大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第29回 第3日目 富部神社から宮の渡し、そして桑名へ

2015年10月02日 16時45分41秒 | 私本東海道五十三次道中記


さあ! 第三日目が始まります。
出発地点は昨日の終着点である「富部神社」の参道入口です。本日の行程はここから熱田の宮の渡し跡までの、わずか4.3キロです。

富部神社は慶長8年(1603)に津島神社の牛頭天王を勧請し創建された神社ですが、尾張の領主、松平忠吉(徳川家康の四男)の病気快癒により、百石の所領を拝領し、本殿、祭文殿、回廊が建てられました。本殿は一間社造で、桧皮葺き、正面の蟇股、破風、懸がい等は桃山様式を伝えており、国の重要文化財に指定されています。祭文殿も回廊もほとんど当時のまま残っています。明治維新の神仏分離で神宮寺が廃された時、神社もその目に遭いそうになったのですが、素盞鳴命(すさのうのみこと)を祀るということで、その難を免れ今に至っています。

昨日に引き続いて旧街道筋を辿ることにしましょう。江戸時代には旧東海道が通っていた道筋の左側は呼続浜と呼ばれ、長い海岸線の向こうに伊勢湾が広がっていました。そしてこの浜で作られた塩は、星崎あたりから北にのびて飯田街道に接続する塩付街道を通って小牧や信州に運ばれていました。



呼続小学校前の信号交差点を渡り、旧東海道はさらに北へとつづいていきます。昔、このあたりは「あゆち潟」と呼ばれ、知多の浦を望む勝景の地で、万葉集に、『桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る』
『年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ』
と歌われ、歌の枕詞に使われるほどの名勝だったのです。そして愛知県の「あいち」は、上記の歌の年魚市潟(あゆちがた)に由来するといわれ「あゆち」「あいち」に転じたと言われています。

このあたりから呼続(よびつぎ)の地名が始まります。呼続という地名は、宮の宿より渡し舟の出港を「呼びついた」ことからといわれています。また江戸時代は、四方を川と海に囲まれた、陸の浮島のようなところだったらしく、巨松が生い茂っていたことから、松の巨嶋(こじま)と呼ばれていました。



呼続小学校前の信号交差点を渡り、住宅街を進んでいきます。この先が「山崎の長坂」と呼ばれている場所で、それほどキツクない坂道がつづきますが、西へ向かう私たちにとっては緩やかな下り坂なので助かります。山崎の長坂のちょうど上に鎮座するのが熊野三社です。江戸期の山崎村は山崎橋近くを橋町、長坂から熊野三社にかけてを坂町、それより湯浴地蔵までを新町、更に南側を南町と分けて呼んでいました。この山崎の地名は、名鉄名古屋本線を渡った反対側に残る「山崎城址」に由来します。この城址には現在、安泰寺が堂宇を構えています。この山崎城は信長の家臣であった佐久間信盛が一時居城としたと伝えられています。





旧東海道筋は国道1号線と交差する松田橋信号にさしかかります。松田橋信号交差点では国道1号と都市高速道路が交差し、かなりの交通量があります。この交差点には横断歩道橋があるのでこれを渡ります。歩道橋を渡り300mほど歩いたところで旧街道は国道1号から分かれます。そしてさらに300mほどで久しぶりに東海道線の踏切にさしかかります。踏切を渡ると、その先に熱田橋が架かっています。

熱田橋を渡ったあたりは、その昔「宮縄手」と呼ばれ、松並木があったようですが、現在は松の木もなく当時の面影は残っていません。この先の鉄橋は名鉄常滑線です。鉄橋をくぐると、すぐ右側の小さな三角地に宮宿の案内板が置かれています。そしてこの辺りに「伝馬町一里塚(89番目)」があったようですが、その場所は確認できません。
少し歩くと、道の左側のコンクリート製の建物の前に「裁断橋」と書かれた橋状のものがあります。江戸時代には建物の手前に精進川が流れ「裁断橋」が架っていたようですが、川は大正15年に埋められ、今は暗渠になり川の姿はありません。裁断橋を渡るとそこはもう「宮宿」です。



裁断橋と姥堂

宮宿の東側の入口は今は流れていない精進川でした。裁断橋を渡ると左側に「姥堂」があります。 
姥堂は延文3年(1358)、法明上人により創建されたといい、かなり古いものだったのです。道の左側のコンクリート製の建物の前に「姥堂」と刻まれた石柱が建っていますが、これが現在の「姥堂」です。
ご本尊の「姥像」は熱田神社にあったものをここに移したと伝えられるもので、「オンバコさん」と呼ばれる高さが8尺(2m40cm)の坐像で「奈良の大仏を婿にとる!」と、江戸時代の俚謡に歌われ、併せて東海道筋にあったことからお参りに寄る旅人が多かったと言われています。しかし昭和20年3月の名古屋大空襲で建物も仏像も燃失しました。 
現在の仏像は平成に入り作成されたもので、40cm位と小さいものです。
左側には「旧裁断橋橋桁」と表示された石柱がありますが、川があった頃の橋桁の一部です。

裁断橋とは変な名前ですが、その名の由来は熱田神宮の社人が罪を犯したときに、この場所で裁断されたことにあるそうです。

現在の裁断橋はかつての三分の一の大きさで可愛らしく再現されています。その橋の欄干に擬宝珠が置かれています。その擬宝珠には文字が刻まれています。
これは天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めに出陣した尾張の堀尾金助という青年を母親が裁断橋で見送ったのですが、息子は戦死して帰らぬ人となってしまいました。その後、息子の三十三回忌に母親が老朽化した裁断橋を架け替えを行い、その際に橋の擬宝珠に「かな文字の碑文」を刻んだのです。

かな文字の碑文
「小田原への御陣
 堀尾金助と申す
 十八になりたる子をたたせてよ
 又二目とも見ざる
 悲しみのあまりに
 いまこの橋を架けるなり
 母の身には落涙(らくるい)ともなり
 即身成仏し給え
 逸岩世俊(堀尾金助の戒名で「いつがんせいしゅう」と読みます)
 と後の世のまた後まで
 この書き付けを見る人は
 念仏申し給えや
 三十三年の供養なり」

なお本物の擬宝珠は市の博物館に保管されているといいます。川が無くなってしばらくして、姥堂前に三分の一のスケールの橋が復元されました。右奥には都々逸(どどいつ)の発祥の地の碑があります。

突然、都々逸の発祥地が宮宿の伝馬町にあらわれ、どう説明したらいいのか戸惑ってしまいます。
一説には熱田の地で生まれた「神戸(ごうど)節」から派生した「名古屋節」に「どどいつどいつ」という合いの手を入れたことらしいのですが、その起源はどうもはっきりしていないようです。
尚、神戸節とは熱田神宮の門前にあった神戸町の宿屋に私娼を置くことが許され、そこで働く女たちを「おかめ」と呼んでいました。
そして遊客の間で流行った歌に
「おかめ買うやつあたまで知れる 油つけずの二つ折り」
「そいつはどいつだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク」

という囃子言葉がつけられた歌が神戸節です。
この神戸節は地元ではすたれ、その後、江戸や上方に伝わり名古屋節と呼ばれるようになりました。
この歌の中の「二つ折り」とは当時流行した髪型で、油をつけず髷を二つ折りにしたものです。

さて、お江戸から41番目の宮宿は東海道一の宿場といわれ、熱田神宮の門前町であることに加え、佐屋、美濃、木曽の諸街道への追分であったことから、江戸時代後期には2900軒を越える家があり、人口も1万人を越えていました。 
宿内には本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠は実に248軒もありました。 
あの駿府宿が人口14000人だったのですが、大御所家康の居城としての城下町だったので、宿場としての規模は宮宿が一番だと思います。

そしてちょっと行くと、鈴之御前社という神社が祠を構えています。「鈴の宮(れいのみや)」とも呼ばれ、昔は精進川がこの宮のかたわらを流れていました。
東海道を往来する旅人は、熱田の宮にお参りする前にここで身を清め、お祓いを受けてから本宮へ参拝する習わしでした。7月31日の例祭には夏越しの祓いである「茅の輪くぐり」の神事が行われます。

鈴之御前社鳥居

旧街道はその先で道幅のある道路にいったん分断されてしまいます。本来であればそのまま直進したいのですが、信号も横断歩道橋もないので、ちょっと迂回するルートをとります。右手の伝馬町交差点を渡り、反対側の旧東海道筋へ戻ることにしましょう。

反対側の旧街道に入るとアーケード街が現れるのですが、すぐ左手に亀屋芳広という菓子屋が目に飛び込んできます。名古屋では、名が通った和菓子屋です。そしてそのまま直進していくと、三叉路に突き当たります。その東南隅に「道標」が置かれています。

道標

この道標は東海道と美濃路(または佐屋道)の追分を示すもので、寛政2年(1790)に建てられたものです。 
道標の北と刻まれた下には「南 京いせ七里の渡し 是より北あつた本社弐丁道 」、東の下には「北 さやつしま 同みのち 道 」 西には「東 江戸かいとう 北なこやきそ 道 」とあり、南側に「寛政2庚戌年 」と建立された年号が刻まれています。 

突き当たりある小さな社には「ほうろく地蔵」が祀られている。ほうろくを売りにきた商人が天秤の重石の代わりしていた地蔵を捨てて行ったのを地元人が祀ったものです。

ほうろく地蔵

ほうろく地蔵は三河の国の重原村(現在の知立市)にあったのですが、野原の中に倒れ、捨て石のようになっていました。三河より焙烙を売りに尾張に出てきた商人が、この石仏を荷物の片方の重しにして運んできましたが、焙烙が売り切れた後、石仏を海岸のあし原に捨てて帰ってしまいました。地元の人が捨てられている地蔵を見つけ、動かそうとしましたが動きません。そしてその下の土中から台座が出てきたので、この地蔵を台座に乗せここに祀ることにしたそうです。

旧街道はここを左折し、ほんの少し歩くと国道247号と合流します。私たちは歩道橋を渡って反対側に移動します。
国道247号を越えて向こう側に渡ると、旧街道は斜め右手へと延びています。その先に「ひつまぶし」の「あつた蓬莱軒本店・蓬莱陣屋」」が店を構えています。あつた蓬莱軒はもう一つ、神宮南門店があります。 

かつてこのあたりに熱田奉行所(陣屋)がありました。宮宿には本陣が二つあり、それぞれが赤本陣白本陣と呼ばれていましたが、赤本陣は陣屋の北にあり236坪の規模でしたが空襲で消滅してしまいました。あつた蓬莱軒本店・蓬莱陣屋付近に陣屋と赤本陣があったと思われます。
ちょうどこの界隈が神戸町で、かつては旅籠(飯盛り旅籠)が集中していた場所で、あの神戸節の発祥の地です。

蓬莱軒本店・蓬莱陣屋の前の道を進んで行くと右側にモダンな寺「宝勝院」が現れます。 
名古屋市は戦後、神社の墓地を東山の平和公園に集めるという政策を推進したので、大部分の寺に墓地がないのです。寺院の建物も戦災にあったこともあり、古さを感じるものではなくマンションのような寺が多いのです。その建物の前に承応3年(1654)頃~明治24年(1891)まで、七里の渡しの常夜燈の燈明は当寺が管理していたと書かれた説明板が置かれています。
さあ!程なくすると掘川の岸にある「宮の渡し公園」に到着です。

「宮の渡し公園」は江戸時代の「七里の渡し」の跡地を整備したという公園で、「時の鐘」を鳴らす鐘堂が置かれています。

鐘楼堂

この時の鐘は延宝4年(1676)に尾張藩二代目「徳川光友公」の命により熱田蔵福寺に設置された鐘で、その正確な時刻は住民や七里の渡しを利用する旅人に重要な役割を果たしていました。
 
昭和20年の空襲で鐘楼は焼失しましたが、鐘は損傷もなく蔵福寺に現在も保存されています。 
昭和58年に往時の宮宿を想い起こすよすがとしてこの公園に建設されました。その先には七里の渡しの石柱と常夜燈が建っています。
常夜燈は寛永2年(1625)に熱田須賀浦太子堂に建立されましたが、その後承応3年(1654)に現位置に移り、前述の宝勝院に管理が委ねられました。寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失し、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃し現在のものは昭和30年に復元されたものです。

桑名に渡る渡しは慶長6年(1601)に、東海道の宿駅制度が制定され、桑名宿と宮宿間は「海路七里の渡船」と定められたことにより誕生しました。しかし潮の満ち引きや海流の変化により左右され、所要時間は三時間から四時間かかったようです。 
「七里の渡し」は往々にして「しけ」にあって欠航することがあり、また船便を苦手にする人は陸路をとりました。それが佐屋道でここから北に道筋をとり、現在の新尾頭町から西へ向かい幾つかの川を渡って佐屋までの6里を歩き、そこから木曾川を船で下る海上3里で桑名へ出るルートだったのです。この道筋は「姫街道」と呼ばれていました。 
船着場跡には当時を再現して、船着場がありますが、伊勢湾台風以降、港湾の整備が進みすっかり景観が変ってしまい、渡し場という雰囲気は少しもありません。



現在の船着き場
七里の渡し碑
かつての渡し場跡
現在の渡し船
現在の渡し船
 
公園の前の道の反対に「熱田荘」という建物とその右側に江戸時代に脇本陣格だったという旅籠の建物が残っています。

私たちは現在の渡し船にのって伊勢湾を横切り、桑名まで2時間30分のチャーター船の旅を楽しみます。所要時間は平均的に2時間30分ですが、海上の状況によってこれ以上の時間がかかることがあります。
それでは現代の七里の渡しの船旅で伊勢の国の桑名へ渡ることにしましょう。

私たちが乗る船は洒落た名前の「トロワ・リヴェール号」です。最高速度7ノット、最大搭乗人数は55名です。写真にあるように客室部分は外気が入ってこないように覆われています。そして屋根の上には展望席が置かれています。展望席の椅子はちょっと座りにくい造りになっています。

デッキの様子
デッキの様子

船内は冬季であれば暖房が効いて、寒さを感じることはありません。ただ難をいえば、燃料の臭いが漂ってくるので、気分が悪くなることも……。

さあ!「船がでるぞ~、船がでるぞ~」

街道時代に使われていた船着き場に隣接する現代の船着き場からいよいよ出航です。この場所は伊勢湾の一番奥まった場所のため、水面は鏡面のような状態です。
船着き場から伊勢湾へと漕ぎ出しますが、ここからしばらくの間、周囲の景色はどこまでもつづく名古屋港の埠頭だけです。

出発して間もない風景

乗ってみて気が付くことですが、名古屋港の規模がこれほどまでに大きいとは思いもよらなかったという事実です。その規模は北から南に細長く続いていることです。現在見る埠頭の部分は江戸時代になかった土地で、後世になってから埋め立てられたものです。その埠頭には倉庫が途切れなく並び、何艘もの船が荷揚げ、荷卸しのために留まっています。
また、日本の自動車産業を代表する「トヨタ」の車を輸出する港として利用されているのが名古屋港で、トヨタの専用埠頭も見えてきます。

名古屋港の風景
名古屋港の風景

船は伊勢湾を跨ぐ「伊勢湾岸道路」の橋の下にさしかかります。海面から車が走る部分まで約60mという高さを誇っています。日本を代表する日本郵船会社の「飛鳥Ⅱ」がやっと潜り抜けることができるといいます。

伊勢湾岸道路の橋
伊勢湾岸道路の橋
伊勢湾岸道路の橋遠望

伊勢湾岸道路の橋をくぐってもまだ名古屋港のエリアを出ません。かなり沖合に出てきたと思うのですが、まだ埠頭がつづきます。コンテナ専門埠頭なのでしょう。大きなキリン型のクレーンが目に飛び込んできます。そしてコンテナを今まさに積み込んでいる大型の輸送船が埠頭に留まっています。

埠頭
コンテナ埠頭
コンテナ埠頭

船出してから、ちょうど1時間15分で名古屋港のエリアをでます。名古屋港のエリアを示す防波堤を出ると、いよいよ伊勢湾の大海原へと入ります。
名古屋港に入ることができない大型タンカーが沖合にたくさん浮いています。尚、名古屋港に石油タンカーの専用埠頭がなく、沖合で船から海底に敷き説された太いパイプラインに直接石油を流し込み、名古屋港や四日市工業地帯へと送り込んでいます。

ほんの少し波が立ってきたかなと感じます。そして時折、イルカの仲間のスナメリが顔をだします。
そしてそれまでと景色が変わってくるのが、沖合に海苔の養殖用の筏が見えてくることです。
かなり広範囲に筏が敷設されています。ということはこの辺りは遠浅の海だということがわかります。

そんな海苔の養殖場を大きく迂回するように船は桑名の渡し場へと向かいます。そして木曽川の河口の沖合を過ぎると、前方に見えてくるのが木曽川と長良川の間の島です。その島の先端には「長島スパランド」があり、シンボルともいえる大きな観覧車や龍のようにうねるジェットコースターが見えてきます。

長島スパランド

船はどんどん長島スパランドに近づいてきます。

長島スパランド

スパランドを右手に見ながら、船は長良川と揖斐川が合流した流れに逆らうように上流へと進んでいきます。まもなくすると国道23号線の橋の下をくぐります。そうすると海上七里の桑名側の船着場はもうすぐです。

桑名の船着き場
私たちの乗る現代の渡し船はかつての渡し場ではなく、ちょっと北の住吉神社の社殿が建つ辺りに着きます。

※2017年7月9日に3回目の七里の渡しを体験しました。過去2回は55名乗りの比較的大きな「トロワ・リヴェール号」を利用したのですが、今回は10人乗りの平船で桑名へ渡ることになりました。この日は大潮にあたり、本来の航路は水深が浅くなっていたため、すこし沖合を辿りながら桑名を目指しました。

平船の様子
名古屋港内
名古屋港内


平船なので屋根はついていません。乗船すると茣蓙が引いてある床に左右に分かれて座り、乗船中は立ち上がることもできず、足を投げ出して約2時間座りつづけます。たまたま乗船日は曇りの天気だったので、夏の強い日差しをまともに受けることはありませんでした。
風を切って進むので、乗船中はそれほど暑さを感じることはありませんでした。夏場は雨さえ降らなければ、平船での渡しは耐えられますが、冬場は避けた方がいいのでは……。

今回の船を運営している会社は桑名の「株式会社おおぜき」です。
10人くらいのグループで七里の渡しを計画されているかたは下記に連絡をしてみてはいかがでしょうか。
会社名:株式会社おおぜき
代表:平井裕美
住所:三重県桑名市田町33
電話:0594-22-4867
FAX:0594-22-9817

上記の「おおぜき」では乗船後、乗船者名を記載した「七里の渡し往来の証」を発行してくれます。

七里の渡し往来の証
桑名の船着き場

桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として、十楽の津と呼ばれ、米や木材などいろいろな物資が集散する商業都市として発達してきました。住吉浦には全国から多くの廻船業者が集まり、これらの人達によって航海の安全を祈り目的で浪速の住吉神社から勧請して住吉神社を建立しました。

住吉神社

神社前の二基の石塔は材木商達が寄進したもので、「天明八戌申年十二月吉日」と刻まれています。
神社から眺めると揖斐川と長良川が流れ、その先で一つになって流れていく様はまるで巨大な姿の竜を感じさせてくれます。

揖斐長良川の眺め

七里の渡しの跡に立つ鳥居は、伊勢神宮の内宮へと通じる道筋で五十鈴川に架かる宇治橋の外側に立つ鳥居を移したもです。私たちはいよいよ伊勢の国へ入ってきました。伊勢と言えば、何と言っても本宮です。東海道を辿ってきた旅人たちは京都三条を目指すものもいれば、伊勢詣でへ向かうものが、ここ桑名湊から東海道を辿り、途中でそれぞれ分かれていったのでしょう。

伊勢神宮の一の鳥居
桑名側の七里の渡し碑
蟠龍櫓
蟠龍櫓



次回30回の東海道の旅はここ桑名の住吉神社前から始まります。そして桑名の「焼きはまぐり」の味覚も併せてお楽いただきます。

私本東海道五十三次道中記 第29回 第1日目 来迎寺公園から名電富士松駅前
私本東海道五十三次道中記 第29回 第2日目 富士松駅前から桶狭間古戦場、有松、鳴海宿を経て呼続の富部神社

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