東神吉町をゆく(54) 西井ノ口と申義堂(5) 申義堂の大スポンサー岸本家
申義堂の大スポンサーの岸本家は、印南郡大国村(現:西神吉町大国)から、享保年間(1716~35)に高砂町(たかさごまち)に進出したことに始まります。
大国村の岸本家の本業は、木綿業を行なっており、高砂岸本家も木綿屋(木綿屋)と称し、木綿問屋経営が本業でした。
岸本家は、木綿売買のために加古川河口の港町高砂町にその拠点を設けるために、高砂町に移りました。
当時高砂町は、東播地域の大動脈の加古川舟運(しゅううん)の拠点であるばかりでなく、瀬戸内海沿岸航路の重要な港町でした。
高砂の岸本家は、その地の利を活かして、大国村の岸本家以上に大いに発展しました。
三代の間に、その基礎が確立され、その資産は、持高約270石を含め、銀高にして83貫目にも達したといいます。
そして岸本家は、従来の高砂町の特権商人であった大蔵元などの有力商人として、高砂町の大年寄役に就任し、高砂町の行政の一端を担うようになりました。
また当時、姫路藩では家老・河合寸翁が中心となって藩政改革が進められ、藩財政の再建策の一つとして切手会所が設置され、領内の重要な産物であった木綿の藩専売制が実施されることになりました。
江戸への江戸積み業者は、「切手会所(きってかいしょ)」から藩札を受け取りました。藩は、江戸で綿布を金銀で販売しました。
姫路藩には多額の正金銀が入るようになり藩の借金は専売制を初めて7・8年で返済することができました。
この時、岸本家は、切手会所の貸付相談役(六入衆)の一人に任命され、木綿の藩専売制の運営の中で、重要な役割を果たす一方、姫路藩の財政にも深く関っていくことになりました。
岸本家は、自身が献金するだけでなく、藩の借銀の信用保障を行ない、藩の財政に非常な貢献をし、それに対し姫路藩は、岸本家を御用達商人として士分待遇を行ないました。
高砂岸本家は、高砂町の有力商人として、姫路藩の御用達商人になるとともに、高砂町の大年寄役を長期にわたって勤め、近世高砂町の町政に大きく貢献しました。
*写真:再建された申義堂(十輪寺前)
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