藤澤統一郎の憲法日記 古館伊知郎・渾身の改憲策動批判に拍手(2016年3月20日)

2016-03-22 08:31:39 | 桜ヶ丘9条の会
古舘伊知郎・渾身の改憲策動批判に拍手 
藤澤統一郎の憲法日記 2016年3月20日

本日は、三題噺である。お題は、3人の人名。古舘伊知郎と菅孝行、そして忌野清志郎。

まずは、古舘伊知郎。3月18日の報道ステーションの内容が大きな話題を呼んでいる。キャスター古舘本領発揮の熱い語りかけ。歴史に残る放送ではないか。古舘流に「これぞ全国民必見」と評して過言でない。友人に教えられていくつかのURLで録画を見た。下記がそのひとつ。完全なものではないが、URLが短い。是非ともの視聴をお勧めし、拡散をお願いしたい。

  https://www.dailymotion.com/embed/video/x3ym0kc

番組の表題は、「憲法改正の行方…『緊急事態条項』ーワイマール憲法が生んだ『独裁』の教訓と緊急事態条項」。ヒトラーの台頭を許したワイマール憲法の陥穽と、自民党改憲草案「緊急事態条項」とを対比して、安倍自民の危険な動向に警鐘を鳴らすものとなっている。

古舘自身がワイマールに飛び、ナチス台頭ゆかりの故地を訪ね、強制収容所跡で記録映像を重ね、ナチスから弾圧を受けた犠牲者の家族を取材し、ドイツの法律家や憲法研究者の意見を聞く。構成がしっかりしており、映像に訴える力がある。そして、古舘の情熱の語り口が聞かせる。影響は大きいのではないか。

この番組が抉ったものは、ワイマール憲法の「国家緊急権」条項がどのように使われて、ナチスの暴発を許したのかという問題性である。「最も民主的な憲法のもとでも、独裁が生じうる」そのメカニズムを検証して、安倍自民が準備している「自民党改憲草案」における「緊急事態条項」と重ねて、その類似性・危険性を警告している。

ドイツの憲法学者に自民党改憲草案の緊急条項部分を読んでもらうと、「これはワイマール憲法48条(国家緊急権条項)を思い起こさせる」「内閣が法律と同じ効力を持つ政令を制定することは危険」「財政措置まで議会の関与なく内閣の一存で決められる」「災害などには法律で適切に対処している日本で、このような憲法条項があるだろうか」という指摘は重い。

最後は、スタジオで長谷部恭男が「法律と同じ効力を持つ政令が制定できるとは、緊急時には令状なしの逮捕や捜索もできるという危険を残すこと」と、オーソドックスな解説をして締めくくっている。

当時、最も民主的で進歩的と言われたワイマール憲法であったが、その憲法の欠陥を衝いてヒトラーの独裁が成立した。これを許したのが、ワイマール憲法の「国家緊急権」条項である。緊急事態に名を借りて、ナチスは全権委任法を成立させた。その結果、1933年からドイツ敗戦の1945年まで、ドイツの議会は事実上死んだ。議会制民主主義は崩壊し、法律は議会に代わってヒトラーの内閣が作った。

自民党改憲草案の緊急事態条項はこの悪夢の再現に道を開くもの、という危機感に溢れた番組構成となった。古舘は、「いまの日本で、ドイツで起こったようなこととなるわけはありません。」と繰り返している。もちろん、このフレーズに「しかし、…」と続くことがある。その語り口は、付け入る隙を与えない見事なものだ。古舘の意識的な否定にかかわらず、誰が見ても安倍がヒトラーに重なる。緊急事態条項を準備した自民党がナチスだ。

この番組の映写を集会や学習会で活用することが考えられないだろうか。ほぼ30分。これを借り出して使えるようにできないか。関係者にお考えいただきたい。

スタッフ一丸となった使命感に溢れた番組作りの姿勢に敬意を表したい。それだけでなく、古舘個人にも讃辞を惜しまない。彼には怒りのエネルギーが充満しているはず。安倍内閣やこれを支える右翼連中からの圧力への怒り。番組担当はもうすぐ終わりというこの時期に怒りのほとばしりを見事に冷静にやってのけている。

私は先日のブログに、「憤怒の思いあるときに、上品な文章は書けない。品のよい文章では、怒りの気持が伝わらない。『保育園落ちた。日本死ね』の文章は、怒りが文体に表れて、多く人の心に響いたのだ。私もこの文体を学びたいと思う。」と書いた。古舘は、品良く怒りを表した。これがあっぱれ。

その反対に「憤怒の思いを、これ以上は考えられない品の悪さで表現した」典型例を引きたい。

お題の二つ目。菅孝行という人物がいる。何者とも言い難いが、彼の若き日を回想する次の一文をお読みいただきたい。

「舞芸一年目の秋には砂川基地拡張のための測量が強行され騒然となった。私たち舞芸自治会は全学連に加入して砂川町に泊りこみ、歌と踊りのバラエティーショーを仕こんで、闘争の合間のひとときを、隊列のあちこちや神社の境内でやった。
数千のデモ隊と機動隊とが対峙した夕刻の一触即発の時、「赤とんぼ」の歌が湧き起こった隊列の只中に私はいたが、あの歌の意味はなんだったのか。次々と歌でも歌ってなきゃ間ももたなかった。全くの素手でスクラムを組んでいたデモ隊には、次にくる機動隊の暴力の予感にふるえる悲鳴だったか、あるいはアメリカ軍の基地拡張への、日本人のナショナルな心情の吐露だったのか。おっちょこちょいの舞芸の連中が、折からの夕焼けシーンに乗って歌いはじめたのかもしれぬが、とても奇妙な情景だった。『赤とんぼ』の歌を打ち消すように機動隊が襲いかかり、引きずり出されては、機動隊の乱打のトンネルに次々と送りこまれていった。機動隊の暴力行為で多数の負傷者を出したこの日の流された血の代償として、政府は強制測量無期延期を決定しなくてはならなかった。」

私がこの人の文章に目を留めたのは、「歌に刻まれた歴史の痕跡」の一章として書かれた三木露風「赤とんぼ」2番の歌詞についての解釈。私の記憶では、彼は大意次のように述べている。

「十五でネエヤが嫁に行ったはずはない。ネエヤは身を売られたのだ。本当に嫁に行ったのなら、お里のたよりが途絶えることはない。当時、貧しい家の女児は幼いうちから裕福な家の子守に出され、長じては身を売られる例がすくなくなかった。露風は、子ども心に漠然とそのことを感じていたのだろう。そのことがこの歌詞のものかなしさの根底にある」

まったく自分には見えていないことの指摘を受けて、うろたえた憶えがある。

この人が、最近の「靖國・天皇制通信」に、「闘争の歌の〈品格〉とはなにか」という一文を寄稿している。これが面白い。ここに出て来る忌野清志郎が、お題の三つ目だ。

先年亡くなった忌野清志郎という過激な歌手がいた。
RCサクセションの「いけないルージュマジック」はいわれもなく挑発的に聴こえた。彼は、おかしなことを一杯やった。その一つが、タイマーズの結成である。《清志郎に「よ〈似た男」》ゼリーが率いる覆面バンドが結成され、アン・ルイスのライブとか、あちこちのコンサートに乱入して飛び入りで歌った。タイマーズとは「大麻」のことだというから、入を食っている。彼らは広島平和コンサート、パレスチナ独立記念パーティなどにも出演した。
1989年10月フジテレビのヒットスタジオR&Nに出演して、リハーサルとは全く道う、放送禁止用語に溢れたFM東京を罵倒するうたを歌って物議をかもした。奇しくも司会は、先ごろ朝日放送の報道番組のキャスターを下ろされた古舘伊知郎たった。タイマーズが罵倒ソングを歌った理由は、山口富士夫との共作「谷間のうた」、COVERS収録の「サマータイム・ブルース」、「土木作業員ブルース」などの放送禁止や放送自粛への抗議だった。因みに「土木作業員ブルース」を歌う時のいでたちは、ヘルメット、覆面姿の「武装」学生のパロディだった。

 ♪FM東京腐ったラジオ FM東京 最低のラジオ
 何でもかんでも放送禁止さ!
 FM東京汚ねえラジオ FM東京 政治家の手先
 なんでも勝手に放送禁止さ!
 FM東京バカのラジオ FM東京
 こそこそすんじゃねえ○○○○野郎! FM東京

 ♪FM東京腐った奴らFM東京気持ち悪いラジオ
 何でもかんでも放送禁止さ!
 FM東京汚ねえラジオFM東京政治家の手先
 ○○○○野郎! FM東京
 ※(セリフ)ばかやろう!
 ※(加筆)なにが27極ネットだおらあ!FM仙台おらあ!
 ○○○○野郎! FM東京!
 ※(セリフ)ざまあみやがれい! (註 菅の文章に伏せ字はない)

これ以上品の悪いうたを歌うのは難しい。しかし、YouTubeで聞いてみると、凛としていて、少なくとも私には、爽やかなプロテストソング以外のものではない。
たかがFM東京の放送禁止や放送自粛への抗議といって楼小化してはならない。権力のラジオやテレビヘの表現弾圧、メディアの自主規制という、いまでは全然珍しくなくなってしまった事態への、本質的なプロテストの姿勢がそこにはあった。タイマーズというRCサクセションを一皮剥いたマトリューシュカのようなバンドが結成されたのが、天皇代替わりの自粛蔓延の年、このFM東京罵倒ソングの誕生が、その翌年であることは決して偶然ではない。

忌野清志郎の「FM東京腐ったラジオ」のYouTubeを私も聞いてみた。なるほど菅のいうとおり「爽やかなプロテストソング」である。からっと痛快なのだ。このとき司会の古舘は、確かに「不適切な表現」を謝罪してはいる。が、まったく恐縮した様子はない。もちろん、止めにはっいてもいない。プロテストをおもしろがっている気持が伝わってくる。古舘を含む当時の業界人の暗黙の支援あっての清志郎のパフォーマンスであったろう。

菅孝行の文章は、もう少し続く。
「昨年、国会前で、茂木健一郎が、この歌の替え歌を歌った。勿論、罵倒対象は安倍と政府と与党に置き換えられていた。茂木という人物は、アヤシイ奴である。もし、茂木ではなくデモ隊本体が、腐った政府、キタネエ政府、アメリカの手先、経団連の手先、こそこそすんじゃねえと歌ったら、本歌の精神を引き継ぐ見事なリバイバルだったのに、と思う。生きていれば恐らく、忌野清志郎は、反原発の首相官邸前行動や、戦争法制反対の国会包囲の群衆の中にいて、新しいうたを作ったに違いない。」(抜粋)

プロテストの新しい歌が欲しい。プロテストの精神を大切にしたい。そのような目で「日本死ね」の文章の後半ををもう一度読み直してみよう。

不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。
オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。
エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。
有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。
どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。
ふざけんな日本。
保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
国が子供産ませないでどうすんだよ。
金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。
まじいい加減にしろ日本。

これ、歌になる。古舘ほどの品はないものの、「闘争の歌」としての品格十分。立派な歌詞だ。誰か曲を付けないだろうか。
(2016年3月21日)

安倍政権下の「奇妙なナショナリズム」とは?

話題の書「奇妙なナショナリズムの時代ー排外主義に抗して」(岩波書店)に一通り目を通した。
これから、この書を手に取る方には、まず305頁の「おわりに」から読み始めることをお勧めする。この「おわりに」に、編者山望の問題意識と立場性が鮮明である。何よりも、この部分は平明で分かり易い。編者であり自らも巻頭(序論)と巻末に2論文を執筆している山が、ヘイトスピーチデモの風景に驚愕した心情を率直に語り、その違和感が本書のナショナリズム論の契機となったことが記されている。

ここで山は、現在の政治状勢に触れて、こう言っている。
「安倍政権は『奇妙なナショナリズム』の時代に生まれた政権であり、また『奇妙なナショナリズム』を促進する政権でもある。」
「安倍政権は『日本固有』とする道徳・伝統・文化・歴史認識を国民に浸透させる意図を持つが、それは戦後の日本という国民共同体が醸成してきた道徳・伝統・文化・歴史認識とは異なる。その断絶性は「戦後レジームからの脱却」や「日本を取り戻す」といったキャッチフレーズに集約されている。被害者意識を背景にした歴史修正主義(侵略、戦争責任、敗戦の軽視もしくは否定)、排外主義やレイシズムを組み込んだ文化、国家主義的な伝統・道徳の復権は、戦後に形成されてきた国民共同体を堀り崩す。時代の区切りをめぐる意見の相違はあるにしても、安倍政権は戦後日本における従来の政権とは異質であり、「奇妙なナショナリズム」に完全に符合している政権であることは確認しておきたい。」

戦後民主主義を「戦後に形成されてきた国民共同体」とほぼ同義なものとして評価し、安倍政権と安倍政権を支えるものをそれとは断絶した異質なものとして警戒する立場を鮮明にしている。その「異質」が、「奇妙なナショナリズムの奇妙さ」となるものだが、ここでは、「歴史修正主義、排外主義やレイシズム」とされている。この基調が、この書の全編を貫いている。

以上の文章にも明らかなとおり、山はけっして「革新」の側に立つ論者ではない。ナショナリズムを否定的で清算すべきものとは見ていない。「戦後に形成されてきた国民共同体」に親和感をもち、「奇妙ではない・ナショナリズム」には肯定的な論調である。その山にして、安倍政権下のナショナリズム模様の奇妙さ・異様さは看過できないのだ。そのことは、次の結びの言葉にいっそう鮮明である。

「従来のナショナリズムと密接に結びついてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権が危機にさらされている情況において、われわれは、ナショナリズムの在り方を考えることなくして、現状に対峙することはできない。戦後日本のナショナリズムヘの郷愁や全面肯定を警戒しつつも、人々が自らのものとしてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権をナショナリズムとの関係で、いかに「保守」もしくは発展させていくべきか。本書がこうした問いを考え、行動するための一助となれば幸いである。」

この一文は、山崎の「日本国憲法の憲法価値を、従来のナショナリズムが支えてきた」という構図を鮮明にしている。この書の全体を通じて、「保守」や「従来のナショナリズム」は肯定的に語られている。私は、「普遍性をもった日本国憲法の憲法価値に、戦前を引きずるナショナリズムが敵対してきた」という認識をもっている。ずいぶん違うようにも思われるが、いま「奇妙なナショナリズム」が跋扈して安倍政権を生み、安倍政権がこれまでの保守政権や国民意識からは断絶して、「突出した反憲法的ナショナリズム」に依拠していることにおいては異論がない。言わば、邪悪な敵出現によって、「戦後民主主義を支えた保守」も「そのイデオロギーとしての従来のナショナリズム」も、論争の相手方ではなくなった。むしろ、頼もしい味方のうちなのだ。

では、「従来のナショナリズム」とは異なる「奇妙なナショナリズム」の、奇妙さとは何か。従前には、安定的な「国民国家」が存在し、これを支えるものとして従来のナショナリズムがあった。いま「国民国家」に揺れが生じ、これまで「国民国家」を支えてきたナショナリズムも大きく揺れて変容している。

その出発点は、「グローバル化」(情報と金融の分野を中心に国境を越えて人々を結びつけるもの)と「新自由主義」(国家や共同体から人々を解放し、人間を等価な市場的存在とするもの)だという。国民国家の境界も内実も曖昧・不安定になって、再定義が求められている。これに伴ってナショナリズムも変容しつつある。山崎は、「国民国家は先進諸国を中心に、他国との境界線で明確に区切られた安全保障、社会保障、国民共同体、民主主義の四つの層(レイヤー)の結合によって形成されてきた。」と立論し、いま、その4層のすべてでこれまでの国民国家では自明であったものが掘り崩されている、とする。

だから、「(かつては)国民国家システム形成の原動力となったナショナリズムが、(いま)グローバル化と新自由主義の中で、どのように境界線を引き直し、「われわれ」を模索しているのか、多層的な単位(政治的決定の単位、安全保障の単位、社会保障の単位、経済的な単位、文化的な単位)の間にいかなる関係を構築しようとしているのか。いかなる境界線についての正当化の論理を掲げているのか。」その問いかけが必然化しているのだという。

山崎は、これまでのナショナリズムと比較して、グローバル化と新自由主義という背景を持つナショナリズムの「奇妙さ」をいくつか挙げているが、その内の興味を惹くものを要約して紹介したい。

■「被害者としてのマジョリティ」という「奇妙さ」
 少数派ではなく、マジョリティこそがむしろ様々な層における「被害者」(もしくは潜在的な被害者)であり、マジョリティが「力のない者」へ、さらには「マイノリティ」化しつつある、という自己定義をしている点に、このナショナリズムの「奇妙さ」がある。
 ナショナリズムが自らの集団の危機を訴えること自体はたびたび観察されるものであるが、マジョリティでありつつも「想像された強者であるマイノリティ」によって被害を受けているという「被害者意識」を強く特つ点に特徴がある。この背景には、グローバル化による国民国家の融解が、既存の「力のあるマジョリティ」と「力のないマイノリティ」という図式が不明確になっているという認識がある。
 マジョリティの側がその要因を外部に求めるとき、「われわれ」の権利を侵害し「権利を得ている(と想像する)マイノリティ」や「マジョリティと同等の権利を持つ(と想像する)マイノリティ」を立ち上げ、彼らが「われわれマジョリティの権利を奪っている」という感情を高めることになる。

■レイシズムに重点を置く奇妙さ
 人々の同化による拡大ではなく、排除による国民の範囲の縮小を志向する点において、ナショナリズムの観点からは「奇妙さ」がある。従来のナショナリズムにおいても、レイシズムや排外主義の要素は存在していた。しかし既存の制度化されたナショナリズムによる国民像を逸脱して、それを解体する強度のレイシズムや排外主義が前面化し、普遍化の契機に乏しい歴史修正主義を強調する点において「奇妙さ」がある。レイシズムに基づく純化、排除や浄化を志向し、同化や統合もしくは拡張の思想ではないナショナリズムは、国民統合や国家建設を重視するナショナリズムや帝国主義的なナショナリズムの観点からは「奇妙さ」を醸し出す。その結果としてナショナリズムの特徴とも言うべき両義性が失われ、片方の要素(特殊性、排除、自然の強調)のみが重視されている点において「奇妙さ」が際立つことになる。

■「敵」とする外部の安定性の欠如という「奇妙さ」
「敵」という外部の設定によって定義すべき「友であるわれわれ」の輪郭と内容が定まるとするならば、「敵」の不安定さは、「友であるわれわれ」の不安定さを招いてしまう。とりわけ領域主権国家システムからなる国際関係のナショナリズムにおいては「敵」とされる「外部」は一定の継続性を特つことが多いが、現代のナショナリズムにおける「敵」は「変易性」が高く多岐にわたる。とりわけ日本における事例では、外国人労働者や観光客、少数民族、近隣諸国のみならず国際機関、政府、政党、マスメディア、官僚、警察、女性、若者、生活保護受給者、原爆被災者、東日本大震災の被災者、脱原発運動、フェミニスト、他のナショナリスト、学校関係者、地域住民、障害者、反レイシストなど「敵」は多岐にわたり、その変易性も高い。その点において従来のナショナリズムとは異なる「奇妙さ」を持っている。

なるほど、安倍内閣の支持勢力も、その持って生まれた歴史修正主義も、ヘイトスピーチの蔓延も、橋下徹の政治手法の一定の「成功」も、そして米大統領予備選挙におけるトランプ現象も、このような説明枠組みで思い当たることが多い。注目すべきは、「奇妙なナショナリズム」の敵としては、多国籍企業もアメリカも政権も意識されないことだ。本当の奇妙さは、このあたりにあるのではないか。

(2016年3月20日)