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大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記~大磯宿から二宮そして国府津~(其の二)

2012年12月21日 12時53分19秒 | 私本東海道五十三次道中記
ご存知のようにここ大磯は明治政界の奥座敷と呼ばれるほど多くの名だたる政治家が本宅や別荘を建てて移り住んだ場所なのです。

そもそも大磯が注目されるきっかけとなるのは、明治18年(1885)に松本順が大磯海水浴場を開設したことに始まります。そして松本順の人脈から風光明媚な大磯に別荘を持つことがトレンドとなり、当時華族に列せられた旧公家や旧大名、財閥そして明治政府高級官僚の間に大磯に別荘を持つことが一つのステータスとなっていたようです。この明治18年を機に第一次の別荘建設時期が始まります。

その先駆けとして明治20年には第3代・9代の内閣総理大臣を務めた山県有朋が別荘「小淘庵 ( おゆるぎあん )」を建設、その後、林 董 ( 外務大臣、松本順実弟 )、 後藤象二郎 ( 逓信大臣、農商務大臣 )、浅野総一郎 ( 浅野財閥 )、大倉喜八郎 ( 大倉財閥 )、樺山資紀 ( 海軍大将、白洲正子の祖父 )、岩崎弥之助 ( 三菱財閥 2 代目 )、山内豊景 ( 旧土佐藩主家当主 )、徳川義禮 ( 旧尾張藩主家当主 )、ジョサイア・コンドル ( 建築家 ) といった錚々たる人物たちがここ大磯に別荘を建設していったのです。

さらに別荘建設ラッシュは明治27年から30年代にかけてつづきますが、この期間に明治の政界を彩った政治家たちの別荘建設が集中します。

伊藤博文:滄浪閣跡

ちなみに明治27年 陸奥宗光 ( 外務大臣 ) 、明治29年 伊藤博文:滄浪閣(初代、第5・7・10代内閣総理大臣)、原敬 ( 第19代内閣総理大臣 )、鍋島直弘 ( 旧佐賀藩主家当主 )、明治30年 大隈重信(第8・17代内閣総理大臣) 、明治31年 三井高棟 ( 三井財閥 ) の城山荘 、明治32年 西園寺公望(第12・14代内閣総理大臣)の隣荘(伊藤博文の滄浪閣の隣に建築されたことより「隣荘」)、尾上菊五郎 ( 歌舞伎役者 )、明治34年 古河市兵衛 ( 古河財閥 ) 、明治35年 加藤高明 ( 第24代内閣総理大臣 ) 、明治39年 三井守之助 ( 三井財閥 )、真田幸正 ( 旧松代藩主家当主 )とまさに当時の日本の政治、経済がここ大磯で決定されていたのではないかと思われるような様相を呈しています。

そして明治後期から大正以降になるとさらに別荘の数は増えていくのですが、以前に別荘を構えていた著名人の中には大磯から転出していく人たちも増えたといいます。その代りに転入する者は実業家を中心とした中産階級が目立ち始めるのがこの時期の特徴のようです。

別荘銀座と言っても過言ではない大磯も大正12年の大震災で多くの別荘が被害を受け、その数は半減したといいます。そして戦後は公職追放、財閥解体、財産税徴収により上流階級の別荘は売却され、それまでのような華やかさは失われていきます。…が戦後、あのワンマン宰相と謳われた吉田茂がここ大磯の邸宅に住んでいたことはあまりにも有名な話です。

そんな大磯をこよなく愛した一人の文化人がいます。それが島崎藤村です。

四季の移り変わりが楽しめ、温暖であること。そして簡素であるものの凝った造りの建物を求めて大磯にやってきた藤村は大磯市内で和菓子屋を経営する「新杵」所有の貸家に移り住んできたのが昭和16年のことです。

その家が東海道からおよそ90mほど奥まった場所に今でも当時の姿のままで残されています。ちょうど江戸時代の京口にあたる場所の手前50mほどのところにある大磯町消防団第三分団の建物の角の狭い路地を入っていくと、竹垣に囲まれた民家が現れます。

藤村邸の竹垣

竹垣越しにちょうど季節に似合うようにたわわに実がついたミカンの木を見ることができました。邸への入口は可愛らしい門構えですが、門屋根にはなにやら草らしきものがびっしりと生えています。よく見ると「シダ」の種類ではないでしょうか。

藤村邸のミカンの木
藤村邸の門構え
門屋根の様子

鴨居の低い門をくぐり小さな庭へと入っていきます。その庭に面して四畳半程度の小さな部屋があり、茶室と見まがうほどのつつましやかな床の間が備えつけられています。実はこの部屋が藤村が執筆を行っていた書斎とのことです。

藤村邸1
藤村邸2

邸の管理者に聞くと、震災にも戦災にもそれほど大きな被害を受けていないとのこと。縁側に嵌められているガラス戸のガラスはなんと当時のもので、当時の製造技術のせいでしょうか、若干の「歪み」とガラス表面にはところどころ「窪み」すら窺うことができます。

見たところわずか三室しかない小さな家なのですが、あの文豪が住んだ家としてはあまりにも質素という印象です。この家からは相模湾の大海原も見えないし、おそらく浜に打ち寄せる波音も聞こえない。ちょうど邸の裏手にJR線路が走っているので、当時は機関車の汽笛と車輪の音が文筆の友だったのかもしれません。

それでは藤村邸をあとに東海道の旅をつづけることにしますが、東海道筋に戻る道筋はかつて伊藤博文が滄浪閣(別荘)から大磯駅へと通じる専用道路として使われていた「統監道(とうかんみち)」を辿ることにしました。

其の三へつづく

私本東海道五十三次道中記~大磯宿から二宮そして国府津~(其の一)
私本東海道五十三次道中記~大磯宿から二宮そして国府津~(其の三)





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私本東海道五十三次道中記~大磯宿から二宮そして国府津~(其の一)

2012年12月20日 20時38分40秒 | 私本東海道五十三次道中記
冬晴れのもと、北西の寒風が肌をさすこの日お江戸から数えて8番目の宿場町である大磯宿を起点に二宮(梅沢)を経由して国府津までの10㌔の街道めぐりを下見を兼ねて楽しみました。

私たちの東海道中は今年の4月に始まり、今月12月でお江戸日本橋から16里27町(65.8㌔)に位置する大磯宿まで踏破しました。いよいよ道中最大の難所である箱根越えまであとわずかと迫ってきました。

本来の東海道中の宿場間の旅であれば、大磯宿の次の宿場町は小田原なのですが、その宿間の距離はなんと4里(15.7㌔)と長く、私たちの年齢そして体力的な問題から1日で踏破するのはかなり至難の業。ということで、今回は小田原からはかなり手前の国府津までのおよそ10㌔を歩くことにしました。

瀟洒な雰囲気を醸し出しているJR大磯駅から旧街道へと通じる坂道を下ると大磯駅前交差点にさしかかります。この交差点はあの箱根駅伝が再び国道一号線に合流する場所で、ここから国道一号線を辿り二宮、国府津、鴨宮、小田原そして箱根へと至ることになります。

私たちはこの大磯駅前交差点を左折していよいよ国府津までの東海道中を歩むことにします。

電信柱や電線が地中化されているためか、旧街道の町並みはすっきりとし、高層の建物がないため空が広く感じられます。交差点から東海道中を進むこと120mで、街道の左側に穐葉神社の小さな祠が現れます。その祠の左側には延台寺の参道と奥に山門が立っています。

延台寺山門

延台寺はここ大磯を代表する歴史的な人物である「虎御前」ゆかりの古刹です。開基は関ヶ原の戦いの前年の慶長4年(1599)に遡ります。山門から境内に入ると正面に曽我堂、左手には石段の上にご本堂が置かれています。

曽我堂
延台寺ご本堂

当寺が開基される遥か昔、ここは曾我兄弟の仇討にゆかりが深く、鎌倉時代の舞の名手であった伝説の美女虎御前(虎女)が兄弟を偲んで庵を結んだ場所と伝えられています。そんな延台寺には曾我兄弟の兄、十郎佑成の「身代り石」と伝えられる御霊石「虎御石」をはじめ虎池弁財天(平安時代)、曽我兄弟座像、虎御前19歳剃髪之像などが法虎庵曽我堂に納められています。

虎御前供養塔

曽我堂の扉は固く閉ざされ、ガラス戸の奥には「身代わり石」と伝えられる「虎御石」が布に覆われて鎮座しています。また境内には虎御前供養塔や大磯宿遊女の墓が置かれています。(布に覆われていない「虎御石」は下の写真です)

御霊石「虎御石」

延台寺をあとにして再び東海道筋へ戻り、進行方向右側を進んで行きます。大磯宿内の家並みは長さ11町52間(1・3㎞)と比較的小さな宿場町で、江戸後期の人口は3056人、家数は676軒、三つの本陣と66軒の旅龍が街道の両側に並んでいました。江戸方見付は化粧坂(けわいざか)と山王町の間、上方見付は鴫立庵(しぎたつあん)を過ぎてしばらく行った地点にあったとされていますが、現在、その跡はまったく残っていません。

そんな宿場町にまず現れるのが北組問屋場跡です。つぎに蕎麦屋の前に「本陣」の解説板が立っていて、大磯宿小島本陣絵図などが載っています。この辺りに小島本陣があったのだそうですが、大磯宿にはこの他にも尾上本陣と石井本陣があったようです。

>小島本陣跡

大磯消防署前交差点まで来ると、角に「明治のまちコース」の標柱が立っています。そして右手の道は「地福寺0.1km」となっています。それでは地福寺へ行ってみることにしましょう。地福寺は真言宗のお寺で、承和四年(837)の創建と伝えられています。境内には大磯町指定文化財に指定されている「木造弘法大師座像」が在ります。
そして当寺の名を知らしめているのが「破戒」「夜明け前」など多くの名作を残した文豪「島崎藤村の墓」があることです。山門をくぐった左手に梅の老木に囲まれたように藤村の墓が置かれています。

地福寺ご本堂

島崎藤村は代々中山道馬籠宿の本陣、庄屋を務めた家に生まれ、のちに郷里において牢死した国学者の父をモデルに『夜明け前』を執筆しました。大磯町には最晩年に疎開のため移転し、地福寺の墓所近くにある白梅の古木を愛したといいます。

藤村の墓
梅の古木と藤村の墓

地福寺をあとにして国道1号を進んでいくと、大磯町消防本部の道路向い(右側)の中南信用金庫の前に「大磯小学校発祥之地・尾上本陣跡」と刻まれた石標が立っています。

尾上本陣跡を過ぎて照ヶ崎海岸入口交差点の手前に明治24年創業の老舗の菓子店「新杵(しんきね)」が店を構えています。古い商家の佇まいを見せる新杵の名物は藤村や吉田茂にも愛された伝統の虎子饅頭と西行饅頭です。虎子饅頭はこの地の出身の遊女・虎御前に因んだ饅頭で、見返り姿の虎の焼印が押してあります。

新杵

虎子饅頭(1個110円)、西行饅頭(1個120円)
電話: 0463-61-0461
定休日: 火曜日、水曜日

照ヶ崎海岸入口交差点までくると、道が分かれていく間に樹木の生える一角があります。植込の中には「新嶋襄先生終焉之地」と刻まれた石碑が立っています。帝国四大私塾のひとつに数えられる同志社を創立し、自身明治六大教育家に数えられた新島襄終焉の地。
大学設立準備中に結核を患った新島襄は、明治22年(1889年)徳富蘇峰の勧めで大磯町の百足屋旅館別館愛松園(現愛宕神社下)に滞在し、療養生活を送りました。

新島襄終焉の地碑
徳富蘇峰筆による碑

しかし、翌明治23年(1890年)1月21日、各方面に口述筆記で遺言を託し他界。享年46歳。碑は徳富蘇峰の筆によるもので、旧百足屋旅館の玄関があったといわれる場所に建てられました。百足屋旅館の主人宮代謙吉は大磯町5代目町長を務めた人物で、松本順の支援者でもあり、松本順もこの百足屋に宿泊しています。松本順は日本で初めて大磯を海水浴場に指定した人です。

尚、来年のNHK大河ドラマは「八重の桜」ということで、新島襄の奥様で新島襄を献身的に支えた妻「八重さん」が主人公として描かれるそうです。 …が、八重さんが活躍した場所は会津、そして京都が中心になるのでは、と思うのですが、ここ大磯の町役場には同志社大学が編集した「新島八重と同志社」と題された小冊子を無料で配布していました。



「新嶋襄先生終焉之地」から100mほどのさざれ石交差点の左手に、明治11年創業の老舗「井上蒲鉾店」が店を構えています。

そして「井上蒲鉾店」から120mほど行った旧街道の左側に「西行法師」ゆかりの「鴫立庵(しぎたつあん)があります。西行法師は東国行脚の際に、この場所で「心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮」の句を詠んだと言われています。

鴫立庵外観

鴫立庵はそもそも江戸時代の初期に小田原の外郎(ういろう)の子孫と言われる「崇雪」という俳人が西行を慕って、ここ大磯之鴫立沢(しぎたつさわ)のほとりに草庵を建てたことに始まります。その後「鴫立庵」と呼ばれるようになったのです。崇雪は鴫立庵の脇に「著盡湘南清絶地(あきらかにしょうなんはせいぜつをつくすのち)」という標柱(寛文4年・1664年建立)を建てたことから、この付近を湘南と呼ぶ様になったとの説もあります。
湘南という地名は中国湖南省にある洞庭湖のほとり 湘江の南側を湘南といい, 大磯がこの地に似ているところから湘南と呼ばれるようになりました。

湘南発祥の地碑

そしてここ鴫立庵は京都の落柿舎(らくししゃ)、滋賀の無名庵(むみょうあん)と並び日本三大俳諧道場の一つとして知られています。庵は瀟洒な味わいの造りで、風情に溢れています。歴代俳諧重鎮が江戸時代より現在に到るまで、この庵に在住してここを守っています。現在の庵主は22世鍵和田氏という方です。 ※入庵料:大人100円・子供50円

鴫立庵をあとに左手の大磯町役場を見ながら東海道を進むと、左手に黒門を構えるのが料亭「翠渓荘」です。かつて岩倉使節団に随行した林董(はやしただす)の邸宅だったところです。そしてその先の統監道(とうかんみち)バス停の歩道脇に「上方見附」の解説版が立っています。ここで大磯宿は終わり次の宿場町である小田原へと街道がつづいていきます。

翠渓荘の黒門
翠渓荘への道

※統監道(とうかんみち)
伊藤博文公は晩年、朝鮮総統を務めましたが、伊藤邸(滄浪閣)と大磯駅との間の道路を住民が整備して造った専用道路の名称です。

其の二へつづく

私本東海道五十三次道中記~大磯宿から二宮そして国府津~(其の二)
私本東海道五十三次道中記~大磯宿から二宮そして国府津~(其の三)





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私本東海道五十三次道中記~広重の描いた風景探し(茅ヶ崎・平塚・大磯)

2012年11月29日 22時24分29秒 | 私本東海道五十三次道中記
雲一つない秋空のもと湘南エリアの東海道街道めぐりを楽しんできました。そもそも茅ヶ崎は東海道の宿場町ではありませんが、藤沢宿と平塚宿が3.5里(13.7㌔)と距離があるために休憩場所として成立した「立場」として知られています。

茅ヶ崎市内の松並木

「立場」の成立条件としては宿間の距離が長く、且つ眺望が利く場所、街道の重要な分岐点、橋のない大きな川に接しているなどが挙げられます。そんな茅ヶ崎の立場は国道一号線が「千の川」を越える手前の南湖と呼ばれる地名の辺りに集中していたようです。

東海道はここ南湖辺りで大きく曲線を描き、北西方向へと向きを変えます。このためそれまで街道筋の遥か右手に見えていた霊峰富士がこの場所で街道筋の左手に姿を見せるのです。これが東海道中で有名な「南湖の左富士」と呼ばれている場所なのです。

広重の南湖の左富士之景

確かに現在でも旧街道である国道一号線はここ南湖あたりで大きく右手にカーブしています。以前から一度徒歩で南湖を歩き、この目で「左富士」を見てみたいと思っていた私にとって、今日ばかりは是非雲一つない秋晴れを期待していました。

幸運にも今日は絶好の散策日和。この調子であれば「南湖の左富士」はくっきりと姿を見せてくれるはずだったのですが、南湖に着いたのが午後ということもあって、富士の高嶺には生憎の雲がかかり、美しい姿を見ることができませんでした。

南湖の左富士
南湖の左富士

とはいえ全く姿が見えないということではありません。一部頂上付近に雲がまとわりついていましたが、白く化粧した姿と流れるような稜線をはっきりと見ることができました。

南湖の左富士碑
欄干の左富士レリーフ

あの安藤広重も見た「南湖の左富士」は時代を越えても、まぎれもなく同じ位置にありました。というより現在の国道一号線が昔のままのルートを走っているんだな、と実感した瞬間です。

今日の街道巡りでは広重が描いた五十三次や絵図に現れる場所を歩けるという大きな楽しみがあります。

「南湖の左富士」の次に楽しみなのが、同じく広重が描いた東海道五十三次の平塚之景に現れる「高麗山」を間近に見ることです。

広重の平塚之景

広重の平塚之景に描かれている「高麗山(こまやま)」は平地に突然盛り上がったような丸みを帯びた山なのですが、実際にはどのように見えるのかがたいへん楽しみだったのです。

高麗山

かつての平塚宿の京口見附にさしかかると、その丸い山の姿が広重が描いたアングル通りに目の前に現れます。さらにその丸い山の右手に広重の絵と同じように富士山が姿を見せてくれるのです。まさに広重が平塚の景を描いた場所に立っていることに今日二度目の感動を覚えたのです。

ただ広重が描いた平塚之景にはもう一つの山「大山」が描かれているのですが、私が立っている京口見附からは大山は遥か右に位置し、構図の中に大山を組み入れるのは無理があるのでは、と思わざるを得ません。

高麗山の裾を流れる花水川とその向こうに連なる丹沢連山と大山の風景はどこか遠くの田舎町を思い起こさせるような雰囲気を漂わせています。



そして平塚宿からわずか2.9㌔で次の宿場町である大磯宿が迫ってきます。そんな大磯宿を広重は雨降る中に街道の松並木を描いています。画面には細い街道の両脇に松並木がつづき、その並木の中に太い幹を斜めに傾けた1本の松の木が描かれています。

広重の大磯之景

樹齢を重ねた松であればこそ、太い幹が斜めに延びることは十分に考えられます。そんな「斜め松」が広重の絵と同じように街道を飾っているのかが楽しみだったのですが、なんと本当に「斜め松」があるではないですか。
それも1本だけでなく何本も。

大磯の斜め松

大磯宿の江戸見附に着いたのは宵闇迫るころでした。西の空を赤く染める晩秋の夕日を背景に大磯の斜め松は美しいシルエットとなって私の目の前に現れました。

大磯の斜め松

その昔、街道を旅する人たちは暮れなずむ街道の松を見上げながら、そそくさと宿ののれんをくぐり、一日の旅の疲れを癒していたのでしょう。





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私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の四)

2012年11月01日 10時08分20秒 | 私本東海道五十三次道中記
車の往来が賑やかな国道一号線に沿って茅ヶ崎へと進んで行きましょう。羽鳥交番前信号を過ぎるとまもなく本日の歩行距離3.5㌔地点です。

この地点を過ぎてすぐのところに旧東海道の13番目の一里塚跡が現れますが、その姿はなく標柱だけが立っています。この一里塚辺りから街道の風情を色濃く感じさせてくれる「松並木」が適当な間隔をおいて姿を現します。

13番目の一里塚跡

江戸時代からの松並木ではなく後世に植えられたものでしょう。見事な枝振りとはいかないまでも、単調な国道一号線に彩りを添える松並木です。

街道の松並木

そんな松並木を見ながら進んで行くと、右手に二ツ家稲荷神社の境内が現れます。近くの信号表示は「二ツ谷」となっているのですが、この稲荷社の名前は「谷」が「家」になっています。
由緒書きによると江戸時代に大山詣で帰りの道者や信者たちが宝泉寺へ詣り、さらに江ノ島・鎌倉方面へ向う途中の休憩所(立場茶屋)として二軒茶店があったことからといわれています。又、「二ツ家」が本来の地名であったとも伝えられています。

ここ二ツ谷信号を左へと進んで行くとわずかな距離でJR辻堂駅です。私たちの次の駅である茅ヶ崎へと先を急ぐことにします。二ツ谷を後に2つ目の信号が「大山街道入口」と記されています。大山へは行く筋もの道が付けられていたものと思われますが、大山街道入口と正式に名付けられた信号を見るのは初めてです。そんな信号脇に「奉巡礼西国坂東秩父」と刻まれた石標がぽつんと置かれています。

石標面には読みづらいのですがこんな歌が刻まれています。「あふり山わけ入る道にしおり置くつゆの言の葉しるべともなれ」
「大山」は別名、「阿夫利(あふり)山」又は「雨降(あふ)り山」ともいい、農耕民にとっては大山および阿夫利神社は雨乞いの神として信仰を集めていました。

そんな信仰の山への巡礼者にその道筋を示す小枝をおき、その方向を指し示したといいます。言葉ではその方向を教えることができませんが、この小枝を辿れば大山に行き着くことでしょう。というような歌の意味だと思います。

こんな道標が置かれているところから、藤沢市にお別れしていよいよ茅ヶ崎市へと入ります。そして国道一号にそって再び松並木が始まります。

街道の松並木

このあたりから再び街道らしさに花を添えるように松並木がつづきます。
この先、赤松町交差点を過ぎると日本橋から55㌔の標識が現れ、松並木もいったん途切れてしまいます。

東小和田交差点を過ぎると、次に茅ヶ崎の古刹「上正寺」が山門を構える上正寺前交差点にさしかかります。それでは上正寺の境内へ進むことにいたしましょう。

上正寺山門

親鸞聖人の立像が山門脇に立ち私たちを迎えてくれます。趣のある山門をくぐると比較的広い境内の奥にご本堂が構えています。山門をくぐりすぐ左手に大きな石灯籠が置かれています。この石灯籠は幕末の上野彰義隊戦争や関東大震災、戦災で被害を受けた寛永寺さんの再建復興寄付のお礼として当寺に寄贈されたものだそうです。境内にはこの種の石灯籠が8基置かれています。

上正寺ご本堂

それでは上正寺を辞して旧東海道の旅をつづけてまいります。道を進むと次に小和田交差点そして小桜町交差点を過ぎるとまもなく日本橋から56㌔の標識が現れます。

小和田池袋交差点・松林小学校入口交差点、菱沼歩道橋の下を過ぎていくと、道の両側に再び松並木が続くようになります。松並木が途切れてしばらく進んでいくと松林中学校入口交差点があります。
松林中学校入口交差点を直進して茅ヶ崎市本村二丁目歩道橋を過ぎていくと、また松並木が続くようになります。時折現れる松並木は街道歩きに妙な安らぎを感じさせてくれます。

すでにこの辺りで本日の歩行距離は5.5㌔を越えています。「日本橋から57km」の標識を過ぎて茅ヶ崎高校前歩道橋の手前まで来ると、右側に「東海道の松並木」と題した案内板があります。案内板によると、この辺りの松並木は樹齢400年ほどもあるようで、江戸時代よりも前の戦国の時代から生えている古木です。この辺りも国道1号線の両側には松並木がつづきます。

茅ヶ崎高校前信号を渡り、さらに続く松並木の下を歩いていきます。その松並木がいったん途切れるあたりに市立病院入口の信号が現れます。その信号を渡ってすぐ左手に海前寺の石柱が歩道脇に立っています。

細い路地を60mほど進むと海前寺の山門が構えています。門前には「曹洞宗 海前禅寺」と刻まれた石柱が立っていて、門の両脇には仁王像がなんの覆いもなく置かれています。

海前寺山門
海前寺ご本堂

ここ海前寺の墓地には昭和9年(1934)から昭和23年(1948)まで日本ボクシング界で活躍した「ピストン堀口」の墓があります。日本フェザー級王座、東洋フェザー級王座、日本ミドル級王座を獲得した方なのですが、その戦い方がまるでピストンのような連打を得意としていたようです。
享年36歳という若さで他界してしまったのですが、その死因が列車にはねられての轢死だったようです。墓碑銘に「拳闘こそ我が命」と刻まれています。

ピストン堀口の墓

海前寺の墓地からは丹沢の山並みとひときわ高い「大山」の姿を眺めることができます。日本橋からおよそ55㌔の距離を歩いて初めて見る大山の雄姿です。

海前寺を過ぎるともう茅ヶ崎の中心部へはもうすぐです。JR相模線を跨ぐ陸橋を過ぎると右手にスーパーマーケットのイオンが現れます。そのイオンを過ぎると国道一号線の左側の角に「茅ヶ崎一里塚」が復元され置かれています。お江戸日本橋から数えて14番目の一里塚です。

一里塚手前の松並木
茅ヶ崎一里塚

藤沢宿から歩き始めてほご7.5㌔の地点にあたります。本来であれば藤沢宿の次の宿は平塚宿なのですが、体力的に平塚まで辿りつくことができず、間の宿として栄えていた茅ヶ崎で今日の街道歩きは終了いたします。
藤沢宿から茅ヶ崎までの旧街道の旅は街道らしい松並木がつづき、つい単調になりがちな街道歩きに花を添えてくれました。

次回はここ茅ヶ崎から大磯への街道歩きをご紹介いたします。

私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の一)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の二)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の三)





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私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の三)

2012年10月31日 17時02分07秒 | 私本東海道五十三次道中記
かつての藤沢宿の西の端、すなわち京都側の出入り口である見附跡が小田急線江ノ島線の線路を跨ぐ伊勢山橋を渡り60mほど進んだところの中華料理玉佳の前に目立たない存在で標が立てられています。

遊行寺坂の途中にあった江戸見附からおよそ1.3㌔地点にある京口です。藤沢宿の範囲がここで終わり、旧街道は43号線と名前を変えて進んでいきます。これから先はそれほど見るべきものは多くないのですが、しばらく歩くと引地川が現れます。引地川を渡り100mほど歩くと、右手にほんの少しそれるように道がつづき、その先にお堂が見えてきます。

養命寺ご本堂

このお堂が養命寺です。元亀元年(1570)に中興開基された曹洞宗の古いお寺です。
当寺には昭和2年になんと国宝に指定された木造の薬師如来坐像がご本尊として祀られているといいます。このご本尊は12年に1回の寅年の4月12日にしか御開帳されないという秘仏だといいます。しかし現在は国宝指定が解除され重要文化財に指定されています。

たまたまお寺のお坊様がいらしたので、堂内を見せていただきました。それほど大きなお堂ではないのですが、そのお堂の天井一面に描かれた色とりどりの「天井絵」がまるで曼荼羅をみているかのような色彩で迫ってきました。

お堂の天井画

狭い境内の片隅には古い宝筺印塔(ほうきょういんとう)、笠塔婆(かさとうば)、庚申塔、三界萬霊塔が置かれています。

養命寺境内

養命寺を辞して、再び国道43号線に戻ると、ちょうど反対側の歩道脇に小さな祠が置かれ、その中に2体の道祖神が坐しています。これが「おしゃれ地蔵」と呼ばれているもので、遠目で見てもうっすらと白粉が塗られ、口元をみると赤い紅が注している様子が窺がえます。

このお地蔵様は女性の願い事なら何でもかなえて下さり、満願のあかつきには白粉を塗ってお礼をする」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないといいます。ただしこれは「地蔵」ではなく、まぎれもなく道祖神(双体道祖神)なのですが…。

43号線は養命寺を過ぎると大きく右へカーブを描きます。そのカーブした右手に見えてくるのがワインメーカーのメルシャン工場です。近くにくるとワインの香りが漂ってきます。

藤沢市内からこの辺りまでくると、街の喧騒からも離れ街道らしい静かな雰囲気が漂い始めます。まもなく歩き始めて2.5㌔地点の羽鳥歩道橋を過ぎるとこれまで歩いてきた国道43号線は右手に折れ、旧街道は44号線と名を変えます。

44号線に入りすぐ左手に店を構えるのが現代の茶店(和菓子処)「丸寿」です。ちょっと甘いものでも食べたくなるような街道の風情に誘われて店内へと入ってみました。

街道の和菓子屋「丸寿」

この「丸寿」の名物は「大庭城最中」なのですが、はてはてこの近在に城なんぞあったのか?と思いきや、実はかなり古い話なのです。平安時代の末期にこの辺りは関東平氏の一族である大庭景親(かげちか)の居城があったのです。現在、その居城跡は大庭城址公園として整備されているようです。
まあ、こんないわれのあることで大庭城最中を販売しているのでしょう。

大庭城最中

ちょっと甘いお菓子で小腹を満たして、東海道の旅をつづけましょう。街道筋にはちらほらと松並木が現れてきます。

そんな街道らしい風情を楽しみながら羽鳥歩道橋から850mほどで国道一号線と合流する「四ツ谷信号」に到着します。ここからは残念とは言いませんが、再び幹線道路に沿って歩くことになります。

ここ四ツ谷信号に際に小さなお堂と道標がたっています。お江戸日本橋を出立して12里を過ぎたこの辺りからようやくその姿がはっきりと見え始まるのが丹沢連山に属する標高1252mの「大山」です。

大山道標の祠
道標に鎮座するお不動様

古くから山岳信仰の対象として崇められている大山へは各地から巡礼の道が整備され、これを「大山道」と呼ばれていました。
道は行く筋にも造られていたのですが、ここ四ツ谷の旧街道には大山への分岐点の一つとして道標が置かれています。

大山道の一の鳥居

そして大山道への入口には立派な「一の鳥居」が立っています。
そんな大山道道標をすぎて国道一号線を進むとまもなく本日の歩行距離も3キロに達します。

其の四へつづく

私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の一)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の二)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の四)





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私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の二)

2012年10月29日 10時34分25秒 | 私本東海道五十三次道中記
今回のお題にあるように「義経、弁慶の悲しい物語」が点在する藤沢宿は義経の兄である頼朝が居住した鎌倉と至近にあります。このような地理的関係があるため、ここ藤沢宿には義経、はたまた弁慶にまつわる由緒地が点在しています。

そんな一つである弁慶之首塚がここ常光寺の裏山に人知れず佇んでいます。若干傾斜のある裏山に置かれた首塚は小さな祠の中に納まっています。静まり返った裏山の中に忘れ去られたように置かれた祠はなにやら弁慶の哀愁すら感じます。

裏山の佇まい
弁慶の首塚

どうしてここに弁慶の首塚が?と思われることでしょう。
ちょっと歴史を紐解いてみましょう。
文治5年(1189)に奥州平泉で討たれた義経の首は藤原泰衡から鎌倉に送られてきました。伝承によるとその時に弁慶の首も一緒に送られてきたといいます。首実検の後、二つの首は空に舞い上がり、ここからさほど離れていないところに鎮座する白旗神社のある場所に飛んできたとも…。
そして義経公は白旗神社の御祭神として祀られ、弁慶は八王子社に祀られたといわれています。

実はここ常光寺の裏山にはかつて弁慶の御霊を祀った「八王子社」が建てられていたといいます。そしてここからさほど離れていない白旗神社の祭礼の時には弁慶神輿が担がれていたといいます。今はその八王子社の社殿もなく、ただ弁慶の首塚だけが寂しく置かれているだけです。こんな義経と弁慶の首の話にはさまざまな伝承があり、白旗神社には別の話が残っています。

さて、この白旗神社に行く前にここ常光寺から至近にある永勝寺へと向かうことにします。常光寺の裏山から細道を辿り永勝寺へのショートカットの道筋を行くことになります。その道筋につづく塀の向こうにお寺の甍が見えてきます。荘厳寺(そうごんじ)といいます。実は、この寺も義経公と所縁を持つことで知られています。なんと義経公の御位牌が祀られているとのことです。今回は荘厳寺には立ち寄りませんでした。

道を辿るとふいに永勝寺の石柱が現れ、緩やかな傾斜の向こうに山門が構えています。実はここ永勝寺には藤沢宿で飯盛旅籠で働いていた飯盛女たちの墓があることで知られています。

永勝寺石柱
永勝寺山門

ちょっと話がそれますが、江戸時代にはここ藤沢宿には旅籠が49軒あったのですが、そのうちなんと27軒が飯盛旅籠だったそうです。その飯盛旅籠の中に「小松屋」という旅籠があったのですが、其の壱で紹介した小松屋さんが平成の世にはラーメン屋さんとして存続しているわけです。

現在の小松屋さん

そしてここ永勝寺にはこの小松屋で働いていた飯盛女の墓が39基残っています。その墓域は山門を入ってすぐ左手に現れます。
その墓域の中にひときわ大きな墓石があるのですが、この墓が当時飯盛旅籠を営んでいた小松屋の主人である「小松屋源蔵」のものです。

小松屋さんの墓域
飯盛女の墓

一般的に飯盛女たちの墓が個別に造られることは当時は非常に珍しいことなのです。身寄りのない女たちであった飯盛女は亡くなると宿内の寺に投げ込まれるように捨てられることが多く、その亡骸はその寺の一画に合葬されるのが常でした。
しかし、この永勝寺には飯盛旅籠の主人の墓と同じ墓域にそれぞれの女の生前の名を刻んだ墓石が置かれているのです。
旅籠女郎と呼ばれた彼女たちの悲しい境遇を知り尽くしていた小松屋源蔵は死後の彼女たちを一人の人間として扱うだけの器量を持っていたことを示すための善行だったと思うべきか……、判断に苦しむところです。

静かな境内の奥にはご本堂そしてご本堂の左手前には太子堂が佇んでいます。

永勝寺ご本堂
永勝寺太子堂

この辺りはかつての藤沢宿内では本陣や問屋場に近く、旅籠が立ち並ぶかなり賑やかな地域だったのではないでしょうか。
そんな場所からさほど離れていない場所に義経所縁の地が点在しています。

再び467号線へもどり白旗信号へと進んでいきましょう。信号を渡り右へ30mほど戻った歩道脇に「伝源義経首洗井戸」の標が立っています。

伝源義経首洗井戸」の標

前述にあるように一つの伝承として奥州平泉から送られてきた義経の首は宙を飛び、白旗神社のある場所に飛んでいったとありますが、ここの井戸には別の話として伝わっています。

義経の首が首実検のため鎌倉に送られてきたことは同じなのですが、その後首は鎌倉腰越の海岸に打ち捨てられてしまったというのです。そしてその首は藤沢市内を流れる「境川」を遡り、白旗に流れ着いたらしいのです。その首を拾い上げた白旗の人がこの井戸で洗い清めたということです。

義経伝説についてはさまざま語り継がれていることが多く、どれも信憑性に欠けるのですが彼、義経公の神秘性と日本人的な「判官贔屓」が相まって神格化されてしまったのでしょうね。

細い路地を入って行くのですが、なにやら他人の家の敷地に入り込むような場所に井戸と石碑が残っています。

首洗井戸全景
首洗井戸
石碑

鎌倉時代の地形が今とは異なっていたのかもしれませんが、この場所から首が流れてきたといわれる境川本流までは直線で500以上mの距離があります。首を拾い上げてわざわざ500mもの距離を歩いて、この場所の井戸まで持ってきたことにやや疑問が残るものの、この地が源氏の白旗に因んで「白旗」と呼ばれていることと、後世の義経伝説と相まってそれらしい首洗い井戸を造ったのではと穿ってみてしまうのは私だけでしょうか?

そしてもう一つの義経所縁の地が首洗い井戸のある旧街道から300mほど奥まったところにある白旗神社にあります。白旗信号から右へと進むと、前方に大きな鳥居が見えてきます。

白旗神社鳥居

その鳥居の奥に木々に覆われたこんもりとした林が見えます。この林の中に白旗神社の社殿が鎮座しています。

社殿へつづく石段

この白旗神社がある場所に冒頭に記述したように義経と弁慶の首が宙を飛んできたというのです。そしてこのことを鎌倉の頼朝に伝えると、白旗神社として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社と呼ばれるようになったと伝えられています。

鳥居をくぐり、そのまま前方の小高い林の中へとつづく石段を上ると、立派な権現造りの社殿が現れます。その社殿の左脇に置かれているのが「斎源義経公鎮霊碑」の石碑です。

白旗神社境内
白旗神社社殿

この碑は義経公没後810年を記念して平成11年に義経公の首実検が行われた6月13日に鎮霊祭を行い、ここに源義経公鎮霊碑を建立したものです。

源義経公鎮霊碑

尚、当社は義経と弁慶に因んで、義経松、弁慶松、更には枝垂桜、義経藤(白色)、弁慶藤(紫色)、をはじめ初春には梅、秋には境内の大銀杏の黄葉と四季折々に楽しめます。



義経、弁慶にまつわる話が多く残る藤沢の宿ですが、江戸時代以前の古くからここ藤沢の人々をはじめ、ここを通る多くの旅人が遠く過ぎ去った源平から鎌倉の時代を偲んでいたことを感じることができる場所でした。

それでは再び旧道467号線へと戻り、茅ヶ崎への旅をつづけることにします。

其の三へつづく

私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の一)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の三)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の四)





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私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の一)

2012年10月28日 16時51分11秒 | 私本東海道五十三次道中記
お江戸日本橋から12里(48㌔)に位置する藤沢宿は一遍上人開祖の遊行寺(清浄光寺)の門前町として古くから栄え、東海道が整備された慶長6年(1601)以降は旅人はもちろんのこと江ノ島道を辿って江ノ島弁財天詣での講中客や遊山客でたいそう賑わっていました。



安藤広重が描いた藤沢の景には遊行寺橋の向こうに遊行寺の甍が見えています。現在でも遊行寺橋からは同じような景色が眺められるのですが、絵の中に描かれている江ノ島弁財天の一の鳥居は現在は見ることはありません。

藤沢宿内は遊行寺坂の江戸見附から始まり、京口までおよそ1.3㌔にわたってつづいています。それほど規模は大きくなかったようですが、宿場町らしく本陣、脇本陣はそれぞれ一軒づつ、旅籠数はお江戸の天保時代には49軒を数えていました。

かつての旧街道は現在では遊行寺坂の30号線から467号線へと名を変えて海側へ向かうのではなく、むしろ山側へと進む道筋がつづきます。

467号線は幹線である国道一号線とはちょっと風情が異なります。それほど道幅も広くなく、地方都市特有の香りが漂う街道らしい街並みや佇まいを感じます。藤沢宿内の散策を始めるとすぐに467号線の右側に古めかしい佇まいの商家が現れます。街道らしい雰囲気を醸し出す建物です。明治の末期に建てられ藤沢宿に唯一残る「店蔵」です。その名は「桔梗屋」という「紙」を扱うお店です。

桔梗屋の店蔵

そんな街道を進んで行くと、藤沢公民館前の信号を過ぎた左手に「小松屋」というラーメン屋さんが見えてきます。このお店は江戸時代にはここ藤沢宿で「飯盛旅籠」を営んでいた「小松屋さん」とのこと。一応ここでは「小松屋」の名前を憶えておいていただきましょう。

小松屋さんの店構え

小松屋さんを過ぎるとかつての藤沢宿の中心ともいえる地域にさしかかってきます。まずここ藤沢宿に一軒あった「蒔田本陣跡」が467号線の右側に、そしてここから100mほど進んだ左側に問屋場跡が現れます。

この問屋場跡がある場所の手前の信号を渡り、467号線の左側へと移動することにします。問屋場跡からおよそ100m歩いた左側に藤沢市消防署本町出張所があります。その角を左に進むと前方に「常光寺」の山門が構えています。

常光寺山門

山門とその背後のこんもりとした木々の様子から静かな落ち着いた雰囲気の寺構えを感じます。その山門の左わきに置かれているのが「藤沢警察署創設百年碑」です。

藤沢警察署創設百年碑

石碑には「明治5年8月 常光寺に邏卒屯所が設置され 以後境内地の提供により警察出張所 警察署に昇格 大正14年洋風庁舎を建築し昭和39年4月 本鵠沼の新庁舎に移転するまで90年間署が置かれていた 発祥の地である」と刻まれています。

木々に覆われた境内は凛とした空気と静寂に包まれています。本堂へと進む参道の脇には2基の「庚申供養塔」が置かれています。かなり古いもので「万治2年」と「寛文9年」のものです。
万治2年というと、あの江戸の大火としてしられる「明暦の大火(1657)」の2年後の年です。

庚申供養塔
常光寺ご本堂

常光寺境内及びその周辺には天然記念物に指定されている樹林があります。境内のかやの大木は県の名木百選にも指定されています。

かやの大木

ご本堂に隣接して墓地が広がっています。その墓地の一角に「野口米次郎墓」があります。大木の根元に置かれた墓はモダンというか、記念碑を思わせる姿で置かれています。

野口米次郎墓

説明書きによると、「明治八年愛知県に生まれ、二三年単身渡米、新聞記者となり、のち英国に渡る。詩集を出版するなど両国の詩壇で活躍し、三七年日露戦争の報道のため帰国、兄が住職を勤める常光寺や鎌倉円覚寺に暮らしました。慶応大学で教鞭をとり、世界各地で日本文芸について講演し、また広重・春信などの浮世絵や正倉院宝物について英文出版、さらに日本での最初の英文案内書『Kamakura』を出版したりして日本の文化・文芸を世界に紹介し、“ヨネ・ノグチ”の名で親しまれている。昭和二二年疎開先の茨城県で没した。」とあります。

尚、米次郎の息子がかの有名な彫刻家である「イサム・ノグチ」なのですが、おそらくこの墓石の奇抜なデザインは息子のイサム・ノグチ氏によるものなのでしょうか?

常光寺ご本堂の裏手は小高い丘になっています。緩やかな傾斜の石段を上って裏山へと回り込みます。そしてやや下りの道を進むと右手に広場が現れ、その広場の奥がさらに階段となっています。

裏山へつづく細道

こんな場所に入ってもいいのかと思うようなところなのですが、階段を上ると木々に覆われ木漏れ日がほんの少し射し込む場所に小さな祠が一つ置かれているではありませんか。その小さな祠の周りには庚申塚や供養塔が乱雑に置かれています。

弁慶之首塚祠

この小さな祠に納められているのが「弁慶之首塚」なるものです。

其の弐へつづく

私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の二)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の三)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の四)





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私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の三)

2012年09月13日 16時23分27秒 | 私本東海道五十三次道中記
箱根駅伝の3区に含まれる遊行寺坂がいよいよ始まります。両側がまるで切通しのような崖になっていて、だらだらと下り坂がつづきます。遊行寺坂一里塚の案内板を過ぎると、遊行寺はもう目と鼻の先です。

遊行寺総門

その遊行寺と敷地を同じくする塔頭寺院でもある長生院への近道が遊行寺坂の途中に細い石段となって現れます。というのも遊行寺坂を下りきって遊行寺の総門へと向かうのもいいのですが、そこまで行ってしまうと長生院に行くために長い坂道を再び登らなければなりません。そうであれば長生院を先に見てしまう方法としてこの細い石段を上ってしまったほうが得策といえます。

遊行寺坂



石段を上ると長生院の墓地に入ります。墓地の中の道をほんの僅か進むと長生院の小栗堂の正面に出てきます。長生院は浄瑠璃で名高い小栗判官照手姫ゆかりの寺です。応永29年(1422)常陸小栗の城主、判官満重が足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が家臣11人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたことがあります。このとき妓照手が助重らをのがし、一行は遊行上人に助けられました。その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えました。助重の死後、照手は髪をそり長生尼と名のり、助重と家臣11人の墓を守り、余生を長生院で終わったといいます。

長生院・小栗堂

そんな照手姫と小栗判官十勇士の墓が小栗堂の裏手にひっそりと佇んでいます。

照手姫の墓
小栗判官と十勇士の墓
照手姫寄進の厄除地蔵尊

長生院から石段を下っていくと、右手には時宗・総本山の遊行寺の堂々とした姿の本堂が現れます。本堂の右手前には宗祖の一遍上人の銅像が立っています。

遊行寺ご本堂

遊行寺は正式には清浄光寺が寺名ですが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれます。宗祖は一遍上人(1239~1289)で南無阿弥陀仏のお札をくばって各地を回り、修行された(遊行といいます)念仏の宗門です。この遊行寺は正中2年(1325)遊行四代呑海上人によって藤沢の地に開かれ、時宗の総本山となっています。

一遍上人像
鐘楼堂

境内を進むと、鐘楼堂そして安政年間(1854~60)に建造された中雀門が現れます。清浄光寺(遊行寺は通称)は創建以来たびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治13年(1880)の大火の際にも焼失を免れた、境内で一番古い建物です。大正12年(1923)の関東大震災でも焼失は免れましたが倒壊したものを、そのまま復元して今にいたっています。向唐門づくりで高さ6m、幅は3.7mです。

中雀門

中雀門の左手にある門から中へ入って行くと、寺務所、僧堂・受付・書院・遊行会館などがあり、左手には藤嶺記念館(宗務所)があります。遊行会館の前は日本庭園になっており、その中に放生池があります。江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄7年10月の日記によれば、 金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かつ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべし」 と記録されています。古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿を保つとされています。

放生池

ちなみにいここ遊行寺の放生池は江戸幕府五代将軍徳川綱吉の時代(1680~1709)に、生類憐れみの令によって、江戸中の金魚をあつめて放された所です。

境内の大銀杏の木

階段混じりの石畳の参道を降っていきます。途中の右手には真浄院、左手には真徳院があります。並木が続く坂道を降っていくと、日本三大黒門のひとつにもなっている遊行寺の総門があります。右手の柱には「時宗総本山」、左手の柱には「清浄光寺」と書かれていて、「時宗総本山 遊行寺」と刻まれた大きな石柱も立っています。

石門
通称「いろは坂」
総門
総門
総門脇の榜示杭
寺名の石柱

総門から出て正面に続く道を進んでいくと、往時の藤沢宿の絵図と日本三大広小路の解説文が掲示されています。この藤沢宿、すなわち旧街道は遊行寺の先に架かる赤い欄干の橋:大鋸橋(遊行寺橋)を渡り突き当りを右へ延びていきます。

日本三大広小路跡
赤い欄干の遊行寺橋

かつての藤沢宿で一番の賑わいを見せたのが前述の遊行寺橋を渡ってから右手へ向かう道筋だったようです。次回の藤沢から平塚への旅でこの藤沢宿の道筋を紹介したいと思います。乞うご期待のほど。

私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の一)
私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の二)





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私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の二)

2012年09月13日 15時38分07秒 | 私本東海道五十三次道中記
八坂神社前交差点を渡ると右角の歩道隅になにやら石柱が置かれています。道標だろうと近づいてみると古めかしい庚申塔が立っています。時折見る古めかしい石塔に街道を旅しているんだなあ、と一人感慨にふける瞬間です。

歩道脇の庚申塔

庚申塔をあとに道を進んで行くと、大きくカーブした右手に現れるのが冨塚八幡宮です。国道1号線に面して鳥居が立ち、境内の奥に裏山の上に鎮座する社殿へつうじる長い石段をみることができます。

冨塚八幡宮鳥居
社殿へとつづく石段

その石段の登り口の左脇に大きな句碑が置かれています。これが芭蕉翁の句碑なのですが、石面には「鎌倉を生きて出でけむ初松魚」と刻まれています。この句意は江戸っ子に珍重された初鰹(はつかつお)は鎌倉で水揚げされて、生きのいいまま戸塚を通り、江戸まで運ばれたようすを詠んだものです。

芭蕉句碑

冨塚八幡宮は平安時代、前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、この地にて応神天皇と富属彦命の御神託を蒙り、其の加護により戦功を立てる事が出来たのに感謝をして、延久4年(1072)社殿を造り両祭神をお祀りしましたことが始まりです。

冨塚八幡宮拝殿

44段の石段を登りつめると正面に拝殿が現れます。拝殿の裏手には本殿が境内の木々の木漏れ日を浴びて輝いていました。

冨塚八幡宮本殿

そろそろJR戸塚駅から1キロ強の距離にさしかかります。予想通り、上方見附跡の案内柱が現れました。この上方見附を過ぎるといよいよ戸塚宿から西へ下る旅人を悩ました「大阪」の登り坂が始まります。

登り坂が始まるとすぐ右側に「第六天宮」の扁額が掲げられている鳥居が現れます。国道一号に面して比較的広い敷地を持つ神社ですが、どうも趣に欠ける雰囲気で敷地には一面に石盤が敷き詰められ陽射しを遮ることができるような木もありません。

第六天宮

この第六天宮を過ぎると、およそ1kmにわたってつづく標高差約40mの「大坂(おおさか)」の登り坂が始まります。戸塚宿を発って藤沢宿へ向かう旅人が、上方見附を過ぎていきなり出合う難所だったようです。かつての東海道は今よりも道幅は狭く、勾配もかなりきつかったのではないでしょうか。このため戸塚宿の馬子や人足が副業で荷物や人を運んで手間賃を稼ぐ格好の場所だったのです。

大坂一番坂

登り坂を進んで行くと、路傍に七基の「庚申塔」が整然と並んでいます。ほんのちょっと街道らしさを感じる情景です。

路傍に並ぶ庚申塔
庚申塔

一番坂が終わる戸塚警察署下交差点を過ぎると、次に二番坂が始まります。二番坂を登って行くと大坂上信号が現れます。ここで道が二手に分かれます。それでは左手の道を進んでいくことにしましょう。

左手の道をしばらく進むと二番坂が終わる戸塚汲沢町歩道橋が見えてきます。この辺りから道路の真ん中に木々が茂る中央分離帯が始まります。以前はこの中央分離帯には街道らしい松並木が植えられていたようですが、現在では松の木はちらほらといった状況です。

大阪二番坂
中央分離帯の緑

汲沢町歩道橋から道は緩やかな下り坂となり汲沢第二歩道橋へと下りていきます。そして汲沢第二歩道橋をすぎると歩道脇に現れるのが「東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場」の記念碑です。

東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場
東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場

それほど仰々しい記念碑ではないのですが、道路脇の狭いスペースに無理やり置いたような佇まいです。あまり手入れが行き届いていない様子で、スペース内は雑草で覆われています。

「東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場」の記念碑を過ぎると、やがて道は日本橋から46kmと表示された原宿第一歩道橋へとさしかかります。この歩道橋の先に吹上信号がありますので、ここで右側の歩道へと移動します。

吹上信号から下り坂の道を進むこと250mほどで浅間神社の鳥居前に到着です。鳥居をくぐり古木の並木がつづく緩やかな坂道を上って行くと境内へと至ります。その境内の奥に社殿が鎮座しています。浅間神社ということなので、あの浅間造りの社殿かと思いきやごく一般的な社殿だったのでがっかりした次第です。

浅間神社石柱
浅間神社鳥居
神社への参道
浅間神社社殿

浅間神社をあとに国道1号に沿って進んで行きます。浅間神社からおよそ500mで原宿の交差点です。この交差点を過ぎると道は中央に木々が植わる分離帯がしばらくつづきます。この区間は見るべきものもなく単調そのものです。

原宿信号から860mほど歩くと影取歩道橋東側の信号に到着します。ここで中央分離帯は終了します。ここから先420mほど行ったところの影取第二歩道橋までも単調な道程がつづきます。

影取第二歩道橋を過ぎると左手に諏訪神社が現れます。まあ、それほどの神社ではありません。

諏訪神社

諏訪神社を後にして国道1号をその先へ進んでいきます。左手に広がる畑地を過ぎていくと降り坂になってきます。 藤沢バイパスになっている国道1号は右手へ分かれていきますが、左手へとつづく旧東海道を進むと、藤沢バイパス出口の信号に到着です。

旧東海道は県道30号と名を変え、遊行寺坂方面へと進んで行きます。藤沢バイパス出口の信号から620mほど歩いたところに旧東海道松並木記念碑が現れます。江戸時代にはこの辺りは見事な松並木がつづき、広重が描いた東海道にも描かれたほどです。そんな往時を偲ぶようにここに記念碑が建てられています。

旧東海道松並木記念碑
旧東海道松並木記念碑

この旧東海道松並木記念碑を過ぎるとまもなく遊行寺の坂へとさしかかります。

其の三へつづく

私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の一)
私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の三)





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私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の一)

2012年09月13日 14時08分12秒 | 私本東海道五十三次道中記
残暑厳しいこの日、これまでシリーズ化してきた東海道を下る旅を敢行しました。この日も気温30度超えが予想されていたので、歩き始めを少しでも早い時間にと考え、午前10時にはJR戸塚駅に到着しました。

午前中とはいえ、暑い陽射しが照り付けアスファルトからの照り返しが容赦なく目に飛び込んできます。覚悟は決めていたのですが藤沢宿までの7.8キロを踏破できるかほんの少し心配になってくるような猛暑です。

藤沢宿の江戸口見附は戸塚寄りにおよそ1キロほど行ったところなので、かつての戸塚宿の京口までは残すところ1キロ強といったところです。JR駅北口から旧東海道筋まではほんの僅かな距離です。旧道にでて藤沢方面へと足を進めるとすぐにJRの大きな踏切が現れます。踏切からは戸塚駅のホームがすぐそばまで迫っています。

戸塚の大踏切

踏切を渡ってほんの少し進むと、清源院前信号が現れます。この信号の角を右手へ折れ50mほど歩くと本日の最初の立ち寄り場所である清源院の山門が右手に構えています。

清源院の山門

この清源院は家康公の側女として名高い「お万の方」とたいそう所縁のある寺院です。開基は家康公が亡くなった年である元和2年(1616)のことです。この年(元和2年)、駿府で病に伏していた家康公を見舞ったお万の方は家康公よりたいへん貴重な阿弥陀像を賜ったと言われています。そして看病の甲斐なく家康公が亡くなると、お万の方は家康公より賜った阿弥陀像を安置するための寺を創建しようと寺地を探し求め、ここ戸塚へとやってきます。そしてお万の方はこの場所に適地を得て当寺を創建し、自らも尼となって開基となったのです。

山門から緩やかな坂道をのぼっていくと左手に比較的新しい本堂がそれほど広くない境内の奥に構えています。その境内の隅に芭蕉の句碑「世の人の見つけぬ花や軒のくり」と、この寺の井戸で心中した戸塚の薬屋大島屋亦四郎(またしろう)の子で18歳の清三郎と、同じ戸塚の伊勢屋清左衛門抱(かかえ)の飯盛(めしもり)で16歳のヤマの慰霊のための心中句碑が置かれています。

清源院本堂
芭蕉句碑
心中句碑

※「世の人の見つけぬ花や軒のくり」の句意は
世塵を避けてひっそりと暮す主の奥ゆかしさを、その家の軒端の栗の花に託して詠んだ挨拶句です。

芭蕉句碑が置かれた場所の脇から石段が裏手の山へのびています。実はこの山の一番高いところにお万の方の「火葬の地碑」があるというので、石段を上ってみることにしました。のぼるにつれ薄暗く、若干ジメジメとした空気が流れ、それほど人も訪れないためか、石段には蜘蛛の巣がいたるところに張って、顔にまとわりつきます。

裏山へとつうじる石段

石段は全部で73段あります。山の頂は鬱蒼とした木々に覆われて暑い陽射しを遮ってくれるのですが、やたらやぶ蚊が多くちょっと立っているだけで蚊の集中砲火を浴びる状態です。

先ほどの「お万の方の火葬の地碑」も陽射しに遮られ薄暗い木の陰にひっそりと置かれていました。蚊の攻撃から逃げるように再び石段を駆け下り、ほうほうの体で清源院をあとにすることにしました。

お万の方の火葬の地碑

再び旧道(国道1号線)へと戻り、バスセンター前信号、戸塚郵便局前信号を過ぎ、戸塚小学校入口信号に達すると、右手に石垣で囲まれたスペースが現れます。ここがかつての戸塚宿の本陣があったところです。本陣の名は「澤辺本陣」といい、このスペースの裏手の家は「澤辺」の表札がでています。おそらく本陣を営んでいた澤辺家のご子孫の住んでおられるのでしょう。ここ本陣跡には「明治天皇戸塚行在所跡」の石柱もたっています。

本陣跡碑

尚、戸塚宿にはここ澤辺本陣の他に内田本陣があり、その他に脇本陣が3軒あったそうです。

この澤辺本陣跡の左わきから細い路地がつづき、奥に二本の銀杏の木と石製の鳥居が立っています。鳥居の奥に小さな社殿が見えます。この神社が羽黒神社で本陣の澤辺家が家の守り神として建立した私的な神社なのだそうです。まあ、本陣を営むだけあって、宿場の中では名家で金持ちだったのではないでしょうか。

羽黒神社
羽黒神社社殿

羽黒神社をあとに次の戸塚消防署信号を過ぎると、それほど目立たないのですが「臨済宗 円覚寺派」と刻まれた銘板がはめ込まれた石柱が歩道脇にたっています。その石柱から奥につづく道を辿ると坂道の上に山門が構えています。銘板には寺名が入っていませんが、これが「海蔵院」です。

海蔵院銘板

海蔵院の山門はそれほど立派なものではありませんが、この山門には龍の彫刻が彫られています。一説によるとこの龍の作者があの有名な左甚五郎と言い伝えられています。それほど大きな境内ではないのですが、ご本殿の他に鐘楼堂が備わっています。

海蔵院の山門
山門の龍の彫刻
海蔵院の境内

この海蔵院からほんの僅かな距離に、国道一号線に面して有名な神社が社殿を構えています。戸塚近在では「お天王さま」として親しまれている鎮守ですが、その名を八坂神社といいます。当社を有名にしているのは「お札まき」と呼ばれる踊りなのですが、毎年7月14日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興とともに始まったと伝えられています。

八坂神社の鳥居
八坂神社社殿

この踊りは、江戸時代中期、江戸や大阪で盛んに行われていましたが、やがて消滅し、現在は東海道の戸塚宿にだけ伝え残されています。男子十数人が姉さんかぶりに襷がけの女装をして裾をからげ、渋うちわを持ち、音頭取り一人はボテカズラをかぶります。音頭取りの風流歌に合わせて踊り手が唱和しながら輪になって右回りに踊ります。踊り終わると音頭取りが左手に持った「正一位八坂神社御守護」と刷られた五色の紙札を渋うちわで撒き散らします。人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼ります。

風流歌の歌詞は「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」というものです。

其の弐へつづく

私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の二)
私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の三)





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