東神吉町をゆく(66) 砂部 砂部遺跡
砂部遺跡が発見されたのは比較的近年の昭和40年(1965)2月のことでした。
最初の発見は、故礒野重吉氏が自己の所有する田(おりべ医院専用駐車場の南側)の表土を、削り取って、水田に農業用水が入りやすいように作業をしていた時でした。
たまたま現地を通りかかった神吉在住の当時の永井宏市会議員が、土器のけらが多く出てきているのを発見して、教育委員会に届け出たのがきっかけでした。
その後、昭和49年より同地域において、平荘町の権現ダムから高砂市の海岸部へ工業用水を送る送水管敷設工事が予定されていましたので、同年12月より同51年3月にかけ3次にわたる発掘調査が実施されました。
この結果、遺跡の範囲は、旧西加古川の西岸自然堤防沿いのやや高くなった地域で、加古川バイパス北側の東西300m・南北300mに及ぴ、多数の石器・土器・土師器・勾玉等が出土したほか、須恵器や青銅器、祭祀遺構、住居建物址が発見されました。
そして、砂部遺跡は縄文時代後期から平安時代にかけての遺構であり、加古川下流部右岸域における極めて重要な遺跡であることが判明しました。
紀元前300年(約2300年前)から弥生時代、古墳時代、奈良時代、そして平安時代にかけて約1,000間、はるか昔の時代に砂部の地に「集落」があり、農耕が行われ、私たちの祖先が生活していたことを想像出来ますか?
このときの調査内容は加古川市教育委員会が昭和51年(1976)と同53年に発行した2冊の報告書に詳しくまとめられています。
そして、この報告書では兵庫県が水道管工事を優先させたので、加古川バイパスの北側位置の遺構保存をあきらめ、未調査のまま消滅してしまったことを非難しています。
*『砂部あれこれ』(喜多正人著)より
*写真:最初の発見地(背後の学校は神吉中学)
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