大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第30回 第3日目 石薬師、庄野を辿り関西本線・井田川駅前まで

2015年10月26日 13時18分12秒 | 私本東海道五十三次道中記


第三日目の出発地点はここ采女のサークルK前からです。
サークルKは幹線道路の国道1号に面しています。ひっきりなしに大型のトラックが行き交っています。そんな1号線に沿って歩き始めることにしましょう。
本日はここから44番目の石薬師宿、45番目の庄野宿を経て関西本線の井田川駅までの11キロを踏破いたします。

采女のサークルK前





采女サークルKを出立して、国道1号線に沿って500mほどで采女南交差点があります。交差点を左折すると国分の集落があり、西の畑の中に「伊勢国分寺跡」があります。

ところで「采女」とは珍しい地名ですね。その発祥は定かではありませんが、飛鳥時代(592年~710年)に地方の豪族たちが自分の娘を天皇家に献上するしきたりがあったといいます。その娘たちのことを采女と呼んでいました。
これはある種の人質の意味合いが含まれ、豪族たちが天皇に服従したことを示すものであったのです。
采女は主に天皇の食事の際の配膳が主な業務とされていますが、天皇の側に仕える事や諸国から容姿に優れた者が献上されていたため、妻妾としての役割を果たす事も多く、その子供を産む者もいたようです。

采女は地方豪族という比較的低い身分の出身ながら容姿端麗で高い教養を持っていると認識されており、天皇のみ手が触れる事が許される存在と言う事もあり、古来より男性の憧れの対象となっていました。

ここ三重県の采女の地名は21代雄略天皇(古墳時代の456~480)に仕えていた三重出身の采女が天皇の許しを得てこの地の名前にしたといわれています。

さて、国分寺ですが天平13(741)年、45代聖武天皇の詔により各国に建てられた官営の寺院で、一般的に僧寺と尼寺が置かれました。伊勢国の国分寺は鈴鹿市国分町にありました。

この国分寺があった場所は鈴鹿川左岸の標高43m前後の段丘の上にあり、眺望がよく且つ水害の恐れのない土地です。大正11年10月12日に、国分町字堂跡一帯の37、180㎡が史跡伊勢国分寺跡として指定されました。この遺跡は僧寺跡と考えられています。

奈良時代中期の伊勢国の役所である国府は鈴鹿市広瀬町にあったため、国分寺とは約7km離れています。国府は現在の鈴鹿郡、国分寺は河曲郡(かわのぐん)と分かれて置かれていたようです。国分寺跡は街道筋からかなり逸れているので、訪問は割愛します。

采女南の交差点の先はデーラー(自動車販売店)やガソリンスタンドが並んで続いています。采女南交差点から400m程歩くと鈴鹿市国分町で、小谷バス停手前の三叉路で国道1号線と別れて左の道に入るのが東海道です。
国分町信号交差点を過ぎると、四日市市から鈴鹿市へと入ります。右側に二つのお堂がある前を通り、少し歩くと下り坂になり、木田町大谷交叉点で国道1号線に合流します。



坂を下りきり、信号手前の右手の地下道を使って国道の反対側に出ると右手は自由が丘団地です。国道の歩道を100mほど歩くと団地が終わります。このあたりから道は左にカーブを始めます。浪瀬川を渡ると国道は上りながら大きく左にカーブしますが、その先で道筋が二股に分かれます。旧東海道筋は右の細い道で、団地の端から150m程です。そしてここがお江戸から44番目の宿場町、石薬師宿(いしやくししゅく) の入口です。

国道1号と分岐して旧街道筋が右手へと延びています。その分岐点に石薬師宿と刻まれた石柱が置かれています。この場所には「北町の地蔵堂」がありますが、ここが石薬師宿の江戸方出入口にあたります。このお堂には延命地蔵が祀られています。

石薬師宿江戸方
北町の地蔵堂

東海道石薬師宿の石碑の傍らに「信綱かるた道」と称して佐佐木信綱の歌の色紙が36首掲示されています。来年(2015年)にはこれを50首まで増やすそうです。 
「四日市の 時雨蛤(しぐれ)日永の 長餅の 家土産(いえずと)まつと 父は待ちにき」

ここ石薬師宿は宿場町としての歴史地区であると同時に、明治から大正、昭和にわたって歌人、歌学者として活躍した佐佐木信綱の生誕地として知られています。そんな場所柄から宿内は信綱にかかわる建造物が残っています。 

安藤広重の「石薬師宿」の景は石薬師寺と山を背景に数軒の藁屋根の家が描かれています。そして石薬師宿は元和2年(1616)に四日市宿と亀山宿の間が長いために造られた新宿です。しかし、多くの旅人が伊勢神宮詣でのために「日永の追分」から伊勢街道へと向かい、その後、脇街道を利用して「関宿」へと辿ったことで、宿が成立したにもかかわらず、旅人達の利用は少なかったと言われています。そんなことで宿場の経営は厳しかったようです。早く言えば「寂れた宿場」だったようです。

石薬師宿景

石薬師宿は幕府領(天領)であり、宿場ができるまでは高宮村と呼ばれていましたが、宿場ができても総家数は241軒、宿内人口は990人と宿場の規模が小さかったのです。本陣は3軒ありましたが、脇本陣はなく、時代によって異なりますが旅籠が15軒に対し百姓が130軒で、石薬師宿は農村的な性格を有していたのです。



江戸方から少しの間は上り坂で、上りきったあたり(マルフク辺り)から石薬師宿で、古い家が残っています。右側に大木神社の鳥居が現れますが、社殿は200m程奥にあります。

大木神社の鳥居

大木神社は延喜式に記載されている古い神社で、蒲冠者といわれた頼朝の弟、源範頼とゆかりのある神社です。実は宿場の京寄りに堂宇を構える石薬師寺の近くに「御曹司社」という小さな祠があります。この御曹司社は大木神社の末社です。
この御曹司社は源範頼を祀っていますが、御曹司社の近くに範頼ゆかりの「蒲桜」があります。蒲桜は範頼と深い関係があるのですが、この話は後ほど説明いたします。

街道を進んで行くと、右側に立派な建物が見えてきます。この建物は本陣だった小澤家です。

小澤家

案内板には「昔はもっと広い屋敷だったというが、国学者・萱生由章はこの家の出で、元禄の宿帳には赤穂藩浅野内匠頭の名も見える。」と記されています。

小澤家の少し先の右側にあるのが天野記念館です。この建物はタイムレコーダーで有名なアマノ(株)の創業者がふるさとのために建てて贈ったものです。

天野記念館
天野記念館碑

天野記念館の左隣は佐佐木信綱が昭和7年(1932)に故郷に寄贈した「石薬師文庫」で、建物前の四角い石碑には「佐佐木信綱」「佐佐木幸綱」の歌が刻まれています。

石薬師文庫

佐佐木信綱は明治から大正、昭和にわたって歌人、歌学者として、万葉集の研究にあたった人物で、佐佐木幸綱は彼の孫にあたります。佐佐木信綱は石薬師文庫を贈るにあたり「これのふぐら良き文庫たれ 故郷のさと人のために若人のために」という歌を詠みました。建物の右側に地元の人たちが昭和40年の信綱死後2年祭に上記の歌を刻んだ記念碑を建てています。

石薬師文庫の左側にある連子格子の二階建ての家が佐々木信綱の生家で、信綱は一家が松坂に移住するまでの幼少期をこの家で過ごしました。生家の前には佐佐木信綱の歌碑があります。その隣には佐佐木信綱資料館があります。

佐佐木信綱資料館
資料館内部
資料館内部
資料館前の街道

佐佐木信綱資料館を後にして、人通りもなく閑散とした街道を進んでいきましょう。資料館先の交差点を渡ると左側に山門を構えるのが真宗高田派「浄福寺」です。ご本尊は阿弥陀如来で、佐佐木家の菩提寺だった寺です。山門入口の左側には佐佐木信綱の父、佐佐木弘綱の記念碑があり、彼の歌が刻まれています。

浄福寺
浄福寺



浄福寺を過ぎると、街道の両側は住宅がつづき、古い家並みはまったく現れません。道はその先で左にカーブし、その向こうに国道1号を跨ぐ瑠璃光橋があり、橋を渡ると右手に石薬師寺が堂宇を構えています。

瑠璃光橋

東海道名所図会に「高宮山瑠璃光院石薬師寺」とある寺で、本尊は弘法大師が自ら彫ったと伝えられる石仏薬師如来で、菊面石に彫刻してあるといい、石薬師宿という名は全国的に有名なこの寺から付けられたと伝えられています。



石薬師寺の由来記には「今から約1200年前の聖武天皇の神亀3年(726)に泰澄がこの地を訪れ、堂を建てたのが始まりと伝わっています。そして嵯峨天皇の弘仁3年(812)に弘法大師が自ら薬師如来像を刻んで開眼供養をされました。そして嵯峨天皇によって当寺が勅願寺になり、この時期に堂坊も整い、その規模も塔頭寺院も十二ヵ寺院、寺領も三町に達するほどの大寺院となりました。   
しかし天正3年(1575)の織田軍による兵火で諸堂坊舎はことごとく灰燼に帰したましたが、幸いにも本尊の薬師如来は難を免れましたた。その後、神戸(かんべ)藩5万石の城主「一柳監物直盛(ひとつやなぎなおもり)」が江戸時代の寛永11年(1626)に諸堂諸坊を再建し現在に至っています。

石薬師ご本堂

境内には佐佐木信綱が昭和7年8月にこの寺で詠んだ歌碑が置かれています。
「峰時雨 石薬師寺は広重の 画に見るがごと みどり深にし」

ご本堂
鐘楼堂
境内
境内

その他にも西行法師や一休禅師、西行法師、松尾芭蕉の歌碑が置かれています。 
「名も高き 誓いも重き 石薬師 瑠璃の光は あらたなりけり」(一休禅師) 
「柴の庵に よるよる梅の 匂い手やさしき方もある 住いかな」(西行法師) 
「春なれや 名もなき山の 薄霞」(松尾芭蕉) 
石薬師寺を出ると石薬師宿は終わります。

石薬師寺の山門を出てまっすぐ(東方面) 行くと左側に「蒲冠者範頼之社」と書かれた石柱が建つ神社があります。

蒲冠者範頼之社

蒲冠者範頼は源頼朝の弟ですが、武道、学問に優れていたので、それらの願望成就の神様として祀られてきたもので、地元では「御曹子社」と呼ばれています。また神社の南約60mのところに「蒲桜」と呼ばれる山桜があります。
伝聞によると寿永年間(1182~1184)の頃、源範頼が平家追討のため、西に向かう途中、石薬師寺で戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにさしたところ、芽を出してこの桜になったといわれています。

石薬師寺の前からは道はなだらかな下り坂になっています。坂が終わると左に古い家があるところで、道が二又になっています。私たちは右の道筋へと進んで行くと蒲川橋へとさしかかります。

蒲川橋を渡ると左側に大きな石標と常夜燈が立っています。案内板には「ここは石薬師の一里塚があったところで、江戸時代には榎の木が植えられていたが、昭和34年の伊勢湾台風で倒れてしまった。」と記されています。
お江戸日本橋から102番目(約401km)、京都三条大橋からは23番目(約96km)に位置に置かれた一里塚です。昭和52年(1977)に新たに榎を植え40年経った今、こんなに大きく育ちました。

石薬師一里塚遠望



一里塚を過ぎると、にわかに周辺の風景は変わってきます。それまでの住宅街の様相は一変し、田園地帯へと入っていきます。
旧街道筋がこんなところに通っていたとは思えない道筋です。といのも関西本線の線路の敷設や国道1号が造られたことによって、本来の道筋が大きく変わってしまったことによるものです。とはいえ、これまで旧東海道を歩いてきて、こんな一面の畑の中を歩くのは小夜の中山の茶畑の中を歩いたことを除いてあまりありません。

畑の中の東海道
畑の中の東海道

本来の旧東海道はJR関西本線の線路を斜めに横切るようにできていましたが、現在その道は消滅しています。かつての東海道筋ではありませんが、私たちは一里塚跡からゆるやかな坂道を進み、その先のJR関西本線の線路下のガードをくぐります。ガードくぐると目の前は広々とした畑が現れます。その畑の縁の農道のような道を進んで行きます。
 
道はゆるやかに左にカーブしながら右手の国道1号線に沿って進みますが、道筋はその先で国道1号下のガードをくぐります。


 
ガードをくぐったらすぐに左へ折れ、その先で右へ曲がります。そして畑の中を進んで行くとT字路にさしかかりますが、右手にはJR関西線の踏切があります。私たちは左へ曲がって小さな川を渡り、その先の陸橋下をくぐって進んで行くと国道1号線に合流します。ここから庄野宿の入口までは1.4km程の距離です。





あまり面白味のない国道1号にそって進んでいきましょう。庄野宿の東木戸までは国道1号線に沿って進んでいきます。1号線の左側には鈴鹿川が流れています。道筋は緩やかな勾配の登り坂となり、右手には日本コンクリート工業の大きな工場の敷地が見えてきます。そして、国道1号は大型のトラックがスピードを上げて走り抜けていきます。日本コンクリート工業の敷地が途切れる庄野北交差点で右折しやっと国道1号とお別れです。そしてすぐに現れる庄野町西の信号交差点が庄野宿(しょうのしゅく)の江戸方の出入口です。

一級河川の鈴鹿川は三重県と滋賀県の県境にある鈴鹿山脈の那須ケ原岳(標高800m)の東麓に源を発して、三重県の北部を東進しながら四日市の南端の伊勢湾に注ぎ込んでいます。川の総延長は約40kmです。

庄野宿江戸方

庄野宿は江戸から45番目の宿場ですが、宿場が成立したのは寛永元年(1624)とかなり遅い時期です。天領(幕府直轄地)だったこの地に鈴鹿川東の古庄野から移住させられてきた人を合わせ、70戸で宿場を立ち上げた、といいます。草分け36戸、宿立て70戸といわれる言葉のように宿場作りにはかなり苦労したようです。宿場は南北八町(約1000m)の長さで、加茂町、中町、上町の三町から構成されていました。宿場の規模は総家数211軒、宿内人口は855人、本陣は1軒、脇本陣が1軒、 旅籠は15軒しかありませんでした。安藤広重の庄野宿の景は「庄野の白雨(にわかあめ)」です。



広重の庄野の景は東海道五十三次中の傑作とされ、庄野宿を「雨の中を急ぐ旅人と薮の中の数軒の人家」という構図で描いています。宿の入口の石柱からなだらかな上り坂になっていて、道の両脇にはわずかながら古い家が残っています。



静かな雰囲気を漂わす宿内を進んでいきますが、宿場であった風情が感じられません。道筋に古い家並みが残っていないからなのでしょう。そんな道筋を歩いていくと、やおら立派な仕舞屋風の建物が現れます。

庄野資料館パンフレット

この建物が平成10年に公開された庄野宿資料館です。この建物は江戸時代に油問屋を営んだ小林家の跡です。立派な連子格子の建物は屋敷の一部を創建当時の姿に復元し、庄野宿に残る膨大な宿場関係資料を展示しています。

庄野宿資料館

その先の民家の壁に問屋場跡を表示した案内板があります。庄野宿は四日市宿と亀山宿間が長かったので新設された宿場ですが、石薬師宿からわずか3キロ弱と短いことに加えて、伊勢詣の旅人たちは手前(東)の日永追分やこの先(西)の関宿で伊勢街道に入ってしまうため、庄野宿内の通行量が少なく、宿泊者は三分の一と大変少なかったようです。石薬師宿と同じような憂き目にあっていたのです。 

問屋場は御伝馬所ともいい、問屋2名、年寄4名、書記(帳付)、馬差各45名が半数で交替してつめていました。宿場の経営は難しかったようで、幕府は宿場の不振を理由に文化12年(1815)、石薬師と庄野の二宿に対し、配備しなければならない人足百人、伝馬百疋の定めを半減させ、人足五十人、伝馬五十疋に削る処置を行っています。そんな歴史的な背景を思うと、庄野宿はこじんまりとした宿場で申し訳なさそうに佇んでいるといった印象です。右側の庄野集会所の前に「庄野宿本陣跡」の標柱が立っています。

庄野宿本陣跡

標柱には「本陣は寛永元年(1624)には沢田家が担当し、 間口十四間一尺、奥行二十一間一尺、二百二十九 坪の家だった。」と記されています。また隣りには「距津市元標九里拾九町」と書かれた「道路元標」が建っていて、これによると「亀山へは二里三町」の距離です。

交差点の右角に「高札場跡」の表示が置かれています。交差点を過ぎて少し行った右側の床屋の壁に「郷会所跡」の表示板があります。郷会所は助郷の割当を受けた各村の代表(庄屋や肝煎)が集会する場所です。江戸後期になると、助郷人馬の割当が多くなり、減免陳情のための会合が繰り返されたそうです。

郷会所跡を過ぎると街道の右奥に常楽寺がちらりと見えます。そしてその先の右側に「延喜式内川俣神社」と彫られた大きな石柱があり、常夜燈には「天保十五甲辰歳小春」と刻まれています。鳥居をくぐって川俣神社に入ると右手には大きく育ったスダジイの巨木が存在感を示しています。「スダジイはブナ科の常緑樹で、樹齢300年、高さ11m、幹周り6mの古木で、県の天然記念物に指定されています。」

川俣神社のスダジイ

街道に戻り、少し行くと庄野宿の東の入口にあったのと同じ、庄野宿の石柱が現れます。その先は汲川原町で国道と交差し立体交差になっています。ここの庄野宿の石柱が京側の入口で、ここで庄野宿は終わってしまいます。あっけなく終わってしまったという感じです。



旧道街道筋は汲川原町交差点で国道1号と637号線が交わります。ここでも旧東海道筋は637号と国道1号によってズタズタに分断されています。本来の東海道同筋は斜め左へと直進していたのですが、かつての道筋は消滅しています。立体交差になっているので、まず県道637号を渡り、再び国道1号線を渡ってタイヤショップ側へ進みます。タイヤショップの脇の道を下りていくと旧東海道へと入ります。

東海道はここから亀山まで国道1号線と平行しながら残っています。田畑の道を道なりに行くと汲川原東バス停がある集落に出ます。左側の民家の角には「平野道」の道標があります。平野は鈴鹿川対岸の平野町のことです。ここは江戸時代は汲川原村だったところで、道の反対に高札場があったようですが、その面影はなく古い家もありません。

街道の左側に本願寺派の「真福寺」があり、少し行くと道の左前方に大きな椿の木があり、その横に女人堤防碑が立っています。汲川原村は鈴鹿川と安楽川の合流地点であったため、村人は度重なる水害に悩まされていました。その洪水に悩まされていた村民たちが神戸藩に堤防の補強を願い出ましたが、対岸の神戸藩は城下町を守るため、堤防の補強は許可しませんでした。このため汲川原村の村民たちは打ち首覚悟で六年の歳月をかけ、約400mの堤防を造りました。そして面白いのは男性が作業を行うと目立つので、女性が夜間にひそかに堤防を造ったと言われています。今から170年前の文政12年(1829)のことです。 

女人堤防碑の近くに「従是東神戸領」と刻まれている「領棒石」と「燈籠」が立っています。領棒石は亀山藩中富田との境界からここに移設したものです。右側には「山神碑」と「常夜燈」があります。山神碑は江戸時代からここにあったといいます。「手洗石」は文化10年(1813)のもので、その他、「常夜燈」もあり、道の裏には「古墓群」もあります。そしてその先へと進むと中富田町(旧中富田村)に入ります。



少し先の三叉路では右の道を行くと100m程先の左側に「式内川俣神社」があり、鳥居の左側には大正15年の「常夜燈」、右側の石柵の中には「中富田一里塚跡碑」「従是西亀山領」と書かれた領棒石が立っています。江戸から103番目(約404㎞)、京都三条から22番目(約91㎞)に置かれた一里塚です。
なぜか社殿が街道に背を向けて建てられています。

中富田一里塚跡碑

享和3年(1803)発行の「東海道亀山宿分間絵図」には「汲川原村との境に領棒石が置かれ、その右(西の方角)に 中富田一里塚、高札場、そして、川俣神社」という順に描かれています。また「高札場の前には大名や公家を接待する御馳走場があった。」ことも記されています。境内には樹齢600年の楠の大木や山神碑、安政三年の手洗石があります。そして江戸時代にはここから亀山藩領となっていました。 

西富田町(旧西富田村)に入ると両脇は住宅地で、右側に天台真盛宗の「常念寺」が山門を構えています。かつてここには延命地蔵尊を祀る平建寺がありましたが、安政地震後に常念寺が移転してきたといいます。その先の四つ角には「ひろせ道」と書かれた道標がありますが、右折して北方に行くと広瀬町があります。広瀬町にはここ伊勢の国の国府が置かれていた場所です。
 
上り気味の坂道を進んで行くと、前方に堤防が近づいてきます。その登り坂の左側に「川俣神社」が社殿を構えています。この辺りに川俣神社が多いのは各村が鈴鹿川系の河川の水害から逃れようと建てたことによるのでしょう。
鳥居の脇の常夜燈は慶応2年(1866)のものですが、元は大筒川辺にあったらしいとのこと。近くの道標には「右 ひろせ 左 はたけ」と刻まれています。 

境内には戦国時代当時の神戸城主、織田信孝(信長の三男)が愛した「無上冷水井」跡の石碑が建っています。ここには「庚申塚」「献燈」(1803年)「座標」の石柱「和泉橋」の橋柱などが置かれています。 

実は戦国時代にはこのあたりは神戸氏が治めていた土地なのですが、この神戸氏は永禄11年(1568)に信長の侵攻を受けると、その時
の当主である真盛は信長の三男である信孝を養子に迎えることを条件に和睦に応じました。その後、真盛は信長の家臣として活躍しました。
一方、養子となった信孝は15歳で元服をした後、神戸の当主となるのですが、天正10年(1582)の本能寺の変の後、織田家の跡目を狙って織田姓に戻しています。信長なき後、信孝は柴田勝家とお市の方の結婚を取り持ち、そのことから結局は柴田勝家ともども秀吉の軍門に下ることになり、最終的には自害に追い込まれています。

そんな信孝が神戸にいたころに飲んでいた井戸水のことを「無上冷水井」と呼んでいたようですが、この無上冷水の意味がよくわかりません。無上ですから、この上なくといった意味だと思います。そして冷水ですから、「この上なく冷たい水?」ほんとかいな?

堤防に上ると安楽川の水の流れと共に長閑な田舎の風景が目に飛び込んできます。そして安楽川に架かる和泉橋が対岸へと延びています。江戸時代には土橋が架けられていたとあり、出水の時は渡しとなったといいます。



それでは幅の広い河川敷を伴う安楽川にかかる長い和泉橋を渡り、和泉町へ入っていきましょう。橋を渡ると正面に井田川小学校があります。橋を渡ったら右折して堤防の上の道を川に沿って100m程進んでいきましょう。右手には安楽川の流れと対岸の笹林、そしてその背後に連なる鈴鹿連山がまるで一枚の絵のように美しい景色を見せてくれます。
そして土手道から左へと向かう道筋へ入っていきます。安楽川と別れて左へカーブする道に入ると和泉町の集落ですが、古い家はほとんどありません。

右にカーブする手前の右側の狭い道の両側に「右 のぼ道」と刻まれた「道標」が置かれています。左は江戸時代のもの、右は大正3年のもので、「のぼの」とは能褒野神社(のぼのじんじゃ)のことでしょう。ここから能褒野神社まで直線で約2.2キロの距離があります。

※能褒野は日本武尊が死去した地と伝えられています。ここに置かれているのが能褒野神社です。神社の周辺には日本武尊の陵墓と言われる古墳がいくつかあったのですが、明治12年(1879)に時の内務省が「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳を日本武尊の墓であると治定し、能褒野陵としました。

この道標をすぎると、本日の歩行距離も10キロに達します。さあ!本日の終着地点まで残すところ1キロに迫ってきました。



旧東海道筋はこの先で641号線に合流します。合流する手前の右側の小高い場所に「極楽山地福寺」が堂宇を構えています。地福寺の右側の空地に「明治天皇御小休所」の碑が立っています。そして道筋は少し下り坂となり641号線へと合流します。

合流後、すぐに関西本線の踏切を渡ると道筋は大きく左へとカーブを切っていきます。そして鈴鹿市から亀山市へと入ります。踏切を渡り500m進むと関西本線の井田川駅前に到着です。駅舎は比較的最近に整備された様子で、駅前には綺麗なロータリーがあります。
そしてここ井田川駅から日本武尊ゆかりの能褒野(のぼの)神社まで直線で約2キロと近いことから、ロータリーの脇に日本武尊の像が置かれています。
とはいえ、駅前は閑散として商店らしきものはまったくありません。エンディングの場所としては寂しさを感じます。

私本東海道五十三次道中記 第30回 第1日目 桑名七里の渡しから四日市富田へ
私本東海道五十三次道中記 第30回 第2日目 四日市富田から四日市宿を抜けて采女のサークルKまで

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