大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第29回 第1日目 来迎寺公園から名電富士松駅前

2015年09月24日 14時43分36秒 | 私本東海道五十三次道中記


私たちの東海道の旅は東三河から西三河へと駒を進め、29回を迎える今回はいよいよ三河とお別れし尾張国へと入っていきます。
第一日目は來迎寺公園から西三河の39番目の宿場町、池鯉鮒(知立)を抜けて、名電富士松駅前までの6.8kmを歩きます。



来迎寺公園脇を出立すると街道の右手に「御鍬神社」の鎮守の森が現れます。なんと「マムシ注意」の警告看板が置かれています。神社境内には入らずに、街道を進んで行きましょう。来迎寺町の信号交差点にさしかかります。
この交差点はT字路になっており、そのT字路の角に「元禄時代の道標」が置かれています。
この道標に従って北へ進むこと670mで在原業平と所縁のある「無量寿寺」が山門を構えています。

無量寿寺が堂宇を構えているところは「八橋」と呼ばれています。そしてここ八橋を有名にしたのは、あの伊勢物語の東下りの記述です。
「ある男(業平自身)が東下りの途中、道に迷いながらもこの地に辿り着いたのです。川が幾筋もまるで蜘蛛の手のように流れ、その流れに八つの橋が架けられていたので「八橋」と呼ばれていました。
そしてその水の流れの中に「かきつばた(杜若)」が美しい花をつけていたのを見つけ、男は連れのものに「かきつばた」の五文字を句の上に置いて歌を詠んでみようということになった。
そして詠まれたのが、「唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う」の歌です。

この歌の意味は「唐衣を着慣れるように、慣れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるここまでやってきた旅の辛さを身にしみて感じている」と心情を表しています。

元禄の道標から、ほんの僅かな距離を歩くと、住宅街の中にふいに現れるのが県指定の史跡である来迎寺一里塚(84)です。街道の右側の塚の高さは3.5mで塚にはクロマツが植えられています。この一里塚には榎ではなく、代々黒松が植えられています。右側の塚は街道に面した公民館の建物に隠れるように佇んでいます。また左側の塚は半分が崩されて原型は失っていますが、平成8年に県指定の史跡に追加されています。

来迎寺一里塚(右)
来迎寺一里塚(左)

私たちが歩いているあたりは「来迎寺町」と呼ばれています。その名のいわれは街道の北側奥に堂宇を構える「来迎寺」があるからなのです。寺伝によると、当寺は平安時代の承平元年(931)に山城の国「宇治平等院」より『来迎寺印』という僧が当地にやってきて、その僧によって開基されたと言われています。その後、今崎城主、村上兵部兼房なる者の免許の除地として寺門が興隆し、来迎法印の『来迎』が寺号となり『来迎寺』となりました。その後、この地にも人家もでき、寺名から『来迎寺村』というようになり、現在は来迎寺町と呼ばれています。



一里塚を過ぎると、街道の両側には住宅街がつづきます。明治用水緑道の入口を過ぎると、来迎寺公園から1.4キロほどいったところに旧街道を跨ぐ衣浦豊田道路にさしかかります。この道路の真下が新田北交差点です。
この交差点は横断歩道がなく、歩道橋を渡って反対側へと移動します。歩道橋を渡り、ローソン前辺りが、歩き始めて1.5キロ地点です。

歩道橋上からみる松並木

歩道橋を下りると、前方に延びる旧街道の両側に整然と並んでいるのが「知立の松並木」(別名並木八丁)です。並木八丁ですから、本来は870mほどの続いていたはずです。街道の両側は工場が立ち並び、ひっきりなしに車が行き交い、松の木にとってはいい環境とは言い難いのですが…。
慶長9年(1604)、幕府の命により道路が改修され松並木が整備されました。その後、宝暦年間(1751)に並木の手入れ、小堤を造成し田畑との境杭を打たせました。安永年間(1772)再び並木の手入れをし、敷地を9尺以上(2m72cm)としました。

松並木に入り歩き始めると、歌碑が一つ現れます。碑面にはこんな歌が刻まれています。
「初雪や 知立の市の 銭叺(ぜにかます)」※季語が初雪なので、市は馬市でなく木綿市ではないでしょうか。
歌の意味は木綿市の賑わいとその繁盛ぶりが込められています。「叺(かます)」とは藁でできた「むしろ」を二つ折にして横を閉じて袋状にしたものです。その「叺(かます)」に木綿の取引で儲けた銭がたくさん入っている様子を詠ったものです。



松並木は八丁より短い約500mに渡って170本の松が残り、往時の東海道の姿をとどめています。
そしてこの松並木の特徴は側道を持っていることなのですが、実はかつてここで行われていた馬市の馬をつなぐためのものと思われます。また、この付近一帯には最盛期の頃は400頭から500頭の馬が繋がれ、馬の値段を決めるところを談合松と呼ばれていたようです。

松並木
松並木
松並木
松並木
松並木

松並木が終わるすこし手前に置かれているのが「馬市の碑」です。かつてここ池鯉鮒(知立)で行われていた「馬市」の跡を記した碑です。

馬市の石碑

知立は古来より「馬市」「木綿市」が開かれた土地で、中世は鎌倉街道の要衡として栄え、江戸時代には東海道の宿場として賑わった場所です。広重は「池鯉鮒宿」「首夏馬市(しゅかうまいち)」と題し、東野で行われた馬市の様子を描いています。

首夏馬市は毎年首夏(陰暦四月)、陰暦4月25日〜5月5日頃に開かれていました。
知立は木綿の集散地で、馬が運搬に使われた関係から馬市が栄えたといわれています。尚、木綿市は時期を定めず、取引が行われていたようです。
尚、馬市は昭和初期までに馬が牛に代わったものの、鯖市も兼ねて賑わいましたが、昭和18年を最後に幕を閉じました。

馬市の碑の傍らには「万葉歌碑」が置かれています。
碑面には西暦702年、持統天皇が三河行幸の時に詠まれた歌が刻まれています。
「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能 知師爾  長忌寸 奥麻呂」
(ひきまのに にほふはりはら いりみだれ ころもにほはせ たびの しるしに  ながのいみき おくまろ)
歌の意味は「引馬の野に色づいている榛原(ハンの木の林)に分け入って、ハンの木の樹皮からあふれ出る樹液を、旅の想い出に衣につけてみましょう。」

松並木が終わる頃、左手にファミリーマートが現れます。御林交差点で旧街道は国道1号と県道51号にいったん合流します。道筋は三叉路になっており、旧街道は一番左側へと繋がっています。
前方に尖塔をもつ教会風建造物(ベルサイユガーデン)が現れます。教会風ということは、結婚式場なのですが、愛知県に入るとこのような堂々とした教会風建造物を併設する結婚式場がやたら多くなるような気がします。
というのも、愛知県の一部の地域では結婚に係る費用や新婦が他の地域に比べて持参する品物が尋常では考えられないほどの豪勢さを誇っているといいます。そんな地域性なのか、結婚式場もかなり「ド派手」になっているのではないでしょうか?



旧街道へとつづく一番左側の道筋へは地下道をくぐって行かなければなりません。地下道を進み、突き当たったら右手の階段をのぼり地上へと戻ります。地上にでると、すぐ左に「知立宿」と刻まれた石柱が置かれています。ただし、ここが知立宿の江戸見附ではなく、この先が知立宿という道標です。

知立宿の石柱

この地は古くから「知立」「智立」と表記され、その由来はこの地に鎮座する知立神社と深い関係があります。由来に関しては諸説ありますが、いちばん信憑性の高い説は、知立神社の御祭神とされる「伊知理生命」(いちりゅうのみこと)の「知理生」(ちりゅう)に由来するというものです。ただし現在祀られている神様の中には「伊知理生命」はなく、この神様は謎に包まれています。

そしてこの「知立」がなぜか鎌倉期以降になると「智鯉鮒」と書かれることになり、江戸時代になると「池鯉鮒」が一般的になります。神様に由来する「知立」がなぜ「池鯉鮒」つまり「池の鯉や鮒」に変わってしまったのでしょう。

実は知立宿の東木戸からさほど離れていない場所に慈眼寺という寺があります。その寺に隣接する場所に御手洗池という大きな池がありました。この池は知立神社の祭礼で渡御する神輿を洗うため、神聖なものとされ、この池に生息する鯉や鮒を捕獲することは禁止されていました。その結果、この池には鯉や鮒が多く生息していたことから「池鯉鮒」という表記になったといいます。

そしてこんな文章が残っています。「ちりふの町の右の方に長き池(御手洗池)あり。神の池なり。鯉・鮒多し。依って、名とす。しかれども、和名抄に碧海郡智立とあり」(吾嬬路より)
※ちりふの町の右の方とは、宿の江戸寄りという意味です。

御林交差点の地下道をくぐると、旧街道は1号線と県道51号線から分岐していきます。
尚、51号線を辿り、山町交差点を右折するとすぐ右手に慈眼寺が堂宇を構えています。
前述のように江戸時代には知立の東の松並木あたりで「馬市」が開かれていましたが、明治になると馬市はこの慈眼寺の境内で開催されることになりました。慈眼寺境内で行われていた馬市は昭和18年に幕を閉じています。

知立宿内へとつづく旧街道筋に入ると、車の往来も少なくなり、道幅もすこし狭くなります。宿内へと進んでいるのですが、街道筋には古い家並みはとんと現れません。旧街道を進み、名鉄三河線の踏切を渡ると、いよいよ知立宿内へとはいります。

知立宿は江戸から数えて39番目の宿場町です。
宿場の成立は家康公が街道整備を始めた慶長6年(1601)です。天保14年の宿村大概帳によれば、宿の規模は人口1620人、家数292軒、旅籠35軒、本陣1軒でした。宿内の距離は1.37㎞です。

宿の近郊で開かれた馬市と木綿市が江戸時代に有名になり、遠くは甲斐や信濃の荒馬が集まり、寛政期(1790年代)には400~500頭の馬の取引が行われ、市の盛況に加えて馬方、商人、見物客、果ては遊女までが集まり、市はごった返していたそうです。
そんな賑わいがあった知立の宿場だったのですが、今は静かな地方都市の佇まいです。とはいえ古い家並みはほとんど残っていません。



静かな雰囲気を漂わす宿内の道筋は中町交差点にさしかかります。ちょっと複雑な六叉路になっています。この辺りからかつての知立宿の中心へと入っていきます。交差点角に宿場の風情を漂わす古めかしい商家(えびすや・山城屋)が2軒並んでいます。

えびすや
えびすやと山城屋

旧街道は中町交差点を渡り、斜め左につづく狭い道筋です。この細い道筋がつづく辺りが「中町」です。江戸時代後期にはこの界隈に豪商や資産家が多く屋敷を構えていました。細い道筋へ入って行くと、右側の食品館「美松」の駐車場の入口角に目立たない存在で「池鯉鮒宿問屋場之跡」の石碑が置かれています。
問屋場の建物は昭和46年(1971)までこの場所にあったのですが、残念なことに取り壊されてしまいました。

池鯉鮒宿問屋場之跡

そして道筋を進んで行くと、左側にホテルクラウンパレス、右側に知立パークホームズの近代的なビルが並び、宿場の中心であった場所にしてはかつての面影はほとんど残っていません。
尚、本陣跡の石碑は旧街道から若干逸れた419号線の知立駅北交差点近くの貯水槽の脇に置かれています。本陣は旧街道に面した場所にあったのですが…。

本陣跡碑

細い道筋を進んで行くと、この先で旧街道は曲尺手のように右へ鋭角的に曲がります。するとすぐ左手に児童公園が現れます。その公園に「知立城址の石柱」が置かれています。

知立城址の石柱

池鯉鮒(知立)には代々、知立神社の神官を務めた氷見氏が築いた城があり、この場所に知立城がありました。知立城は桶狭間の戦いの時は今川方の城でしたが、織田の軍勢の攻撃で落城してしまいます。
その当時の城主であった氷見吉英は桶狭間の戦いの後、生き残りをかけて、刈谷の地を治めていた水野忠政の娘を妻に迎えます。そしてこの妻との間にできた子が、後に家康公の側室となる「於萬之方」です。この於萬之方は十子の頼宜、十一子の頼房の母親ではなく、家康公の次男である結城秀康を生んだ女性です。

尚、知立城の跡は水野忠政の九男である水野忠重の時代に御殿を建てましたが、元禄の地震で御殿が倒壊し、そのままになってしまいました。尚、御殿は将軍上洛の際の休憩場所、または藩主の休息所として使われていました。
そしてこの先で道筋は突き当り左へ曲がります。突き当たったところに堂宇を構えるのが了運寺です。

了運寺山門

ここを左に曲がりほんの少し進んだ右手に現れるのが知立名物の「あんまきの元祖小松屋」です。知立には別に「あんまき」を扱う藤田屋さんがありますが、正真正銘の元祖は小松屋さんのようです。

小松屋さん

旧街道は小松屋さんの前を進み、この先で豊田南バイパスと交差します。交差といっても、私たちはバイパスの下をくぐる地下道を使って反対側へ渡ります。この地下道を抜けると、知立神社は目と鼻の先です。

地下道をくぐる手前の右手に見事な銀杏の木があります。この銀杏の木がある場所にはかつて総持寺という寺があったのですが今は別の場所に移転しています。

豊田南バイパスを横切る地下道をくぐり、160m歩くと街道の小さな四つ角右に知立神社と刻まれた石柱がたっています。この角を曲がり、知立神社入口までは110mほどの距離です。それでは知立を代表する神社である「知立神社」に立ち寄ることにしましょう。

知立神社は池鯉鮒大明神とも呼ばれ、平安時代に三河国の二宮として国司の祭祀を受け、江戸時代には東海道を往来する旅人に「まむし除け」の神徳を授けることで広く知れ渡り、東海道三大社の一つに数えられた名社です。

本社殿

社伝では第12代景行天皇の42年(112)創建と言われています。景行天皇の御世、皇子である日本武尊は天皇の命を受けて東国平定へと向かうのですが、当地において皇祖の神々に平定の功を祈願したそうです。そして無事その責務を果したことで、ここに建国の祖神の四神を奉斎したのが始まりといわれています。また仲哀天皇元年という説もあります。ようするに当社は日本武尊と深い関わりがあるのです。

主祭神、すなわち建国の四神とは神武天皇の父にあたるウガヤフキアエズと母にあたるタマヨリヒメ、山幸彦そして神武天皇です。境内に置かれている「多宝塔」は国の重要文化財です。

多宝塔

永正6年(1509)重原城主山岡伝兵衛によって再建されたのがこの多宝塔(二重塔)です。
明治時代の廃仏毀釈の嵐の中を生き延び、神社の境内に仏塔が残ったのは全国的にも珍しく、国の重要文化財建造物に指定されています。江戸時代には愛染明王が祀られていましたが、明治期の神仏分離の際、愛染明王を総持寺に移し、相輪(そうりん)も取りはずし、知立文庫と名を改めて取り壊しを免れたという歴史があります。

また前述の東海道三大社とは三島大社、知立神社、熱田神宮をさします。
さらに「まむし除け」のいわれは平安時代の嘉祥三年(850)、慈覚大師円仁が当地に来た時、蝮(まむし)に咬まれましたが、当社に参拝し祈願したところ、痛みも腫れもなくなったという故事から、御札を携帯していればマムシや長虫避けになると信じられ、マムシよけの神として全国的に知れ渡ったのです。

広い境内には神橋を付した「神池」があります。実はこの神池も「御手洗池」と呼ばれているのですが、あの慈眼寺近くにも御手洗池がありました。どちらが本当の御手洗池だったのか、はたまた両方とも御手洗池でいいのか、定かではありません。おそらく神社の境内にある神池も当然神聖なもので、そこに住む生き物を捕獲することは禁断とされていたと思います。
そんなことで、この神池も「御手洗池」と呼ばれたのではないでしょうか。

神池
神池

石造りの神橋は享保17年(1732)に造られたものです。そしてこの神池には鯉が眼病を患った長者の娘の身代わりになったという「片目の鯉」の伝説が伝わっています。

《片目の鯉》
昔々のお話です。知立のとある長者の家には代々、目を患う者が多かったといいます。そんな長者の家に信心深く、気立ての優しい娘がいました。ある時からこの娘は目を患い、病も重く、あわや失明という事態になってしまいました。

そんな様子を見ていた両親はたいそう心配し、娘の目が良くなるようにと、毎日毎日、知立大明神の神前に通い、ひたすら祈りを捧げました。そして二十一日の満願の日、突如として娘の目が見えるようになりました。驚く喜んだ両親は娘と共に知立神社の大明神へお礼参りに出掛けました。そしてふと神社の御手洗池の中を覗き込むと、なんと池の鯉が皆、片目になっているではありませんか。これは神の使いの鯉たちが、信心深い娘に片目をくれたのだろうということになり、以来、この御手洗池で目を洗うと眼病が治ると信じられてきましたとさ。
まあ~、これが本当の鯉(恋)は盲目、といったところか。おそまつ!

それでは知立神社をあとに旧街道へ戻りましょう。
旧街道に戻ると、街道の左側に竜宮城のような総持寺の山門が現れます。

総持寺山門

開基は江戸時代の元和2年(1616)と古いのですが、明治5年(1872)、神仏混淆禁止令により廃寺となりました。実は廃寺になる前の総持寺は別の場所にありました。ちょうど豊田南バイパスを渡る手前の右手にありました。現在は総持寺の大銀杏がある場所です。明治に廃寺になった総持寺は大正13年に天台寺門宗として現在地に再興され、現在に至っています。

山門の手前の右手に石碑が置かれています。その石碑には「徳川秀康之生母 於萬之方生誕地」と刻まれています。ここ池鯉鮒宿は家康公の側室で結城秀康の母である於萬の方の出生地と伝わっています。

総持寺から少し歩くと川があり左に橋が見えてきます。川の手前で道筋は左にカーブすると逢妻橋に出ます。 
逢妻川は伊勢物語の八橋に登場する逢妻男川が逢妻女川に合流した後の名前です。逢妻川を渡ると「池鯉鮒宿(知立)」は終わります。



逢妻川に架かる逢妻橋を渡り、逢妻町交差点で再び国道1号線と合流します。ここからしばらく無粋な国道1号に沿って歩きます。

逢妻川の名の由来
無量寿寺のお堂の裏に「杜若姫供養塔(かきつばたひめ)」があったのを覚えていますか?
この杜若姫は京の小野中将たかむらの娘と伝えられています。そしてあの業平が東下りの際に、業平を慕い、後を追ってこの逢妻川で追いついたと言います。しかし、業平の心を得ることができず、八橋の池に身を投げて果てたと伝えられています。
そんな杜若姫が業平に追いついた場所ということで「逢妻川」と名付けられたのです。

そして、国道1号に入って、わずかな距離で右側に東海部品工業の建物が現れます。ちょうどこのあたりで安城市から刈谷市へと入って行きます。

逢妻川を渡り、逢妻町の信号交差点を過ぎると、最初の横断歩道橋が現れます。その歩道橋の階段に隠れるように置かれているのがお江戸から85番目(約334km)、京から33番目(約169km)の一里塚跡です。
気が付かなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうです。



一里山新屋敷の交差点から500m弱歩くと工業団地入口交差点です。交差点の右角には上州屋でその先の今岡町歩道橋のところで左へと分岐する細い道筋へと入っていきます。

この細い道筋が旧東海道で、この先には連子格子の古い家が点在しています。国道からほんの少し入っただけですが、昔の街道の風情を残しています。交差点の左側には屋敷門のある家があります。
少し歩くと道は右にカーブしますが、その手前の道の左側に子安観音尊霊場の石碑と常夜燈が建っていて、その奥に堂宇があります。洞隣寺です。

洞隣寺は天正8年(1580)の開山、刈谷城主「水野忠重」の開基と伝えられる曹洞宗の寺院です。道の脇の常夜燈には寛政8年(1796)と刻まれています。 
本堂の隣には地蔵堂、行者堂、秋葉堂が並んで建っています。お堂の裏にある墓地に入っていくと、奥の方に、「豊前国中津藩士の墓」「めったいくやしいの墓」が並んで置かれています。

◇中津藩士の墓
寛保2年(1742)豊前国(大分県)中津藩の家臣が帰国途中、今岡村付近で突然渡辺友五郎が牟礼清五郎に斬りつけ2人とも亡くなったため2人の遺骸は洞隣寺に埋葬されました。ところが2人の生前の恨みからか、墓はいつのまにか反対側に傾き、何度直しても傾いてしまうので、村人は怨念の恐ろしさに驚き、墓所を整理して改めて葬ってからは墓は傾かなくなったといわれています。

◇めったいくやしいの墓
昔、洞隣寺の下働きに容貌は悪かったが気立てのよいよく働く娘がいました。あるとき高津波村の医王寺へ移ったところ、この寺の住職に一目ぼれしたのですが、この青年僧は仏法修行の身であり、娘には見向きもせず寄せ付けませんでした。
娘は片想いのため食も進まずついに憤死してしまいました。洞隣寺の和尚はこれを聞いて娘の亡骸を引き取って葬りましたが、この墓石から青い火玉が浮かび上がり、油の燃えるような音がしたり「めったいくやしい」と声になったりして、火玉は医王寺の方へ飛んで行ったといわれています。そんな女の情炎の恐ろしさが語り継がれているのがこの墓です。



洞隣寺から少し行くと、右側に小さな社と常夜灯が建っています。そこに「芋川うどん発祥の地」と書かれた木札があります。
江戸時代の東海道名所記に、「いも川、うどん・そば切りあり、道中第一の塩梅よき所也 」と、あったところで、ひもかわうどん(名古屋のきしめん)の源流といえるところですが、現在、そうした名物の店がここにある訳ではありません。 

傍らの説明板には、「江戸時代の紀行文に、いもかわうどんの記事が多くでてくる。名物のいもかわうどんは、平打うどんで、これが東に伝わり、ひもかわうどんとして現代に残り、今でも、東京ではひもかわと呼ぶ。」と書かれていました。

信号のない交差点を過ぎると、道筋はこの先で左へとカーブを切ります。その手前辺りに古い家が現れます。そしてその左側に堂宇を構えるのが乗願寺です。

天正15年の創建で、当初は真宗を内に、外向きは浄土宗としていましたが、後に真宗木辺派に改めました。 
水野忠重の位牌を祀っています。尚、真宗木辺派の本山は滋賀県野洲市にある錦織寺です。 

このあたりは今岡町と言いますが、江戸時代は立場で、街道筋には茶屋が並んでいたのではないでしょうか?
前述の「いもかわうどん」はこの先の今川町が発祥で、立場であった今岡で売られていたのではと推測します。
今川(いまかわ)が「いもかわ」に変じたのではないでしょうか?

さあ!まもなく第一日目の終着地点である名鉄名古屋本線の「富士松駅」前に到着です。

富士松駅前

「富士松」とは面白い名前の駅ですが、実は富士松という名前にはこんな由来があります。
桶狭間の戦いで敗れた今川勢が退却した後、旅人がこの今川町を通ったときに今川勢は相手のまわしものだと思い、この旅人を誤って殺してしまいました。それを見た住民は旅人を哀れに思い、葬った後にその場所へ1本の松を植えました。
こんな話を聞くと、いよいよ桶狭間の合戦地が近づいてきたことを実感します。

その松が成長し「お富士の松」と呼ばれるようになったと言われており、村名「富士松」はお富士の松に由来しています。
初代の松の木は伊勢湾台風で枯死してしまいましたが、その後第二代が富士松駅近くに植えられました。
しかしこれも枯死してしまったため、現在第三代の松の木が植えられています。

現在の富士松

第2日目はここ富士松駅前から出立します。いよいよ三河の国に別れを告げて尾張の国へ進んでいきます。

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私本東海道五十三次道中記 第29回 第3日目 富部神社から宮の渡し

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