「70歳」労働か、悠々自適か あなたの未来図は?
2021年4月8日 中日新聞
企業に七十歳まで働ける機会の確保を求める改正高年齢者雇用安定法。一日から施行されたが、老後の暮らしに直結する問題だけに、サラリーマンなどの動揺が収まらない。コロナ禍においても着々と推し進める政府の姿勢からは、年金政策の失敗を取り繕おうとする下心も見え隠れする。日本の七十歳はどうなるのか。(石井紀代美、大平樹)
企業に就業努力義務
まずは改正法のあらましから。以前から、六十五歳までは正規・非正規にかかわらず希望者全員を雇用することが企業に義務付けられていた。これに加え、継続雇用導入や定年引き上げなどで七十歳まで働ける機会を確保する努力義務が盛り込まれたのが、今回の改正内容だ。
もたらされる七十歳の未来図を、現場のサラリーマンらはどう描いているのか。東京のJR新橋駅周辺で尋ねてみた。
「老後の人生設計は立てていないが、その時が来て、もし元気だったらもちろん働きます」と前向きなのは、金融会社の営業マン(55)。改正法への対応についてはまだ会社から何も言われていないが、「年金財政が不安視されているし、長く働ける方がいい」と歓迎する。
すでに七十代を迎えている現役からは「大賛成」という声がほとんどだ。不動産鑑定士で、事務所を経営する須藤康弘さん(77)は「七十歳は全然いける。むしろ経験豊富で、若い人よりも仕事ができるし、よっぽど頼りになります。こんな人口減少社会で年齢にこだわる方がおかしい」と断言する。
だが、そんな余裕がなさそうな人も多い。建築系の会社に勤める男性(53)は「七十になると体が衰えますから、私は六十五で辞めたい。と言っても、家のローンを返し、老後の生活資金がたまっていたらの話ですが…」と歯切れが悪い。
六十歳で大手商社を定年退職し、川崎市で小規模な商社を経営する中谷忠昭さん(63)は「やはり、会社が高齢の従業員をどう思っているかが重要ですよ」と言い切る。再雇用制度で勤め続ける選択肢もあったが、あまりにも給料が低いなど、モチベーションが上がるような労働条件が示されなかったという。
「『早く辞めて』という会社の思惑が透けて見え、どんな仕事をあてがわれるかも分からなかった。単に法律で決まっているから雇用し続けるという姿勢では良くない」と疑問を投げかける。
一方、若い世代は正直それどころではないようだ。信号待ちしていた男性会社員(29)は社会の変化の速さを指摘し、「ここ十数年で携帯電話がすべてスマートフォンに変わった。自分が退職する時にどうなっているか未知数だ」と不安を吐露する。
「働きたくても、仕事が人工知能(AI)に取られて、高齢者に残されている仕事はいわゆる3K(危険、汚い、きつい)ばかりだったら、考えものですよね」
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「七十歳」とは本来どんな年齢なのか。
広辞苑によると、七十歳を表す「古希(こき)」は中国・唐代の詩人、杜甫(とほ)の漢詩の一節「人生七十古来稀(まれ)なり」が由来。かつて七十歳まで生きる人はまれで、長寿を祝われる年齢だった。昭和のサラリーマンは、終身雇用で六十歳の定年まで働き、年金で悠々自適の老後を送って古希を迎える夢を描けた。
年金抑制
しかし、高齢化で七十歳以上の人口は一九九七年に全体の一割、二〇一八年に二割を突破。影響を強く受けたのが老後の糧になるはずの年金財政だった。年金保険料を納める現役世代が減る一方、受け取る高齢者が増え、悪化の一途をたどっている。
にもかかわらず来年四月から、今回の七十歳就業法に合わせ、受給開始を選ぶ年齢の上限が七十歳から七十五歳に引き上げられる。
ニッセイ基礎研究所の金明中(キムミョンジュン)主任研究員は「生活できるだけの収入を働いて得られれば、年金受給開始を六十六歳以降に遅らせる人が増え、一時的にしても給付額を抑えられる。年金財政を健全化させ、政府が給付額引き下げなどの政策を調整する時間的な猶予が生まれる」と分析する。
その上で、「受給を先送りしても、一定以上の収入があると給付額が抑制される在職老齢年金制度が適用されるため、高齢者の働く意欲が高まらない。撤廃も含め、制度の見直しに向けた徹底的な議論が必要だ」と指摘する。
健康寿命
そもそも、いつまでも健康に生きられるとは限らない。厚生労働省によると、一九年の平均寿命は男性八一・四一歳、女性八七・四五歳。だが、寝たきりや認知症にならず、病気で日常生活を制限されない「健康寿命」は、一六年のデータで男性が七二・一四歳、女性が七四・七九歳だ。七十歳まで働くと、不自由なく健康に過ごせる老後は数年しか残らない。
労働災害
それでも六十五歳以上の労働者は増え続けている。総務省によると、二〇年は九百六万人で、一二年に比べて一・五倍に。一方で、身体機能が落ちた高齢者の労働災害は増えている。一九年に起きた労災約十二万五千件のうち、六十歳以上は三万四千件で四分の一以上。労災全体が減っている中で、高齢者が占める割合は増加傾向が続く。
大原記念労働科学研究所の北島洋樹副所長は「定年を迎えた後、それまでのキャリアと違う職業に就いて働き続け、不慣れな職場で労災事故に遭ったケースも多いはずだ」とみる。
「労災を防ぎながらベテランの経験を生かすには、仕事の中身や量を考慮する以外にも、職場全体が見えやすいように明るくしたり、つまずきやすい床をなくしたりするなど、企業側が高齢者に配慮した環境を整備することが必要だ」と強調する。
一律に七十歳就業を制度化しても、働く意欲は人それぞれ。労働問題に取り組むNPO法人POSSEの今野晴貴代表理事は「コロナ前は高齢者の労働相談が増えていた。七十歳まで働くことを制度化しても、今ある労働者の格差は変わらないだろう。現物給付を増やして生活基盤を全体的に強化するなど、格差社会を解消する視点が必要。人によって環境が違うのに、七十歳まで働いて稼げる社会を前提にしてはいけない」と警鐘を鳴らす。