大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 駿府・府中宿から丸子(鞠子)宿へ(其の一)

2013年05月07日 17時33分14秒 | 私本東海道五十三次道中記
今年のゴールデンウィークは4月29日から5月5日まで訳あって駿府(静岡市)に滞在していました。この間、天候に恵まれ静岡市からも富士山をくっきりと眺めることができました。

そんな好天に恵まれた5月3日に駿府の府中宿(現在の静岡市)から上方へ向かって一つ先の丸子(鞠子)宿への散策を敢行しました。府中宿から丸子(鞠子)宿への距離は1里16町(5.7㌔)と比較的短めです。

まずは駿府城のお堀端を歩き、かつての御城下を貫く七間町通りへと進んでいきます。県庁所在地である静岡市は東海地区では一二を争う大都会で、ここ七間町通りにはたくさんの店が並び、多くの人出で賑わっていました。

駿府城の外堀

七間町通りを駒形通り交差点を右へ折れて「ときわ通り」へと入ります。そして数ブロック行ったところで、左へ折れて「新通り」へと入り、安倍川の袂を目指して一直線に進んでいきます。この新通りがかつての東海道筋にあたるようです。

七間町通りの札の辻
七間町通りの商店街

まっすぐに伸びる新通りを進むとやがて「弥勒」という地名のあたりで太い道筋の「本通り」に合流します。その合流する手前の交番脇に江戸時代は「川会所」が置かれていたようです。現在は川会所が置かれていたことを示す案内板が置かれています。

川会所跡

そしてその案内板を過ぎると右手に「弥勒緑地」なる小さな公園があり、その公園の一画に「由比正雪公墓跡」と刻まれた大きな石碑が置かれています。

由比正雪墓

そんな風景を横目にいよいよ安倍川の袂へと歩を進めていくと、左手に現れるのがかの有名な安倍川餅の老舗店「石部屋」です。

安倍川餅の石部屋

街道の茶店然とした店構えに「安倍川もち」「からみもち」と染め抜かれた大きな暖簾が軒下に張られてひときわ目立っています。
お店の創業は明治に入ってからのようですが、江戸時代には多くの旅人が安倍川を渡る前にここで小腹を満たして旅だったと記されています。

石部屋店内

私も誘われるように店の中に吸い込まれ、一人前600円の黄粉のからみもちと安倍川餅のセットを味わうことにしました。上品な甘さの黄粉とこしあんに包まれた餅はさすが石部屋の安倍川餅。まさに逸品です。

からみ餅と安倍川餅のセット

小腹を満たして、いよいよ安倍川を渡ることにします。全長490mの安倍川橋を渡ると、地名は「手越」と変わります。

安倍川橋
安倍川

ここ「手越」は安倍川を挟んで上方側の渡し場があったところです。ちょうど丸子(鞠子)宿を貫く東海道が安倍川に至る場所です。
そんな手越には東海道筋の湘南や伊豆でしばしば登場する「曽我兄弟」に所縁のある少将井(しょうしょうのい)神社が街道から少し奥まったところに質素な社殿を構えています。

少将井神社鳥居

由緒ありそうな社名なのですが、行き当たりばったりの私にとって詳しい社伝がわかりません。案内地図に従って住宅地の奥へと進んでいきます。そして背後の山裾に鳥居と小さな社殿が現れました。

少将井神社社殿

そして解説版を読んでみるとこんなことが記されていました。
創建は1193(建久4)年で、主祭神は素戔嗚尊です。またこの地は鎌倉時代の美人姉妹、千手と少将君(しょうしょうのきみ)の親である手越長者の屋敷の跡地であったと言われています。そのため、このあたりのことを古くは長者屋敷や御殿と呼び、なんとその御殿は源頼朝が上洛するときに本陣として使われたそうです。

社殿

さて、ここで登場する少将君とは曽我兄弟の父の仇である工藤祐経が富士の巻狩りの際に催された夜の宴で侍らした女性なのです。 この宴が行われた夜に工藤祐経は曽我兄弟に仇討ちされるのですが、兄十郎は討死、弟五郎は捕らえられ処刑されてしまいます。 「曽我物語」では、少将君は弟五郎が処刑されることを知ると嘆 き悲しみ、善光寺で出家したと記されています。(一方、兄、十郎の菩提を弔ったのは虎御前で、彼女も善光寺で尼になったと記されています。)



この神社が少将井神社と呼ばれるようになったのは、この場所こそ少将君が生まれた場所であったからと思われます。そして少将君はこの少将井神社に合祀されています。

一方、千手は源頼朝の妻、北条政子の女官だったのですが、一ノ谷の戦いで捕虜となった平重衡が 鎌倉に護送されると、頼朝は、重衡の武士としての器量の良さに感銘し、御所内に1室を与え、千手をその女官として付けたのです。その後、重衡 は南都焼き討ちの総大将であったため、東大寺や興福寺が重衡の引き渡しを要求し、その結果奈良に連行され木津川で斬首されました。
それを知った千手は「吾妻鏡」では失神し、その3日後に息絶えたとありますが、「平家物語」では善光寺で出家し尼になり、重衡の菩提を弔ったとあります。

白拍子の像

その千手(千寿)をモデルに境内に白拍子の像が一体置かれています。
訪ねる人も少ない少将井神社の境内は飾り気のない社殿が寂しそうに佇み、すこし離れた場所に白拍子の像がポツネンと置かれている奇妙な神社といった印象です。

社殿

手越から丸子(鞠子)宿の江戸見附までおよそ2.5㌔といったところです。

其の二へつづく。

私本東海道五十三次道中記 駿府・府中宿から丸子(鞠子)宿へ(其の二)





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