こけ地蔵
ウェルネスホールへの途中で、道を右(東)に少し入るとこけ地蔵があります。
すぐ南の道を5分ほど歩くと升田山15墳です。ひょっとするとこの「こけ地蔵」は、この古墳の石棺の蓋かもしれません。
平安時代は、「鬼」や「もののけ」が信じられ、呪詛(じゅそ)が広く行われていました。その役割を担ったのが陰陽師(おんみょうじ)でした。
良く知られている陰陽師は、阿部清明(あべのせいめい)であり、それに対抗した陰陽師は、西神吉町岸に生まれたという蘆屋道満でした。
道長との対抗に敗れた道満は播磨へ流罪となり、晩年は西神吉町岸の近くで余生を過ごし、亡くなったといいます。
ある夜、式神は天下原(あまがはら)の空を横切り、むかし修業をした古墳に近づきました。
*式神(しきしん・しきがみ)・・・陰陽師の命令に従って、呪詛・妖術などをおこなう鬼神
式神は、そこに懐かしい石棺の蓋があるのに気がつきました。
石棺の蓋には、地蔵の姿がありました。
式神と地蔵は、「お前は石棺だ・・・」、「俺様は、地蔵だ・・・」とお互いに言い争いました。
火の玉は、地蔵に体当たりした。地蔵は、前に傾きました。
村人は「お気のどくに・・・」と立て直すが、朝になるとまた地蔵は倒されているのです。
こんなことが繰り返され、この地蔵は「こけ地蔵」と呼ばれるようになったといわれています。