塀、枯れ柳にちらつく星、軒に白く浮かぶ掛行灯など、鏡花は町の表情を印象的に描いています。

船津屋の塀のくぼんだ所に句碑が一つ置かれています。鏡花の歌行燈を戯曲化した久保田万太郎の歌が刻まれていいます。
「かわうそに 火をぬすまれた あけやすき」
「かわうそ」は歌行燈に登場します。久保田は鏡花を偲んで、とうとう一夜を語り明かしてしまったという意味です。「あけやすき」は「夜が明けるのが早い」という意味です。

さあ!出立です。かつての船着場から東海道を南下することにしましょう。
船着場から春日神社あたりまでは、船宿や旅籠が軒を連ねていました。その先の右側には泉鏡花の歌行燈と書いたうどん屋があり、さらにその先の交差点の左角にある明治4年(1871)創業の柿安本店が店を構えています。柿安は文明開化以来の牛鍋屋の老舗です。

旧街道に沿った家並は古い建造物はほとんどなく、新しい家並みに変わっています。また賑やかさはほとんど感じません。
現在の桑名の繁華街はJR桑名駅と近鉄桑名駅がある駅前周辺にあります。駅からはちょっと離れた場所にある旧宿場町はちょっと寂れた感じさえします。

柿安の角を左折すると多聞橋舟入橋があり、それらを渡ると左手に鹿の角をあしらった兜を被った本多忠勝の大きな銅像が置かれています。

それでは関ヶ原以降の江戸時代の桑名藩について簡単に説明しておきましょう。

関ヶ原の戦いの翌年(慶長6年/1601)、家康公は徳川四天王の一人本多忠勝を上総大多喜藩から桑名10万石に封じます。忠勝はすぐさま四層六重の天守をはじめ、51基の櫓と46基の多聞を備えた桑名城を築城し、更に葦が生え茂った湿地帯に城下町を整備したことで「桑名の基礎」を築いた人物として評価されています。

本多家は忠勝、忠政の2代にわたり桑名を治めたのち、忠政は大阪の陣後の元和2年(1616)に播磨姫路藩に15万石で移封されます。

本多家の後、元和2年(1616)に家康の異父弟である久松松平家(親藩)松平定勝が山城伏見藩5万石から6万石加増の11万石で入封します。

松平定勝は戦国時代に刈谷城主であった水野忠政の娘である「於大の方」久松俊勝と再婚して儲けた子供です。
御存じのように、於大の方は三河の松平広忠と結婚し、儲けた子供が竹千代(後の家康公)です。
戦国時代の一時期、水野家は松平家とともに駿河の今川側として三河一帯を治めていましたが、忠政の死後、水野家を継いだ次男の信元は親今川から尾張の織田信秀と同盟を結びます。
これにより、水野家から松平広忠へ嫁いだ於大の方は広忠から離縁を言い渡され、実家の水野家へ戻ることになります。このとき竹千代(家康公)はまだ2歳です。

そして広忠と離縁した於大の方は3年後に信元の意向で知多郡阿古居城の城主である久松俊勝と再婚し、三男三女を儲けます。その三男の一人が久松松平家の定勝です。ということは定勝は家康公と異父弟ということから、徳川家とはかなり血筋が濃いため久松家は「松平」の姓を与えられ親藩格の大名として明治維新まで存続します。

さて、久松松平家の桑名支配は定勝、定行、定綱、定良、定重と5代94年間にわたってつづきました。定重の代の宝永7年(1710)に11万3千石で越後高田藩に移封されます。

久松松平の後、宝永7年(1710)に奥平松平家(親藩格)の松平忠雅が備後福山藩から10万石で桑名に入封します。この奥平松平家は家康公の重臣である奥平信昌と家康の長女・亀姫との間に生まれた四男・松平忠明の系統のお家柄です。家康公の長女の嫁ぎ先であるので奥平家も当然、親藩格の大名です。そして奥平松平家は忠雅以降、7代113年にわたって桑名を治めます。

そして時代は江戸後期へとさしかかる文政6年(1823)、再び久松松平家定永が陸奥白河藩から11万石で桑名に入封します。この久松松平の2回目の桑名支配時代を第2次久松松平時代といいます。
定永はあの寛政の改革を断行した松平定信の嫡男です。どうして陸奥白河藩の久松松平が再び桑名藩主に返り咲いたかというと、あの定信公が先祖伝来の桑名に戻りたい旨を時の将軍である家斉に願い出たところ、寛政の改革の功労に報いる形で実現したといいます。
しかし、これを希望した定信公は高齢を理由に桑名にくることはありませんでした。

第2次久松松平家の桑名支配は5代45年にわたり続きましたが、時は幕末から明治維新へと激動の時代へと進んでいきます。
そして幕末の安政6年(1859)に美濃高須藩の松平定敬(さだあき)が久松松平家の婿養子として迎えられ、第4代桑名藩主となります。
定敬は御三家筆頭の尾張藩主・徳川慶勝徳川茂徳会津藩主・松平容保石見浜田藩主・松平武成らの実弟にあたることで、徳川親藩格の藩主です。そんな血筋の良さが災いしてか、定敬は元治元年(1864)に京都所司代に任命されます。
この時、兄の松平容保は京都守護職にあり、兄弟そろって京都の治安維持に奔走していたのです。

そして容保と定敬の良き理解者であった孝明天皇が崩御されると幕府の権威は一気に失墜し、王政復古の大号令、大政奉還、そして鳥羽伏見の戦いへと進み、会津と桑名藩は薩長と激突することになります。

鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名をきせられ、慶喜公と共に江戸へと逃げ帰ることになります。江戸に移った定敬は兄の容保とともに徹底抗戦を主張しましたが、慶喜公が恭順派に回った上に、戦の責任を容保と定敬になすりつけるという愚挙に出たのです。
新政府軍が決めた朝敵5等級で会津の容保と桑名の定敬は第2等級、慶喜公は第1等級です。
慶喜公に見捨てられた定敬は兄の会津藩主容保と共に新政府軍に対して徹底抗戦を行うことを決定しました。

会津戦争は新政府軍の勝利となり、敗軍の将となった定敬は榎本武揚とともに函館に渡ります。
新政府軍が五稜郭に迫る中で、桑名藩の家老職であった酒井孫八郎は単身、五稜郭に潜入し定敬を連れ出し、船に乗せ江戸へ向かわせようとするのですが、定敬はなんと上海へ逃亡しようと計画します。しかし路銀がままならず新政府軍に降伏することになりました。

戊辰戦争で敗れた旧幕軍の中でも、新政府軍から徹底的にいじめられたのが会津と桑名です。このため桑名城は新政府軍により焼き払われ、櫓もすべて灰燼に帰してしまいました。
桑名城があった場所は現在「九華公園」となっていますが、新たに整備された堀垣は古さをまったく感じることができず、無数の堀の中にただ空地があるという公園になっています。

私たちの街道めぐりの旅では九華公園には入らず、旧街道筋を直進します。街道を歩いていると「井」の字を刻んだ白っぽい石が嵌めこまれている場所があります。これは「通り井」というもので、過ぎ去った時代の水道の跡を示すものです。桑名は地下水に海水が混じるため、寛永3年(1626)に町屋川から水を引いた水道をつくり、町内の主要道路の地下に筒を埋め、所々の道路中央に正方形の升を開けて、一般の人々が利用した。これを「通り井」と言います。

静かな雰囲気を漂わす旧街道を進んでいきましょう。柿安本店がある角から街道をさらに南下すると、右側に延びる参道入口に大きな青銅製の鳥居が立っています。春日神社の鳥居です。
「勢州桑名に 過ぎたるものは 銅の鳥居に 二朱の女郎」と詠われたのがこの鳥居です。
街道時代はこの鳥居前は広小路になっていて、宿内の盛り場として賑わっていたといいます。現在の門前は静かな雰囲気を漂わせています。

春日神社の鳥居

春日神社は桑名宗社ともいわれる神社で、 旧桑名神社(祭神三崎大明神)と中臣神社(祭神春日大明神)を合祀した桑名の総鎮守社です。このため本殿が二つに分かれており、桑名・中臣の両社を祀っています。中臣神社は古来から桑名で崇敬されている地主神ですが、永仁四年(1296)に奈良から春日四柱を勧請し合祀してから春日大明神と言われるようになりました。そして8月の石取祭は春日神社の祭りです。
向かって右側の社殿が旧桑名神社、左側が中臣神社(なかとみ)です。

青銅鳥居は高さ7.6mの大きなもので、寛文7年(1667)に第1次久松松平家の5代藩主「久松松平定重」250両もの大金を投じて、辻内善右衛門に命じ建立したものです。その後、何度も天災や戦災で被害を受けましたが、その都度修復されて今日に至っています。

鳥居の左側前の大きな石柱は「しるべ石」といわれるもので、江戸時代の迷子の捜索板です。
「しるべ石」は人が多く集まる場所に立てられました。「たづぬるかた」面に尋ね人の特徴を書いた紙を貼りだし、心当たりのある人が「おしゆるかた」面へ、その旨を記した紙を貼るようにしてあります。お江戸浅草浅草寺境内にもあります。

鳥居の先の楼門(随神門)は天保4年(1833)年に第2次久松松平家の第1代藩主松平定永の建立したものだったのですが、昭和20年の空襲で焼失してしまい、平成7年(1995)に再建したものです。神社の境内には文化3年と刻まれた常夜灯や明治天皇に供した御膳水の井戸があります。この井戸は水質が悪かった桑名では良質な水を提供していた井戸です。

春日神社随身門
春日神社社殿
春日神社前の旧街道

春日神社から更に東海道を南下していきます。すると左側の掘割に沿って「歴史ふれあい公園」と名付けられた細長い公園が現れます。公園の入口には「日本橋」を形どったミニチュアの橋が架かっています。遊歩道がつづく公園内を進むと、東海道筋に現れる名所がデホルメされて置かれています。そして公園が終わる場所には東海道の最終地点の三条大橋のミニチュアが置かれています。

日本橋のミニチュア
三条大橋のミニチュア

「歴史ふれあい公園」にそって濠がつづいています。この堀は桑名城を囲む城壁の一部で、正面の堀川東岸の城壁は川口樋門(揖斐川に出る)から南大戸橋に至る約500メートルが残っています。
この小公園を過ぎると道は突き当り、左側にあるのが「南大手橋」です。東海道はここで右折します。
少し行くと右側に石取会館(入場無料)があり、石取祭のビデオや祭に参加する山車のミニチュアを展示しています。

◆石取祭
石取祭の起源は江戸時代初期の頃で、神社の祭場へ町屋川の石を奉納した神事といわれ、毎年8月第1土曜日の午前0時から日曜日深夜まで行われます。町内毎に大太鼓一張と鉦を4~6個持つ山車があり、それが30数台集まって、東海道筋を練り歩きます。
そして全山車が桑名宗社(春日神社)への渡祭(とさい)が終了するまでの二日間、お囃子を打ち鳴らして練り歩くので、「日本一やかましい祭」といわれています。

石取祭のいわれには3つの説があります。
①石占い:石を持って重く感じるか、軽く感じるかで神意を判断する
②社地(境内)の修理:川が近く土地が低いため、石を持ってきて社地を敷き直した
③境内で行われる流鏑馬の馬場を修理するために、川から石を運んだ

旧街道筋は613号線との京町交差点にさしかかります。その交差点の左側には桑名市博物館(入場無料)があり、その壁際に石の道標が置かれています。「右 京いせ道、左 江戸道」と書かれた石道標で下の方は欠けているようですが、東海道筋に置かれていたものをここに移設した、とあります。

京町交差点を渡り、最初の四つ角の右側に「毘沙門堂」があります。そのまま真っ直ぐ進むと小さな「京町公園」があります。この場所が「京町見附跡」です。

京町公園

毘沙門天堂の角を左折して「よつや通り」へと進んでいきましょう。よつや通りが通る吉津屋(よつや)町にはやたら仏壇屋が多いのです。それもそのはずこの先には寺町と言われるほど寺が密集しています。



この先の信号交差点を渡ると「鍛治町」と町名が変ります。この先で街道の筋道は城下町や宿場町特有の「鉤型」になっている場所にさしかかります。道筋は鉤型と言われているように、くねくねと折れ曲がっています。そんな道筋を進むと右側に桑名名物の佃煮の「しぐれ煮」を扱う老舗の「貝増商店」が店舗を構えています。

桑名の名物の蛤を土産にと願う声が高まり誕生したのが、蛤を溜まり醤油で煮て作った佃煮で「桑名の殿様 しぐれで 茶々漬 」と唄われるほどの人気ぶりだったようです。

「桑名の殿さんしぐれで茶々漬け」と歌われている殿さんとはいったい誰なんでしょう?

実はこの歌に出てくる「殿さん」は江戸時代の桑名の殿様ではありません。ここ桑名には明治から大正にかけて米の取引所が開設され、米相場で大もうけをした大旦那衆がたくさんいたそうです。その旦那衆が儲けた金をもって東京の赤坂や日本橋の芸者衆と大いに遊んだそうです。そして酒宴の最後に旦那衆は「しぐれのお茶漬け」を好んで食べたことで芸者衆がこのような歌を作ったといわれています

東海道名所図会にも「初冬の頃美味なるゆえの時雨蛤の名あり、溜まりにて製す」とありますが、時雨蛤という風情ある名前は芭蕉門下の各務至考の考案らしいです。

その先の四差路を左へ曲がると民家の前に「鍛冶町常夜燈跡」の説明板があります。
「常夜燈は七ッ橋近くにあり、天保4年(1833)、江戸、名古屋、桑名241人の寄進で多度神社の常夜燈として建てられたもので、戦後道路拡張で七里の渡し跡に移した。」とあります。ということは七里の渡しで見た常夜燈は実はここにあったのです。なお七ッ橋は埋められて今はありません。

「いもや本店」のある四つ角を右折して、そのまま旧街道を進んでいきましょう。町名はすぐに「新町」へと変ります。右側の教宗寺の先に「泡洲崎八幡社」があり、「右 きやういせみち 左 ふなばみち」の道標が置かれています。
桑名の地形は古い時代には町屋川の流れにより、自凝(おのころ)洲崎、加良(から)洲崎、 泡(あわ)洲崎の三洲に分かれていたといいます。ちょうどこの辺りは泡洲崎と呼ばれていた場所で、泡洲崎八幡社はこの辺りの鎮守社だったといわれています。

泡洲崎八幡社

新町を歩いていると、街道沿いに寺院がいくつも現れます。というのも江戸初期の桑名藩主であった本多忠勝が桑名城の守備として寺院を配置したといわれています。桑名の城下に限らず、多くの城下町でも同じように、ご城下のちょっと離れた場所に意図的に寺院を配置し、有事の際には境内に兵を駐屯させ、防備にあたらせていたのです。
教宗寺から1ブロック進むと、右手に堂宇を構えるのが光明寺です。光明寺には「円光大師遺跡」の石碑が建ち、七里の渡しの海難事故で亡くなった旅人の供養塔が置かれています。

光明寺の次に現れるのが光徳寺です。光徳寺には万古焼創始者の沼山弄山(ぬなみろうざん/1718~77)やその後継者の加賀月華(1888~1937)の墓があります。

沼山弄山墓

そしてその先に堂宇を構える十念寺には「桑名藩義士森陣明翁墓所」という大きな石柱が立っています。
森陣明(もりつらあき)は桑名藩主松平定敬(さだあき)の京都所司代在任中公用人として勤皇佐幕に心をくだき、戊辰戦争には定敬公に従い函館に立て篭もった人です。
函館戦争の後、投獄されましたが、その後桑名藩に引き渡され、藩主の定敬公を守るため、全責任を負って江戸の旧藩邸で切腹しました。享年44歳。江戸における森陣明の墓は東京江東区の霊厳寺にあります。
ここ十念寺の墓には「うれしさよ つくすまことの あらわれて 君にかわれる 死出の旅立」という彼の辞世の句碑が立っています。

十念寺門前

まるで寺町のような道筋を進んで行くと、比較的道幅のある401号線にさしかかります。

右手に伝馬公園が見えますが、東海道は道の反対側の斜め左へと入る道筋として残っています。
旧街道の右側は寺院(長圓寺と新恩寺)の高い塀がつづいています。そんな道筋を進むと、旧街道の道筋は613号といったん合流します。道の反対にある日進小学校、日進幼稚園は「七曲見附」の跡で、江戸時代には七曲門があり番所が置かれていました。
東海道はこのあたりで「鉤型」になっていたのですが、現在、道は残っていないので、日進小学校前交差点を右折します。 
東海道はここから矢田の火の見櫓までほぼ直線の道です。少し進んだ右側に鳥居を構えるのは「天武天皇社」です。

天武天皇社鳥居
天武天皇社殿

天武天皇社は壬申の乱(672)の時、大海人皇子(後の天武天皇)が一時を過ごしたとされる場所に後年になって創建された神社で、当初は隣の旧本願寺村にありましたが、天和年間(1681~1684)にこの地に移されました。  天武天皇、持統天皇と天武天皇の第一皇子の高市皇子が祀られています。天武天皇を祭祀する全国で唯一の神社です。

天武天皇社の社殿は天皇を祀るにしては極めて質素な佇まいです。それほど広い境内ではありませんが、木々に囲まれ、厳かな雰囲気が漂っています。
壬申の乱とは西暦672年、天智天皇の弟の大海人皇子が近江大津朝を継いだ大友皇子に対し反乱を起こした戦いです。大海人皇子は隠れていた吉野を出て伊賀を通ってこの地に陣を置き、伊勢や尾張の兵を集めて美濃に進出して不破の地で全戦線の指揮をとりましたが、同行した妻の鵜野皇女(うののひめみこ/後の持統天皇)はこの地に留まり、伊勢の勢力を固めたといわれています。戦いに勝った大海人皇子はその後、即位し、第40代の天武天皇となったのです。」 



天武天皇社からほんの少し進んだ左側の空き地に入った左側に「梅花佛鑑塔(ばいかぶつかがみとう)」が置かれています。この場所にはかつて「本願寺」という寺があったそうですが、今はありません。そんな場所に俳聖芭蕉の門人の一人「各務支考(かがみしこう)」の分骨供養塔が置かれています。
碑面には「今日ばかり 人も年よれ 初時雨」と句が刻まれています。

この句の意味は「時雨の寂しさは枯淡の境地に達した老いの心にふさわしい。折しも降り出した初時雨に若い人たちよ、今日ばかりは年寄りの気持ちになって、この寂びた情緒を味わってほしいものだ」

支考は蕉門十哲の1人で、美濃派の創始者で美濃国だけに限らず近国に多数の門弟を抱えていました。支考は享保16年(1731)に亡くなった後、門人の手によって美濃地方の北野村に墓を建てたのですが、支考ほどの人物の墓が美濃の片田舎に置かれているのは惜しいということで、北伊勢の門人の手により東海道筋の本願寺に分骨墓を建てたのです。
各務(かがみ)の名に因んで墓石は「鏡」のように丸い形をしています。


そしてその先の広場に「善光寺一分如来碑」が置かれています。「善光寺一分如来 世話人万屋吉兵衛」と刻まれていて、寛政12年(1800)の建立です。その先の右側には「左 東海道渡船場道」「右 西京伊勢道」と刻まれた明治20年建立の道標がります。 その道標の向かいに珍しい名の神社、「一目連神社(いちもくれんじんじゃ)」が祠を構えています。

一目連神社

一目連とは珍しい名ですが、桑名の北の多度大社にも同名の一目連神社があります。多度の一目連神社は多度大社の別宮で、祭神は本宮の祭神である天津彦根神(あまつひこねのみこと)の子神の天目一箇命(あめのまひとつのみこと)で金工鍛冶の神、作金者の神、鉱山師の神として崇められています。
祭神の天目一箇命の「目一箇」は片目という意味のようで、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことからと説があるようです。桑名城下の鋳物に従事する人達が多度大社に勧請してこの場所に一目連神社を建てたのでしょう。

尚、多度神社は天照大神の第3子である天津彦根命を主祭神としています。このため伊勢神宮とは深い関係があり「お伊勢参らばお多度をかけよ お多度かけねば片参り」と言われています。

このあたりの地名は以前は鍋屋町(現在は東鍋屋町)で、鋳物に従事する職人が多く住んでいたことから、この町名になったといわれています。そして街道を進んでいくと地名は西鍋屋町に変わります。このあたりにも寺院が多く、明円寺、教覚寺が堂宇を構えています。

私たちはいよいよ桑名宿の西のはずれにさしかかります。小さな四つ角に火の見櫓が置かれています。この辺りは街道時代に立場が置かれていました。

火の見櫓

そしてこのあたりは「八曲」といわれる鉤型の道筋になっていて、桑名宿の西のはずれの出入口になっていました。 西国の大名が通行する際には桑名藩の役人がここで出迎えて案内をしました。 
また、旅人を引き止めるため客引小屋もあったといいます。さあ!桑名宿はここで終わります。



火の見櫓から700メートルほど歩くと立派な構えの浄土真宗本願寺派の「了順寺」が山門を構えています。この立派な山門は桑名城の遺物と伝えられています。

了順寺山門
了順寺ご本堂

その先に「江崎松原跡」の案内板が置かれています。
「七里の渡しから大福までの東海道の両側には家が建ち並んでいたが、江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木になっていた。眺望がよく、西には鈴鹿山脈が遠望され、東には伊勢湾が見られた。松並木は昭和34年の伊勢湾台風頃までは残っていた。」とあります。
しかし現在は松の木が一本もなく、両脇には家が建ち並んでいるので、ここで書かれているような風景を見ることはできません。

了順寺から700メートル位歩くと「大神宮の一の鳥居下賜」と刻まれた石碑が建つ「城南神社(じょうなん)」があります。

城南神社一の鳥居
城南神社石柱

城南神社は伊勢神宮に天照大神豊受大御神が鎮座する前この地に仮座したことから、式年遷宮後の鳥居と建物の一部が下賜されるといいます。実はここ城南神社の地は11代垂仁天皇の御世に、天照を祀る場所を探し求めて群行した倭姫が頓宮として立ち寄った場所とされています。そんなことで当社の主祭神は天照大神です。

街道に面して立派な鳥居が構えています。この鳥居が伊勢神宮の一の鳥居で、式年遷宮の際に桑名宿の七里の渡しの鳥居になり、その後、城南神社の鳥居として下賜されているのです。いわゆる使い回しのリサイクル鳥居です。
 
国道258号線に出たら地下道を通って向こう側へ渡ってそのまま直進します。道は少し上りになりややカーブしているが、右側に古い家が残っています。

江戸時代の安永(やすなが)は東海道の桑名宿の入口にあった立場で、町屋川(員弁川/いなべがわ)の水運の船の発着場だったところです。街道の左側の藤棚のある料理旅館の「玉喜」は江戸時代には茶屋を営み、街道を往来する旅人相手に名物の安永餅(やすながもち)を売っていたといいます。

◆現在の安永餅「株式会社永餅屋老舗」
〒511-0079 三重県桑名市有楽町35
☎0594-22-0327
当店は寛永11年(1634)に創業し桑名の安永で「やすながもち」を販売してきました。現在の店は安永の地から桑名市内へ移転しています。
やすながもち
10本入(紙箱):1180円
紙箱入は10本~50本まで各種あります。

実はこの「やすながもち」とよく似た餅菓子が四日市にもあります。四日市の餅は「なが餅」と呼ばれるもので、こちらは創業天文19年(1550)の笹井屋さんが取り扱っています。
桑名では「やすながもち」を買う時間がなかったので、四日市でなが餅の笹井屋さんに立ち寄ることにします。
四日市のなが餅
7個(箱入):750円
箱入は7個~33個まで各種あります。

左手に国道1号が見えてきますが、小道を直進すると左側に樹齢200年の老木の楠があり、注連縄(しめなわ)が結ばれています。



玉喜を過ぎたところの右側の石積の上に「常夜燈」、その前に「石造里程標」が立っています。

常夜燈

常夜燈は東海道の灯標として伊勢神宮の祈願を込め、桑名、岐阜の材木商により文化元年(1818)に寄進された「伊勢両宮常夜燈」で、桑名の根来市蔵という石工が彫ったものです。
石造里程標は明治26年の建立で、正面に「従町屋川 中央北 桑名郡 」、左面に「距三重県県庁舎拾一里口町余」と刻まれています。

そのまま進むと「安永第一公園」で、町屋川(員弁川)が見えるところで行き止まりとなります。
東海道の案内板があり「寛永12年(1635)にここから対岸に橋が架かった。川の中州を利用し、大小二つの板橋だったり、 一つの板橋だったりした。中央に馬がすれ違えるように広くなっていた。昭和12年に国道1号線の橋が架かり、その橋はなくなった」と記されています。 
十返舎一九は町屋川を「待つ」にかけて、「旅人を 茶屋の暖簾に 招かせて のぼりくだりを まち屋川かな」と詠んでいます。
常夜灯の向かいに「料理屋すし清」が店を構えています。その入口あたりにクスノキの大木があります。幹回りが3.5m、樹高25m、枝張20mの大木です。

桑名市はここまでで、川を渡ると三重県の中で最も面積が小さい自治体の三重郡朝日町に入ります。

町屋川(員弁川)
橋の袂のススキ

旧東海道筋は「すし清」の先へ延び、町屋川に架かる木橋につながっていたのですが、かつての橋は現在ないので、私たちは国道1号線の町屋橋を渡ることにします。町屋川は桑名宿内の春日神社の石取祭りで使われる「石」を採取することで知られています。
旧街道筋へは橋を渡り終えたところで、右に曲がって坂を下り、すぐに左折して細い道に入ります。ここから近鉄伊勢朝日駅まで約850メートルの距離です。道はやや上りで、江戸時代には「だらだら坂」と呼ばれたようです。

街道の右側に「十一面観世音菩薩」の石柱があり、その奥に金光寺が堂宇を構えています。そしてその先の右側には真光寺が山門を構えています。
さらに先の左側に「一里塚跡」の石柱がありますが、お江戸から数えて97番目の「縄尾(なお)の一里塚」があった場所です。
私たちは尾張の宮の渡しから海上七里を船で渡ってきました。ということは宮の一里塚が89番目だったので、90番から96番目の一里塚は欠番となります。そして久し振りにあらわれたのが97番目の縄尾の一里塚です。
 


歩き始めて5キロ地点を過ぎると、街道右側に「富士の光 清鷹」の看板を上げた安達本家という造り酒屋が現れます。

安達本家

酒屋の前を通り過ぎると、東芝の工場が右にあり、左側に近鉄の伊勢朝日駅があります。

東芝工場
近鉄伊勢朝日駅

踏み切りを渡ると左側にある「旧東海道」の石碑は宿駅四百年記念に建てた新しいものです。

【ここは東海道】
『打興じてなを村おぶけ村にたどりつく。此あたりも蛤の名物、旅人をみかけて、火鉢の灰を仰立て仰立て女「おはいりなさいまアせ。諸白もおめしもございまアす。おしたくなさりまアせ」・・・・・・』
とは十返舎一九の東海道中膝栗毛の一部です。
ここ朝日は東海道に沿ってできた町です。昔は多くの旅人がひっきりなしに往来していました。「膝栗毛」に登場する弥次さん、喜多さんもそのひとりでした。
道筋には、わらぶき茅ぶきの農家がならび、村はずれには見事な松の並木がみられました。桑名の宿から一里(約4km)の地点に位置する縄生村には一里塚もありました。
また、小向村(おぶけ)には桑名や富田とならんで焼き蛤を名物として商う茶屋がありました。火鉢に松かさを燃やして蛤を焼き、店先では大声で客を呼込んでいました。旅籠も数軒あり、男たちは、「往還かせぎ」といって駕籠かきや馬方などをしていました。

ここから10m先の榎(エノキ)は樹齢300年余で、東海道の並木の一本だったといわれています。

その先の右側に連子格子が素晴らしい家が街道脇にあります。
そして、その先は旧小向村(おぶけ)で、右側に「東海道」の道標と「御厨小向神社」の石柱が建っています。小向(おぶけ)村は古萬古焼の発祥の地として知られています。 
さらにその先の左側角に「橘守部旧蹟」の表示があります。  
「橘守部はこの地の庄屋の家に生まれましたが、父親が一揆加担の容疑を受け、家が破産してここを追われました。守部はその後、独学で国学を学び、香川景樹、平田篤胤、伴信友とともに天保の国学四大家の一人に数えられました。
本居宣長を痛烈に批判し、古事記よりも日本書紀を重んじ、神話の伝説的な部分と史実の区分の必要性を説いた人です。」
嘉永二年(1849)に69歳で没しました。お墓は東京都台東区向島の長命水や桜餅で有名な長命寺にあります。



その先の右側の「浄泉坊」は浄土真宗本願寺派の寺院ですが、山門や瓦に徳川家の三葉葵の紋がついています。
徳川家とゆかりのある桑名藩の奥方の菩提寺になっていたことがあり、東海道を通る大名は駕籠を下りて黙礼をしたと伝えられる寺院です。尚、当寺には400年前の桑名城の建物が移築されて書院として使われているといいます。おそらく明治初年に桑名城が破却される際に払い下げられたのではないでしょうか?
また屋根の鬼瓦の一つには桑名藩主であった奥平家の九曜梅鉢紋と同じく藩主であった久松家の五輪梅鉢紋が彫られています。
 
浄泉坊

「朝日跨線橋東交差点」を渡ると、その先に石垣に白壁が美しい真宗大谷派の「西光寺」が現れます。白壁の塀の中に松の木が植えられていますが、これらの松は街道松の名残と言われています。

西光寺
西光寺
西光寺
西光寺

右側の細い道の角に「JR関西線朝日駅入口」の表示板があり、100m奥に無人駅があります。

駅前を過ぎると右側の柳屋という雑貨屋の先で道が二又になっています。東海道は左折しますが、道はすぐに右へカーブします。 
ここからは一本道で、しばらく民家が続きます。民家がなくなったところから桜並木がつづきます。 
伊勢湾岸道路のガートをくぐると朝明川(あさけがわ)に出ます。
橋を渡る手前の右側の土手脇に多賀大社の常夜灯が置かれています。

多賀大社は滋賀県の多賀町にある神社です。この多賀神社は「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢、お多賀の子でござる」と詠われ、多賀大社も伊勢神宮と深い関係があります。
その理由は多賀大社の主祭神がイザナミとイザナギでこの二神から生まれたのが天照大神なのです。
そんなことで「伊勢へ七たび、熊野へ三たび、お多賀様には月まいり」とも言われ、江戸時代から伊勢詣でと並んで多くの参詣客を集めていました。



朝明川(あさけがわ)は鈴鹿山脈の釈迦ヶ岳にその源を発して、最終的には伊勢湾に注ぐ川です。歴史的には東征中の日本武尊が当地で夜明けを迎え、朝明川の水で口をすすいだことから川の名が付いたと伝わっています。また壬申の乱の際、大海人皇子が伊勢神宮に遥拝し、戦勝を祈願した遼太川がこの朝明川とも伝えられてきました。

伊勢湾岸道路と北勢バイパスのガードをくぐり、橋を渡ると四日市市へと入り、地名は松寺になります。道の右側の狭い道角に「御厨神明社」の大きな石柱が建っています。御厨神明社は伊勢神宮の御厨の地に建てられたことでこのような社名になっています。御厨とは本来、「台所」という意味ですが、ここでは伊勢神宮に納める穀物や野菜などを栽培する土地のことをいいます。御厨という地名は全国に点在していますが、伊勢神宮が鎮座する伊勢国だけに、いたるところに「御厨」があります。この先、ほんの僅かな距離に別の御厨神明社があります。

少し進むと左側にはタカハシ酒造という造り酒屋があります。タカハシ酒造は江戸時代の末の文久2年(1862)創業で、昭和8年以来、伊勢神宮をはじめ県下800の神社にお神酒を奉納しています。
また当酒造の発泡日本酒「伊勢の白酒(しろき)」は以前、SMAP X SMAP」の「ビストロ・スマップ」で紹介された話題の酒です。
発泡日本酒なので、口に含むと泡がピチピチとはじける不思議な酒ですが、味は日本酒そのものです。
酒蔵に隣接する直売所「伊勢の蔵」では数種類のお酒を試飲することができます。

◆伊勢の蔵の営業時間
☎059-365-0205
09:00~12:00
13:00~16:00
日曜祝日は定休

タカハシ酒造を過ぎると「伊勢松寺の立場跡」と案内板が街道脇に置かれています。



タカハシ酒造から500mで蒔田集落に入り、100m先の右側には御厨神明神社宝性寺があります。前述のように御厨神明神社は伊勢神宮の御厨の地に建てられたのでその名があり、以来、神明社は蒔田村の氏神として信仰されてきました。 

神明社と隣接する宝性寺は天平12年(740)、聖武天皇の勅願で創建されたと伝えられる由緒ある寺で、別名「蒔田観音」と呼ばれています。永禄11年(1568)の伊勢長島の一揆で焼失、その後建てられたものも焼失しました。現在の建物は江戸時代の文化11年(1814)の建設です。 

宝性寺の先には立派な塀と堀に囲まれている浄土真宗本願寺派の長明寺が堂宇を構えています。街道から50mほど奥まった場所にあるので立ち寄りは割愛しました。
当寺の創立年代及び開基は不明ですが、慶長9年(1604)現在の寺号を称し、その後、慶安4年(1651)領主松平隠岐守より現在の寺地を賜わり今日に至っています。尚、長明寺がある場所は文治年間(1185~90)には蒔田相模守宗勝が築いた蒔田城があった場所と言われています。蒔田相模守宗勝は時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた人物です。
境内は濠と築塀に囲まれ、参道正面入口に文化3年(1806)に築造された参詣橋が架かり、その奥に昭和初年に建立された山門が構えています。山門をくぐると正面中央に昭和31年(1956)再建された入母屋造の大きなご本堂があります。山門左脇に建つ鐘楼は寺誌では延宝年間(1637~80)に建立したと伝えられています。

長明寺から300mほど進んだあたりの街道左側の民家の前に聖武天皇ゆかりの遺跡「鏡ヶ池(笠取り池)」の石碑が置かれています。

【聖武天皇ゆかりの遺跡「鏡ヶ池(笠取り池」】
『続日本紀』によると、聖武天皇は、奈良時代の天平12年(740)に伊勢国を行幸になり、11月に一志郡河口をたち、鈴鹿郡赤坂の頓宮を経て、23日に朝明郡の頓宮に着かれたとある。
その場所の所在は不明であるが、当地近辺であり、松原町のもと松原姓を名乗っていた旧家田村氏宅に伝わる話では、聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き、天皇の笠が池の中に落ちた。ちょうどその時、傍に洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって天皇はこの田村家に宿をとられたという。明くる朝、旅立ちの日は風もなし、空は真っ青に澄んで、馬上の天皇の姿と、見送る娘の姿とが、鏡のような池の上にともに映えて、一幅の絵を見るような光景になった。以来、この池を「鏡ヶ池」とも呼ぶようになったといわれる。
 
そこから400m先で三岐鉄道の高架下にあるJR関西本線の踏切を渡ります。 
踏切を渡り80mほど進むと、右手に三光寺が堂宇を構えています。この三光寺には前述の蒔田城を築いた蒔田相模守宗勝の墓があります。

三光寺の門前入口から120mほど進むと四差路にさしかかります。ここを左折して旧街道を進んでいきます。
さあ!第一日目の終着地点まで、あとわずかな距離です。



川平内科を過ぎて、次の信号を右へ曲がると、第一日目の終着地点のスーパーマーケット「フレスポ四日市富田」前に到着です。桑名の七里の渡しからここまで9.3キロの距離です。お疲れさまでした。

私本東海道五十三次道中記 第30回 第2日目 四日市富田から四日市宿を抜けて采女のサークルKまで
私本東海道五十三次道中記 第30回 第3日目 石薬師、庄野を辿り関西本線・井田川駅前まで

東海道五十三次街道めぐり・第三ステージ目次へ





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

私本東海道五十三次道中記 第29回 第3日目 富部神社から宮の渡し、そして桑名へ

2015年10月02日 16時45分41秒 | 私本東海道五十三次道中記


さあ! 第三日目が始まります。
出発地点は昨日の終着点である「富部神社」の参道入口です。本日の行程はここから熱田の宮の渡し跡までの、わずか4.3キロです。

富部神社は慶長8年(1603)に津島神社の牛頭天王を勧請し創建された神社ですが、尾張の領主、松平忠吉(徳川家康の四男)の病気快癒により、百石の所領を拝領し、本殿、祭文殿、回廊が建てられました。本殿は一間社造で、桧皮葺き、正面の蟇股、破風、懸がい等は桃山様式を伝えており、国の重要文化財に指定されています。祭文殿も回廊もほとんど当時のまま残っています。明治維新の神仏分離で神宮寺が廃された時、神社もその目に遭いそうになったのですが、素盞鳴命(すさのうのみこと)を祀るということで、その難を免れ今に至っています。

昨日に引き続いて旧街道筋を辿ることにしましょう。江戸時代には旧東海道が通っていた道筋の左側は呼続浜と呼ばれ、長い海岸線の向こうに伊勢湾が広がっていました。そしてこの浜で作られた塩は、星崎あたりから北にのびて飯田街道に接続する塩付街道を通って小牧や信州に運ばれていました。



呼続小学校前の信号交差点を渡り、旧東海道はさらに北へとつづいていきます。昔、このあたりは「あゆち潟」と呼ばれ、知多の浦を望む勝景の地で、万葉集に、『桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る』
『年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ』
と歌われ、歌の枕詞に使われるほどの名勝だったのです。そして愛知県の「あいち」は、上記の歌の年魚市潟(あゆちがた)に由来するといわれ「あゆち」「あいち」に転じたと言われています。

このあたりから呼続(よびつぎ)の地名が始まります。呼続という地名は、宮の宿より渡し舟の出港を「呼びついた」ことからといわれています。また江戸時代は、四方を川と海に囲まれた、陸の浮島のようなところだったらしく、巨松が生い茂っていたことから、松の巨嶋(こじま)と呼ばれていました。



呼続小学校前の信号交差点を渡り、住宅街を進んでいきます。この先が「山崎の長坂」と呼ばれている場所で、それほどキツクない坂道がつづきますが、西へ向かう私たちにとっては緩やかな下り坂なので助かります。山崎の長坂のちょうど上に鎮座するのが熊野三社です。江戸期の山崎村は山崎橋近くを橋町、長坂から熊野三社にかけてを坂町、それより湯浴地蔵までを新町、更に南側を南町と分けて呼んでいました。この山崎の地名は、名鉄名古屋本線を渡った反対側に残る「山崎城址」に由来します。この城址には現在、安泰寺が堂宇を構えています。この山崎城は信長の家臣であった佐久間信盛が一時居城としたと伝えられています。





旧東海道筋は国道1号線と交差する松田橋信号にさしかかります。松田橋信号交差点では国道1号と都市高速道路が交差し、かなりの交通量があります。この交差点には横断歩道橋があるのでこれを渡ります。歩道橋を渡り300mほど歩いたところで旧街道は国道1号から分かれます。そしてさらに300mほどで久しぶりに東海道線の踏切にさしかかります。踏切を渡ると、その先に熱田橋が架かっています。

熱田橋を渡ったあたりは、その昔「宮縄手」と呼ばれ、松並木があったようですが、現在は松の木もなく当時の面影は残っていません。この先の鉄橋は名鉄常滑線です。鉄橋をくぐると、すぐ右側の小さな三角地に宮宿の案内板が置かれています。そしてこの辺りに「伝馬町一里塚(89番目)」があったようですが、その場所は確認できません。
少し歩くと、道の左側のコンクリート製の建物の前に「裁断橋」と書かれた橋状のものがあります。江戸時代には建物の手前に精進川が流れ「裁断橋」が架っていたようですが、川は大正15年に埋められ、今は暗渠になり川の姿はありません。裁断橋を渡るとそこはもう「宮宿」です。



裁断橋と姥堂

宮宿の東側の入口は今は流れていない精進川でした。裁断橋を渡ると左側に「姥堂」があります。 
姥堂は延文3年(1358)、法明上人により創建されたといい、かなり古いものだったのです。道の左側のコンクリート製の建物の前に「姥堂」と刻まれた石柱が建っていますが、これが現在の「姥堂」です。
ご本尊の「姥像」は熱田神社にあったものをここに移したと伝えられるもので、「オンバコさん」と呼ばれる高さが8尺(2m40cm)の坐像で「奈良の大仏を婿にとる!」と、江戸時代の俚謡に歌われ、併せて東海道筋にあったことからお参りに寄る旅人が多かったと言われています。しかし昭和20年3月の名古屋大空襲で建物も仏像も燃失しました。 
現在の仏像は平成に入り作成されたもので、40cm位と小さいものです。
左側には「旧裁断橋橋桁」と表示された石柱がありますが、川があった頃の橋桁の一部です。

裁断橋とは変な名前ですが、その名の由来は熱田神宮の社人が罪を犯したときに、この場所で裁断されたことにあるそうです。

現在の裁断橋はかつての三分の一の大きさで可愛らしく再現されています。その橋の欄干に擬宝珠が置かれています。その擬宝珠には文字が刻まれています。
これは天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めに出陣した尾張の堀尾金助という青年を母親が裁断橋で見送ったのですが、息子は戦死して帰らぬ人となってしまいました。その後、息子の三十三回忌に母親が老朽化した裁断橋を架け替えを行い、その際に橋の擬宝珠に「かな文字の碑文」を刻んだのです。

かな文字の碑文
「小田原への御陣
 堀尾金助と申す
 十八になりたる子をたたせてよ
 又二目とも見ざる
 悲しみのあまりに
 いまこの橋を架けるなり
 母の身には落涙(らくるい)ともなり
 即身成仏し給え
 逸岩世俊(堀尾金助の戒名で「いつがんせいしゅう」と読みます)
 と後の世のまた後まで
 この書き付けを見る人は
 念仏申し給えや
 三十三年の供養なり」

なお本物の擬宝珠は市の博物館に保管されているといいます。川が無くなってしばらくして、姥堂前に三分の一のスケールの橋が復元されました。右奥には都々逸(どどいつ)の発祥の地の碑があります。

突然、都々逸の発祥地が宮宿の伝馬町にあらわれ、どう説明したらいいのか戸惑ってしまいます。
一説には熱田の地で生まれた「神戸(ごうど)節」から派生した「名古屋節」に「どどいつどいつ」という合いの手を入れたことらしいのですが、その起源はどうもはっきりしていないようです。
尚、神戸節とは熱田神宮の門前にあった神戸町の宿屋に私娼を置くことが許され、そこで働く女たちを「おかめ」と呼んでいました。
そして遊客の間で流行った歌に
「おかめ買うやつあたまで知れる 油つけずの二つ折り」
「そいつはどいつだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク」

という囃子言葉がつけられた歌が神戸節です。
この神戸節は地元ではすたれ、その後、江戸や上方に伝わり名古屋節と呼ばれるようになりました。
この歌の中の「二つ折り」とは当時流行した髪型で、油をつけず髷を二つ折りにしたものです。

さて、お江戸から41番目の宮宿は東海道一の宿場といわれ、熱田神宮の門前町であることに加え、佐屋、美濃、木曽の諸街道への追分であったことから、江戸時代後期には2900軒を越える家があり、人口も1万人を越えていました。 
宿内には本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠は実に248軒もありました。 
あの駿府宿が人口14000人だったのですが、大御所家康の居城としての城下町だったので、宿場としての規模は宮宿が一番だと思います。

そしてちょっと行くと、鈴之御前社という神社が祠を構えています。「鈴の宮(れいのみや)」とも呼ばれ、昔は精進川がこの宮のかたわらを流れていました。
東海道を往来する旅人は、熱田の宮にお参りする前にここで身を清め、お祓いを受けてから本宮へ参拝する習わしでした。7月31日の例祭には夏越しの祓いである「茅の輪くぐり」の神事が行われます。

鈴之御前社鳥居

旧街道はその先で道幅のある道路にいったん分断されてしまいます。本来であればそのまま直進したいのですが、信号も横断歩道橋もないので、ちょっと迂回するルートをとります。右手の伝馬町交差点を渡り、反対側の旧東海道筋へ戻ることにしましょう。

反対側の旧街道に入るとアーケード街が現れるのですが、すぐ左手に亀屋芳広という菓子屋が目に飛び込んできます。名古屋では、名が通った和菓子屋です。そしてそのまま直進していくと、三叉路に突き当たります。その東南隅に「道標」が置かれています。

道標

この道標は東海道と美濃路(または佐屋道)の追分を示すもので、寛政2年(1790)に建てられたものです。 
道標の北と刻まれた下には「南 京いせ七里の渡し 是より北あつた本社弐丁道 」、東の下には「北 さやつしま 同みのち 道 」 西には「東 江戸かいとう 北なこやきそ 道 」とあり、南側に「寛政2庚戌年 」と建立された年号が刻まれています。 

突き当たりある小さな社には「ほうろく地蔵」が祀られている。ほうろくを売りにきた商人が天秤の重石の代わりしていた地蔵を捨てて行ったのを地元人が祀ったものです。

ほうろく地蔵

ほうろく地蔵は三河の国の重原村(現在の知立市)にあったのですが、野原の中に倒れ、捨て石のようになっていました。三河より焙烙を売りに尾張に出てきた商人が、この石仏を荷物の片方の重しにして運んできましたが、焙烙が売り切れた後、石仏を海岸のあし原に捨てて帰ってしまいました。地元の人が捨てられている地蔵を見つけ、動かそうとしましたが動きません。そしてその下の土中から台座が出てきたので、この地蔵を台座に乗せここに祀ることにしたそうです。

旧街道はここを左折し、ほんの少し歩くと国道247号と合流します。私たちは歩道橋を渡って反対側に移動します。
国道247号を越えて向こう側に渡ると、旧街道は斜め右手へと延びています。その先に「ひつまぶし」の「あつた蓬莱軒本店・蓬莱陣屋」」が店を構えています。あつた蓬莱軒はもう一つ、神宮南門店があります。 

かつてこのあたりに熱田奉行所(陣屋)がありました。宮宿には本陣が二つあり、それぞれが赤本陣白本陣と呼ばれていましたが、赤本陣は陣屋の北にあり236坪の規模でしたが空襲で消滅してしまいました。あつた蓬莱軒本店・蓬莱陣屋付近に陣屋と赤本陣があったと思われます。
ちょうどこの界隈が神戸町で、かつては旅籠(飯盛り旅籠)が集中していた場所で、あの神戸節の発祥の地です。

蓬莱軒本店・蓬莱陣屋の前の道を進んで行くと右側にモダンな寺「宝勝院」が現れます。 
名古屋市は戦後、神社の墓地を東山の平和公園に集めるという政策を推進したので、大部分の寺に墓地がないのです。寺院の建物も戦災にあったこともあり、古さを感じるものではなくマンションのような寺が多いのです。その建物の前に承応3年(1654)頃~明治24年(1891)まで、七里の渡しの常夜燈の燈明は当寺が管理していたと書かれた説明板が置かれています。
さあ!程なくすると掘川の岸にある「宮の渡し公園」に到着です。

「宮の渡し公園」は江戸時代の「七里の渡し」の跡地を整備したという公園で、「時の鐘」を鳴らす鐘堂が置かれています。

鐘楼堂

この時の鐘は延宝4年(1676)に尾張藩二代目「徳川光友公」の命により熱田蔵福寺に設置された鐘で、その正確な時刻は住民や七里の渡しを利用する旅人に重要な役割を果たしていました。
 
昭和20年の空襲で鐘楼は焼失しましたが、鐘は損傷もなく蔵福寺に現在も保存されています。 
昭和58年に往時の宮宿を想い起こすよすがとしてこの公園に建設されました。その先には七里の渡しの石柱と常夜燈が建っています。
常夜燈は寛永2年(1625)に熱田須賀浦太子堂に建立されましたが、その後承応3年(1654)に現位置に移り、前述の宝勝院に管理が委ねられました。寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失し、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃し現在のものは昭和30年に復元されたものです。

桑名に渡る渡しは慶長6年(1601)に、東海道の宿駅制度が制定され、桑名宿と宮宿間は「海路七里の渡船」と定められたことにより誕生しました。しかし潮の満ち引きや海流の変化により左右され、所要時間は三時間から四時間かかったようです。 
「七里の渡し」は往々にして「しけ」にあって欠航することがあり、また船便を苦手にする人は陸路をとりました。それが佐屋道でここから北に道筋をとり、現在の新尾頭町から西へ向かい幾つかの川を渡って佐屋までの6里を歩き、そこから木曾川を船で下る海上3里で桑名へ出るルートだったのです。この道筋は「姫街道」と呼ばれていました。 
船着場跡には当時を再現して、船着場がありますが、伊勢湾台風以降、港湾の整備が進みすっかり景観が変ってしまい、渡し場という雰囲気は少しもありません。



現在の船着き場
七里の渡し碑
かつての渡し場跡
現在の渡し船
現在の渡し船
 
公園の前の道の反対に「熱田荘」という建物とその右側に江戸時代に脇本陣格だったという旅籠の建物が残っています。

私たちは現在の渡し船にのって伊勢湾を横切り、桑名まで2時間30分のチャーター船の旅を楽しみます。所要時間は平均的に2時間30分ですが、海上の状況によってこれ以上の時間がかかることがあります。
それでは現代の七里の渡しの船旅で伊勢の国の桑名へ渡ることにしましょう。

私たちが乗る船は洒落た名前の「トロワ・リヴェール号」です。最高速度7ノット、最大搭乗人数は55名です。写真にあるように客室部分は外気が入ってこないように覆われています。そして屋根の上には展望席が置かれています。展望席の椅子はちょっと座りにくい造りになっています。

デッキの様子
デッキの様子

船内は冬季であれば暖房が効いて、寒さを感じることはありません。ただ難をいえば、燃料の臭いが漂ってくるので、気分が悪くなることも……。

さあ!「船がでるぞ~、船がでるぞ~」

街道時代に使われていた船着き場に隣接する現代の船着き場からいよいよ出航です。この場所は伊勢湾の一番奥まった場所のため、水面は鏡面のような状態です。
船着き場から伊勢湾へと漕ぎ出しますが、ここからしばらくの間、周囲の景色はどこまでもつづく名古屋港の埠頭だけです。

出発して間もない風景

乗ってみて気が付くことですが、名古屋港の規模がこれほどまでに大きいとは思いもよらなかったという事実です。その規模は北から南に細長く続いていることです。現在見る埠頭の部分は江戸時代になかった土地で、後世になってから埋め立てられたものです。その埠頭には倉庫が途切れなく並び、何艘もの船が荷揚げ、荷卸しのために留まっています。
また、日本の自動車産業を代表する「トヨタ」の車を輸出する港として利用されているのが名古屋港で、トヨタの専用埠頭も見えてきます。

名古屋港の風景
名古屋港の風景

船は伊勢湾を跨ぐ「伊勢湾岸道路」の橋の下にさしかかります。海面から車が走る部分まで約60mという高さを誇っています。日本を代表する日本郵船会社の「飛鳥Ⅱ」がやっと潜り抜けることができるといいます。

伊勢湾岸道路の橋
伊勢湾岸道路の橋
伊勢湾岸道路の橋遠望

伊勢湾岸道路の橋をくぐってもまだ名古屋港のエリアを出ません。かなり沖合に出てきたと思うのですが、まだ埠頭がつづきます。コンテナ専門埠頭なのでしょう。大きなキリン型のクレーンが目に飛び込んできます。そしてコンテナを今まさに積み込んでいる大型の輸送船が埠頭に留まっています。

埠頭
コンテナ埠頭
コンテナ埠頭

船出してから、ちょうど1時間15分で名古屋港のエリアをでます。名古屋港のエリアを示す防波堤を出ると、いよいよ伊勢湾の大海原へと入ります。
名古屋港に入ることができない大型タンカーが沖合にたくさん浮いています。尚、名古屋港に石油タンカーの専用埠頭がなく、沖合で船から海底に敷き説された太いパイプラインに直接石油を流し込み、名古屋港や四日市工業地帯へと送り込んでいます。

ほんの少し波が立ってきたかなと感じます。そして時折、イルカの仲間のスナメリが顔をだします。
そしてそれまでと景色が変わってくるのが、沖合に海苔の養殖用の筏が見えてくることです。
かなり広範囲に筏が敷設されています。ということはこの辺りは遠浅の海だということがわかります。

そんな海苔の養殖場を大きく迂回するように船は桑名の渡し場へと向かいます。そして木曽川の河口の沖合を過ぎると、前方に見えてくるのが木曽川と長良川の間の島です。その島の先端には「長島スパランド」があり、シンボルともいえる大きな観覧車や龍のようにうねるジェットコースターが見えてきます。

長島スパランド

船はどんどん長島スパランドに近づいてきます。

長島スパランド

スパランドを右手に見ながら、船は長良川と揖斐川が合流した流れに逆らうように上流へと進んでいきます。まもなくすると国道23号線の橋の下をくぐります。そうすると海上七里の桑名側の船着場はもうすぐです。

桑名の船着き場
私たちの乗る現代の渡し船はかつての渡し場ではなく、ちょっと北の住吉神社の社殿が建つ辺りに着きます。

※2017年7月9日に3回目の七里の渡しを体験しました。過去2回は55名乗りの比較的大きな「トロワ・リヴェール号」を利用したのですが、今回は10人乗りの平船で桑名へ渡ることになりました。この日は大潮にあたり、本来の航路は水深が浅くなっていたため、すこし沖合を辿りながら桑名を目指しました。

平船の様子
名古屋港内
名古屋港内


平船なので屋根はついていません。乗船すると茣蓙が引いてある床に左右に分かれて座り、乗船中は立ち上がることもできず、足を投げ出して約2時間座りつづけます。たまたま乗船日は曇りの天気だったので、夏の強い日差しをまともに受けることはありませんでした。
風を切って進むので、乗船中はそれほど暑さを感じることはありませんでした。夏場は雨さえ降らなければ、平船での渡しは耐えられますが、冬場は避けた方がいいのでは……。

今回の船を運営している会社は桑名の「株式会社おおぜき」です。
10人くらいのグループで七里の渡しを計画されているかたは下記に連絡をしてみてはいかがでしょうか。
会社名:株式会社おおぜき
代表:平井裕美
住所:三重県桑名市田町33
電話:0594-22-4867
FAX:0594-22-9817

上記の「おおぜき」では乗船後、乗船者名を記載した「七里の渡し往来の証」を発行してくれます。

七里の渡し往来の証
桑名の船着き場

桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として、十楽の津と呼ばれ、米や木材などいろいろな物資が集散する商業都市として発達してきました。住吉浦には全国から多くの廻船業者が集まり、これらの人達によって航海の安全を祈り目的で浪速の住吉神社から勧請して住吉神社を建立しました。

住吉神社

神社前の二基の石塔は材木商達が寄進したもので、「天明八戌申年十二月吉日」と刻まれています。
神社から眺めると揖斐川と長良川が流れ、その先で一つになって流れていく様はまるで巨大な姿の竜を感じさせてくれます。

揖斐長良川の眺め

七里の渡しの跡に立つ鳥居は、伊勢神宮の内宮へと通じる道筋で五十鈴川に架かる宇治橋の外側に立つ鳥居を移したもです。私たちはいよいよ伊勢の国へ入ってきました。伊勢と言えば、何と言っても本宮です。東海道を辿ってきた旅人たちは京都三条を目指すものもいれば、伊勢詣でへ向かうものが、ここ桑名湊から東海道を辿り、途中でそれぞれ分かれていったのでしょう。

伊勢神宮の一の鳥居
桑名側の七里の渡し碑
蟠龍櫓
蟠龍櫓



次回30回の東海道の旅はここ桑名の住吉神社前から始まります。そして桑名の「焼きはまぐり」の味覚も併せてお楽いただきます。

私本東海道五十三次道中記 第29回 第1日目 来迎寺公園から名電富士松駅前
私本東海道五十三次道中記 第29回 第2日目 富士松駅前から桶狭間古戦場、有松、鳴海宿を経て呼続の富部神社

東海道五十三次街道めぐり・第三ステージ目次へ





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

私本東海道五十三次道中記 第29回 第2日目 富士松駅前から桶狭間古戦場、有松、鳴海宿を経て呼続の富部神社

2015年09月25日 09時32分50秒 | 私本東海道五十三次道中記


さあ!第29回の2日目が始まります。昨日の終着地点の名鉄富士松駅周辺が本日の出立地点となります。
本日はここ富士松からまずは5キロ先の桶狭間古戦場伝説地を目指します。その後、6キロ地点の「絞り染」で有名な有松を抜けて、8.5キロ地点の鳴海宿に至ります。

そして12キロ地点の笠寺観音をお参りし、本日の終着地点の富部神社参道入口までの12.8キロを踏破します。比較的長めの行程ですが、本日は見どころが満載です。

名電富士松駅前

私鉄の駅前にしては商店街もなく静かな雰囲気が漂っています。駅前のロータリーをあとにして旧街道筋へと進んで行きます。



旧街道に入り、住宅街の中を少し行くと県道と交差する地点にさしかかります。県道を跨ぐ歩道橋を渡ります。この先で旧街道は右にカーブしながら緩やかな下り坂となり、その先で再び国道1号に合流していきます。国道に合流する地点が今川交差点です。正面には敷島製パン(pasco)・刈谷工場の大きな建物が見えてきます。



国道1号に合流したら、左側に降りる道があり、国道の下をくぐる地下道へ入っていきます。地下道をくぐりぬけると信号交差点があるので、これを渡り国道から分岐する右側の道に入っていきます。
右手には敷島製パン(pasco)の大きな工場が迫ってきます。小さな橋を渡ると左手に大型浴場やパチンコなどの遊戯関係の大きな建物が現れます。この辺りは住宅街ではなく、少し寂しい感じの道筋に変ってきます。

そしてまた川が現れます。川の名前は「境川」といいます。この川はかつて三河と尾張の国境だったのです。境橋は江戸初期の東海道の開設時に三河と尾張の立会いのもとで作られた橋ですが、当初、三河側は土橋、尾張側が木橋でこれをほぼ中央でつなぐ継ぎ橋だったようです。
その当時の橋を詠んだ歌碑が橋を渡った右側の川岸に残っています。
「うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん」
その後、橋は洪水で度々流され、やがて継橋は一続きの土橋になりました。明治に入って欄干付きになり、現在の橋は平成7年に完成した新しい橋です。

境川

この川を挟んで三河と尾張の両地域は昔から気質が異なっていたといいます。必ずしもあたっているかどうかわかりませんが、尾張を代表する武将である秀吉は派手というか、見栄っ張り、一方、三河を代表する武将である家康公はよく言えば質実剛健、悪く言えば「どんくさい」のでは?
言葉も「みゃーみゃー」いうのは尾張ですが、三河地方は前述のように「どんくさい発音」に聞こえます。境川を渡ると三河国今川村から尾張国東阿野村(現豊明市)に入ります。

前方には愛知万博開催時に開通した伊勢湾岸道路が見えてきます。この辺りは国道1号、国道23号、県道などが交差する交通の要です。街道は緩やかな下り坂になり、その先で道筋は左手にカーブをきりながら、伊勢湾岸道の下へとつづいていきます。



伊勢湾岸道の下をくぐると、豊明駅東の信号交差点にさしかかります。ここから名鉄豊明駅を左に見ながら国道1号線に沿って歩きます。風景は賑やかな幹線沿いの住宅街へと変わります。国道1号線に沿っておよそ800m歩くと県道を跨ぐ陸橋が見せてきます。陸橋が見える辺りが「池下の交差点」です。その交差点の手前で旧街道は左へと分岐します。
車の騒音が耳障りな国道1号から分岐し、旧街道は静かな道筋へと入っていきます。そんな道筋に入るとすぐに「国指定史跡阿野一里塚200m 」の表示板が置かれています。



富士松駅前から歩き始めておよそ2.5キロで、お江戸から数えて86番目の「阿野一里塚」に到着します。

阿野一里塚
阿野一里塚

街道の両側に一里塚が残っていますが、塚の部分は大きく崩れて原形は留めていません。木が植えられているのですが、榎なのかは判別できません。左右の一里塚跡は小さな公園のようになっています。原型をとどめている一里塚はこれまで幾つか見てきましたが、それらはこの阿野一里塚より、はるかに形が残っていました。
こんなに形が崩れた阿野の一里塚なのですが、一応「国指定史跡」になっているのですね。

左側の一里塚の中に入ると句が刻まれている歌碑が置かれています。
「春風や坂をのぼりに馬の鈴」(市雪) 
ここからは前後(地名)に向かって上り坂になっています。そんな坂をのぼりつつ詠われたのでしょう。「春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる 」という意味です。 

一里塚を過ぎると、市雪の歌のように道筋は緩やかな上り坂へ変ります。豊明小学校と郵便局を過ぎると、街道の左側に三田(さんだ)皮ふ科が現れます。その病院の右隣の家はそれはそれは立派なお屋敷です。

三田邸

ここ三田邸(さんだ)は明治天皇が明治元年の東京への行幸途中と、翌年明治2年の京へお帰りになる途中に休息をされた場所です。三田邸の鉄扉の隙間から覗くと、なんと明治天皇御小休所の石柱が庭先に置かれています。個人の住宅の敷地の中なので外から見るしかありません。

明治天皇御小休所碑

登り坂はこの先の街道右側の坂部善光寺辺りで終わります。そして少し歩くと、名鉄前後駅前交差点です。



「前後駅前交差点」を過ぎると左側にビルが建っています。その一画が名鉄名古屋本線の前後駅です。
駅前には駅と直結した駅ビルが建ち、お洒落な感じがします。

「前後」という地名はたいへん珍しいのですが、この名前の由来はあの「桶狭間の戦い」のあと、織田方の雑兵が褒賞をもらうため、自分が倒した敵方の首を切り取って、前と後に振り分け荷物のようにして、肩に担いだという話から付いたと言われています。そんな話が残ることから、桶狭間古戦場跡はここから近いということになります。

それでは前後の駅前を進み、旅をつづけていきましょう。歩き始めて4キロ地点を過ぎたあたりに神明社の石柱と常夜燈が現れます。そしてちょっと先の街道右側の落合公会堂の前に「寂応庵跡」の石碑が置かれています。

寂応庵とは江戸末期の慶応元年(1865)、知多郡北崎村(大府市)の素封家「浜島卯八」の三女の「とう」が寂応和尚の感化を受け、東海道の旅人の難儀を救わんと、剃髪して仏門に入り「明道尼」と改名しました。
その明道尼は街道に面した落合の集落に浜島卯八の援助で「寂応庵」を建て、無料休憩所を開設しお茶の接待をしたといいます。

この辺りの街道筋には古い家と新しい家が混在しています。新栄町の信号交差点を過ぎると、旧街道は緩やかに左へカーブをします。そして前後駅からおよそ1.5キロで旧街道は再び国道1号と合流します。



合流地点は三叉路になっており、交差点の右側に馬蹄の上に馬が乗った像が立っています。何故かというと、この先の名鉄の高架をくぐると名鉄中京競馬場駅があるからです。競馬場入口交差点あたりは駅前らしく、ほんの少し賑やかな雰囲気を漂わせています。



名鉄名古屋本線の高架をくぐると、歩き始めて5キロ地点です。ここでいったん旧街道から逸れて、本日の最初のハイライトである「桶狭間古戦場の伝説地」へ向かうことにします。

旧街道から逸れて、わずかながらの坂道を登ると前方にこんもりとした林が見えてきます。この林がある場所が「桶狭間古戦場の伝説地」なのです。右手にはビッグケイと呼ばれる介護施設が建っています。
さあ!古戦場伝説地の入口に到着です。入口には「史蹟桶狭間古戦場」の石柱が立っています。

桶狭間古戦場パンフレット
古戦場伝説地の入口
桶狭間古戦場の伝説地

古戦場伝説地は重要な史跡であることを感じさせるように綺麗に整備された公園になっています。公園内には遊歩道がつけられて園内を回遊することができます。

永禄3年(1560)5月19日、今川義元織田信長軍の奇襲により戦死したところと伝えられ、田楽狭間とか館狭間と呼ばれている場所です。園内に入り回遊路を右に進むと細長い標石が立っています。これが「七石表」の1号碑です。

義元公戦死の場所

1号碑は今川義元が戦死した場所を明示した最も古いもので、明和8年(1771)12月、鳴海下郷家の出資により、人見弥右衛門等により建てられたものです。この標石には北面に今川上総介義元戦死所、東面、樋峡七石表之一、南面、明和8年辛卯12月18日と刻まれています。
二号碑は義元の重臣・松井宗信が戦死した場所、三号碑から七号碑までも義元の側近たちが戦死した場所を示しているとのことです。

七石表の先の樹木に囲まれたところに、義元が亡くなったところと伝えられがあります。この塚は有松の人たちが主唱し、明治9年5月に塚を建てたとあります。この場所には義元の遺骸はない訳ですから、慰霊碑といった方が正確なのではないでしょうか?

義元公の塚

その先の古戦場案内板の脇に、大きな石碑が建っています。「桶狭間弔古碑」と呼ばれるものです。

桶狭間弔古碑

文化6年(1809)5月に津島神社社司「氷室杜豊長」が建てた「桶狭間合戦の戦記」です。左側には香川景樹の歌碑が置かれています。

香川景樹の歌碑
 
「あと問えば 昔のときのこゑたてて 松に答ふる 風のかなしさ」 景 樹 
香川景樹は桂園派の巨匠で江戸にでて、己の歌風を広めようと上府しましたが、迎えられず失意のまま帰途の途中、ここを通り今川義元の無念を思ってこの歌を詠んだといいます。

古戦場伝説地の脇の道路を挟んで反対側の高台には「高徳院」という寺が堂宇を構えています。実はこの高徳院の斜面に義元公の墓が置かれています。墓といってもこれも供養塔です。

義元公の供養塔
義元公の供養塔
斜面の石仏群

この供養塔は幕末の万延元年(1860)、義元の三百忌に建てられたもので、これには法名が刻まれています。寺の山門へとつづく石段を上って行き、山門をくぐると義元本陣の跡と書かれた石柱が立っています。敷地には敵味方の戦死者を弔う石仏群があります。

高徳院山門
義元本陣跡碑

実は桶狭間古戦場は2ケ所あります。ここ以外にはここから1キロほど南の名古屋市緑区桶狭間北にある桶狭間古戦場公園という場所です。戦国時代の一ページを飾る重要な場所であるにもかかわらず、豊明市側の桶狭間古戦場跡には資料館ひとつありません。それぞれが、ここが本当の「桶狭間古戦場」と主張しているため、おそらくどちらか一方に偏って資料館を造るのができないのではないでしょうか。とはいえ政府は昭和12年にこれまでの伝承と江戸時代に建てられた七石表を根拠として、ここを桶狭間古戦場として国史跡に指定しています。

さあ!桶狭間古戦場跡を後に、旧街道へ戻ることにしましょう。



桶狭間合戦場伝説地からいったん国道1号の交差点に戻りますが、すぐに左側へとのびる旧街道へ入っていきます。旧街道の道筋はほんの僅か歩いたところで大将ヶ根の信号交差点にさしかかります。大将ヶ根の信号交差点を渡ると、私たちは名古屋市へ入っていきます。

「大将ヶ根」という地名の由来は、あの桶狭間の合戦で信長が辿った道筋だったことから名付けられています。
ちょうど1号線を渡る手前が少し高台で、信号を渡ると道筋は下り坂となり、かつては窪地であったことが窺がわれます。
すなわち狭間という地名があることから、高台と高台の間の狭間がこのあたりにはいくつもあったと思われます。

大将ヶ根交差点を渡り、1号線から分岐するように斜め右へとつづく旧街道へと入って行くと、本日2回目のハイライトである「有松」に到着です。江戸時代の有松の町はこの先の「まつのねばし」を渡ったところから始まります。「まつのねばし」に至る途中、街道の左側に古い商家が一軒現れます。「近喜」の屋号を持つ有松絞りを造っているお店です。店先には染色前の糸でくくった木綿布が段ボールに入れて無造作に置かれていました。



さすが絞りの名産地「有松」といった印象です。ここ有松は東海道中の宿場町ではないのですが、江戸時代からの絞り染めの問屋の豪壮な建築物が残っています。近喜のある場所はまだ有松の中心ではないのですが、逸る気持ちを抑えつつ「まつのねばし」へと進んでいきます。

有松のパンフレット

有松は江戸時代の初期の慶長13年(1608)に尾張藩が桶狭間村の有松集落を分村し、知多郡阿久比村から11戸を移住させ、安永2年(1773)に間の宿にしました。有松は耕地も少なく、茶屋としての営みにも限界があったため、尾張藩は副業として「絞染」を奨励し、それが新しい産業に育ったのです。

有松絞りはそもそも九九利染めといわれていました。有松絞りが始まるきっかけは、江戸時代の初期(慶長15年/1610)に二代将軍秀忠公が命じた名古屋城普請に集められた大名の家臣の中に、九州の豊後からやってきた人たちが身に着けていた絞り染の手拭に、ここ有松出身の竹田庄九郎が目をつけたことと言われています。

そしてその後、三河、知多で生産されていた木綿布と連動して有松絞りが発達したと言われています。 
18世紀後半には隣村の鳴海、大高あたりまで絞り産業は拡大し、その営業権をめぐって有松との紛争をおこすほどになったといいます。

それでは歴史的建造物が多く残る有松へと進んでいきましょう。有松の町を貫く街道は電信柱がなく、すっきりした佇まいを見せています。

有松の景
有松の景
有松の景

少し歩くと右側に有松の良き時代の産物といえる「山車倉」があります。高山祭に登場する山車と同様、からくりを演じる優れもので有料ですが見学できるようになっています。

山車会館
山車会館

◇有松山車会館
有松に伝わる見事な山車三輌〔布袋車・唐子車・神功皇后車〕を毎年交代に展示し、有松のまつり文化を紹介しています。慶長年間より現在まで400年を経て、現在でも江戸時代の風情を色濃く残し、落ち着いた雰囲気を醸し出している有松の歴史を展示しています。
☎052-621-3000
営業時間:10:00~16:00
開館曜日:土日祝日のみ開館
入館料:大人200円

有松山車会館の横の路地を挟んで右側には「寿限無茶屋」が店を構えています。

寿限無茶屋

その先の左側に有松鳴海絞会館があります。ここは名古屋市に併合される前の有松町役場跡ですが、絞り商品の展示や絞り技術の実演を行っています。入口脇には喫茶店が併設されています。

有松鳴海絞会館

有松絞りが一躍有名になったのは、江戸時代の五代将軍綱吉公のころで、将軍に献上した絞りの手綱が話題となり、全国津々浦々まで名声を轟かせることになったといわれています。
そして有松は江戸時代はもとより、明治、大正、昭和初期まで活況を呈するのですが、現在に残る豪壮な建物やその建物を飾る装飾は有松が繁栄を謳歌し、惜しげもなく金をつぎ込んだ証そのものなのです。そんな様子を「田舎に京の有松」と言われるようにまでなったのです。その中でも「井桁屋服部家」の建物は有松の中でも一二を争うほどの素晴らしいものです。

井桁屋服部家
井桁屋服部家

井桁屋の建物の店舗兼住居部は瓦葺に塗籠(ぬりごめ)造りで、卯達を設け、蔵は土蔵造りで腰になまこ壁を用い、防火対策を施している絞り問屋を代表する建築物です。これまでいくつもの宿場を辿ってきましたが、これほどまでに過ぎ去った時代の建築物がそっくりそのまま残っている町はありませんでした。有松の豪壮な建築物は奇跡的に残った「野外博物館」そのものです。

それでは有松絞会館から先へと進んでいきましょう。有松の町並みはまだしばらくつづきます。電信柱がなく、かつ高層建築がないため町並みはスッキリしています。



有松の家並み
有松の家並み
有松の家並み
有松の家並み

道筋は比較的大きな信号交差点にさしかかります。この交差点を右手に進むと名鉄有松駅へとつづいています。交差点を渡っても有松の古い家並みはその先につづいています。街道右側に背の高い建物が現れます。もう一つの山車蔵です。建物の高さから中に格納されている山車がかなり背丈が高いものであることが窺えます。

山車蔵
有松家並み
連格子の家

そして街道左手に見事な問屋造りの建物が現れます。この建物は有松を代表する絞り問屋「竹田嘉兵衛商店」です。

竹田嘉兵衛商店
竹田嘉兵衛商店

竹田嘉兵衛商店の屋号は笹加です。現在8代目。建物は江戸末期から明治期にかけての絞り問屋の特徴をよく残した建物で、明治から大正にかけて増改築されました。特に主屋と書院、茶席は重厚な造りで他に蔵が5棟あり、建築学的にも貴重な建物となっています。
建築様式としては1階に連子格子、海鼠壁、2階は黒漆喰の塗籠造りに虫籠窓の有松の商家の伝統的形態を踏襲しています。主屋の屋根には明治期のガス燈の名残のランプがあります。平成7年名古屋市指定有形文化財になりました。

竹田嘉兵衛商店を過ぎても、有松の風情ある家並みは先につづいています。まるで時代劇のセットの中を歩いているかのようです。

有松の家並み
有松の家並み
有松の家並み
山車蔵

有松の町の西のはずれに近づいてきました。街道右手に祇園寺が山門を構えています。この祇園寺を過ぎると有松の古い家並みはふいに途切れてしまいます。そして現代に無理やり引き戻されるように、前方に名古屋第二環状の近代的な道路と橋脚が目に飛び込んできます。

その名古屋第二環状のほぼ真下にくると、古い有松の家並みは完全に終わります。そんな場所に置かれているのが、現代版の有松の一里塚です。お江戸から数えて87番目の一里塚ですが、平成22年に新たに再現されたもので、やたら新しく趣を感じない代物です。

87番目の一里塚

第二環状道路をくぐると、今度は名鉄名古屋本線の踏切が現れます。踏切を渡ると小さな川に架かる「かまとぎばし」が現れます。この橋を境に「有松の間の宿」は終わります。

感動的な有松を後に、次の目的地である「鳴海宿」を目指すことにします。有松をでると「絞り」とはまるで無縁な町並みとなり、無味乾燥な住宅街へと変貌します。有松を出てそれほどの距離ではないのですが「絞り」関係の店がまったく現れないのは不思議です。



そんな面白味のない光景を眺めながら進むと四本木(しほんぎ)の交差点にさしかかります。四本木交差点の右側の山裾に左京山住宅が拡がっています。そしてその先の平部あたりは名古屋のベットタウンで新しいマンションや団地が立ち並んでいます。まもなくすると平部北信号交差点にさしかかります。有松からわずか1キロでかつての鳴海宿の江戸見附に到着します。
ここから旧鳴海町、現在は名古屋市緑区鳴海町です。

平部北交差点の左側に常夜燈が置かれています。表面に秋葉大権現、左側に永代常夜燈、右側に「宿名内為安全」、裏面に文化三丙寅(1806)正月と刻まれているので、江戸時代はここが鳴海宿の江戸側の入口だったようです。さあ!それでは鳴海宿へと入って行きましょう。

現在の鳴海宿内はかつてここがほんとうに宿場町であったことを全く感じさせてくれません。というのも古い家並みが全くないからなのでしょうか。かつて有松と絞り生産で凌ぎを削った町とは思えないほど、寂びれているといったほうがいいくらいです。



平部北の江戸見附からおよそ500m歩いたところに扇川に架かる中島橋が現れると、お江戸から数えて40番目の鳴海宿の中心部に入ってきます。

鳴海宿は、天保14年の東海道宿村大概帳によると、東西15町18間(約1.6km)に、家数847軒、人口3643人、本陣は1軒、脇本陣は2軒、旅籠の数は268軒とかなりの規模の宿場町で広重の東海道五十三次の浮世絵には、旅籠の様子が描かれています。

鳴海は有松と共に絞りで知られたところでしたが、有松の方が生産や販売力が向上したので、鳴海と有松との間で絞りの販売権をめぐって紛争が起こったといわれています。

鳴海宿に入ると、すぐ右手にあるのが瑞泉寺で、重層本瓦葺の黄檗風四脚門の総門は、宇治黄檗山万福寺を模したもので、県の指定文化財になっています。
瑞泉寺は寛保元年(1741)以降、呑舟和尚により再建され、宝暦5年に堂宇が完成しました。境内には宝暦6年(1766)に建立した本堂、書院、僧堂や秋葉堂などの伽藍が並び、壮観な姿を見せています。

瑞泉寺山門
瑞泉寺本堂

鳴海は狭い地域に集中して比較的寺院が多い宿場町です。街道の右側奥に淨泉寺、万福寺が堂宇を構えています。万福寺は永享年間、三井右近太夫高行の創建で真宗高田派。永禄3年(1560)の兵火で焼失しましたが再建され、江戸末期に再々建されました。 
明治6年(1873)に万福寺は鳴海小学校の仮校舎となり、校名を広道学校とした、と寺の案内にあります。

街道を進むと、その先は鉤型のように右に曲がっています。この辺りからが鳴海の宿場の中心で、左側の緑生涯学習センターは問屋場跡のようです。昭和38年の名古屋市との合併までは鳴海町役場として使われていました。

本町交差点を右折すると、幾つかの寺があります。交差点を渡ってほんの僅か右手に進むと誓願寺があります。

誓願寺山門
誓願寺本堂

誓願寺は天正元年(1573)の創建で本尊は阿弥陀如来ですが、境内に芭蕉供養塔芭蕉堂があることで有名です。

実は芭蕉の門下に下里知足という人物がいます。この知足はここ鳴海宿で千代倉という屋号の造り酒屋を営んでいました。資産家である知足は芭蕉のスポンサーの一人だったようです。また芭蕉は「笈の小文」の旅の途中、ここに休息しています。
そんな縁で芭蕉没後164年経った安政5年(1858)に、知足の菩提寺であるこの寺に芭蕉堂が建てられました。尚、芭蕉供養塔は芭蕉が没した一ヶ月後の元禄7年(1694)11月12日に追悼句会が営まれた折、鳴海の門下達によって鳴海宿内の如意寺に建てられたもので日本最古の芭蕉碑と言われています。

芭蕉碑

旧街道をさらに進んでいきましょう。街道を進むと自転車屋が店を構えていますが、この辺りに脇本陣があったといわれていますが、なんの表示もありません。そしてその先の左側の山車倉庫の前に本陣跡の表示が置かれています。

街道の右手は小高い山になっています。この山の上にかつて鳴海城(根古屋城)がおかれていました。鳴海城は応永年間(1394頃)に、足利義満の武将である安原宗範によって築かれた城ですが、その後、今川方の城になっていました。桶狭間の戦い後、義元の首と交換に鳴海城の明け渡しが行われ、その後は織田方の佐久間信盛、信栄父子が城主をつとめましたが、天正末期に廃城になりました。
街道を進んで行くと、「作町」の交差点にさしかかります。地名の作町は桶狭間の戦い後、鳴海城主を務めた佐久間信盛、信栄父子から付いたとされています。

東海道はここで鋭角的に右折し北へと方向をかえます。ここから200mほどの間には狭い道の両脇には若干ながら古い家が残っています。作町交差点から500mほど歩くと、旧街道は36号線と交差する三皿交差点にさしかかります。
幹線として利用されている36号線は車の往来も多く、大都市名古屋らしい雰囲気が感じられます。交差点の左方面にはヤマダ電機やナルパークのショッピングセンターが36号線に面して建っています。私たちは三皿交差点を渡り、直進していきます。



旧街道筋は三皿交差点を横切って北へと延びています。右側に「村社式内成海神社の石柱」がありますが、成海神社は室町時代の応永年間(1394~1427)に鳴海城(根古屋城)を築城の際、移転させられた神社でこの場所から東の方にあります。
神社の創建は朱鳥元年(686年)で、草薙剣が熱田に還座された時、日本武尊の縁により鎮座されたと伝えられ、根古屋城を築城の際、この東方にある乙子山(ふたごやま)に転座しました。

鳴海城(根古屋城)は今川氏が三河を支配していた当時、鳴海城は尾張の織田家に対する最前線基地として重要な城でした。このため信長は鳴海城の周辺に幾つもの砦を構築し、対峙していました。
そして永禄3年(1560)の桶狭間の合戦の際には、今川軍は大高城の周辺の織田勢の砦の排除を優先し、鳴海城周辺の砦に対する攻撃は後回しにされています。
この作戦は功を奏したかのように見えたのですが、織田勢はその間隙を縫って義元が陣を構える桶狭間への奇襲をかけ、見事義元の首をあげることができました。
義元が討たれた後、鳴海城は無傷のまま残るのですが、義元の首と交換に鳴海城の明け渡しが行われ、佐久間信盛親子が城主となります。尚、鳴海城は天正末期に廃城になります。

その先には「丹下町常夜燈」が建っています。傍らの案内板には、「鳴海宿の西の入口の丹下町に建てられた常夜燈」で、表に秋葉大権現、右に寛政4年(1792)、左に新馬中、裏に願主重因と刻まれています。この常夜灯が置かれている場所で鳴海宿は終わります。

鳴海宿から宮宿への道は北方あるいは北西へ向かう道筋となりますが、これは当時の海岸線に沿って街道がつづいていたことに由来します。そしてその海岸線は年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれ、万葉集にも詠われた名勝地・景勝地だったといいます。そんな年魚市潟(あゆちがた)の「あゆち」から現在の愛知の名の由来といわれています。 

前述のように道筋が北へ向かっているのは江戸時代には鳴海からこの先の熱田にかけて、街道の左側、すなわち西側は干潟か海だったため、道筋を西へ向けることができなかったのです。道筋は三王山交差点で県道59号線を渡り、直進すると山下西交差点で広い道と合流し、その先少し上り坂になります。そして天白川に架かる天白橋を渡ると名古屋市の南区に入ります。



天白川は江戸時代にはすでに今と同じ名前だったようです。東海道宿村大概帳には「天白川有」と記されています。東海道名所記には同じ名前ではありませんが、田畠橋(でんばくはし)とあり、橋の長さ15間(約30m)と書かれています。橋を渡りきると、天白橋西の信号交差点があり、さらにその先の赤坪町交差点を渡ります。このあたりは名古屋市の南に位置しており、下町らしい雰囲気を漂わせています。



赤坪町の信号交差点を過ぎると東海道はその先で右にカーブし道が狭くなっていきます。そしてその先の三差路になっているところにお江戸から88番目の「笠寺一里塚」があります。

笠寺一里塚

直径10メートル、高さ3メートルの土を盛った上に、大きく育った榎(えのき)が生えていて堂々とした姿の一里塚です。現在は東側だけが残り、反対側は大正時代に消滅したようです。この辺りから街道時代には笠寺の立場があったところです。そんな道筋を歩いていきますが、かつてあったであろう茶屋の家並みは残っていませんが、古そうな家が数軒街道脇に現れます。

一里塚から500mほど進むと立派な山門が現れ、山門の手前には池があります。その池の畔に天林山笠覆寺という石柱が建っています。その池に架かる橋を渡り、楼門をくぐると正面にご本堂が現れます。ここが笠寺観音として多くの参詣客を集めている「天林山笠覆寺(りゅうふくじ)」です。

笠寺石柱
山門
ご本堂

本尊は十一面観世音菩薩像です。ご本尊の十一面観音が笠をかぶっているので、笠覆寺あるいは笠寺の名で呼ばれてきました。笠寺の地名は寺名に由来します。天平8年(736)の開基とされますが、現在地にきたのは延長八年(930)に藤原兼平がお堂を建て、小松寺から笠覆寺に改めた時のことです。

◆笠寺縁起
聖武天皇の天平8年(736)のある日、呼続(よびつぎ)の浜辺に一本の浮木が漂着した。それが夜な夜な不思議な光を放ったので、付近の者はそれを見て恐れおののいた。この近くに住んでいた善光上人は、夢の中で不思議なお告げを受け、その浮木から十一面観世音菩薩像を刻み、堂を建立し、安置して天林山小松寺と名付けた。建立から百数十年も過ぎると、寺は荒れ果てて、本尊の観世音像は風雨にさらされたままになってしまった。  

そんな頃、鳴海の長者のもとにいた少女は美貌なことへのねたみもあり、こき使われていた。ある雨の日、ずぶ濡れになっている観音様を見て可哀想に思い、自分が冠っていた笠を観音様にかぶせた。
それからしばらくたった頃、都から来た公卿が、鳴海宿に立ち寄り娘の話を聞いた。その公卿は関白の息子の中将藤原兼平である。 
彼は心優しき娘をみそめ、妻として迎えた。彼女は玉照姫(たまてるひめ)と呼ばれた。延長八年(930)、兼平と玉照姫は、現在地にお寺を再建、姫が笠をかぶせた観音を本尊として祀り、寺名を笠覆寺(りゅうふくじ)と改名した。

笠寺の玉照姫と兼平公を祀るお堂
笠寺の多宝塔

実は街道を挟んでこの天林山笠覆寺(りゅうふくじ)に相対するように堂宇を構えるお寺があります。寺名は泉増院といいます。この泉増院の門前にも「玉照姫」と書かれた大きな石碑が置かれています。
この寺の本尊が玉照姫像といい、縁結びとして売り出しているのです。これは天林山笠覆寺(りゅうふくじ)の縁起で伝えられている玉照姫と藤原兼平とのロマンスをもとに、泉増院が玉照姫と兼平を祀るお堂を本殿の右前に再建し、玉照姫の本家はこちらと主張しPRに努めているのです。

さあ!笠寺を辞して街道の旅を続けていきましょう。寺の西門を出ると「大力餅」の看板があり、その隣は地蔵堂です。笠寺商店街と書かれていますが、門前町の雰囲気が漂う通りです。商店街を抜けると笠寺西門交差点に出ます。
交差点を越え、その先の名鉄の踏み切りを渡ったらすぐ右折し狭い道に入ります。これが旧東海道でここからしばらく車の少ない道が続きます。



ここからが呼続(よびつぎ)と呼ばれる地名が始まります。呼続という地名は、宮の宿より渡し舟の出港を「呼びついた」ことからといわれています。また江戸時代は、四方を川と海に囲まれた、陸の浮島のようなところだったらしく、巨松が生い茂っていたことから、松の巨嶋(こじま)と呼ばれていました。

しばらく行くと、左に入る道があり、突き当った右側に富部神社(とべじんじゃ)が社殿を構えています。
慶長8年(1603)に津島神社の牛頭天王を勧請し創建された神社ですが、尾張の領主、松平忠吉(徳川家康の四男)の病気快癒により、百石の所領を拝領し、本殿、祭文殿、回廊が建てられました。
本殿は一間社造で、桧皮葺き、正面の蟇股、破風、懸がい等は桃山様式を伝えており、国の重要文化財に指定されています。祭文殿も回廊もほとんど当時のまま残っています。 明治維新の神仏分離で、神宮寺は潰され、神社も廃されそうになったのですが、素盞鳴命(すさのうのみこと)を祀るということで、難を免れたといいます。

第2日目の行程はここ富部神社の参道入り口が執着地点です。名鉄富士松駅前から12.8キロを踏破しました。
明日はここから宮宿(宮の渡し)へと辿り、現在の渡し舟で伊勢の桑名へと向かいます。

私本東海道五十三次道中記 第29回 第1日目 来迎寺公園から名電富士松駅前
私本東海道五十三次道中記 第29回 第3日目 富部神社から宮の渡し

東海道五十三次街道めぐり・第三ステージ目次へ





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

私本東海道五十三次道中記 第29回 第1日目 来迎寺公園から名電富士松駅前

2015年09月24日 14時43分36秒 | 私本東海道五十三次道中記


私たちの東海道の旅は東三河から西三河へと駒を進め、29回を迎える今回はいよいよ三河とお別れし尾張国へと入っていきます。
第一日目は來迎寺公園から西三河の39番目の宿場町、池鯉鮒(知立)を抜けて、名電富士松駅前までの6.8kmを歩きます。



来迎寺公園脇を出立すると街道の右手に「御鍬神社」の鎮守の森が現れます。なんと「マムシ注意」の警告看板が置かれています。神社境内には入らずに、街道を進んで行きましょう。来迎寺町の信号交差点にさしかかります。
この交差点はT字路になっており、そのT字路の角に「元禄時代の道標」が置かれています。
この道標に従って北へ進むこと670mで在原業平と所縁のある「無量寿寺」が山門を構えています。

無量寿寺が堂宇を構えているところは「八橋」と呼ばれています。そしてここ八橋を有名にしたのは、あの伊勢物語の東下りの記述です。
「ある男(業平自身)が東下りの途中、道に迷いながらもこの地に辿り着いたのです。川が幾筋もまるで蜘蛛の手のように流れ、その流れに八つの橋が架けられていたので「八橋」と呼ばれていました。
そしてその水の流れの中に「かきつばた(杜若)」が美しい花をつけていたのを見つけ、男は連れのものに「かきつばた」の五文字を句の上に置いて歌を詠んでみようということになった。
そして詠まれたのが、「唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う」の歌です。

この歌の意味は「唐衣を着慣れるように、慣れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるここまでやってきた旅の辛さを身にしみて感じている」と心情を表しています。

元禄の道標から、ほんの僅かな距離を歩くと、住宅街の中にふいに現れるのが県指定の史跡である来迎寺一里塚(84)です。街道の右側の塚の高さは3.5mで塚にはクロマツが植えられています。この一里塚には榎ではなく、代々黒松が植えられています。右側の塚は街道に面した公民館の建物に隠れるように佇んでいます。また左側の塚は半分が崩されて原型は失っていますが、平成8年に県指定の史跡に追加されています。

来迎寺一里塚(右)
来迎寺一里塚(左)

私たちが歩いているあたりは「来迎寺町」と呼ばれています。その名のいわれは街道の北側奥に堂宇を構える「来迎寺」があるからなのです。寺伝によると、当寺は平安時代の承平元年(931)に山城の国「宇治平等院」より『来迎寺印』という僧が当地にやってきて、その僧によって開基されたと言われています。その後、今崎城主、村上兵部兼房なる者の免許の除地として寺門が興隆し、来迎法印の『来迎』が寺号となり『来迎寺』となりました。その後、この地にも人家もでき、寺名から『来迎寺村』というようになり、現在は来迎寺町と呼ばれています。



一里塚を過ぎると、街道の両側には住宅街がつづきます。明治用水緑道の入口を過ぎると、来迎寺公園から1.4キロほどいったところに旧街道を跨ぐ衣浦豊田道路にさしかかります。この道路の真下が新田北交差点です。
この交差点は横断歩道がなく、歩道橋を渡って反対側へと移動します。歩道橋を渡り、ローソン前辺りが、歩き始めて1.5キロ地点です。

歩道橋上からみる松並木

歩道橋を下りると、前方に延びる旧街道の両側に整然と並んでいるのが「知立の松並木」(別名並木八丁)です。並木八丁ですから、本来は870mほどの続いていたはずです。街道の両側は工場が立ち並び、ひっきりなしに車が行き交い、松の木にとってはいい環境とは言い難いのですが…。
慶長9年(1604)、幕府の命により道路が改修され松並木が整備されました。その後、宝暦年間(1751)に並木の手入れ、小堤を造成し田畑との境杭を打たせました。安永年間(1772)再び並木の手入れをし、敷地を9尺以上(2m72cm)としました。

松並木に入り歩き始めると、歌碑が一つ現れます。碑面にはこんな歌が刻まれています。
「初雪や 知立の市の 銭叺(ぜにかます)」※季語が初雪なので、市は馬市でなく木綿市ではないでしょうか。
歌の意味は木綿市の賑わいとその繁盛ぶりが込められています。「叺(かます)」とは藁でできた「むしろ」を二つ折にして横を閉じて袋状にしたものです。その「叺(かます)」に木綿の取引で儲けた銭がたくさん入っている様子を詠ったものです。



松並木は八丁より短い約500mに渡って170本の松が残り、往時の東海道の姿をとどめています。
そしてこの松並木の特徴は側道を持っていることなのですが、実はかつてここで行われていた馬市の馬をつなぐためのものと思われます。また、この付近一帯には最盛期の頃は400頭から500頭の馬が繋がれ、馬の値段を決めるところを談合松と呼ばれていたようです。

松並木
松並木
松並木
松並木
松並木

松並木が終わるすこし手前に置かれているのが「馬市の碑」です。かつてここ池鯉鮒(知立)で行われていた「馬市」の跡を記した碑です。

馬市の石碑

知立は古来より「馬市」「木綿市」が開かれた土地で、中世は鎌倉街道の要衡として栄え、江戸時代には東海道の宿場として賑わった場所です。広重は「池鯉鮒宿」「首夏馬市(しゅかうまいち)」と題し、東野で行われた馬市の様子を描いています。

首夏馬市は毎年首夏(陰暦四月)、陰暦4月25日〜5月5日頃に開かれていました。
知立は木綿の集散地で、馬が運搬に使われた関係から馬市が栄えたといわれています。尚、木綿市は時期を定めず、取引が行われていたようです。
尚、馬市は昭和初期までに馬が牛に代わったものの、鯖市も兼ねて賑わいましたが、昭和18年を最後に幕を閉じました。

馬市の碑の傍らには「万葉歌碑」が置かれています。
碑面には西暦702年、持統天皇が三河行幸の時に詠まれた歌が刻まれています。
「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能 知師爾  長忌寸 奥麻呂」
(ひきまのに にほふはりはら いりみだれ ころもにほはせ たびの しるしに  ながのいみき おくまろ)
歌の意味は「引馬の野に色づいている榛原(ハンの木の林)に分け入って、ハンの木の樹皮からあふれ出る樹液を、旅の想い出に衣につけてみましょう。」

松並木が終わる頃、左手にファミリーマートが現れます。御林交差点で旧街道は国道1号と県道51号にいったん合流します。道筋は三叉路になっており、旧街道は一番左側へと繋がっています。
前方に尖塔をもつ教会風建造物(ベルサイユガーデン)が現れます。教会風ということは、結婚式場なのですが、愛知県に入るとこのような堂々とした教会風建造物を併設する結婚式場がやたら多くなるような気がします。
というのも、愛知県の一部の地域では結婚に係る費用や新婦が他の地域に比べて持参する品物が尋常では考えられないほどの豪勢さを誇っているといいます。そんな地域性なのか、結婚式場もかなり「ド派手」になっているのではないでしょうか?



旧街道へとつづく一番左側の道筋へは地下道をくぐって行かなければなりません。地下道を進み、突き当たったら右手の階段をのぼり地上へと戻ります。地上にでると、すぐ左に「知立宿」と刻まれた石柱が置かれています。ただし、ここが知立宿の江戸見附ではなく、この先が知立宿という道標です。

知立宿の石柱

この地は古くから「知立」「智立」と表記され、その由来はこの地に鎮座する知立神社と深い関係があります。由来に関しては諸説ありますが、いちばん信憑性の高い説は、知立神社の御祭神とされる「伊知理生命」(いちりゅうのみこと)の「知理生」(ちりゅう)に由来するというものです。ただし現在祀られている神様の中には「伊知理生命」はなく、この神様は謎に包まれています。

そしてこの「知立」がなぜか鎌倉期以降になると「智鯉鮒」と書かれることになり、江戸時代になると「池鯉鮒」が一般的になります。神様に由来する「知立」がなぜ「池鯉鮒」つまり「池の鯉や鮒」に変わってしまったのでしょう。

実は知立宿の東木戸からさほど離れていない場所に慈眼寺という寺があります。その寺に隣接する場所に御手洗池という大きな池がありました。この池は知立神社の祭礼で渡御する神輿を洗うため、神聖なものとされ、この池に生息する鯉や鮒を捕獲することは禁止されていました。その結果、この池には鯉や鮒が多く生息していたことから「池鯉鮒」という表記になったといいます。

そしてこんな文章が残っています。「ちりふの町の右の方に長き池(御手洗池)あり。神の池なり。鯉・鮒多し。依って、名とす。しかれども、和名抄に碧海郡智立とあり」(吾嬬路より)
※ちりふの町の右の方とは、宿の江戸寄りという意味です。

御林交差点の地下道をくぐると、旧街道は1号線と県道51号線から分岐していきます。
尚、51号線を辿り、山町交差点を右折するとすぐ右手に慈眼寺が堂宇を構えています。
前述のように江戸時代には知立の東の松並木あたりで「馬市」が開かれていましたが、明治になると馬市はこの慈眼寺の境内で開催されることになりました。慈眼寺境内で行われていた馬市は昭和18年に幕を閉じています。

知立宿内へとつづく旧街道筋に入ると、車の往来も少なくなり、道幅もすこし狭くなります。宿内へと進んでいるのですが、街道筋には古い家並みはとんと現れません。旧街道を進み、名鉄三河線の踏切を渡ると、いよいよ知立宿内へとはいります。

知立宿は江戸から数えて39番目の宿場町です。
宿場の成立は家康公が街道整備を始めた慶長6年(1601)です。天保14年の宿村大概帳によれば、宿の規模は人口1620人、家数292軒、旅籠35軒、本陣1軒でした。宿内の距離は1.37㎞です。

宿の近郊で開かれた馬市と木綿市が江戸時代に有名になり、遠くは甲斐や信濃の荒馬が集まり、寛政期(1790年代)には400~500頭の馬の取引が行われ、市の盛況に加えて馬方、商人、見物客、果ては遊女までが集まり、市はごった返していたそうです。
そんな賑わいがあった知立の宿場だったのですが、今は静かな地方都市の佇まいです。とはいえ古い家並みはほとんど残っていません。



静かな雰囲気を漂わす宿内の道筋は中町交差点にさしかかります。ちょっと複雑な六叉路になっています。この辺りからかつての知立宿の中心へと入っていきます。交差点角に宿場の風情を漂わす古めかしい商家(えびすや・山城屋)が2軒並んでいます。

えびすや
えびすやと山城屋

旧街道は中町交差点を渡り、斜め左につづく狭い道筋です。この細い道筋がつづく辺りが「中町」です。江戸時代後期にはこの界隈に豪商や資産家が多く屋敷を構えていました。細い道筋へ入って行くと、右側の食品館「美松」の駐車場の入口角に目立たない存在で「池鯉鮒宿問屋場之跡」の石碑が置かれています。
問屋場の建物は昭和46年(1971)までこの場所にあったのですが、残念なことに取り壊されてしまいました。

池鯉鮒宿問屋場之跡

そして道筋を進んで行くと、左側にホテルクラウンパレス、右側に知立パークホームズの近代的なビルが並び、宿場の中心であった場所にしてはかつての面影はほとんど残っていません。
尚、本陣跡の石碑は旧街道から若干逸れた419号線の知立駅北交差点近くの貯水槽の脇に置かれています。本陣は旧街道に面した場所にあったのですが…。

本陣跡碑

細い道筋を進んで行くと、この先で旧街道は曲尺手のように右へ鋭角的に曲がります。するとすぐ左手に児童公園が現れます。その公園に「知立城址の石柱」が置かれています。

知立城址の石柱

池鯉鮒(知立)には代々、知立神社の神官を務めた氷見氏が築いた城があり、この場所に知立城がありました。知立城は桶狭間の戦いの時は今川方の城でしたが、織田の軍勢の攻撃で落城してしまいます。
その当時の城主であった氷見吉英は桶狭間の戦いの後、生き残りをかけて、刈谷の地を治めていた水野忠政の娘を妻に迎えます。そしてこの妻との間にできた子が、後に家康公の側室となる「於萬之方」です。この於萬之方は十子の頼宜、十一子の頼房の母親ではなく、家康公の次男である結城秀康を生んだ女性です。

尚、知立城の跡は水野忠政の九男である水野忠重の時代に御殿を建てましたが、元禄の地震で御殿が倒壊し、そのままになってしまいました。尚、御殿は将軍上洛の際の休憩場所、または藩主の休息所として使われていました。
そしてこの先で道筋は突き当り左へ曲がります。突き当たったところに堂宇を構えるのが了運寺です。

了運寺山門

ここを左に曲がりほんの少し進んだ右手に現れるのが知立名物の「あんまきの元祖小松屋」です。知立には別に「あんまき」を扱う藤田屋さんがありますが、正真正銘の元祖は小松屋さんのようです。

小松屋さん

旧街道は小松屋さんの前を進み、この先で豊田南バイパスと交差します。交差といっても、私たちはバイパスの下をくぐる地下道を使って反対側へ渡ります。この地下道を抜けると、知立神社は目と鼻の先です。

地下道をくぐる手前の右手に見事な銀杏の木があります。この銀杏の木がある場所にはかつて総持寺という寺があったのですが今は別の場所に移転しています。

豊田南バイパスを横切る地下道をくぐり、160m歩くと街道の小さな四つ角右に知立神社と刻まれた石柱がたっています。この角を曲がり、知立神社入口までは110mほどの距離です。それでは知立を代表する神社である「知立神社」に立ち寄ることにしましょう。

知立神社は池鯉鮒大明神とも呼ばれ、平安時代に三河国の二宮として国司の祭祀を受け、江戸時代には東海道を往来する旅人に「まむし除け」の神徳を授けることで広く知れ渡り、東海道三大社の一つに数えられた名社です。

本社殿

社伝では第12代景行天皇の42年(112)創建と言われています。景行天皇の御世、皇子である日本武尊は天皇の命を受けて東国平定へと向かうのですが、当地において皇祖の神々に平定の功を祈願したそうです。そして無事その責務を果したことで、ここに建国の祖神の四神を奉斎したのが始まりといわれています。また仲哀天皇元年という説もあります。ようするに当社は日本武尊と深い関わりがあるのです。

主祭神、すなわち建国の四神とは神武天皇の父にあたるウガヤフキアエズと母にあたるタマヨリヒメ、山幸彦そして神武天皇です。境内に置かれている「多宝塔」は国の重要文化財です。

多宝塔

永正6年(1509)重原城主山岡伝兵衛によって再建されたのがこの多宝塔(二重塔)です。
明治時代の廃仏毀釈の嵐の中を生き延び、神社の境内に仏塔が残ったのは全国的にも珍しく、国の重要文化財建造物に指定されています。江戸時代には愛染明王が祀られていましたが、明治期の神仏分離の際、愛染明王を総持寺に移し、相輪(そうりん)も取りはずし、知立文庫と名を改めて取り壊しを免れたという歴史があります。

また前述の東海道三大社とは三島大社、知立神社、熱田神宮をさします。
さらに「まむし除け」のいわれは平安時代の嘉祥三年(850)、慈覚大師円仁が当地に来た時、蝮(まむし)に咬まれましたが、当社に参拝し祈願したところ、痛みも腫れもなくなったという故事から、御札を携帯していればマムシや長虫避けになると信じられ、マムシよけの神として全国的に知れ渡ったのです。

広い境内には神橋を付した「神池」があります。実はこの神池も「御手洗池」と呼ばれているのですが、あの慈眼寺近くにも御手洗池がありました。どちらが本当の御手洗池だったのか、はたまた両方とも御手洗池でいいのか、定かではありません。おそらく神社の境内にある神池も当然神聖なもので、そこに住む生き物を捕獲することは禁断とされていたと思います。
そんなことで、この神池も「御手洗池」と呼ばれたのではないでしょうか。

神池
神池

石造りの神橋は享保17年(1732)に造られたものです。そしてこの神池には鯉が眼病を患った長者の娘の身代わりになったという「片目の鯉」の伝説が伝わっています。

《片目の鯉》
昔々のお話です。知立のとある長者の家には代々、目を患う者が多かったといいます。そんな長者の家に信心深く、気立ての優しい娘がいました。ある時からこの娘は目を患い、病も重く、あわや失明という事態になってしまいました。

そんな様子を見ていた両親はたいそう心配し、娘の目が良くなるようにと、毎日毎日、知立大明神の神前に通い、ひたすら祈りを捧げました。そして二十一日の満願の日、突如として娘の目が見えるようになりました。驚く喜んだ両親は娘と共に知立神社の大明神へお礼参りに出掛けました。そしてふと神社の御手洗池の中を覗き込むと、なんと池の鯉が皆、片目になっているではありませんか。これは神の使いの鯉たちが、信心深い娘に片目をくれたのだろうということになり、以来、この御手洗池で目を洗うと眼病が治ると信じられてきましたとさ。
まあ~、これが本当の鯉(恋)は盲目、といったところか。おそまつ!

それでは知立神社をあとに旧街道へ戻りましょう。
旧街道に戻ると、街道の左側に竜宮城のような総持寺の山門が現れます。

総持寺山門

開基は江戸時代の元和2年(1616)と古いのですが、明治5年(1872)、神仏混淆禁止令により廃寺となりました。実は廃寺になる前の総持寺は別の場所にありました。ちょうど豊田南バイパスを渡る手前の右手にありました。現在は総持寺の大銀杏がある場所です。明治に廃寺になった総持寺は大正13年に天台寺門宗として現在地に再興され、現在に至っています。

山門の手前の右手に石碑が置かれています。その石碑には「徳川秀康之生母 於萬之方生誕地」と刻まれています。ここ池鯉鮒宿は家康公の側室で結城秀康の母である於萬の方の出生地と伝わっています。

総持寺から少し歩くと川があり左に橋が見えてきます。川の手前で道筋は左にカーブすると逢妻橋に出ます。 
逢妻川は伊勢物語の八橋に登場する逢妻男川が逢妻女川に合流した後の名前です。逢妻川を渡ると「池鯉鮒宿(知立)」は終わります。



逢妻川に架かる逢妻橋を渡り、逢妻町交差点で再び国道1号線と合流します。ここからしばらく無粋な国道1号に沿って歩きます。

逢妻川の名の由来
無量寿寺のお堂の裏に「杜若姫供養塔(かきつばたひめ)」があったのを覚えていますか?
この杜若姫は京の小野中将たかむらの娘と伝えられています。そしてあの業平が東下りの際に、業平を慕い、後を追ってこの逢妻川で追いついたと言います。しかし、業平の心を得ることができず、八橋の池に身を投げて果てたと伝えられています。
そんな杜若姫が業平に追いついた場所ということで「逢妻川」と名付けられたのです。

そして、国道1号に入って、わずかな距離で右側に東海部品工業の建物が現れます。ちょうどこのあたりで安城市から刈谷市へと入って行きます。

逢妻川を渡り、逢妻町の信号交差点を過ぎると、最初の横断歩道橋が現れます。その歩道橋の階段に隠れるように置かれているのがお江戸から85番目(約334km)、京から33番目(約169km)の一里塚跡です。
気が付かなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうです。



一里山新屋敷の交差点から500m弱歩くと工業団地入口交差点です。交差点の右角には上州屋でその先の今岡町歩道橋のところで左へと分岐する細い道筋へと入っていきます。

この細い道筋が旧東海道で、この先には連子格子の古い家が点在しています。国道からほんの少し入っただけですが、昔の街道の風情を残しています。交差点の左側には屋敷門のある家があります。
少し歩くと道は右にカーブしますが、その手前の道の左側に子安観音尊霊場の石碑と常夜燈が建っていて、その奥に堂宇があります。洞隣寺です。

洞隣寺は天正8年(1580)の開山、刈谷城主「水野忠重」の開基と伝えられる曹洞宗の寺院です。道の脇の常夜燈には寛政8年(1796)と刻まれています。 
本堂の隣には地蔵堂、行者堂、秋葉堂が並んで建っています。お堂の裏にある墓地に入っていくと、奥の方に、「豊前国中津藩士の墓」「めったいくやしいの墓」が並んで置かれています。

◇中津藩士の墓
寛保2年(1742)豊前国(大分県)中津藩の家臣が帰国途中、今岡村付近で突然渡辺友五郎が牟礼清五郎に斬りつけ2人とも亡くなったため2人の遺骸は洞隣寺に埋葬されました。ところが2人の生前の恨みからか、墓はいつのまにか反対側に傾き、何度直しても傾いてしまうので、村人は怨念の恐ろしさに驚き、墓所を整理して改めて葬ってからは墓は傾かなくなったといわれています。

◇めったいくやしいの墓
昔、洞隣寺の下働きに容貌は悪かったが気立てのよいよく働く娘がいました。あるとき高津波村の医王寺へ移ったところ、この寺の住職に一目ぼれしたのですが、この青年僧は仏法修行の身であり、娘には見向きもせず寄せ付けませんでした。
娘は片想いのため食も進まずついに憤死してしまいました。洞隣寺の和尚はこれを聞いて娘の亡骸を引き取って葬りましたが、この墓石から青い火玉が浮かび上がり、油の燃えるような音がしたり「めったいくやしい」と声になったりして、火玉は医王寺の方へ飛んで行ったといわれています。そんな女の情炎の恐ろしさが語り継がれているのがこの墓です。



洞隣寺から少し行くと、右側に小さな社と常夜灯が建っています。そこに「芋川うどん発祥の地」と書かれた木札があります。
江戸時代の東海道名所記に、「いも川、うどん・そば切りあり、道中第一の塩梅よき所也 」と、あったところで、ひもかわうどん(名古屋のきしめん)の源流といえるところですが、現在、そうした名物の店がここにある訳ではありません。 

傍らの説明板には、「江戸時代の紀行文に、いもかわうどんの記事が多くでてくる。名物のいもかわうどんは、平打うどんで、これが東に伝わり、ひもかわうどんとして現代に残り、今でも、東京ではひもかわと呼ぶ。」と書かれていました。

信号のない交差点を過ぎると、道筋はこの先で左へとカーブを切ります。その手前辺りに古い家が現れます。そしてその左側に堂宇を構えるのが乗願寺です。

天正15年の創建で、当初は真宗を内に、外向きは浄土宗としていましたが、後に真宗木辺派に改めました。 
水野忠重の位牌を祀っています。尚、真宗木辺派の本山は滋賀県野洲市にある錦織寺です。 

このあたりは今岡町と言いますが、江戸時代は立場で、街道筋には茶屋が並んでいたのではないでしょうか?
前述の「いもかわうどん」はこの先の今川町が発祥で、立場であった今岡で売られていたのではと推測します。
今川(いまかわ)が「いもかわ」に変じたのではないでしょうか?

さあ!まもなく第一日目の終着地点である名鉄名古屋本線の「富士松駅」前に到着です。

富士松駅前

「富士松」とは面白い名前の駅ですが、実は富士松という名前にはこんな由来があります。
桶狭間の戦いで敗れた今川勢が退却した後、旅人がこの今川町を通ったときに今川勢は相手のまわしものだと思い、この旅人を誤って殺してしまいました。それを見た住民は旅人を哀れに思い、葬った後にその場所へ1本の松を植えました。
こんな話を聞くと、いよいよ桶狭間の合戦地が近づいてきたことを実感します。

その松が成長し「お富士の松」と呼ばれるようになったと言われており、村名「富士松」はお富士の松に由来しています。
初代の松の木は伊勢湾台風で枯死してしまいましたが、その後第二代が富士松駅近くに植えられました。
しかしこれも枯死してしまったため、現在第三代の松の木が植えられています。

現在の富士松

第2日目はここ富士松駅前から出立します。いよいよ三河の国に別れを告げて尾張の国へ進んでいきます。

私本東海道五十三次道中記 第29回 第2日目 富士松駅前から桶狭間古戦場、有松、鳴海宿を経て呼続の富部神社
私本東海道五十三次道中記 第29回 第3日目 富部神社から宮の渡し

東海道五十三次街道めぐり・第三ステージ目次へ





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

私本東海道五十三次道中記 第28回 第3日目 岡崎から知立手前の来迎寺公園へ

2015年09月07日 07時51分43秒 | 私本東海道五十三次道中記


岡崎城天守

さあ!第三日目が始まります。私たちは昨日の行程で岡崎城下(宿)の西のはずれの「松葉総門跡」を抜けて、お城からおよそ8丁の距離の八丁の里に味噌蔵を構える八丁味噌のカクキュウに到着しました。



本日の出立はここ八丁味噌の郷「カクキュウ」の駐車場です。私たちは駐車場からいったん国道1号線へ出て、カクキュウの敷地沿いに進んでいきます。

実はカクキュウの敷地裏手は「蔵造りの町並み」という細い路地になっており、白壁と黒塀の美しいコントラストを見せる蔵がつづく趣ある雰囲気を漂わす道筋です。
さあ!そんな道筋へと入っていきましょう。

蔵造りの町並み
蔵造りの町並み
蔵造りの町並み
蔵造りの町並み

160mほどの細い路地ですが、古い時代に戻ってしまったかのような雰囲気を醸し出しています。
蔵造りの町並みの道筋が終わるT字路の角に置かれているのが「NHK純情きらり」の記念碑が置かれています。



「蔵造りの町並み」はカクキュウの敷地が途切れるまでつづきます。途切れたところがT字路になっていますので、これを右折して矢作川が流れる方向へと進んでいきます。

そして小さな四つ角にさしかかると、その角に昭和61年に建てられた、「左江戸、右西京」と刻まれた道標が立っています。
東海道はここを右折して進んで行きます。そして国道1号線といったん合流します。私たちは国道1号の下をくぐる地下道を使って、反対側へ渡ることにします。反対側にでたら、そのまま「矢作橋」方面へと進んでいきましょう。
現在の矢作橋は平成23年(2011)に完成した16代目にあたります。橋の長さは300mです。

江戸時代の慶長6年(1601)頃に架けられた矢作橋は現在の場所から100mほど下流で、その長さは75間(約136m)の土橋でした。その後、三代将軍家光の時代の寛永11年(1634)に将軍上洛に際して、長さ208間(約347m)の板橋が架橋され、東海道随一の長さを誇りました。

この寛永11年(1634)の架橋を第1回とすると、江戸時代を通じて9回の架け替えと14回の修復工事が行われました。幕末の安政2年(1855)の大洪水で橋が流失してから明治10年(1877)までの22年間は橋が架けられず、舟渡しが行われました。このため明治元年(1868)の明治天皇の江戸(東京)への行幸の際は、舟橋を利用したとあります。それでは岡崎の市街を後方に眺めながら、橋を渡っていきましょう。

橋を渡りきると、橋の袂に「槍を持つ武士と子供の像」が置かれています。
鉄道唱歌に「見よや徳川家康の おこりし土地の岡崎を 矢矧の橋に残れるは 藤吉郎のものがたり」と謳われているように、矢矧川(矢矧橋)は日吉丸と蜂須賀小六が初めて出会った場所として知られています。そんな話が残る橋の袂に「槍を持つ武士と子供の像」が置かれています。当然、像のモデルは日吉丸(豊臣秀吉の幼名)と阿波蜂須賀小六です。この二人がこの橋(河岸)で運命の出会いをしたことから「出会いの像」と呼ばれています。

槍を持つ武士と子供の像

ただ史実から言うと、日吉丸と小六が出会った当時は橋は架けられていなかったと推察します。(もしかしたら船橋くらいはあったかも)



さあ旧矢作村に入りました。
右手に親鸞聖人の旧跡、とある勝蓮寺が山門を構えています。実はこの勝蓮寺門前にお江戸から数えて82番目の一里塚が置かれていたといいますが、それを示す標は置かれていません。左側には近江屋本舗というお菓子屋さんがあります。古い家並みはほとんどありませんが、雰囲気のある街道の様子です。

少し先の右側に誓願寺が山門を構え、街道に面して十王堂というお堂が置かれています。

案内によると寿永3年(1184)3月、矢作の源兼高長者の娘であった浄瑠璃姫源義経を慕うあまり、菅生(すごう)川に身を投げました。長者は姫の遺体を当寺に埋葬し十王堂を再建し、義経と浄瑠璃姫を弔う木像を作り、義経より姫に贈られた名笛「薄墨」と姫の「鏡」を安置しました。

浄瑠璃姫の生涯については数々の創作で伝承化され、そのため史実としては非常に曖昧なのですが、これまで東海道を歩いてきて浄瑠璃姫の話が出てきました。そして西三河の岡崎に入ると、やたら浄瑠璃姫ゆかりの寺院や史跡が数多く残っています。
それもそのはず岡崎(矢矧)こそ、浄瑠璃姫の生まれ故郷だからなのです。

矢作の郷の兼高長者夫婦はながく子宝に恵まれなかったことで、日ごろから信仰していた奥三河の鳳来寺の薬師瑠璃光如来に祈願して授かったのが浄瑠璃姫です。

承安4年(1174)の3月、義経は奥州平泉の秀衡を頼って旅をつづける途中、矢作の郷の兼高長者の屋敷に宿をとったのです。義経一行は長者の屋敷に11日ほど滞留していたのですが、ある日、屋敷の一室から美しい琴の音が聞こえてきました。義経はすかさず持っていた笛で吹きあわせたことがきっかけで、二人の間に愛が芽生えたのです。

しかし義経は奥州への旅を続けなければならず、義経は姫との別れに際して、形見として名笛「薄墨」を託し、矢作の郷を発ったのです。姫は笛を大切にしていたのですが、募る思いに義経の後を追いかけたのです。しかし女の足ではとうてい追いつかず、恋の悲しみのあまり乙川(菅生川)に身を投げてしまったのです。そして長者はその遺体を誓願寺に埋葬したのです。

実は駿河の国の蒲原宿にも浄瑠璃姫の伝説が残っているのを覚えているでしょうか?

奥州平泉を目指した義経は駿河までやってきたとき、あの清見関の通過を避けて、久能から舟に乗るのですが、運悪く嵐に巻き込まれ命からがら蒲原の吹き上げの浜に辿りつきます。

旅の疲れもあったのでしょうか、義経は蒲原で病床についてしまいます。そんなとき、よせばいいのに岡崎に残してきたあの浄瑠璃姫に文をしたためたのです。

文を受け取った姫はいたたまれず東海道を蒲原へと向かうのです。そして病床の義経とめでたく対面し、懸命の看病の結果、義経は元気を回復します。しかし、ここで二人はハッピーエンドとはいかないのです。

元気になればなんでもできる。義経は再び、奥州へ向けて旅立つのですが、一緒に旅をつづけられない姫は成就できない恋を悲しんで蒲原で短い生涯を閉じることになってしまったのです。そんな浄瑠璃姫を供養している寺が蒲原の光蓮寺です。
このように浄瑠璃姫の話はその土地、その土地で異なります。

旧街道はこの先で国道1号線に合流します。これから先2kmはこれといった立ち寄り個所もなく、ただ淡々と国道1号線に沿って歩くことになります。





鹿乗川に架かる鹿乗橋(かのりばし)を渡り宇頭町を過ぎると安城市に入ります。
鹿乗川とは面白い名前ですが、川名の由来は、一つには足利尊氏が矢作川の増水で立ち往生していたところ、突然現れた三頭の鹿の道案内で無事川を渡ることができたとか。

もう一つは、あの桶狭間の合戦で今川義元が討たれ、その時今川軍に属していた家康がその混乱に乗じて、生まれ故郷の岡崎に帰る際、矢作川の増水に阻まれました。そんな時に三頭の鹿が現れて、家康を導き無事に川を渡ることができたという故事によるものと2通りあります。

尾崎東信号交差点で道は二又に分かれます。右へと分岐する道筋には松並木が残っています。車の往来が激しい国道1号から分かれ、静かな道筋を進んで行きます。



尾崎東交差点で国道1号線と分岐すると、前方に松並木が続いています。それほど長い距離ではないのですが、この松並木は「尾崎松並木」と呼んでいます。
そして尾崎東交差点から800mほど行った右側にうっそうとした森が見えてきます。
熊野神社の鎮守の森で、その森の大きさから一見して境内が広いことが分かります。

熊野神社
熊野神社

この辺りは昭和19年に土浦海軍航空隊分遣隊として創設された第一岡崎海軍航空隊の跡地です。劣勢挽回のため、搭乗員養成を目的として創設されましたが、翌年終戦により解散してしまいました。
予科練は土浦だけだと思っていましたが、戦況が急で慌てて岡崎に追加したという訳です。鳥居の脇に予科練の碑が建てられています。

熊野神社の鳥居の前を通り過ぎたところに、お江戸から83番目(約326キロ)、京都三条から35番目(約178キロ)の尾崎一里塚跡の小さな石碑が置かれています。

尾崎一里塚跡碑



少し歩くと宇頭茶屋交差点にさしかかります。旧宇頭村は立場茶屋があったところです。 
大きな松がある妙教寺内外神明社を横目に街道を進んでいきましょう。

その先の右側に大浜茶屋の庄屋「柴田助太夫」の霊が祀られている永安寺が堂宇を構えています。柴田助太夫は村民の窮乏を見かねて、助郷の免除を願い出たのですが、領主の怒りに触れて刑死した人です。この事件以降、助郷役は免除されたといいます。

そんな柴田助太夫の功績を称えて村民が小さな草庵を結んだのが、永安寺の始まりといいます。 
寺の境内の右側に枝を左右に大きく伸ばしている立派な松がります。樹高4.5m、枝張り東西17m、南北24m、樹齢は300 年以上の老木県の天然記念物です。

永安寺の雲龍の松

幹が上に伸びず、地をはうように伸びていて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする龍を思わせることから「雲龍の松」と言われています。尚、永安寺は無住の寺で、近在の方々が松の管理をしているようです。



浜屋バス停を過ぎると右手に松の木が見えてきます。明治川神社交差点を越えた右側に、明治用水の記念碑が幾つかあり、その中の一つに明治13年(1880)4月の新用水成業式(竣工式)に出席した松方正義が揮毫した「疎通千里,利澤万世 」と刻まれた石碑があります。

明治用水は江戸時代の末期に碧海郡和泉村(安城市和泉町)の豪農、都築弥厚(つづまやこう)が碧海(へきかい)台地に矢作川の水を引き、開墾を行うという計画で始まりました。 

幕府の許可は得られましたが弥厚が病死してしまいます。その後、岡本兵松(ひょうまつ)伊豫田与八郎(いよたよはちろう)等が遺志を継いで、新たな計画を立てましたが、一部の農民の反対もあり、苦労の末、明治13年に完成しました。 

その左側に明治川神社の石柱と鳥居があります。明治川神社は用水完成後設立が企画され、明治17年に創建されました。
明治用水の開発に功績のあった都築弥厚、岡本兵松、伊豫田与八郎等を祀っています。
そうして造られた明治用水は、現在は暗渠となっています。

明治用水記念碑を過ぎると、道筋の両側に松並木が現れます。本日の行程も残すところ2キロの地点にさしかかります。
この先はそれほどの見どころがなく、途切れながらつづく松並木を見ながら進んで行く道筋がつづきます。



里町4丁目の信号交差点を過ぎると、街道右脇に小さな青麻神社が鳥居を構えています。そして鳥居の左隣にどういうわけか「力士像」が置かれています。この像は江戸末期から明治初頭にかけて活躍した江戸力士で五代目・清見潟又市の石像です。

天保9年(1838)三河国碧海郡前浜新田(現 碧南市前浜町)に生まれ本名を榊原幸吉、20歳で江戸相撲に入門し47歳まで現役を続けました。最高位は前頭筆頭、立ち合い時に驚くほどの奇声をあげる名物力士だったようです。

松並木は里町4丁目西交差点の手前でいったん途切れてしまいます。
里町4丁目西交差点を過ぎると、本日の歩行距離も8キロに達します。本日の終着地点まで残すところ1.5キロです。



道筋はたんたんとしていますが、街道の左側に浅賀井という名前の事業所あたりから松並木が現れます。
単調だった道筋に街道らしい風情を醸し出してくれます。

街道は猿渡川にさしかかります。この川を渡ると安城市から知立市へと入ります。今回の旅では岡崎市から安城市そして知立市と辿ってきました。そして本日の終着地点の来迎寺公園に到着です。

尚、ここ來迎寺公園東交差点で終わる場合と、この先、東海道筋から大きく逸れて八橋(やつはし)無量寿寺までいくことがあります。八橋無量寿寺までは東海道筋から670mほど歩かなければなりません。



八橋無量寿寺へは次の来迎寺町交差点で右へ曲がり、そのまま直進して進みます。その曲がり角に「八橋業平作観音従是四丁半北有」そして脇に八橋無量寺と刻まれた古い道標が置かれています。 
この道標が在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道標です。

「ある男(業平であろう)が東下りの途中、道に迷いながらもこの地に辿りつきました。川が幾筋もまるで蜘蛛の手のように流れ、その流れに八つの橋が架けられていたので、「八橋」と呼ばれていました。
そしてその水の流れに「かきつばた(杜若)が美しい花をつけていたのを見つけ、男は「かきつばた」の五文字を句の上に置いて、歌を詠んでみようということになった。
そして詠まれたのが、「唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う」

●無量寿寺境内にある「杜若姫供養塔」
杜若姫は京の小野の中将たかむらの娘と伝えられています。この娘は業平が東下りの旅に出発すると、業平を慕い後を追って、この先の逢妻川で追いついたといいます。しかし業平の心を得ることができず、八橋の池に身を投げて果てたと伝えられています。逢妻川は杜若姫が業平に追いついた場所であることから「妻に逢う=逢妻川」と名付けられたといいます。

今回の旅は知立宿の手前の來迎寺公園信号(9.4㎞)または東八橋無量寿寺(10.5㎞)が終着点となります。

次回はここ来迎寺公園から39番目の宿場「池鯉鮒(ちりゅう)」、40番目の鳴海宿、41番目の宮宿へと至ります。そして宮からは伊勢の桑名宿まで現代の渡し舟で海上七里の旅をお楽しみいただきます。

私本東海道五十三次道中記 第28回 第1日目 赤坂宿から本宿を経て藤川宿
私本東海道五十三次道中記 第28回 第2日目 藤川宿から城下町岡崎へ

東海道五十三次街道めぐり・第三ステージ目次へ





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

私本東海道五十三次道中記 第28回 第2日目 藤川宿から城下町岡崎へ

2015年09月06日 16時37分45秒 | 私本東海道五十三次道中記


さあ!第二日目の始まりです。
出立地点は昨日の終着地点の藤川の道の駅です。本日の行程はここ藤川宿から38番目の岡崎宿のカクキュウ「八丁味噌の郷」を目指します。その距離およそ11.4キロです。
昨日の行程では藤川宿内の京方でもある「西の棒鼻」まで辿ってきました。
私達は道の駅・藤川から再び、名鉄本線の線路を陸橋で渡り旧街道へと進んでまいりましょう。

藤川宿



藤川小学校の交差点で旧街道へ合流します。その交差点を挟んだはす向かいには十王堂があります。十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅(1710)七月」と記されているので、十王堂の創建はこの年と推定されます。

十王堂案内板
十王堂

その奥には成就院があり、境内の右側に芭蕉句碑があります。 
「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつはた はせを」
※「はせを」とは芭蕉のことです。

この句の意味は「ここ藤川の宿(日本橋から38宿目)も三河なんだ、紫色の麦が(知立八つ橋の)かきつばたのようだ」と。
知立八橋「かきつばた(杜若)」で有名です。無量寿寺の境内には「かきつばた」園があります。

約1キロ強の宿内の距離を持つ藤川宿の京方の棒鼻を過ぎて、30mほど進むと街道の左側の民家の一角に江戸から数えて79番目(約310キロ)、京都三条からは39番目(約193キロ)の藤川一里塚跡の標が置かれています。



一里塚跡を過ぎると、街道脇に往還松の名残がちらほらと現れます。街道を進むにつれて少しづつ増えていきます。
前方に名鉄名古屋本線が街道を横切るちょっと手前の三叉路が藤川村の西の端にあたります。
そんな三叉路の道は西へ向かう道筋と南へ向かう道筋に分岐しています。

南に向かうと土呂、西尾、吉良へへつづく道で「吉良道」又は「吉良街道」と呼ばれていました。
吉良街道は吉良の塩を信州に運ぶ塩の道として重要な脇往還で、藤川は東海道だけではなく吉良街道も通る交通の要衡だったのです。

西尾市・吉良町(吉良吉田)
名鉄名古屋本線の新安城から急行で約30分の距離にあります。
吉良といえば、江戸時代前期の高家旗本吉良義央(よしなか)が有名です。よく御存じの、あの忠臣蔵で悪役として描かれている義央公のことです。

吉良家は大名ではなく4200石の旗本です。足利源氏の血をひく家柄で、江戸時代には高家筆頭として江戸城内の儀礼を担当し、公家接待の際の指南役を担っていました。このため石高が5万石の大名であった赤穂浅野家を田舎大名と見下していたようです。
吉良と浅野の争いの原因の一つには、双方の領地で産出される「塩」の利権争いがあったのではないかとの説もあります。
赤穂といえば有名な「赤穂塩」ですが、吉良塩も赤穂に負けない良質なものだったようです。
そんな塩の産地を抱える吉良と赤穂は少なからず敵対していたのではないでしょうか。

さて、三河には吉田藩、刈谷藩、岡崎藩をはじめ20近い藩と旗本領がありました。
その旗本の一人である吉良家の領内は三河湾に面していたことで、塩田が発達し「餐場塩(あいばしお)」と呼ばれたブランド塩が江戸時代から作られていました。

古くから作られていた吉良の塩は矢作川を船で遡り、岡崎の城下へと運ばれ、その後は陸揚げされ塩の道を辿って信州まで運ばれていました。
五万石でも岡崎様は城の下まで船が着く

岡崎の城下には塩座が設けられ、集められた塩は更に矢作川、巴川をさかのぼって、平古(現在の豊田市)で陸揚げされ、足助街道(あすけかいどう)を辿って足助へ運ばれます。
そして足助で荷を積みなおして、馬の背に乗せられ信州へと運ばれていきました。最終的には塩尻に至っています。

吉良道との追分を過ぎて、少し先の名鉄名古屋本線の線路を横切ると「藤川の松並木」が始まります。

藤川の松並木

名鉄線の踏切を渡った辺りから、その先の約400m間は特に立派な松並木がつづき、一里山から宇北荒古にかけて長さ約1キロの間に樹囲約2m、樹高約30mのものを含めて、およそ90本のクロマツが街道脇に並んでいます。

松並木を抜けると旧街道は藤川西の交差点で国道1号線と合流します。この先約2キロの区間は車の往来が激しい国道1号線に沿って進んで行きます。



国道1号線脇に堂宇を構える阿弥陀寺を過ぎると、歩き始めて2キロ地点を通過します。国道1号線は緩やかな下り坂となり、美合新町北信号手前の山綱川へと進んでいきます。
無味乾燥な国道1号線とやっとお別れです。見合新町北の交差点の手前で国道から分岐して左へと入る細い道へと進みます。この細い道筋にも僅かばかりの松並木が残っています。この松並木を「美合の松並木」と呼んでいます。



見合新町交差点まで行くと松並木は途絶え、道幅が細くなっていきます。そして美合町南屋敷の交差点を過ぎると、道幅は更に狭くなっていきます。

山綱川に架かる橋を渡って進んで行きますが、橋の手前に「川を美しく、生田蛍(しょうだほたる)保存会」の看板が置かれています。山綱川流域には源氏蛍が生息しているのでしょうか?

国道1号線には「ほたる橋南」と名付けられた信号交差点があることから、やはり「蛍」の生息地として知られているのではないでしょうか。

山綱川を渡り旧街道を直進すると、道筋は乙川の畔にさしかかり、T字路となります。T字路から乙川の流れを眺めることができます。
そんな乙川の河原にどういうわけか馬が数頭、放牧されています。時として乙川の水で馬の体を洗っている様子も見られます。
たまたま通りかかった厩舎の方に聴くと、この馬は神社の祭礼の時に貸し出すためのものだそうです。年間におよそ60日程度の割合で貸し出すそうですので、「1年を60日で暮らすいい馬たち」といったところです。

かつてはこの道筋の先に橋が架けられていたはずですが、今はありません。対岸にかつての道筋がのこっていますが、私たちは新しい橋である「大平橋」を渡って対岸へ進むため、いったんT字路を右折し、国道1号線に合流します。
太平橋を渡ると地名は「大平町」へと変ります。



大平橋を渡ったら、また国道1号から逸れて左へつづく細い道に入ります。そして突き当りを右折して僅かな距離を歩くとまた国道1号の大平町東交差点にさしかかります。

旧街道は国道一号線の大平町東信号を渡り、斜め右手に入る道筋へとつづいています。旧街道の道筋に入ると、ほんの少し上り坂になります。

左へとカーブを切りながら旧街道をそのまま進んで行くと、右側に大平郵便局が現れます。その前に西大平藩陣屋跡の案内が置かれています。郵便局の角を100mほど右へ入って行くと前方に白壁と復元された立派な陣屋の門構え(高麗門)が見えてきます。

陣屋の門構え
陣屋の高麗門
陣屋の高麗門

西大平藩陣屋は大岡越前守忠相が領地を治めるために設けた代官所です。
忠相は旗本でしたが72歳の時に八代将軍吉宗の口添えもあり、4080石の加増を受け1万石の大名になりました。藩主だったのはわずか3年ですが、その後、子孫が継ぎ7代後に明治維新を迎えました。 
忠相は大名といっても、江戸常駐の定府大名だったので参勤交代をしたことはなくここにきたことはないようです。

※西大平藩
現在の岡崎市大平町に位置しています。藩庁は西大平陣屋。石高は一万石。大岡家宗家の当主は吉宗の信任を受け、江戸南町奉行として享保の改革を実行しました。
忠相が72歳の時、寺社奉行時代の寛延元年(1748)に奏者番に就任し、それまでの功績を評価され4000石加増を受けて、西大平1万石の大名となったのです。
陣屋には郡代1名、郡奉行1名、代官2名、手代3名、郷足軽4~5名程度の少人数が詰めていました。また額田組十二村、宝飯組五村、加茂、碧海組七村が領地で、それぞれの組に割元と呼ばれる陣屋役人が置かれ、年貢の徴収と村々の取締りを行っていました。

立派な門をくぐると内部はなにもない更地です。おそらく今後、公園のように整備されていくのではないでしょうか。園内には綺麗なトイレがあります。



来た道を辿り、再び旧街道に戻り150mほど進むと、小さな交差点の左角に立派な姿の80番目の大平一里塚が置かれています。高さ2.4m、縦7.3m、横8.5mの塚に植えられていた榎は昭和28年の伊勢湾台風で倒れてしまったため、植え直したものです。

大平一里塚
 
左側の一里塚しか残っていませんが、昭和12年に国の史跡に指定されました。

大平一里塚を過ぎると、歩き始めて5キロ地点にさしかかります。旧街道は左へとカーブをきり、その先で再び国道1号線に合流します。この辺りまでくると、街道筋は岡崎の市内中心に近づいてきたかのような賑やかさを感じます。

旧街道の道筋はこの先の東名高速によって本来のルートが若干ながら変ってしまっているようです。本来であれば一号線にそって旧街道は直進していたはずですが、道筋が消失してしまいました。このため岡崎インターチェンジ入口手前の青山ダイソー脇の細い道へ入り、ホテル五万石の前を通り、インターチェンジ入口の下をくぐって向こう側へと進んでいきます。

岡崎の中心へと徐々に近づいてきていることを思わせるように、どことなく賑やかな雰囲気が感じられるエリアに入ってきました。道筋は再び国道1号線と合流します。1号線と合流すると、すぐに岡崎インター西の大きな交差点にさしかかります。この信号交差点を渡ると、旧街道は再び国道1号から右手の細い道筋へと逸れ、岡崎の城下へと入っていきます。



国道一号線から分岐するとすぐ右手に法光寺が山門を構えています。門前を過ぎて直進すると左側に冠木門岡崎二十七曲りの石碑が置かれています。

冠木門
二十七曲りの石碑

この場所が岡崎藩5万石の城下の入口であり、岡崎の宿場町の東の出入口だったのです。
さあ!ここから二十七曲りのスタートです。

お江戸から38番目の岡崎宿は天保14年(1843)の記録によると人口6494人、家数1565軒、本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠112軒。本陣は中根甚太郎(西本陣)、服部小八郎(東本陣)、大津屋勘助の3軒、脇本陣が鍵屋定七、山本屋丑五郎、桔梗屋半三郎の3軒という規模でした。そして城下の町数は60余りあったといいます。

江戸時代には伝馬町を中心に、本陣、脇本陣、旅籠があったとされ、旅籠は文化9年(1812)の伝馬町家順間口書によると伝馬通5丁目から籠田総門まで軒を連ねていました。
正保・慶安の頃(1644~1651)からは、飯盛り女を置く旅籠があらわれ、岡崎は岡崎女郎衆で一躍有名になりました。

二十七曲り碑を後に若宮町2丁目信号にさしかかると、「二十七曲り碑」が置かれています。

二十七曲り碑
二十七曲り碑

江戸時代にはこのあたりを投町と呼び投町茶屋があり、そこでは淡雪豆腐が名物だったといいます。淡雪茶屋で出されていたのは葛や山芋をベースにした醤油味の「あん」をかけた「あんかけ豆腐」で、茶飯にお新香のセットで十八文だったと記録されています。

尚、江戸時代に城下を辿る旧街道筋は幾つもの曲がりを設置し、その数はなんと二十七か所に及びました。その二十七曲りの統一的な案内としてコース上に「金のわらじ」の目印が置かれています。私たちはこの「金のわらじ」を目印にご城下を辿っていくことにします。

金のわらじ

二十七曲りは天正18年(1590)に当時秀吉の家臣であった田中吉政によって整備された道筋です。
城下町である岡崎へ敵が攻め込んでくることを難しくするための工夫だったのですが、これは天正18年(1590)の小田原攻め以降、江戸へと移封された家康公への備えと言われています。

それまで家康公は三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の五か国を領有する戦国の大大名として大きな力をもっていました。しかし秀吉は家康の強大な力を封じ込めようと、相模の雄であった北條氏の滅亡後、家康公を関八州を治めさせるため江戸へと移封させたのです。このことは家康を京、大坂から遠く離れた場所へ封じ込めるという戦略です。
そして、東海道沿いの尾張には福島正則、岡崎に田中吉政、吉田(豊橋)には池田輝正、浜松には堀尾吉晴、掛川に山内一豊といった豊臣恩顧の武将を配置したのです。

この二十七曲りの道筋は天守のあるお城を避けるように、城下の北側を辿るように何度も、何度も折れ曲がりながらつづいていました。実際に当時の二十七の曲がりがそのまま残っているわけではありませんが、300年余りの年月を経て、城下の町並みや道筋が変ってしまいました。この二十七という数字は実際の曲りの数というより、その数が多い意味として使われています。



若宮1丁目東の交差点を直進すると、右側に曹洞宗根石寺「根石観音堂」があります。

根石観音堂

案内によると、和銅元年(708)の頃、天下に悪病が流行したそうです。そして元明天皇の命により、行基が六体の観音像を彫り、2体を根石の森に勧請し祈祷をしたところ悪病は治まったと伝えられています。 
又、家康公の嫡男である岡崎三郎信康が元正元年(1573)の初陣に際し、観音像に祈願し軍功をあげて開運の守り本尊として崇めたといいます。

両町3丁目交差点を過ぎると、両町2丁目になります。両町2丁目交差点から100mほど進んだ4つ角を右へ曲がります。
曲がると公民館が右手にありますが、これを過ぎると比較的道幅のある伝馬通りにでてきます。その伝馬通りに面してファミリーマートが右角に現れます。

ここまでに至る道筋にある「曲がり」は曲尺手(かねんて)で、お城から遠ざけようとして旧街道筋をつくっているので、当時の旅人はこの道筋からは岡崎城を見ることはできなかったと思われます。

さて、岡崎市のマンホールの蓋には五万石と岡崎城と船の絵が描かれています。
「五万石でも岡崎様は城の下まで船がつく」と詠われたように、岡崎は神君家康公の生誕地であるため、ことさら特別な扱いを受け、僅か五万石でもお城の下まで船が着くほどだったのです。

伝馬通りに入り、伝馬通り5丁目交差点にさしかかります。このあたりから岡崎の宿場の中心地へと入っていきます。
伝馬通5丁目の交差点で、太陽緑道を横切り直進します。伝馬通4丁目の右奥にある随念寺は永禄5年(1562)に家康が創建した寺で松平七代目の清康とその妹久子の墓が置かれています。
江戸時代に入り、二代秀忠公は当寺に守護不入の特権を与え、元和5年(1619)に本堂を再建しています。この本堂は三河浄土宗の寺院の中で最古のものです。



伝馬通交差点の右側の角の花一生花屋あたりに「東本陣」があったといわれています。 
最初に本陣を勤めた浜嶋久右衛門が没落し、その後磯貝久右衛門に代わったが、これも廃れ、その後は服部專左衛門が勤めたといいます。本陣の大きさは間口13間、建坪209坪、畳245畳だったとあります。

交差点を越えた左側に備前屋藤右衛門と書かれた暖簾の「菓子屋・備前屋」があります。この店の創業は天明2年(1782)に溯る老舗です。この店を代表する名物は「淡雪」という菓子です。現在の淡雪は豆腐にちなんで作られた豆乳菓子です。

岡崎は昭和20年(1945)の米軍の空襲により市内全域がほぼ消失していますが、奇跡的に焼け残った建物が伝馬通りにあります。備前屋の数軒先に商家の糸惣の建物がありますが、文化9年(1812)の伝馬町家順間口書(前述)には小間物屋、糸屋惣兵衛として名を連ねています。その隣の永田屋も天保14年(1843)から商売をしている老舗です。現在は松坂牛を扱っています。

糸惣
永田屋

道の反対側にあるのが、漢方薬の大黒屋です。元禄年間(1688~1713)には居住し庄屋を勤めた家柄で、世襲名を小野権右衛門といいました。

大黒屋

家の前に置かれている石彫りには「作法触れ」とあり、土下座をしている姿が描かれています。作法触れとは勅使、朝鮮通信使や大名行列がきたとき、町奉行が町民に対し街道や宿場での応対の仕方のことです。

伝馬通1丁目で左折し50mほど進んで今度は右折します。入ってきた通りは「籠田総門通り(かごたそうもんどおり)」です。

少し歩くと右側に赤いレンガ造り洋館が現れます。国の重要文化財に指定されている岡崎信用金庫資料館です。

岡崎信用金庫資料館

赤レンガと地元産御影石(花崗岩)を使用したルネッサンス様式のこの建物は大正6年、旧岡崎銀行本店として建てられたものです。館内には貨幣に関する展示コーナーがあります。

岡崎宿の問屋(人馬会所)伝馬町材木町にありました。伝馬制により岡崎宿で常時用意する馬の数は、始めは三十六疋だったのですが、寛永15年には馬百疋、人足百人になりました。伝馬町の問屋は岡崎信用金庫資料館のあたりにあったようです。 

街道を挟んで岡崎信用金庫資料館の前辺りには伝馬公設市場がありました。
またこの場所には江戸時代に御馳走屋敷がありました。御馳走屋敷は間口15間以上もある立派な建物だったようで、公用の役人などをもてなす、いわば、岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていました。

江戸時代にはこの先に岡崎城の籠田総門がありました。天正18年(1590)に家康が江戸に移封されると、秀吉の家臣の田中吉政が岡崎城主になり総堀を築き、城下町を整備しました。 

東海道東側の城内出入口としてつくられたのが籠田総門で、京方の松葉総門と同じく承応3年(1654)に造られましたが、東海道にはその後、枡形が設けられたようです。
中央緑道の真ん中に籠田総門の跡碑が置かれています。
籠田総門は籠田公園前、西岸寺辺りにあったと言われていますが、場所が特定できていません。

籠田総門の跡碑

中央緑道が途切れるあたりに二十七曲りの生みの親である田中吉政の像が置かれています。

田中吉政の像

田中吉政は岡崎城主になった時は秀吉の家臣でしたが、天下分け目の関ヶ原では徳川方につき、合戦後は光成を捕縛する勲功をあげて、家康公から筑後柳川城32万石の大出世をした人物です。

田中吉政の像がある場所から信号交差点を渡ると、反対側には籠田公園があります。城下を辿る旧街道の道筋はこの先、連尺通り入口までのわずかな区間ですがわからなくなってしまいましたが、私たちは籠田公園の中を突っ切って籠田公園北西信号交差点へと進みます。

公園の北西角には篭田町より連尺町角の標石が置かれています。それにしても岡崎城下、宿場内を辿る東海道の道筋はクネクネとしています。家康公が居城とした浜松城下や駿府(府中)の城下でも、これほどクネクネしていませんでした。

籠田公園北西信号交差点で連尺通りに入ります。「連尺」とは物を背負って売り歩く商人のことをいいます。そのまま直進して本町1丁目交差点へと進んでいきましょう。江戸時代後期になると連尺町は荒物商や木綿商・古着商をはじめ、様々な店が軒を連ねる商人町として栄えていました。明治から大正期にかけては呉服商が増えて、千賀呉服店や山沢屋をはじめとする大店が軒を連ね、呉服町の様相を呈していたようです。



本町1丁目の交差点を渡ると左側に岡崎シビコのビルが現れます。
岡崎二十七曲りはまだつづきます。岡崎シビコに沿って歩き、ビルの半分くらいの距離を歩くと、右に曲がる角にさしかかります。
その角に「岡崎城対面所前角の標石」が置かれています。対面所とは外来使節応対や領民の公事、評定を行った場所です。

そして道を挟んだ反対側のシビコ側に、「岡崎藩校充文 充立館跡碑」が置かれています。

岡崎藩校充文 充立館跡碑

この藩校は幕府崩壊後の明治2年(1869)に藩主本多忠直公が開設しましたが、その2年後の廃藩置県によって岡崎藩がなくなり、これと時を同じくして廃校となりました。

対面所の標石の先の細い道筋を辿り、北へと向かいましょう。突き当たりにある市川内科の前に 材木町口木戸前の標石が置かれています。材木町の地名の由来は田中吉政が城下建設の折、伐り出した材木を積み置いた場所からきています。
江戸期を通して鍛冶職人や指物職人等が多く住む職人町でした。
江戸時代にはこの角から次の材木町角の標石のところまで、北西の方向に斜めに歩いたようです。しかし現在では道は失われているので、ここで左折し材木町1丁目を右折します。材木町角の標石はファミリーマートの道の反対側に置かれています。

江戸時代には材木町の問屋場が、材木町3丁目の交差点を越えた右側にあり、伝馬町と交代で五日毎に伝馬継立を行っていました。伊賀川に架かる柿田橋の手前で左折すると、伊賀川の縁に二十七曲りの標石が置かれています。伊賀川に沿って歩き、三清橋の袂まで進んで行きます。ここにも標石があり「下肴町から田町角」と記されています。



材木町には唐弓弦の古い看板を掲げた旧商家が残っています。唐弓弦とは江戸時代に使われた綿打ちの道具ですが、岡崎には三河木綿に係る職人や商人が多くいたようです。

マップ⑳に表記されている二十七曲りのルートは赤字の点線です。
しかし私たちは岡崎城天守見学のため、いったん二十七曲りのルートから外れます。

三清橋を渡るとすぐの信号交差点を渡り、さらに伊賀川に沿って直進すると、龍城橋西交差点に着きます。
この龍城橋西交差点を渡り、左手に進むと、岡崎公園の入口に到達します。

《岡崎城》

岡崎城天守

岡崎城は松平清康(家康の祖父)が、享禄4年(1531)に現在の場所に城を移したもので、徳川家康は天文11年(1542)にここ岡崎城で生まれました。城内には家康が産湯に使ったという井戸跡もあります。

家康はその後、織田信秀(信長の父)、そして今川義元の人質となり、この地を離れましたが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれとことで、十九歳の時再び岡崎に戻り松平家の再興を図ることになりました。 

家康は元亀元年(1570)、本拠を遠江浜松城(静岡県浜松市)に移し、岡崎城は嫡男信康に与えましたが、信康が自刃したので、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。 

天正18年(1950)の家康の関東移封に伴い、秀吉の家臣の田中吉政が城主となり、吉政は大規模な城郭の整備拡張を行い、文禄元年(1592)、城の東、北、西に総延長4.7kmの総堀をつくりました。 

その後、家康による江戸幕府開設により岡崎藩が誕生。石高は5万石前後と高くはなかったのですが、神君出生の地として神聖視され、石高以上に権威があり、本多(康重系統)、水野、松平(松井)、そして、本多(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となりました。

元和3年(1617)、本多康紀が、三層三階地下一階建て、東に井戸櫓、南に附櫓をもつ天守閣を建てましたが、明治の城取り壊しにより、明治6年~7年に城郭の大部分が壊されてしまいました。現在の天守は昭和34年(1659))に復元されたものです。



岡崎城天守の見学を終え、公園内の南に位置する竹千代橋へと向かうことにします。竹千代橋を渡る手前の右側にNHK朝ドラ「純情きらり」の手形の道のモニュメント(寺島しのぶ)と二人の童の像が置かれた「竹千代通り」と銘板が嵌めこまれた記念碑があります。

純情きらりの手形のモニュメント
寺島しのぶの手形

それでは竹千代橋を渡って、旧板屋町エリアへと進んでいきましょう。

竹千代橋

かつての板屋町エリアへ入ると、旧伝馬町、連尺町、材木町の賑やかさからとは比較にならないほど、静かな町並み(住宅街)へと変ります。

この板屋町の名の由来はかつてこの辺りを造成するにあたり、板屋を造ったことによります。
そしてこの辺りが一躍有名になったのが、江戸時代の文化年間(1804~1818)に茶屋女を置いた茶屋商売が盛んになったことです。そしてこの茶屋商売は明治になってから妓楼(遊郭)へと発展し、伝馬町界隈と並ぶ一大歓楽街であったといいます。

そんな時代があったのか、と思うほど現在は静かな町並みに変貌しています。
かつて「いかがわしい」場所であったこのエリアで唯一、そんな場所の伝統を引き継いでいるのが、ド派手な建物を誇示するラブホテル「大使館」ではないでしょうか?

私達は旧板屋町の細い道筋を辿り、248号線の中岡崎町の信号交差点へとさしかかってきます。交差点の向こう側は江戸時代の旧松葉町エリアです。
豊臣時代にあの田中吉政が城下建設を始めたころは、この辺りは矢作川に近いこともあり、沼地であったと言われています。この沼地を埋め立てて町を造成したのです。

この信号交差点を渡ると、歩道の脇に岡崎城総曲輪の京方(西側)出入口にあたる松葉総門跡があります。

松葉総門跡
金のわらじ

中岡崎町の信号交差点を渡り、そのまま直進していきましょう。この辺りにくると市中の賑やかさはなく、静かな雰囲気を漂わせています。道筋の前方にガードがみえてきます。これは「愛知環状鉄道線」が走る高架です。このガードの手前までが旧松葉町です。そしてガードをくぐると、かつての旧八町村になります。旧八町村は岡崎城から八丁(約870m)の距離にあることから、こう名付けられました。

さあ!いよいよ本日の終着地点である「八丁味噌の郷」は目と鼻の先です。かつての東海道筋はそのまま直進していきますが、私たちはガードをくぐったら、すぐ右へ曲がり八丁味噌「カクキュウへと向かいます。

八丁蔵通り

八丁味噌は明暦元年(1655)に、朝鮮通信使が岡崎に宿泊した時、使節より伝えられたといわれています。
カクキュウに隣接して左側に「まるや八丁味噌(大田家、創業永禄年間)」があります。

カクキュウの建物(本社事務所と本社の蔵)は平成8年12月20日付けで国の登録文化財に指定されました。本社事務所は白い柱を基調とした洋風建築でモダンな雰囲気を醸し出したいます。また、「蔵」は明治40年に味噌蔵として建てられたものです。
尚、この味噌蔵はカクキュウのスタッフの説明付きで見学をすることができます。
■平日
見学受付時間 10:00~16:00まで
毎時00分開始 所要時間30分
店頭にて受付をお願いいたします。

■土日祝日
見学受付時間 9:30~16:00まで
毎時00分、30分開始のガイドつき見学
(ただし12:30の回はお休み)

■お問い合わせ
TEL/0564-21-1355
FAX/0564-21-1382
Eメール/shop@hatcho-miso.co.jp

■カクキュウHP
http://www.kakukyu.jp/

私本東海道五十三次道中記 第28回 第1日目 赤坂宿から本宿を経て藤川宿
私本東海道五十三次道中記 第28回 第3日目 岡崎から知立手前の来迎寺公園へ

家康公の故郷・三河岡崎~画僧「月僊」ゆかりの古刹・昌光律寺の佇まい~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~家康公の父「忠弘公」密葬の地能見の「松應寺」を訪ねて
家康公の故郷・三河岡崎~家康公誕生の城・岡崎城~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~徳川将軍家菩提寺「大樹寺」~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~徳川家累代祈願所「伊賀八幡宮」~(愛知県岡崎市)

東海道五十三次街道めぐり・第三ステージ目次へ





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

私本東海道五十三次道中記 第28回 第1日目 赤坂宿から本宿を経て藤川宿

2015年09月03日 08時53分16秒 | 私本東海道五十三次道中記


さあ!3回目の2泊3日での行程が始まります。
第一日目の行程は東名高速の音羽蒲郡インター至近の「えびせん共和国」から37番目の藤川宿の道の駅までの9.6㎞です。
第二日目は藤川の道の駅からいよいよ家康公の生誕地「岡崎(38番目)」へと足を踏み入れ、立派な天守を持つ岡崎城を訪ね、その後岡崎八丁味噌の郷(カクキュウ)までのおよそ12㎞を歩きます。
第三日目は八丁味噌のカクキュウ前を出発地点として知立宿手前の來迎寺公園までの9.5㎞です。
そして3日間の総歩行距離は31.1㎞を予定しています。



赤坂宿の京口見附からおよそ1.5㎞進んだ場所に位置するのが「蒲さえびせん共和国」です。
赤坂宿を出ると旧東海道の道筋は左右に連なる低い山並みの間を縫うように続いています。左右の山並みに挟まれた谷間の幅は600mほど。そんな狭い谷間に穿かれた旧東海道筋を辿り、前回はここ「えびせん共和国」が終着地点でした。
赤坂宿からここえびせん共和国までの道程には家並みが続いていましたが、この先の街道筋は家並みが疎らになってきます。

旧街道筋へ入ると、ほんのわずかな距離を歩くと旧街道の路傍に「長沢の一里塚跡」が現れます。お江戸から77番目の一里塚です。因みに御油の一里塚から長沢の一里塚までは4236mです。

長沢一里塚跡

この辺りの道筋には昭和50年頃まで見事な松並木が残っていたようですが、その面影はほとんど残っていません。長沢の一里塚からほんの少し進むと、右手に長沢小学校の校舎が見えてきます。



私達は前回の旅で、かつての三河の国へと足を踏み入れました。長かった静岡県内の旅を終えて、やっと愛知県へと入ってきました。

街道時代の頃、東側の隣国である遠州・吉田藩との国境は白須賀宿を抜けたところに流れている「境川」でした。現在でも静岡県と愛知県の県境になっています。江戸時代にはここ三河の国は東西に区分され、吉田川(現在の豊川)流域を東三河、そして矢作川流域を西三河と呼んでいました。

そんな三河の国には江戸時代には多くの藩が存在していました。いわゆる国持大名としては1万石以上が19もありました。
代表的な藩としては三河吉田藩(3万石~7万石)、西尾藩(2万石~6万石)、岡崎藩(5万石)、刈谷藩(2万石~3万石)、挙母藩(ころもはん・豊田市)(1万石~2万石)、大給(おぎゅう)・奥殿藩(おくとのはん)(1万6千石)、田原藩・渥美半島(1万2千石)をはじめ、その他1万石クラスの藩が13藩も乱立していました。
尚、幕末まで存続した藩は6藩しかありません。

現在でも豊川寄りの豊橋市、豊川市、蒲郡市、新城市、田原市は東三河に属しています。
尚、西三河地域には岡崎市、豊田市、刈谷市、知立市、安城市、碧南市、高浜市、西尾市、みよし市があります。

長沢小学校のグランド脇に「長沢城址」の案内板が置かれています。
この城は長沢松平氏の初代親則が長禄2年(1458)頃に城を築き、岡崎の岩津から移り住み、居城として使用されていたと言われています。

7代政忠は「桶狭間の戦い」で討死。8代康忠は家康の妹矢田姫を妻とし、その後「長篠の戦い」「小牧、長久手の戦い」「小田原城攻め」に参戦し、家康関東移封に伴い、武蔵国へ下っています。

長沢松平氏は三河松平の嫡流で「十八松平」の一つで由緒正しき血筋をもっていました。この十八松平とは、松平氏の一族で家康公の時代までに分家したルーツを持つ松平家の俗称です。
この十八松平の中に家康公を含める場合もあるようですが、家康公の祖父である松平信康までの庶家に限定する場合もあります。

そんな血筋正しき長沢松平家ですが、二代将軍秀忠公の時代(元和2年/1616)に改易となり、家名は断絶してしまいます。

改易後、長沢松平家の血統は存続するのですが、幕府はこの家系を認めませんでした。しかし享保の時代に再び長沢松平家を認知したのですが、禄は与えられませんでした。そして天保の時代になってようやく十人扶持となり、幕臣としての禄を下されました。幕末期の当主・松平忠敏(主税助)は新選組の前身である浪士組の取締役になりました。

尚、開幕後の江戸十八松平は大名の中で将軍家から特に「松平」の称号を許された家格で、その代表的な大名は松平加賀、松平土佐、松平薩摩、松平陸奥があげられます。

寛永11年(1634)の三代将軍家光公が上洛の際に長沢小学校のグランド付近に御殿が建てられ、将軍の休息場所として使われたといいます。せっかく造った御殿も延宝8年(1680)には廃止されています。

この先で道筋は右手にカーブします。カーブした右側に誓林寺が山門を構えています。
当寺は親鸞の弟子、誓海坊が建てた草庵が始まりで、応仁年間(1467~1469)に信海が寺にしたと伝えられています。山門前に大きな鬼瓦が置かれています。

旧街道はこの先2キロ地点で国道1号線と合流しますが、それまでは街道歩きの目を楽しませてくれるような古い家が点在しています。音羽川の流れを左手に見ながら進むと、右側に安政10年(1798)の秋葉常夜燈と村社巓神社の石柱が建っています。巓神社は北方400メートルの山の中に社殿を構えています。



山口バス停のところまでくると、道幅は狭くなり、街道の左側に漆喰壁に連子格子が美しい立派な家が現れます。 
少し先の右側の石垣の上に「磯丸 みほとけ 歌碑」と書かれた石柱と観世音菩薩と刻まれた石碑、そして三頭馬頭観音像が祀られています。

>磯丸 みほとけ 歌碑

磯丸とは糟谷磯丸(かすやいそまる)のことで、彼は渥美半島の伊良子村に生まれた漁師で漁夫歌人と呼ばれた人物です。この碑はかつてここにあった観音堂の庵主「妙香尼」が弘化3年(1846)に落馬して亡くなった旅人の供養のために糟谷磯丸 に歌を依頼して建てたものといわれています。
「おふげ人 衆生さいどに たちたまう このみほとけの かかるみかげを 八十二翁磯丸」

◇糟谷磯丸(かすやいそまる)
明和元年(1764)~嘉永元年(1848)
一般的に磯丸様と呼ばれている人物で、前述のように伊良子の漁師です。漁師であるが故に文字を書くことができなかったのですが、ある時、地元伊良子の神社に参拝に訪れた時、参詣人が奉納額を見上げて和歌を口ずさむのを聞いて、その響きに魅かれて自身も歌を詠むようになったそうです。

やがて無筆の歌詠みとして世間に知られるようになっていくのですが、磯丸は生涯を通じて数万首の歌を詠んだと言われています。中でも「まじない歌」(呪禁歌:じゅごんうた)は当時の人々の暮らし向きを織り込んだものとして知られています。
この「まじない歌」は呪術的なものではなく、家内安全、無病息災、商売繁盛など民衆の願い事や困りごとなどを歌にしたものです。

それでは千束川に架かる大榎橋と千両橋を渡ると道筋は少し上り坂になり、関屋の交差点で国道 1号と合流します。
旧東海道の道筋はここで国道一号と合流し、ここから2キロ弱は車の往来が激しい国道に沿って進みますが、この区間は左側を歩いて行きましょう。

この合流地点から左手へのびる道筋を進んだ森の中に「赤石神社」があります。
延暦年間(782~805)に信濃国の諏訪大明神の分霊を勧請したのが始まりと言われている古社です。
その創建にまつわるのが「坂上田村麻呂と大うなぎ」の話です。

その昔、長沢の西の外れにあった沼には大うなぎの化け物が住みつき、地域の人を悩ませていました。
そしてこの地に立ち寄った坂上田村麻呂がその化け物を退治しましたが、その後、沼の水を汲んだ者が次々と病にかかってしまい、人々は祟りだと恐れ、祠を建てその霊を慰めたのが今の赤石神社だと言います。



旧街道が国道1号と合流してから2キロ弱の距離を歩いてきました。歩き始めて3.5キロ弱で本宿町深田の信号交差点にさしかかります。この信号手前で豊川市から岡崎市へと入ります。信号交差点を過ぎると「自然と歴史を育む町本宿」と刻まれた立場本宿の大きな石碑が置かれています。

立場本宿碑

街道時代の頃、赤坂宿から長沢そして本宿村にいたる道筋は山沿いの急坂で、街道松がつづく昼なお暗く、多くの旅人たちは盗賊や渡世人に悩まされた場所で、婦女子はこの区間は馬による旅をしたそうです。
そしてここ本宿村東境の立場村で馬を降りて、500m先に堂宇を構える法蔵寺門前町まで歩いて進んでいきました。

本宿の石碑の先には、かつてここが立場であったことを示す冠木門が置かれています。
この冠木門をくぐると本宿の中心の法蔵寺まではほんの僅かな距離です。

冠木門



本宿(もとじゅく)は東三河と西三河が接するところで、古くは駅家郷、山中郷に属し、奈良古道、鎌倉街道の要地として中世以降は法蔵寺の門前町として栄えた所です。 
江戸時代には赤坂宿と藤川宿の間宿になっていました。旧街道は新箱根入口の信号交差点の先の分岐点を左に入っていきます。

分岐点

「新箱根」とは?ちょっと不思議な名前ですね。
実は昭和9年(1834)、鉢地坂トンネルが開通し、本宿と蒲郡を結ぶ県道が完成し、最新型の流線型のバスが走ったといいます。風光明媚な景色が箱根に似ていることから、「新箱根観光道路」と命名され、これを記念し、本宿音頭なるものまでつくられたようです。

国道一号から分岐するように旧街道筋は左手に延びています。旧街道筋に入ると、かつて間の宿として賑わいをみせていたかのように住宅街へと変貌します。この辺りが歩き始めて4キロ地点にさしかかります。

本宿家並

街道を進んで行くと右手に古めかしい建物が1軒現れます。そして街道を挟んで左側に法蔵寺の参道がまっすぐにのびています。さあ!三河本宿の中心寺院の法蔵寺の参道入口に到着です。

本宿の古い家

その参道入口の左側に玉垣で囲まれた場所に1本の松が植えられています。この松が御草紙掛松(おんそうしかけまつ)(4代目)です。

御草紙掛松

家康公がまだ竹千代の時代に当寺で手習いを受けていたころ、竹千代が自らの手で境内に植えた松と言われています。そしてこの松に手習いの草紙を掛けて乾かしたことから御草紙掛松(おんそうしかけまつ)と呼ばれています。
そして10数年後に法蔵寺を訪れた家康は松の成長ぶりに感激して門前に移植したそうです。
その後も家康公は寺の前を通る時に「いつもの茶を」と頼んで、この松の下でお茶を飲みながら団子を食べたそうです。

総門(三門)へとつづく参道(寺らしくない参道ですが)を進んでいきましょう。擬宝珠を付けた赤い橋を渡ると総門が構え、急な石段をのぼると鐘楼門が現れ、その向こうにご本堂が置かれています。

この総門は江戸時代の万治元年(1660)に造られたもののようです。三門とも呼ばれ、知恵の門「少しでも前進の生活を」、慈悲の門「やさしい心で生活を」、方便の門「仏に正直な生活を」を意味しています。

石段を上りつめると鐘楼門が私たちを迎えてくれます。この鐘楼門は境内に現存する建造物の中で最も古いものです。伽藍は街道の左手にある小高い山の緩やかな斜面に配置されています。境内からは遥か彼方に連なる三河の山並みを眺めることができます。

鐘楼門

法蔵寺は大宝元年(701)に行基上人が開き、時の天皇から出生寺(しゅしょうじ)の寺号を賜って勅願寺となったという古刹で、松平氏の初代「松平親氏」が嘉吉元年(1441)に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺と改めました。

法蔵寺本堂

初代の親氏以来、松平家の帰依を受け、家康も子供のころ、ここで手習いを受けたことで徳川家と縁が深い寺です。 
現在は、浄土宗西山深草派で二村山(にそんざん)法蔵寺といい、本尊は阿弥陀如来です。
ご本堂には徳川家の三つ葉葵が瓦や壁に刻まれ、建物の彫刻も華やか図案で、江戸時代を通じて幕府より知行地を賜り、絶大な権勢を誇った寺院であったことを窺がうことができます。

鐘楼門の奥にご本堂、右手奥には客殿(方丈)、ご本堂の左手には観音堂(六角堂)が配されています。

六角堂

お堂には聖観音、十一面観音、千手観音、不空羂索(ふくうけんじゃく)、馬頭観音、如意輪観音が祀られています。この六角堂は前九年の役で奥州へ向かう源頼義が永承6年(1051)に戦勝祈願をし、自らの甲冑を奉納しています。

また家康公は長篠合戦の出陣に際して必勝祈願し、これ以後開運の観音様と呼ばれ親しまれています。
現在の六角堂は江戸時代の享保13年(1728)に再建されたもので、平成12年に回廊を含め大修理を行っています。

また境内には竹千代が手習いの水として汲んだと言われる「賀勝水(がしょうすい)」が湧く井戸があります。
寺伝では日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地で天照大神ら諸神を勧請して東夷征伐を祈願し、その效験(霊験の徴)を見せ給えと念じ巌を突くと冷泉が湧き出したので、勝利の祥瑞として日本武尊は「賀勝」と三度唱えたと伝わっています。
そして戦で傷つき倒れた兵士たちに、この泉の水を与えたところ、たちどころに傷が癒え立ち上がったと伝えられています。街道時代には旅人たちを癒す水として親しまれていたようですが、現在も湧き出ています。ただし飲むことはできません。

そして六角堂の左手奥の山の中腹には東照宮が置かれています。建立時期は定かではありませんが、おそらく300年前にさかのぼると言われています。
江戸時代の文政年間(1818)には大修理が行われたという記録があります。一般的に見る東照宮とはその煌びやかさ、豪華さに欠ける社殿です。

さて、ここ法蔵寺の境内を歩いていると、やたら「誠」の旗印が目についていたのですが、やっと判明しました。実はここの境内には幕末に活躍したあの新撰組隊長「近藤勇」の胸像と、その脇には彼の首を埋めたとされる「首塚」が置かれているのです。

近藤勇首塚
近藤勇胸像
胸像の台座

なぜこんな場所に近藤勇の首塚があるのか?
近藤勇はあの戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いの後、武蔵の流山で官軍に捕らえられ、慶応4年(1868)に東京の板橋で打ち首になっています。その首は塩漬けにされ京都に送られ、三条大橋に晒されていました。
それを見た新撰組同志によって密かに首が持ち出され、近藤勇が親しくしていた京都新京極裏寺町の宝蔵寺十三世・称空義天上人旭専大和尚に供養してもらうつもりだったのですが、そのとき称空義天上人旭専大和尚がここ本宿の法蔵寺の第三十九世貫主となっていたことがわかり、首は本宿まで運ばれたそうです。

首は目立たぬように土に埋められ隠されていたために、その存在すら忘れ去られていましたが、昭和33年(1958)に発掘されました。現在、その場所には近藤勇の胸像と首塚の石碑そして新撰組の隊旗が置かれています。
(注)慶応4年(1868)4月25日、近藤勇は江戸板橋の平尾一里塚付近の刑場で官軍により斬首処刑されました。首級は京都に送られましたが、胴部分は少し離れた板橋駅前に埋葬されています。また彼の生家の近くの三鷹市の龍源寺にも近藤勇の墓があります。

境内を見下ろす山の中腹に置かれた「近藤勇」の首塚にほぼ隣接して、ちょっとした平坦な場所があります。その場所に家康の祖先である松平家の墓が人知れず置かれています。

松平家の墓

ひときわ大きな五輪塔は松平家八代、そして家康公の父である広忠公の墓です。
法号は慈光院です。寺の言伝えでは岡崎の大樹寺に納められた骨を分骨してここに葬ったとのことです。
この他、松平親氏の父・有親(ありちか。長阿弥/ちょうあみ)の墓もあります。
寺伝では親氏が有親の二十七回忌に、その遺骨をここに葬り位牌を講堂に納めたといいます。

法蔵寺を後にして、小さな川に架かる法蔵寺橋を渡り、150mほど進むと左側に「冨田病院」の看板があります。
緩やかな坂道を上がっていくと、正面には現代的な建物の冨田病院があります。この冨田病院が建っている場所がかつての「本宿陣屋跡」です。この冨田病院に隣接してたつ古い家が「代官屋敷」です。

元禄11年(1698)、旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家の子孫)の所領になり、ここに陣屋が置かれ、柴田氏の子孫が明治まで治めていました。陣屋の代官職は富田家が世襲し、現在の居宅は文化10年(1827)の建築です。

※柴田勝家
主君は織田信秀、信勝、信長、秀信。妻は信長の妹君である「お市の方」です。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、お市の方と共に自害しました。残された遺児である茶々、初、江はその後、戦国戦乱の世の中で波乱万丈の人生を送ることになります。

江戸時代の本宿は正式な宿場ではないのですが、家数121軒もありました。そして立場茶屋が長沢村との境の四谷と本宿の法蔵寺の二ヶ所、宿内の距離はなんと19町(2071m)もあったといいます。



静かな佇まいを見せる本宿の町を貫く旧東海道を進んでいきましょう。冨田医院から150mほど進むと、右側に常夜燈が置かれています。ここを右へ進むと名鉄名古屋本線の本宿駅に行くことができます。

本宿家並
本宿家並

本宿は古くから麻縄の産地として知られていたようで、東海道中膝栗毛にも「ここは麻のあみ袋などあきなふれば、北八、みほとけの誓いとみえて、宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物」という記述があります。

法蔵寺草履
三河本宿は山間の集落で古来より麻、麻縄の産地として知られていました。
ここで言う法蔵寺草履は農民たちが夜なべをして作っていたもので、街道で売る前に法蔵寺で安全祈願の祈祷をしていたようです。麻と縄で編まれた旅草履は丈夫で長持ち、そして履き心地が良いという評判から、街道を旅する人から人気があったのです。

豊川信用金庫がある交差点の手前の右側にお江戸・日本橋から78番目の一里塚跡の標柱が置かれています。

78番目一里塚跡

そしてこの先の左側に古びた土壁が印象的な「屋敷門」が現れます。この屋敷門は宇都野龍碩(うつのりゅうせき)邸跡です。

宇都野龍碩屋敷門
宇都野龍碩屋敷門

本宿村医学宇都野氏は古部村(現岡崎市古部町)の出といわれ、宝暦年間(1751~1763)三代立碩(りっせき)が当地で病院を開業したのが始まりといわれています。
七代龍碩はシーボルト門人の青木周弼(あおきしゅうすけ)に医学を学んだ蘭方医として知られ、安政年間に当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(うえほうそう)(種痘)を施しています。

宇都野龍碩(うつのりゅうせき)邸跡の先に街道松が何本か残っています。

街道松

この先の本宿町沢渡信号の辺りで本宿は終わりです。そして旧東海道筋はここで再び国道1号と合流します。
この本宿町沢渡信号を渡り、約1キロ強の距離ですが国道1号に沿って右側を歩いて行きましょう。
この先6キロ地点で旧街道筋は国道一号から右手に分岐していきます。



東海中学校入口信号を過ぎると旧舞木村に入ります。このあたりから右手の視界が広がり、遥か向こうには低い山並みが連なっています。田園風景が広がる景色を眺めているうちに6キロ地点で旧街道は国道1号から右手に分岐していきます。

田園風景

ほんの僅かな距離ですが、名鉄名古屋本線の線路が間近に迫る細い道筋を進んでいきます。250mほど歩くと右手に「名電山中」の駅があります。
舞木の地名は山中八幡神宮記の一節に「文武天皇(697~707)の頃、雲の中より神樹の一片が神霊をのせて舞い降りる 」とあり、このことから舞木の地名となったといわれています。



1号線から分岐して名鉄名古屋本線の線路に並行して走る旧街道沿いには僅かながらの商店が並び、静かな雰囲気を漂わせています。街道の右手に点在する興円寺、永證寺の甍を眺めつつ、山綱川に架かる舞木橋を渡ると道筋にわずかながら松並木が残っています。

大雄山興円寺の石柱に旧山中村と刻まれていますが、興円寺は宝永7年(1710)に開創された寺です。
旧山中村とありますが、舞木町の説明板には舞木村は古くは山中郷に属していましたが、江戸幕府の三河代官が市場村の一部を藤川宿に移転させた際、残りの市場村と舞木村を合併したことで現在の舞木町になったと記されています。

旧街道筋は舞木西交差点(信号交差点)で再び国道1号と合流します。この辺りはたいへん眺望が良くて、広々とした畑が広がる景色が目の前に現れます。国道1号を挟んで、向う側にちょっと遠目ですが山中八幡宮の赤い鳥居とその背後にあるこんもりと茂った鎮守の森が見えます。そしてその手前には大きな常夜燈が置かれています。

畑の中の常夜灯

旧街道筋から逸れて、畑の中の一本道を歩いてまずは常夜燈へ向かうことにしましょう。近づいてみるとかなり大きな常夜燈で、火屋があるもので階段までついています。八幡宮の氏子達が天保4年(1833)に建立したもので、山中御宮、常夜燈と刻まれています。神社の鳥居から80mほど離れた畑のど真ん中にぽつんと立っている姿は遠目からでもかなり目立つ存在です。

山中八幡宮の鳥居

常夜燈から80mほどさらに進むと、山中八幡宮の鳥居前に到着します。鳥居の右側にはなんと樹齢650年という岡崎市指定天然記念物の大クスノキがあります。幹は二股に分かれ、650年という樹齢を感じさせないくらいに見事な枝ぶりを伸ばしています。

大クスノキ

鳥居をくぐると長い石段(111段)が鬱蒼とした森の中にのびて本社殿がある境内へとつづいています。(その距離180m)

社殿へとつづく石段

祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、八幡大神ですが、徳川家康と縁が深い神社なのです。 
弘治4年(1558)、今川義元の命によって家康が初陣の三河寺部城攻めに際し戦勝祈願をしたところです。慶長2年(1597)には石川数正等に命じ衡門を建てて社殿を造営しています。

山中八幡宮本社殿
 
また三代将軍家光は寛永11年(1634)の上洛の途中に、当社に参拝し東照宮合祀、葵の紋の使用を許可された、とも伝えられています。本社の左手前に家康が戦勝のお礼に参拝した際に残したとされる出世竹があります。

また家康公の三代危機といわれる三河一向一揆で門徒たちに追われた家康が身を隠しその難を逃れたと伝えられる「鳩ヶ窟(はとがくつ)」あります。

長い石段を上り終えたら、社殿へ向かう石段を右に見ながら、そのまま直進していきます。そして細い道筋を進むと「鳩ヶ窟(はとがくつ)」の石碑が置かれています。

鳩ヶ窟石碑
鳩ヶ窟

三河一向一揆は永禄6年(1563)に家康の家臣が一向宗寺院の不入権を無視して、兵糧米を徴収しようとしたことに対し、一向宗門徒が反発したために起こったといわれています。その一揆方の追っ手が家康の潜んでいた洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ち、人のいる所に鳩がいるはずがないと追っ手は立ち去ったという逸話が残っています。 

鳩ヶ窟は本社に入る手前で、左折すると両脇は藪のようになっている道を行くと、注連縄が張られていて、洞窟は神聖な場となっていますが、人がひとり入れるかどうかという大きさです。
それにしても家康公、どこでもピンチに遭遇しているんですね!

山中八幡宮を後にして再び国道1号線に戻りましょう。その道筋の脇には「枝豆」の畑が広がっています。
国道1号に戻ると右手上の方に名古屋鉄道の舞木検査場が見えます。名鉄の車両が並んでいます。

やがて道が右にカーブすると、市場町の交差点に出てきます。そしてその先の左側に入る道が東海道で藤川宿の東見附は目と鼻の先に迫っています。



市場町の交差点を渡り、50mほど先の細い道に入ると、すぐに「従是西藤川宿」と書かれた標柱があり正面にモニュメントが見えてきます。

旧街道への分岐点

ここは藤川宿の江戸方の入口の棒鼻があった所で「東棒鼻」と呼ばれています。棒鼻とは土塁に石垣、その上に竹矢来や木を植えたもので、そこに番人がいて宿場の出入りを監視していました。ここにあるのは平成4年に復元されたものです。

東棒鼻

藤川宿は安藤広重が描いた大名行列が棒鼻を通る風景で知られています。藤川宿は日本橋から37番目の宿場です。宿内には本陣1、脇本陣1、旅籠数36軒、家数は302軒があり、宿内人口は1213人です。 

慶長6年(1601)に伝馬朱印状が発給されて宿場になったものの、村の規模が小さいためやっていけなくなり、慶安元年(1648)に藤川宿の東側に500メートル程道を伸ばし、隣村の市場村から68戸を移転させて加宿市場村を作ったという歴史があります。

藤川宿のむらさき麦
東海道名所図会に、「藤川、この辺に紫麦を作る。これを高野麦という。」という記述もあることから、藤川宿のこの辺りではかつて、むらさき色の麦「紺屋麦(高野麦)」を栽培していました。穂が紫色をしており、かつては藤川宿の名産でした。しかし、いつしか作られなくなり、ついに「むらさき麦」は幻の麦となってしまいました。

むらさき麦の看板

この「むらさき麦」を芭蕉句碑にちなんで、藤川に再現したいと願って、原田市郎氏と野田正夫氏が奔走し、念願かなって、平成6年に愛知県農業総合試験場の協力で復活し、藤川宿内の数箇所で「むらさき麦」の栽培が行われており、毎年5月中旬頃から赤紫色に色づいた麦を見ることができます。

※「ここも三河 むらさき麦の かきつばた 芭蕉」かきつばたで有名な知立も三河なら、この藤川も三河。ここ藤川には知立のかきつばたに劣らないむらさき麦がありますよ!

むらさき麦は大麦の栽培品種で、食用というよりはむしろ鑑賞・染物などに使われました。「紺屋麦」または「高野麦」といわれ、茎や穂が紫色になる美しい麦です。

棒鼻に入ると曲がりくねった道になっており、ここ藤川では曲手(かねんて)と呼んでいますが、一般的には枡形とか鉤型といわれるものです。

細い道を入って行くと三叉路に突き当たるので、これを右折して進みます。そしてその先がT字路になっているのでこれを左折します。この角には道中記に書かれて有名になった「茶屋かどや佐七」があったと案内があります。 

東海道中膝栗毛の中でも「かくて藤川にいたる。 棒鼻の茶屋、軒毎に生肴をつるし、大平瓶、鉢、店先に並べたてて、旅人の足をとどむ。」弥次郎兵衛の「ゆで蛸で たこのむらさきいろは 軒毎に ぶらりと下がる 藤川の宿 これより宿 をうちつぎ、出はなれのあやしげなる店で休みて………」とあるので、江戸時代には道の両側に茶屋が並び、客引きが凄かったように思われます。 

かつての旧東海道はT字路を左折して進んでいきます。その先の右側に一対の常夜燈と鳥居があり、傍らの石柱には津島神社と書かれていて、路地の奥の方に社殿が見えます。

藤川宿の家並

さあ!宿内を貫く旧街道を進んでいきましょう。市営駐車場前を過ぎて、最初の信号を渡ると左手に「片目不動」と染め抜かれた幟がはためいています。

片目不動入口
片目不動

真言宗醍醐派の法弘山明星院という寺で、堂宇も敷地も小さく、見栄えのしない寺なのですが、寺の本尊である「不動明王」が徳川家康の窮地を救ったということで、たいへん有名なのです。

桶狭間以後、岡崎に戻った家康は家臣団を集め、三河平定へと乗り出すのですが、その過程の永禄5年(1562)、扇子山の戦いで家康に放たれた矢を見知らぬ武士が身代わりになり片目を潰し姿を消しました。

その後、家康が明星院を訪れた際、祀られていた不動尊の姿形があの時の武士にそっくりで片目が潰れていたことから、不動尊の化身に助けられたと悟り深く感謝したと伝えられています。
ここでも家康公はピンチに遭遇していたのですね。尚、本尊の不動明王立像は秘仏なので見ることはできません。 

旧街道はこの先で小さな川を渡ります。渡ると江戸時代の藤川村です。ここから東へ500mが藤川宿の加宿であった市場村だったのです。



旧街道は小さな川を渡ります。渡るとすぐ右手の小さな駐車場の脇に高札場跡が現れます。高札場は高さ一丈、長さは二間半、横は一間の大きさで、八枚の高札が掲示されていたといいます。その内、三枚はこの先の資料館に展示されています。

旧街道を挟んで、高札場の反対側に堂宇を構えるのが称名寺です。当寺には代官だった烏山牛之助の位牌があります。武田成信や雷電と争ったという力士の江戸さき(山の下に大その下に可という字)の墓もあります。 なお武田成信は藤堂家の家臣で武田信玄の弟の信実の八世にあたります。

そしてその先の米屋が問屋場です。米屋の生垣前に問屋場跡の石柱と案内板がります。

問屋場跡

江戸時代の東海道宿村大概帳には藤川宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は36軒あったとあります。銭屋のはす向かいにあったのが本陣だった森川家で、現在は第二資料館になっています。

藤川宿
藤川宿
本陣跡
本陣跡

藤川宿の本陣は2軒ありましたが、その後、退転(おちぶれること)を繰り返し、江戸時代後期には森川久左衛門が本陣を勤め、建坪は194坪だったといいます。
宇中町の右側に立派な門がある家がありますが、この場所は脇本陣を務めた大西喜太夫の橘屋です。

脇本陣の門

当時の家は現在の130坪ほどの敷地の4倍で、明治天皇御小休所の坐所があり、昭和30年の岡崎市との合併前は藤川村役場にもなっていました。

現在は藤川宿資料館(入館無料、9時~17時、月曜休)になっています。
門は当時のままで、庭には脇本陣跡の石碑もあり、館内には宿場街道の模型や古文書、古地図が展示されていて、江戸時代の藤川宿の様子を知ることができます。

脇本陣の石柱

脇本陣の裏手には本陣の建物の土台として築かれた石垣がその名残をとどめています。
そして石垣周辺にも「むらさき麦」の栽培地が広がっています。

脇本陣裏手の石垣跡
むらさき麦の栽培地看板

宿内を進んで行くと左手に伝誓寺が山門を構えています。その先にも「むらさき麦」の表示が置かれています。

本陣、脇本陣などがある宿場の中心を過ぎて、少し歩くと右手に藤川小学校が現れます。この小学校の前が藤川宿の西の棒鼻が置かれていた場所で、藤川宿もここで終わります。
その一角に、広重の師匠の浮世絵師、歌川豊広の歌碑があります。
「藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のうるしと うで蛸のあし」と刻まれています。

西棒鼻
西棒鼻

さあ!それでは本日の終着地点である藤川の道の駅へと向かうことにしましょう。藤川小学校の角を右へ曲がり、名鉄名古屋本線の藤川駅へ向かいます。

線路を跨ぐ陸橋を渡って反対側へ移動します。たいへんお疲れ様でした。道の駅藤川に到着です。

私本東海道五十三次道中記 第28回 第2日目 藤川宿から城下町岡崎へ
私本東海道五十三次道中記 第28回 第3日目 岡崎から知立手前の来迎寺公園へ

家康公の故郷・三河岡崎~画僧「月僊」ゆかりの古刹・昌光律寺の佇まい~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~家康公の父「忠弘公」密葬の地能見の「松應寺」を訪ねて
家康公の故郷・三河岡崎~家康公誕生の城・岡崎城~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~徳川将軍家菩提寺「大樹寺」~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~徳川家累代祈願所「伊賀八幡宮」~(愛知県岡崎市)
日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の一)~鳳来寺参道散策~
日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の二)~歴史を刻む天空への石段~
日本三大東照宮の一つ「鳳来山東照宮」参拝記(其の三)~神君家康公が座する天空の社殿~
名刹滝山寺と神君家康公を祀る瀧山東照宮の佇まい

東海道五十三次街道めぐり・第三ステージ目次へ





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

私本東海道五十三次道中記 第27回 第3日目 JR小坂井駅から御油そして赤坂へ

2015年08月24日 16時58分30秒 | 私本東海道五十三次道中記


最終日の三日目の旅は昨日の終着地点のJR飯田線・小坂井駅から始まります。

すでに愛知県(三河)に入って二川、吉田(豊橋)を辿ってきました。本日はここJR飯田線・小坂井駅から35番目の宿場町である「御油」、36番目の「赤坂」を経て、東名高速の音羽インター至近の「えびせん共和国」までの11kmを歩きます。途中、御油から赤坂の間には日本の名松100選に選ばれている「御油の松並木」を堪能していただきます。それでは出立です。

その前に昨日参拝した兎足神社の徐福伝説について復習しておきます。

莵足神社社殿
莵足神社の莵の神輿

《兎足神社の徐福伝説》
今から2000年前、縄文時代から弥生時代へと時代が変わる頃、中国大陸の秦帝国に徐福という人物がいました。
徐福は始皇帝に遥か東の海に蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛洲(えいしゅう)三神山があり、そこには仙人が住み、不老長寿の薬があるというので、是非行ってみたいと申し出ました。
そして大船団を組み、東方へと船出をし、何日もの航海の後、どこかの島に到着しました。実際に徐福がどこの島に到着したかは定かではありませんが、日本各地にこの徐福の伝説が残っています。
尚、徐福の子孫は日本で秦氏を称しています。



JR飯田線の小坂井駅前から旧街道筋へ進んでいきましょう。歩き始めるとすぐにJR飯田線の踏切を渡ります。踏切の左手には小坂井駅の小さな駅舎が見えます。私たちの旅でJR飯田線の線路を跨ぐ機会はこれが最初で最後です。
これからの道筋は名鉄名古屋本線の路線とほぼ並行して進んでいきます。

《JR飯田線》
JR飯田線は豊橋駅と中央本線辰野駅を結ぶ195.7kmのローカル線です。営業区間内に起終点駅を含んで94もの駅があり、平均駅間距離は約2.1km。全線を乗り通すと所要約6時間かかります。そして飯田線は、全国の鉄道ファンが一度は乗ってみたいと憧れる「聖地」でもあります。
豊川稲荷の最寄り駅である豊川を出ると、線路は単線となりにわかにローカルムードが漂うようになってきます。

飯田線のほとんどの駅は無人駅で、駅前には洒落た商店もなく閑散としています。また車掌さんが各駅で降りて、ホームで切符を回収したり、社内では切符販売と忙しく動き回っています。

踏切を渡るとすぐに道がカーブします。そのカーブする角に松の木があり、その下に秋葉常夜燈と秋葉神社の祠が置かれています。



東海道の道筋は宿地区(江戸時代の宿村)へとさしかかります。この辺りは吉田宿と御油宿との中間地点にあたるので、江戸時代には旅人達が休息をとる「茶屋」があったところです。

街道の右手にアクティブコーポレーションあんじゅ宿の建物を過ぎて、最初の角を左へ進むと、およそ400m先にこんどは名鉄名古屋本線の伊那駅があります。

街道は茶屋地区へとはいってきます。茶屋という地名からこの辺りに立場があり茶屋が置かれていたのでしょう。宿場ではなかったのですが、街道脇には「宿場寿し」が店を構えています。

フードオアシスあつみを過ぎると街道の左側の駐車場の脇に伊奈立場茶屋加藤家跡と書かれた貧弱な標柱が置かれています。ここが茶屋本陣、加藤家の跡です。加藤家は「良香散」という腹薬を売っていたことで有名でした。



駐車場の中の左側に金網に囲まれた一角があり、説明板と当時の井戸跡と芭蕉と烏巣(うそう)句碑が建っています。
「かくさぬそ宿は菜汁に唐が羅し」(芭蕉)
「ももの花さかひしまらぬかきね哉」(烏巣)

烏巣は加藤家の生まれで、京都で医者を営んでいたが、芭蕉とは親交があった俳人です。

「かくさぬそ宿は菜汁に唐が羅し」(芭蕉)
芭蕉が烏巣の家に泊まった時、客人にも質素な菜汁と唐辛子しかでてこないことに感銘したという意味。

ちなみに唐辛子江戸時代に信州高遠藩主内藤氏の江戸藩邸下屋敷(現在の新宿御苑)の菜園で栽培を始めたのを発端に、近郊の農村でも盛んに栽培されていました。江戸野菜の一つに数えられています。
「ももの花さかひしまらぬかきね哉」(烏巣)
隣家との境にある桃の木は花の盛りを迎えている。その花はどちらからでも愛でることができて、隣家との境も桃の木の所有者もはっきりしないという意味。



少し歩くと右側に「山本太鼓」が店を構えています。その太鼓屋の前に一里塚跡の標柱が建っています。 江戸から数えて75番目の「伊奈一里塚」です。

山本太鼓
伊奈一里塚跡

街道脇に店を構える山本太鼓店ですが、店構えはしっかりしたもので、店内を覗くと綺麗に整理され、太鼓や祭り用具などが陳列されています。これだけの店構えを維持することができるということは、それなりに商売が成り立っていることの証ですが、どれほどの需要があるのでしょうか?

近くには須佐之男神社がありますが、ここ一社では山本太鼓店の商売は成り立たないはずです。まあ、どうでもいいことなのですが。

さあ!この先にある佐奈川の佐奈橋を渡ると小田淵で豊川市に入ります。



名鉄名古屋本線小田渕駅の近くは古い民家が残っています。街道右側の少し入ったところに、冷泉為村の「散り残る 花もやあると 桜村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ」という 歌碑が置かれています。

冷泉為村(1712~1774)は江戸時代の冷泉家の当主で冷泉家中興の祖と言われています。この歌は彼が一度だけ江戸に行った際、当地桜町で詠んだものです。

白川に架かる五六橋を渡り、更に細い川幅の西古瀬川に架かる西古瀬橋で渡ると、街道の左右には工場郡が現れます。



工場群を眺めながら進んで行くと、31号線に突き当たります。本来であればこのまま真っ直ぐ進んで行けるはずなのですが東海道筋はここで分断されています。いったん右か左へ迂回し、向う側へと渡らなければなりません。左右どちらへ行ってもいいのですが、右折して京次西交差点へ進む方が距離的には短いはずです。

いずれにしても31号線を渡り、再び旧街道筋に戻り進んで行くと、この先で国道1号に合流します。合流後しばらくは国道1号に沿って歩くことになります。



白鳥5丁目西で旧街道は国道1号と合流します。合流すると道筋はほんの少し上りとなり、名鉄名古屋本線の線路を跨ぐように先へ延びていきます。水田が広がる景色を眺めながら、国府(こう)の町へと進んでいきます。

国府(こう)は古くから開けた場所で、「穂の国」の中心にあったことで知られています。奈良時代には三河の国府が置かれ、国分寺、国分尼寺が建てられ、総社(県社八幡宮)も造営されました。
尚、三河の一の宮は豊川市の「砥鹿(とが)神社」です。

国府町藪下交差点で旧街道筋は国道1号から左手に分岐します。車の往来が激しい国道1号の道筋に比べて、旧街道は静けさを取り戻したように落ち着いた雰囲気を醸し出し古い趣ある家が散見されます。



少し歩くと道の傍らに、半増坊大権現と書かれた石柱の上に、注連縄(しめなわ)を付けた小さな社が 祀られています。

半僧坊大権現は浜松市引佐にある奥山半僧坊のこと。半僧坊は方広寺の守り神で明治14年の山火事で本堂などの建物が焼けましたが、半僧坊仮堂と開山円明大師墓地が焼け残ったことから、火除けの神として全国に広がったとあるので、この石柱もその頃、建てられたのではないでしょうか?

その先には、高さ2メートル5センチの大きな秋葉常夜燈が建っています。この常夜燈は江戸時代に火除けの神として信仰を集めた秋葉山の常夜燈で寛政十二庚申(1800)に国府村民達の手で建立したものです。

国府は宿場町ではないのですが、吉田宿(豊橋)と御油宿の間に立場が置かれた場所です。旧街道筋は名鉄名古屋本線の国府駅からは離れていますが、細い道筋の両側に商店が並んでいます。おそらく以前は賑やかな商店街として多くの買い物客で賑わっていたのではないでしょうか。

道筋は新栄町2丁目の交差点にさしかかりますが、ちょうど交差点手前辺りが街道時代に「立場」が置かれていた場所です。新栄町2丁目の交差点を渡ると、街道の左奥に高膳寺が堂宇を構えています。

実はこの高膳寺がある辺りに「田沼意次」の「田沼陣屋」が置かれていました。「賂政治」であまりにも有名な田沼意次は安永元年(1772)に老中筆頭となり、ここ国府村も領地の一部として拝領しました。寺の境内には田沼の領地の境界を示す「従是南相良領」の石標が残されています。
ちなみに意次時代の所領の総石高は5万7千石ですが、これは相良藩だけの石高ではなく、駿河・下総・相良・三河・和泉・河内の7か国に跨って拝領した石高です。

尚、藤枝市の久遠の松で知られている「大慶寺」には天明6年(1786)に田沼意次が失脚した後、相良城は破却されるのですが、城内の屋敷の一部が解体され大慶寺に移築されています。

その先に白い土塀と石垣、そして大きな樹木が見えてきます。近づくにつれてものすごく大きな境内を持つ神社であることが分かります。大きな樹木が繁茂している立派な神社で「大社神社(おおやしろ)」といいます。

大社神社
大社神社参道入り口
大社神社鳥居
大社神社社殿

石垣と白い土塀は旧街道に沿って100mにわたってつづいています。その土塀を支える石垣は近くにあった田沼陣屋(老中田沼意次の所領)の石垣を移築したものです。

「社伝によると、天元・永観(978~985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとある」。
社蔵応永7年(1400)奉納の大般若経典書には、奉再興杜宮大社大神奉拝600年と有る事から、天元・永観以前より当社地には何らか堂宇が存在し、そこへ改めて出雲より勧請して、神社造営をしたものと考えられる。
また14代将軍家茂公が第二次長州征伐に際して、慶応元年(1865)5月8日に戦勝祈願をされ、短刀を奉納したと伝わっています。また、明治5年(1872)には大社神社は国府村の総氏神となっています。

ということで、祭神は出雲の大国主命(大國霊神、大己貴命)。拝殿の鬼瓦には「菊」の紋がついています。夏には手筒花火の奉納が行われるようです。

社殿向って左手奥に、進雄神社(すさのおじんじゃ)(天王宮)と、御鍬稲荷神社(みくわいなりじんじゃ)が祀られています。進雄神社には進雄神(すさのおのみこと)(牛頭天王)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)の三柱が祀られています。

そして御鍬稲荷神社には天照坐皇大御神(あまてらしますすめらおおかみ)、宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)の三柱が祀られています。神社の表参道を入ってすぐのところにも左右に秋葉神社、金毘羅神社が祀られています。
尚、この地は国府であったことから国分寺が置かれていたのですが、国分寺跡は国府駅の東に置かれていました。

大社神社を過ぎてすぐ右側の信用金庫の駐車場の一角にお江戸から76番目の「御油一里塚跡」の標柱が置かれています。



御油一里塚跡を過ぎると、その先に比較的大きな交差点が現れます。この交差点が姫街道と東海道の追分です。万葉集に高市黒人が「妹もわれも 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつ る」と詠んだ「二見の道」がここだといいます。

姫街道は東海道の脇往還で本坂道とも呼ばれ、ここ御油から豊川、本坂、三ケ日、気賀を経て、天竜川の手前の萱場で東海道に合し遠州見附宿(磐田市)に至る約60キロの行程です。私たちは見附宿で東側の姫街道の始点をすでに見ています。そして女改めが厳しかった新居関を避ける女性たちが通ったことから姫街道と言われていました。

右側に中日新聞販売所があり、その隣に大きな常夜燈と二つの道標が建っていますが、以前は道の反対の東側にあったもので、右側の道標には「國幣小社砥鹿神社道 是ヨリ汎二里卅町 (明治十三年建立)」と記されていますが、 砥鹿神社とは三河国一の宮のことです。

左側の道標には秋葉山三尺坊大権現道と刻まれていて、遠州にある秋葉山への道標で明治16年の建立です。 
秋葉山三尺坊は三尺坊大権現を祀る秋葉社と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(あきはでら、しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆の寺院で人々には秋葉大権現や秋葉山などと呼ばれていました。道標の脇にあるのは御油の人達が建てた秋葉山永代常夜燈で「右○○、左ほうらいじ」と書かれています。

秋葉三尺坊は剣難、火難、水難に効くという信仰で、江戸中期に大流行し、一に大神宮、二に秋葉、三に春日大社と言われ、江戸中期から明治初期までに各地で秋葉神社の勧請や常夜燈が造られました。 

追分を過ぎると街道左手に小高い山並みが見えてきます。国府の町からそれほど離れていないのですが、なにやら長閑な雰囲気が漂ってきます。さあ!御油宿は目と鼻の先です。
まもなくすると音羽川に架かる御油橋(旧五井橋)が見えてきます。小さな橋を渡ると御油宿です。
御油橋を渡るとすぐ左に若宮八幡社の石柱がありますが、小さな社と一対の狛犬と桜の木があるだけです。

それでは御油宿内へと進んでいきましょう。静かな雰囲気を漂わす宿内ですが、街道時代を感じさせるような古い家並みは残っていません。御油橋から220mほど歩くと道の右側に「ベルツ花夫人ゆかりの地」の案内板がぽつんと置かれています。
ベルツ花夫人は元治元年(1864)に東京神田で生まれ江戸・明治・大正・昭和を生きた人物です。そして明治政府がドイツから招いた日本近代医学の祖といわれるベルツ博士と結婚した女性です。
明治38年(1905)に任期を終えたベルツ博士と共にドイツへ渡りましたが、博士が亡くなってから大正11年(1922)に帰国して昭和11年(1936)に74歳で亡くなりました。
夫人の父親の生まれた家がこの場所にあった戸田屋という旅籠だったことから、花夫人は御油とゆかりがあるんですね。

尚、ベルツ博士は日本の医術の進歩に貢献した方で、特に草津温泉の効能を理解し草津の温泉療法を世に広めたことで有名です。このことから「草津温泉の恩人」とも言われています。草津温泉にはベルツ記念館があります。

ベルツ花夫人の案内板が置かれている三叉路は江戸時代には宿場特有の鉤型(曲手)なっていたようで、ここを右折し、少し進むと右側の空地に問屋場跡の表示が置かれています。

空地になっているところに安藤広重の御油宿絵のレリーフがあります。広重の浮世絵は太った留女が旅人を強引に宿に引っ込もうとしている場面です。

御油宿は徳川幕府が慶長6年(1601)に整備した東海道と同時に誕生した宿場ですが、開宿当時の伝馬朱印状には赤坂宿と御油宿の二宿が併記されていました。
朱印状の伝馬継立に関する定めには「下り伝馬は藤川の馬を五井(御油)まで通し、五井(御油)の馬にて吉田まで届可申候。上り伝馬は吉田の馬を赤坂まで通し、赤坂の馬にて藤川まで届可申候」と記述されていました。
よって開宿当時は御油と赤坂は一宿扱いされていたようですが、ほどなくしてそれぞれ独立した宿場になったようです。

天保14年(1843)に編纂された東海道宿村大概帳 によると宿内九町三十二間(1298m)に本陣4軒、316軒の家が並んでいましたが、旅篭が62軒と家数から比較すると旅籠の占める割合が高い宿場だったようです。旅籠の数が多かったので旅籠同士の客引きが盛んで、広重が描いたように「留め女」が客引きを行う光景がよく見られたのでしょう。
道筋が突き当たる場所が宿場の中心であった「仲町」です。街道時代には本陣や定飛脚所などが置かれていた場所です。

さて、ここで御油の名を天下に知らしめている「松並木」に関わる資料館があるので、街道からほんの少し外れて立ち寄ることにしましょう。

御油の松並木資料館
国の天然記念物に指定されている御油の松並木と東海道五十三次35番目の宿場として栄えた御油宿に関する資料が展示されています。江戸時代の御油宿の街並みの復元模型や広重の浮世絵版画、近世交通文書や、旅装束などの資料約130点のほか、入口には亀甲模様のついた巨大な松の根っこ(樹齢380年)がシンボルとして置かれています。
※資料館の入口脇に舌代(ぜつだい)と記された案内板が置かれています。:舌代とは口で言う代わりに文書にしたもの。(申し上げますの意味)
■開館時間:10:00~16:00(12:30~13:30は休館)
■休館日:月曜日
■入館料:無料
■問い合わせ:0533-88-5120
■トイレあり

松並木資料館を辞して街道筋へと戻ることにします。街道を直進していくと「イチビキ」 という味噌とたまり醤油の製造会社が現れます。そのイチビキの駐車場の前に本陣跡碑と表示看板が建っています。御油宿にあった四軒の本陣の一つです。なお、御油宿には脇本陣はありません。

右側にイチビキ第1工場があり、漆喰壁の倉の脇に旅籠大津屋の表示が置かれています。 
街道時代に大津屋という名で旅籠を経営していましたが、飯盛り女を多く抱えていたことで知られています。
そんな大津屋にはこんな逸話が残っています。
ある時、飯盛り女五人が集団自殺してしまったことがあり、主人はすっかり「飯盛り旅籠家業」が嫌になり、味噌屋さんに転業したという話が伝えられています。

「イチビキ」の創業は安永元年(1772)ですが、当時の味噌作りは原始的なものだったようで、明治時代に東大卒の子孫が技術的な改革をしたことで今日まで続いているとあります。



イチビキを過ぎると、街道左手に「東林寺」への参道入り口が現れます。この辺りが御油宿の西のはずれです。

さあ!それでは御油宿から次の宿場・赤坂宿へ向かうことにしましょう。隣の赤坂宿までは僅かに16町、たった1700mの距離です。御油宿を出ると上五井という地域にはいります。 
あの有名な松並木の手前には公民館があり、その前には国道沿いに点在していた馬頭観音などが一か所に集められて並んでいます。

※上五井:行基がここを通ったとき、5つの井戸を掘ったといいます。
五つの井戸、すなわち「五井」が「御油」に変じたのではないでしょうか。

街道を歩いて行くと左側に十王堂が建っています。十王は冥界で死者の罪業を裁判する十人の王のことで、彼等の裁判を受けて次に生まれてくる場所が決まると伝えられています。この思想は平安後期に日本に伝えられ、鎌倉時代に全国に伝わったようです。このお堂は明治中期に火災に遭い再建されたものですが、江戸時代の絵図に描かれているので十王堂は古くからあったようです。

さあ!いよいよお待ちかねの「御油の松並木(日本の名松100撰の一つ)」へと進んでいきましょう。これまでの街道旅でそれなりの松並木を歩いてきました。直近では舞阪の松並木を歩いてきましたが、個人的にはここ御油の松並木がその美しさは勝っているのではと………。

松並木は慶長9年(1604)に整備されたもので昭和19年11月に国の天然記念物に指定されています。

松並木入口

天然記念物に指定されるだけのことがあり、その背丈は高く幹も太くなった松が整然と並んでいます。そして並木の長さはなんと600m、松の木は280本も続いています。尚、当初は600本以上あったといいます。 

国の天然記念物に指定されているわりには、美しい並木にそぐわない現代の駕籠(車)が多数行き交い、排気ガスでやられないのかと心配です。280本のうち100年以上が30本、補植松が250本あります。
尚、遠州・舞坂の松並木は700mの長さに340本の松が残っています。

松並木
松並木
松並木
松並木
松並木

十辺舎一九の東海道中膝栗毛で弥次さん、喜多さんが旅籠の留め女に「この先の松並木には悪い狐がいて旅人を化かすから、ここに泊まった方がよい」と脅されるのですが、先にたった喜多さんを追って松並木にさしかかると、喜多さんが松の根っこに座って待っていました。弥次さんはキツネが喜多さんに化けたと思い、取り押さえ、手ぬぐいで縛り上げて赤坂宿へ連れていった」という場面が記述されています。そんな場面を思い浮かべながら美しい松並木の下を歩いていきましょう。



御油の松並木を抜けるとすぐに赤坂宿の東見附があった場所にさしかかります。見附とは宿場の入口に石垣を積み、松などを植えた土居を築き、旅人の出人を監視したところです。赤坂宿では江戸方(東)は関川地内の東海道を挟む両側にあり、京方(西)はその先の八幡社入口の片側にありました。 

東の見附は寛政8年(1796)代官辻甚太郎のとき、ここからちょっと先の関川神社前に移されたようですが、その後再びここに戻されました。なお見附は明治6年に一里塚などと共に廃止されています。

少し歩くと左側に関川神社が鳥居を構えています。関川神社は平安時代に三河国司となった大江定基の命をうけた赤坂の長者、宮道弥太次郎長富がクスノキのそばに、市杵島媛命(宗像三女神のうちの一柱)を祭ったのが始めと伝えられています。社殿脇の大クスは推定樹齢約800年といわれる大木です。
木の根元からえぐられている部分は、慶長14年の十王堂付近の火災の火の粉が飛び「焦げたもの」と伝えられています。

関川神社

境内には芭蕉の句碑が置かれています。

芭蕉句碑

「夏農月(夏の月) 御油よ季いてゝ(御油よりいでで) 赤坂や」 
この句は夏の夜の短さをわずか16丁(1.7km)で隣接する、赤坂と御油間の距離の短さにかけて詠ったものです。 
この句の通り、御油宿から赤阪宿まではあの美しい松並木がなければ一つの宿場かと思ってしまうほどの近さです。

街道の右手の郵便局を過ぎると、左手に長福寺の山門が構えています。平安時代のころ三河の国司だった大江定基を想いつつ病気で死んだ赤坂の長者の娘「力寿姫(遊女)」の菩提を弔うために建てられた寺で、山門の門額には三頭山と書かれています。
大江定基が寄進した恵心僧都の手によると伝えられる聖観世音菩薩が祀られています。

【大江定基と力寿姫の悲恋】
東海道を歩いていると、時の為政者や武将と白拍子、遊女との浅からぬ関係の話がいくつも出てきます。
ここ三河の国にもこれに似た話があります。それが大江定基と力寿姫との悲恋のお話しです。

時は平安時代の中頃に溯ります。京の都から三河の国造(くにのみやつこ)としてやってきた大江定基(中級貴族)という実在の人物にまつわる話です。
大江定基は豊川の菟足神社の「風まつり」の生贄の話ですでに登場しています。
「風まつり」の生贄の話から定基という人物は心優しい人柄であったことが窺がわれます。

そんな定基がある日、家来をつれて領内を見回っていたところ、透きとおった優しい笛の音が聞こえてきました。定基は笛の音に引き寄せられるように足を進めていくと、そこは赤坂の長福という長者の屋敷でした。垣根越に笛を吹く一人の美しい娘が見えました。

その娘は長福の娘で名は「力寿(りきじゅ)」いいます。定基は力寿の美しさに見とれてしまいました。
そして収穫の祝に力寿を呼び、定基は自らが弾く琵琶と、力寿が奏でる笛を合わせました。
二人の奏でる音は息のあったものでした。

それからというもの、定基は力寿のことを思うようになり、力寿もしだいに定基に心を寄せていきます。
そんな幸せな時が4年ほど過ぎ、いよいよ定基は国司の任期を終えて京の都へ帰ることになります。
力寿は定基との別れのことを思いつめ、そのことがもとで重い病気にかかってしまいました。
定基は力寿の回復を念じ、必死に看病したのですが、力及ばず力寿は亡くなってしまいます。
力寿を心から愛していた定基は、亡骸に7晩添い寝して「口吸い」=キスしたところ、もはや異臭を放つことに気づき、泣く泣く埋葬し、後に出家したといいます。
※定基は日本で記録に残る最初に「キス(くちづけ)」をした人。

定基は力寿の菩提を弔うために赤坂に長福寺を建て、寺の裏手の高台に力寿の墓を建てました。
さらに豊川市にある財賀寺に「文殊楼(力寿山舌根寺/ぜっこんじ)」を建てました。(長福寺から東北方面に5㎞)
※舌根寺は廃寺となり、現在は財賀寺が法灯を引き継いでいます。
※舌根とは欲望を断つという意味

この後、定基は出家し寂照(じゃくしょう)を名乗り、比叡山に学び、その後、宋にわたり彼の地で亡くなったと伝えられています。

まもなくすると赤坂紅里(べにさと)の交差点にさしかかります。この交差点を右へ進むと名電赤坂駅です。紅里とはかっての色町を連想させる地名ですが、このあたりが赤坂宿の中心だったところです。街道の左に置かれた立派な門の近くに、松平彦十郎本陣跡と表示された案内板があります。

松平彦十郎は当時、本陣と問屋を兼務していましたが、文化年間より問屋は弥一左衛門に代わり、幕末には弥一左衛門と五郎左衛門の二人で執り行なわれていました。赤坂宿には本陣は1軒、脇本陣3軒ありました。
また、旅籠数は62軒(置屋、茶屋を含めると80戸を超えていました)、人口1304人で御油宿とほぼ同じ規模です。

紅里交差点を過ぎてまもなくすると街道左に「伊藤本陣跡」があり、伊藤本陣跡の隣には街道の風情を思いっきり漂わせている旅館「大橋屋」が現れます。

大橋屋

江戸時代には「旅籠伊右衛門鯉(こい)屋」という屋号で旅籠を営んでいた家系で、東海道で唯一、営業を続けていた最後の旅籠でしたが、残念なことに創業366年目の2015年3月に店を閉じることになりました。

大橋屋の創業は古く、慶安2年(1649)に溯ります。建物自体は正徳6年(1716)頃の建築で、間口9間(約16m)、奥行23間(約41m)ほどの大きさですが、赤坂の旅籠では比較的大きい方であったといいます。 
入口の見世間や階段、二階の部屋は往時の様子を留めています。
この貴重な歴史建造物は豊川市に寄贈され、その後は一般公開されるとのことです。

◆問い合わせ
大橋屋  TEL:0533-87-2450
旅籠大橋屋 見学について(要予約)
見学時間 10:00~16:00

大橋屋
大橋屋

赤坂宿は享保18年(1733)の頃の家数は349軒です。小さな宿場にもかかわらず旅籠が83軒もあった上、隣の御油宿とは僅かに、16丁(1.7km)しか離れていないので、客の奪い合いが激しかったと言われています。このため旅籠家業だけでは食べていけないため、飯盛り女を抱える飯盛り旅籠が必然的に増えていきました。このような現象は御油でも同じなのですが…。

「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」、「御油や赤坂、吉田がなけりや、親の勘当受けやせぬ」と、俗謡で詠われたように赤坂宿の繁栄は飯盛女によるところが大きかったようで、音羽町(旧赤坂町、旧長沢村、旧萩村が合併し誕生)の資料によると、飯盛女の多くは、近隣の村々の農家や街道筋の宿場町出身の娘たちでした。
寛政元年(1789)の『奉公人請状之事』には「年貢に差しつまり、娘を飯盛奉公に差し出します。今年で11歳、年季は12年と決め、只今御給金1両2分確かに受け取り、御年貢を上納いたしました。とあり住民の生活が豊かでなかったことから、子女を飯盛女として奉公させざるを得ない状況だったといいます。

大橋屋の隣に「高札場の木柱」が目立たない存在で置かれています。注意しないと通り過ぎてしまいます。

伊藤本陣跡の裏にあるのが浄泉寺で、境内に大きなソテツがあります。
安藤広重の「赤坂 旅舎招婦図」には赤坂宿の旅籠風景が描かれていますが、この絵の中に旅籠鯉屋の庭のソテツが描かれています。 
しかし明治20年頃の道路拡張により、旅籠から浄泉寺境内に移植されたもので推定樹齢は260年という「ソテツ」です。
本堂と離れて建っている薬師堂は赤坂薬師といい赤い幟が林立しています。

街道をほんの少し進むと左側に赤坂休憩所「よらまい館」が現れます。平成14年にオープンした赤坂宿の旅籠をイメージした休憩施設です。
当時の建築様式を再現し2階には赤坂宿を描いた浮世絵を展示しており、宿場町として栄えた江戸時代の様子を観覧できます。
また内外にベンチを配し旅行者が足をのばしてくつろげる空間になっており、トイレ・駐車場なども設置してあります。
■休館日:月曜日
■問い合わせ:豊川市観光協会(0533-89-2206)

よらまい館の先の右側に「赤坂陣屋跡」の表示が置かれています。
三河国の天領を管理するため幕府が設けたもので、国領半兵衛が代官のときに豊川市の牛久保から移ってきました。幕末から明治にかけては、三河県の成立にともない三河県役所となり、明治2年6月に伊那県に編入されると、静岡藩赤坂郡代役所と改めました。明治4年の廃藩 置県により伊那県が額田県に合併されると赤坂陣屋は廃止されました。

赤坂陣屋跡を過ぎると、すぐに赤坂宿の西のはずれにさしかかります。そんな場所の街道脇に西見附の標柱が現れ赤坂宿は終わります。



赤坂宿を抜けると、次の宿場町は藤川宿です。道筋は山間の道を進んで行きます。
赤坂宿の西見付の標を右手に進むと「郷社八幡宮」の鳥居があります。鳥居をくぐると杉の森八幡宮が社殿を構えています。

当社は大宝二年(702)、持統上皇が東国御巡幸の折、勧請したと伝えられる古い神社です。寛和2年(986)の棟礼が現存するといいます。境内には一つの根株から二本の幹が出ていることから、夫婦楠と呼ばれる大クスは、推定樹齢千年を数える風格ある古木です。

それでは街道を進んでいきましょう。そのまま歩いていくと、家並みもめっきりと少なくなり、車もほとんど通らない静かな道に変ります。右側に音羽中学校の校舎が見えてきます。右側に開運毘沙門天王尊の石柱が細い道の角に建っています。その先に医院があり、その先には薬局が店を構えています。左側の道傍には栄善寺の石碑が建っています。

栄善寺は西暦1272年に円空上人の開基で、弘法大師がこの地で大日仏を刻み、盲目の男を治したという伝説が残っている寺です。

さらに街道を進むと長沢(旧長沢村)に入ってきます。道の左側に八王子神社の石柱が建ち、左側の秋葉山常夜燈は寛政12年の建立です。



さあ!まもなく第27回の旅のエンディングが近づいてきました。街道を進むと小川に架かる八王子橋を渡ります。
橋の手前に「一里山庚申道是ヨリ……」と書かれた道標があります。
橋を渡ると前方に有料道路の「三河湾オレンジロード」が走っています。旧街道はオレンジロートのガードをくぐって前方へつづいていきます。
私たちはオレンジロードをくぐったらすぐ右へ折れて、国道1号線の「音羽蒲郡インター」の交差点方向へ向かいます。そして今回の旅の終着地点の「えびせん共和国」へと進んでいきます。

2泊3日の行程で総歩行距離32キロを歩き通しました。たいへんお疲れさまでした。

私本東海道五十三次道中記 第27回 第1日目 白須賀宿から二川宿(本陣)
私本東海道五十三次道中記 第27回 第2日目 二川宿(本陣)から莵足神社

東海道五十三次街道めぐり・第三ステージ目次へ





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ