東神吉町をゆく(55) 西井ノ口と申義堂(6) 申義堂廃校
申義堂は、明治4年、廃藩置県にともない廃校となりましたが、その教育的機能は高砂小学校へひきつがれました。
ところで、申義堂の建物そのものはどうなったのか、についてふれておかねばなりません。
土地・建物は廃校のさい、設立当初の提供者とみられる岸本家に返還されました。
そのさい、申義堂に付属していた書類をはじめ、道具、蔵書類の一部も岸本家に渡されたようです。
河合寸翁筆による「申義堂」扁額(写真)や文書が同家に保管されているのはそのことを示しています。
その後、申義堂の土地は、明治12年、高砂警察署の建設のため立ちのき、さらに高砂町役場となり、現在は高砂地区コミュニティセンターへと変転しています。
申義堂・西井ノ口へ移築
*以下の記事は、「西井ノ口と申義堂(1)」と重なります。
申義堂の建物は、高砂警察署ノ建設に伴い、明治12年5月に姫路光源寺の説教所として印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました。
次になぜ、「西井口村へ」という疑問が残ります。次回に紹介するとしましょう。
申義堂は、昭和7・8ころまでは光源寺の説教所として使われていたのですが、戦争中は軍の宿舎となり、戦後は村の倉庫に転用されて、もと、どういう建物であったかも忘れられて、物置同然の荒れた姿になっていました。
それが、「申義堂」の建物であったことがあらためて確認されたのは、平成2年月でした。
天井に棟札が打ち付けられていて、12年の移築が確認されたということが分かりました。
*『高砂市史(第二巻)・近世篇』・『なぜ申義堂が西井口にあったか(柴田育克)』『長谷川亀次郎を偲ぶ』参照
*写真:申義堂の扁額の複製(河合寸翁筆)・申義堂に掛けられている。
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