ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

平岡町をゆく(16) 古宮組の村・寺家町組の村

2024-07-07 09:32:24 | 加古川市の歴史・平岡町編

         平岡町をゆく(16) 古宮組の村・寺家町組の村

 明治22年4月1日、平岡地域の村々が合併して「平岡村」が誕生しました。

 それでは、平岡村となった二俣村・高畑村・西谷村等々の各村は、江戸時代一つのまとまった地域だったのでしょうか。

       二俣村は古宮組の村・高畑・西谷・新在家は寺家町組の村

 少し説明が必要のようです。

 江戸時代、各村には村を治める庄屋(しょうや)が置かれました。

 庄屋は、大庄屋(おおじょうや)の支配下にありました。

 大庄屋は、各村の庄屋をまとめ、指導する庄屋のことです。

 つまり、庄屋の中の庄屋という性格を持ち、大庄屋はふつう十五ヵ村ほどの村々を治めていました。

 大庄屋の支配する地域を「組」と呼んでいます。

 組の名は、ふつう大庄屋のいる村の名で呼ばれます。

 それでは、現代の平岡町にあった村々は、同じ組にあったのでしょうか。答は、「ノー」です。

 平岡地区の新在家、高畑、西谷、土山の各村々は、寺家町組(図の緑)に属していました。

 山之上、一色、中野、八反田そして二俣の各村々は、現在の播磨町の村々とともに古宮組(図の赤)でした。

 野口地区の古大内、二ツ屋、坂井そして別府の西脇村も古宮組でした。

 江戸時代、二俣村は、現在の播磨町と同じ行政区に属していました。

 これは、二俣村が古代より阿閇庄の村に属し、また新しくは新井の村々(新井郷)としての結びつきがあったと思われます。

 これに対し、寺家町組は、街道筋という共通の性格を持った地域でした。

 江戸時代も終わり頃から明治時代になると、各村々の性格・利害もずいぶん変わりました。

 二俣村の生活は、すっかり高畑・西谷、つまり寺家町組の村々との繋がり方が、播磨町の各村々よりも強くなりました。

そのため、明治22年、行政地区の大改革(大合併)が行われ時、二俣村は平岡村二俣となりました。

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平岡町をゆく(15) 新井用水物語(6)  坂田啓太郎

2024-07-06 10:41:16 | 加古川市の歴史・平岡町編

        平岡町をゆく(15) 新井用水物語()  坂田啓太郎

 新井用水の工事に動員した足は、延べ16万4千人で、一日に数百人が働いています。

 この工事の費用について、詳しくは分からないのですが、原則として、藩の負担でした。

 もっとも、各村では年貢とは別に、村の石高に報じて労役に義務もありました。

 ともかく、一年あまりで新井を完成させました。

 この時、新井の水の配分や水役の規則(慣行)もつくられ、これらの慣行は明治中期まで続きました。

 これらの水利慣行は時代とともに不都合なカ所が生じ、水争いなどがしばしば起こるようになりました。

            坂田啓太郎

 二俣(平岡町)の坂田啓太郎は、これの諸問題の解決に熱心に取り組みます。

 彼の功績を記録する記念碑が、播磨町役場敷地内(中央公民館横・写真)にありましたが、現在播磨大池の公園に移転されています。

 啓太郎は、二俣の庄屋を世襲したのち、明治22年、平岡村初代町長にえらばれました。

 村長を辞した後も水利事業に大きな役割を果たし、明治44年亡くなりました。75才でした。



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平岡町をゆく(14) 新井用水物語(5) 魚をいっぱいつかま~えた

2024-07-05 09:21:14 | 加古川市の歴史・平岡町編

         平岡町をゆく(14) 新井用水物語(5) 魚をいっぱいつかま~えた

 「新井」の思い出を生前大西晃さん(故人)が臣でをたくさん書いてくださいました。

       ジャコとり

 新井は、所どころに洗い場があって、野菜を洗ったり、洗濯したりしていました。  

 川上で、子供が小便しても、「3m流れれば、水はきれいになっている」と言われていました。

 新井の水は、本当にきれいで、魚もいっぱい泳いでいました。

 手作りの竿にテグスに針をつけ、「雑魚つり」が楽しみでした。

 釣った魚は、捨てたりはしません、炊いて食べるか、長期保存用に昼干して、良いカルシュウム源でした。

 うなぎが石垣の中にいましたので、うなぎ捕りも楽しみの一つで、食用蛙も食べていました。おいしかった。

 しかし、足のついたままの料理には、手が出ませんでした。

 大きなドジョウもいて、その大きなドジョウを味噌汁に入れれば最高の汁でた。

 また、新井の一部に砂地のところがあって、そこにシジミ貝が多く住み着き、肝臓に良いんだと言って採っていました。

 と言うことは、食べれるものは、何でも食べていました。食糧難の時代でしたので、いかしかたないですね。

        ホタルの里

 5月下旬頃から、夕方には、蛍が舞い、蛍取りも楽しみのひとつでした。

 手で掴もうとすると、土手のすすきで傷つき、血が出ていましたが、血止めの草があって、手に当ててがまんしていました。

 土手には、桑の木が植えてあって、葉は蚕の餌にしていましたが、桑の実は非常においしく、手や口を真っ赤にしながら食べました。

 野いちごもたくさんあって、腹が減ったら、新井土手へ行っていました。

 冬は、水が流れていませんが、防火用水用に堰こまれていました。

 丁度、そこに氷がはっていて、ミシ、ミシと氷が裂けていても氷の上で遊んでいました。

 今は、全く氷がはりません。今はその頃に比べれば暖冬ですね。80年ほど前のことです。

 第二次大戦中(昭和16年から20年8月まで)は、空襲警報が鳴れば、新井の橋の下にかくれたり、機銃掃射のときは地上30m位まで降りてきて、飛行機に乗っている兵士が眼鏡をかけ、ガムをムッチャムチャしているのがはっきり見えました。

 戦後も食糧難は続きました。本当に「ひもじかった」時代でした。

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平岡町をゆく(13) 新井用水物語(4) 新井用水と池

2024-07-04 10:42:26 | 加古川市の歴史・平岡町編

    平岡町をゆく(13) 新井用水物語(4) 新井用水と池

 黒く塗りつぶした池に注目してください。

 明暦二年(1656)、新井は完成しました。それに伴って、「池は不必要になった」かというと、そうではありません。

 この地域は、もともと水の得にくい土地がらでした。

 そのため、これらの池に水を確保するために「新井」が掘られたといってもよいほどです。

 用水完成後も、しばしば十分な水が得られない年がありました。

 新井は、加古川・尾上の田畑を潤す「五か井用水」とは違い、勾配がほとんどありません。そのため、新井は満水にして水位を上げなければ、水は流れてくれません。

 新井(13km)の分水地(神野町西条)の標高は約12mであり、終着「大池」(播磨町)の標高は約5mです。

 しかも、「新井」は、「五か井用水」の取入れ口と同じす。

 従って、旱魃のときは、「五か井」を優先させ、「新井」の分水口をせき止めるという条件までありました。

 池を潰して、新田を作るという余裕なんてありません。黒く塗った池は、新井から取水している池です。

 新井と池がともに稼動して、この地域の水は何とか確保されるという状況でした。

 新井の北側の池は、「新井」より土地が高いため、取水することができません。これらの池は、依然として、雨水が最大の水源でした。

 新井用水にそった池の多くは、古い時代に造られたようですが、記録がありません。

 新井の完成後も、依然として池が命綱でした。

 記録がないので、以下は推測です。

 日照の年は、池の水もかれてしまいました。新井の水も使えません。二俣村の作物は枯れ、その後には、きまったように飢えがまっていました。

 

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余話:新札発行前史 渋沢栄一:「今市札」発行  

2024-07-03 10:09:29 | 余話として

     

   余話:新札発行前史 渋沢栄一、「今市札」発行   

今朝の新聞各紙は20年ぶりの新札の発行のニュースをつたえています。

 シリーズ「新井用水」連載をしていますが、今日は少しよりみちをし、幕末、高砂で新札(藩札)発行の前史があったことをお知らせしましょう。

      余話として、「渋沢栄一と今市村」

 後に大蔵官僚として大活躍する渋沢栄一は、幕末に一橋家に仕え、高砂市と関係を持ちました。

 渋沢栄一は、一橋家の経済を立て直すためにいろいろと手を打ちます。

 彼は、一橋家の財政立て直しのための一つに、播磨の特産品である木綿や菜種油に注目しました。

 姫路藩の木綿専売制は有名ですが、一橋家領でも木綿が織出され、印南郡北部や加古川下流の今市・中島・曽根の諸村には木綿仲買が存在していました。

 特に、今市村の木綿仲買は姫路藩領でも買取活助は姫路藩の専売削の阻害要因になるほどでした。(天領として木綿販売に姫路藩の専売制の方法で若干対立した点もあった)

 渋沢は、一橋家領の木綿は、姫路藩のようにまとめて大坂・江戸で売るなら価格も上昇するだろうと考えました。

 慶応元年(1865)に細工所村(加古川市東志方町)へ出張し、8月28日から1ヵ月間今市村に逗留して一橋産物会所(役所)の開設を準備しました。

 今市村に役所を置いたのは、資産家が多く、家屋や土蔵などの設備もあり、なにより水運が便利だったからです。

 実際に会所は今市村・鈴木長左衛門家の空家(あきや)が利用されました。

      今市札

 また、渋沢は売買の便利をはかるために木綿預手形(今市札)を発行しました。

 この木綿手形の背景には当時金相場が高騰して、正貨である幕府貨幣の流通が滞っていたという事情がありました。

 人々は正貨の代替物を求めていたのですが、それには信用がなによりも大切でした。

 といっても、どこの藩(天領を含む)台所は火の車でした。

 一橋家も十分な引替準備金はありません。

 そこで、渋沢は裕福な者から借銀をして準備金を用意することを考えました。

 この出資者は、揖東郡日飼村(たつの市)堀彦左衛門(2500)、加東郡垂水村(加東市)藤浦常八(1250)、多可郡下比延村(西脇市)広田傳左衛門(800)のほか地元・今市村伊藤長次郎(600)、同村入江十郎(300)、同村鈴木又蔵(200)両、同村入江亀太郎(150両)、その他一人(120)、四人(200両)両ずつ、一人(60)で、総額6380両を集めました。利息は年8朱で10年返済でした。

 これらの出資者はすべて、産物会所及び引替所の役職に就いています。

 一橋家の発行する手形は、大きな信用を作りあげることに成功しました。

 そのため、一橋家領の木綿預手形は一匁のものはいつでも一匁と額面通り流通したといいます。

 今市村の商は、大いに繁栄しました。

  *挿絵:今市札(『高砂市史・伊保篇』より)

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平岡町をゆく(12) 新井用水物語(3) 逆勾配

2024-07-02 10:40:17 | 加古川市の歴史・平岡町編

     平岡町をゆく(12) 新井用水物語(3) 逆勾配

 「新井(しんゆ)」については、『今里伝兵衛と新井の歴史』(新井水利理組合連合会)等すばらしい研究書があるのでそれ等をご覧ください。

 

 新井は図のように加古川大堰のところから、曇川(くもりがわ)・喜瀬川をこえて古宮(播磨町)大池まで約13キロを流れる用水です。

 順調に進んだように見える工事も途中、さまざまな難工事にぶつかりました。

 用水の取り入れ口から流れた水は、水足から坂元までは台地の麓をとおって古大内(ふろうち)に流れました。

 そこから、新井は東に方向を変えています。ここも、新井の北は台地の面であり、南だけ堤をつくれば溝ができあがりました。

          逆 勾 配

 困ったことがおきました。二俣(平岡町)のところで地形がやや高くなっているのです。

 坂元(野口町)から二俣まで水路の幅が一間半(2m70cm)、二俣から水の勢いを保つために、古宮まで一間としました。

 工事は、順調に行ったかに見えたのですが、勾配の関係で二俣のところで水が、うまく流れてくれません。

 伝兵衛は「流路を変更するべきか・・・」と、ずいぶん迷いました。名案が浮かびません。

 食事が喉を通らない日が続きました。

 ある日、妻に、そんな悩みをフッともらしました。

 妻は、手桶に水を入れ「水は勢いをつければ高いところへも流れるのでは・・・」と伝兵衛に話しました。

これにヒントを得て、流を工夫したというエピソードが伝えられています。

 真偽のほどはともかく、二俣あたりは困難な工事のようでした。



 播磨町史『阿閇の里』(播磨町)は「・・なお、戦後のコンクリート舗装の時、逆勾配の部分は掘り下げている。例えば、二俣では30センチメートルも掘ったとのことである。(井上勝利氏談)」と書いています。 

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平岡町をゆく(11) 新井用水物語(2) 今里伝兵衛   

2024-07-01 10:05:16 | 加古川市の歴史・平岡町編

         平岡町をゆく(11) 新井用水物語(2) 今里伝兵衛     

 伝兵衛は、慶長15年(1610)、現在の播磨町小宮(こみや)に生まれ、父の死により後を継いで大庄屋になりました。

 以来、一時として心の休まる時はなかった。

 それというのも、この地方は海に近く、台地に続く場所にあり、水を確保することが難しい土地がらのためでした。

 雨が少ない年には、承応三年(1654)のように、飢で死ぬ人が多くでました。

 この年の旱魃はすごいものでした。田畑を潤す水はありません。秋の収穫は、ほとんどありませんでした。

 それに比べて、加古川の河川を利用する五ヵ井郷(現在の加古川町・尾上町)は、加古川の水のおかげで被害が少なく、むしろ夏の日照りの中で、稲は青々と勢いよく成長しているのでした。

 五ヵ井用水の歴史は古く、この地方に豊かな実りをもたらしていました。

 食べるものもなくなった稲南野台地の百姓等は、五ヵ井郷からわずかばかりの食料と種籾をわけてもらって、やっと生活をつなぐ状態でした。

 伝兵衛が大庄屋を父から引き継いだのは、20歳前の青年でした。

 それ以降、伝兵衛は村の政(まつりごと)を取りくんでいくうちに、「なんとしても田を潤す水が欲しい」とする情熱が心のそこから湧いてきました。

 これまでは、加古川の水を台地に上げて、小宮の地まで水を引くことは無理だと考えられていました。

 しかし、戦国時代は、城を作る技術、鉱山開発の技術などが発達し、それが、伝兵衛の時代に土木工事に利用できるようになり、かなり困難な工事も徐々に可能になってきた時代でした。

 加古川から用水を引くというこの計画の本当の問題点は技術の問題よりも、用水が通過する他の村々の人が、この計画に協力をしてくれるかどうかということでした。

 伝兵衛は、旱魃のあった年の12月、近隣の村々の庄屋を集め用水の計画を相談しました。

 庄屋衆は伝兵衛の計画に感心し、伝兵衛にその計画・指揮を任せることになりました。

 一方、藩主、榊原忠次はこの計画を進めることを許し、さらに五ヵ井郷に対して分水することを命じました。

 工事は明暦元年(1655)正月から始められ、翌年3月に五ヵ井用水の平松堰(加古川大堰の東岸)から小宮の大池まで全長13キロの新井(しんゆ)を完成させました。



 完成の日です。上流から乾いた土地を潤す水が力強く流れてきました。

 伝兵衛はこの工事で、無理がたたったのか、用水の完成の4年後の万治2年11月、息をひきとりました。

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平岡町をゆく(10) 新井用水物語(1) 大飢饉(承応三年・1654)

2024-06-30 05:38:20 | 加古川市の歴史・平岡町編

  

   平岡町をゆく(10) 新井用水物語(1) 大飢饉(承応三年・1654)

 承応三年(1654)の旱魃は猛烈でした。

 太陽は、容赦なく大地を照りつけ、お百姓たちは、空を見上げ神に祈るほかに方法は見つかりません。

 近在の百姓は、木の実、草の根、竹の実はもちろん種籾までも食べつくし、後のことを考える気力もないほどで、餓死する者もあとを絶ちませんでした。

      「播州賀古新疎水道記」は語る

   二俣(平岡町)の円明寺に『播州賀古新疎水道記』(寛文13年・1637)の記録が残されていました。この記録は、現在播磨町の歴史資料館で保管されています。

 「水道記」の一部を、現代文で紹介します。

 「・・・阿閇荘古宮郷と23ヶ村は、代々姫路城の領地である。

 この地は海に近く川は遠く、水が乏しい。

 昔から旱魃の年には、しばしば苦しめられてきた。

 ・・・

 承応三年の夏、二ヶ月ほど雨が降らなかった。

 苗は皆枯れ、この年非常な飢饉になり、死亡する者がおびただしかった。・・・」と記録しています。

       藩:當取無(税金なし)で決済

 この年は、当然のごとく年貢が徴収できるほどの収穫はありませんでした。

 さすがに、姫路藩としても「無いものは取れなかった」とみえ、二俣の隣の一色村に次のような年貢免状(年貢の徴収状)を出しています。



 年貢免状(写真)をご覧ください。以下は、読み下し文です。

    定 午歳免相追之事   *免相(めんあい・年貢率のこと)

    一 高四八九石四斗一升七合? 當取無?

    右の通り相究むるものなり 

    承応三年午年(1654)十月八日              



 すごい文書で、「今年の年貢は不作のため先送りするのではなく“当取無”(税金無し)として決着させる」という意味です。

 よほどの飢饉であったことが分かります。



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平岡町をゆく(9) 寺田用水物語(3) 寺田用水高畑分水

2024-06-29 08:18:12 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

     平岡町をゆく(9) 寺田用水物語(3) 寺田用水高畑分水

 江戸時代の初めのころ、寺田池の水源一帯に新田が誕生し、多くの池が造られました。寺田池に十分な水が集まらなくなりました。

 そのため、新しい水源が求められたのです。それが、曇川の上流から水を引くという計画でした。

 しかし、曇川の水を寺田池まで引くとなると、途中の小高い丘(東播磨高校の東あたり)を越えなくてはなりません。

 曇川は約26㍍のところを流れています。その南にある東播磨高校のあたりは約38㍍です。

 この小高い丘を水は越えなければなりません。

 そのために、曇川の上流の比較的高いところに堰をし、東播磨高校の前あたりに深い堀(高堀)を掘りました。

 高堀の跡が残っていますので、見学ください。当時のお百姓さんの息が伝わってきそうです。

 万治元年(1656)、曇川の支流に井堰を設けて用水(寺田用水)づくりがはじまりました。

 寛文3年(1663)、水は向山(播磨町)の高台を越えました。しかし、この寺田用水が曇川から取水できる期間は、曇川郷との取り決めで、毎年5月2日~6月23日までに限られました。

 そのため、一滴の水も無駄にできません。寺田池を中心に10ヵ所のため池は連結され、水は有効に運用されました。

           寺田用水高畑分水 

 この頃、平岡(加古川市平岡町)にも寺田村・野辻村・西谷新村が誕生しました。それに伴い、以前にもまして、水が必要になり、池が新たに造られました。

 しかし、雨水に頼っているだけでは不十分なため、寺田用水の手前から高畑村への分水(用水)が計画され、寛文2年(1672)完成しました。

 分水は、平岡中学の東の上池・下池からバイパスの南の源太池(日本ハムは源太池の3分の2を埋めたてている)に流れました。

 源太池からさらに西谷の八幡神社の東横の溝を流れ、二俣の大池へ流れ込んだのです。

 大池は付近の印南台地に降った雨を集めるだけではなく、はるか曇川からの水も利用していました。

 寺田用水及び、(寺田用水)高畑分水づくりには、百姓衆の汗と苦難の物語があったはずです。

 記録が無く何も語っていません。

 現在、寺田池の水はすべて地下水にたよっています。寺田用水も役目を終えました。

 

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平岡町をゆく(8) 寺田用水物語(2) 元は寛平池

2024-06-28 06:41:16 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

       平岡町をゆく(8) 寺田用水物語(2) 元は寛平池

 寺田池は平安時代(寛平年間・889893)に造られたとされています。

 そのため、当時この池は、寛平池(かんぴょういけ)と呼ばれていました。

 寺田池の周辺は、印南野台地で東が高く、西にわずかに低い地形になっています。

 寺田池の水は六分一(ろくぶいち)、守安(もりやす)、幸竹(こうたけ)辺りの、しみ出した水や、雨水を集めています。

 しかし、規模は現在の寺田池よりずいぶん小さいものだったようです。

 寺田池を水源とするこの辺りの農業は、水に恵まれず、長期にわたり生産は停滞していました。

 この状態が一変したのは、江戸時代の初期の頃です。歴史学者、大石慎三郎氏は『江戸時代』(中公新書)で次のように説明しています。

「・・・戦国初頭から四代綱吉の治世半ば頃までは、わが国の全歴史をとおしても、他の時代に類のないほど土木技術が大きく発達し、それが日本の社会を変えた時代であった。

・・・戦国騒乱を生き抜いて大をなした人は、優れた武人であると同時に、また、治水土木家でもあった。・・・」

         寺田池に水が集まらない

 戦国時代の土木技術が大いに進み、それが江戸時代に農業に転用され、江戸時時代のはじめは、一大土地開発の時代をむかえました。

 寺田池あたりでも開発が進み、野辻村(寛文67年)・寺田新村(明暦年間)・西谷新村(延宝7年)が新村として独立しています。

 地図の幸竹、森安、野際(いずれも稲美町)等、寺田池の水源になっている地域にも、この時代に新しく村が誕生しました。



 それらの村々は、当然水を確保するため、多くの池をつくりました。さあ、大変です!・・・・寺田池に水が集まらなくなりました。(地図中の「←」は雨水の流れる方向)

 そのため、寺田池は新しく水源を求めねばならなくなりました。そこで考えられたのが、神野小学校の南を流れる曇川の上流から水を引くという計画でした。





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平岡町をゆく(7) 寺田用水物語(1)

2024-06-27 10:32:08 | 加古川市の歴史・平岡町編

      平岡町をゆく(7) 寺田用水物語(1)

 印南野台地の歴史は、水との闘いの歴史でした。

 承応三年(1654)、この年の旱魃(かんばつ)は、猛烈なものでした。

 太陽が無常にも、ひからびた大地を照りつけました。

 秋の収穫は当然ことのように、ほとんどありません。

 餓死する者は、後をたちませんでした。

 二俣村には、この年の事情を伝える文書「播磨賀古新疎水道記」が円明寺に伝えられていました。

 この記録に関しては、後日紹介します。

 この年の旱魃は、印南野台地にある村々では同じでした。



 新在家あたりのお百姓さんに語ってもらいましょう。

 このお百姓さんの会話は、記録にもとづくものではありません。想像です。

A:庄屋  B:村役)

 A:わしらも五ヶ井郷(加古川町・尾上町を流れる用水の村々)のような溝(用水)ができないものかな。

 B:水を引くと言ったって、どこから引くのですか。加古川ですか・・・喜瀬川からですか・・・

 A:そうよな。加古川は少し遠いし、この土地は高すぎるし、無理だろうな。

 それに喜瀬川の水は少ないし、わし等が使うとなると黙ってはいまい。

 B:やはり無理ですか・・・

 A:曇川(くもりがわ)から水は引けないものだろうか。

 B:あの川は、だめでしょう。あの川は、雨が降ったときにだけ流れがあり、普段、    水はありませんよ。

 曇って雨のあるときだけ流れるので「曇川」って呼ばれていますよ。

 それに、低いところを流れていますから・・・

 A:印南野台地の高いところを削り、水を引く。そして、曇川の水が流れる時に、寺田()に水を取り入れ、貯めておくんです。

 寺田池に水さえあれば、日照の時でも今のような惨めな生活から抜けだせるのだが・・・



 きっと、こんな会話があったのではないでようか。

 事実は、どのような過程で曇川から寺田池までの溝(用水)つくる話は進んだのか、記録が残されていないのでわかりません。

 曇川から寺田池までの溝(寺田用水)の工事が決定され、藩に自普請(藩の工事ではなく、村々で費用をまかなう)ながらも認められました。

 やがて、寺田用水は完成しました。・・・

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平岡町をゆく(6) 印南野台地のはなし(5) (民話)印南野の野猪

2024-06-26 09:31:21 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

          平岡町をゆく(6) 印南野台地のはなし(5) (民話)印南野の野猪

 印南野は、江戸時代になり本格的に開拓がはじまりました。

 水が乏しかったため長い間、人の入植を拒んでいました。古代から印南野は街道筋の一部を除いて随分寂しいところでした。

そのため、印南野(台地)には、こんな民話が伝わっています。

   ◇(民話)印南野の野猪◇

 西の国から一人の旅人が都へ急いでいた。

 日が暮れてしまった。辺りを見渡したら、一軒の小さな、今にも壊れそうな小屋がありました。

 夜がふけたが、その夜は、なかなか寝つけませんでした。暗闇を通して遠くから念仏を唱える声が伝わって不気味に聞こえてきます。松明をかざし、葬式のようでした。

 家の前まで来るとピタリと止まり、土を掘り棺を埋めはじめたのです。

 作業は終わったようです。時間が過ぎました。

 じっと墓を見ていると、なにかが動きだしました。

 「はて?」とよく見ると、裸の人が土の中から出てきました。そしてこちらへ向かってきたのです。

 「危ない!・・」と思い、旅人は家を出て、その怪物に切りつけました。

「ギャー」

 手ごたえがありました。

 旅人はあまりの恐ろしさに、後を見ず、いちもくさんに走りました。

 人家のあるところにたどりついたころで、夜が明けました。

 この話を聞いた村人は、旅人と一緒にその場所へ引き返しました。

 そこに、大きな野猪が切り殺されていました・・・



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平岡町をゆく(5) 印南野台地のはなし(4) 文学にみる印南野

2024-06-25 09:58:46 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

     平岡町をゆく(5) 印南野台地(5) 文学にみる印南野

 私たちの生活の舞台である印南野(いなみの)はしばしば文学にも登場します。

 清少納言は『枕草子』で、印南野を嵯峨野についで二番目にあげています。

 野は、嵯峨野さらなり。

 印南野。 

 交野(かたの)。

 飛火野(とぶひの)。

 しめ野。

 春日野。

 そうけ野こそ、すずろにおかしけれ・・・・

  *すずろにおかしけれ・・・・・心ひかれて、趣がある

 清少納言が、野について述べているところで、印南野を二番目に取り上げた理由は分かりません。

 特別な個人的なつながりや思い出があったとも考えられません。

 とすれば、印南は中央(京都)でも広く知られていた地名であったようです。

 印南野がもっとも多く登場するのは、なんと言っても『万葉集』です。

(山部赤人)

 印南野の 浅茅押しなべ さねる夜の けながくしあれば 家し偲はゆ (巻六ー九四○)



 《いなみ野の短い茅(ちがや)を押しなびかせて寝る夜の日数がつもったので、家が恋しくなった》

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平岡町をゆく(4) 印南野台地のはなし(3) 平岡町は海岸段丘上の町

2024-06-24 09:47:43 | 加古川市の歴史・平岡町編

 

           平岡町をゆく(4) 印南野台地のはなし(3) 平岡町は海岸段丘上の町

  別府町のイトーヨーカドーの西の道を北にサイクリングしてみましょう。

  平岡町の東加古川郵便局横の三ツ池あたりから坂になっています。しばらく行くと新在家あたりでまた一段あがります。

  この台地は山陽本線を越えたあたりで、いったん下がり、いなみの学園、農業高校付近まで上あがり続け、寺田池の北方でさらにあがります。

 何段かの東西に続く坂があり、坂の上に段丘があることがよく分かります。

 野口・平岡・播磨町の地域は、大きく3つの段丘からなっています。

 この段丘は、気候変動によるものです。

 およそ24万年前、地球が暖かくなり、海が大きく陸地に押し寄せる大海進がありました。

 やがて氷期になり、海は大きく後退(海退)します。

 その後も地球は、温暖な時期と寒冷な時期を繰り返しました。

 やがて氷河期が終わり、温暖な時期になると、海進があり海岸線で侵食作用が始まり、海蝕崖をつくります。

 海面は平らなため、平岡町辺りでは東西に続く侵蝕崖ができました。

 寒冷期になります。海は再び遠くへ遠ざかります。この間、印南野台地は、少し隆起しています。

 ですから、次の温暖な時期にはより南の海岸で新しく海蝕崖を作ります。

 このように、印南野台地の周辺部では数個の段丘面が形成されました。

 海蝕崖のあたりは、長い歴史の中で緩やかな坂になって残っています。 

 12,3万年頃にも大きな海進ありました。新井用水あたりは海底となり、土砂が堆積しました。

 再び、氷期に入り、海底は陸地になりました。時期は約6・7万年前から1万年前の時期です。

 この間に、三ツ池辺りからの一段高い段丘面が形成されました。

 新井用水より北の土地は、この時形成された段丘面です。

 そして、新井用水辺りは海蝕崖、つまり海岸でした。

 *図は『加古川市史(第四巻)』より(部分)

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平岡町をゆく(3) 印南野台地のはなし(2) 平岡町は海の底

2024-06-23 09:59:34 | 加古川市の歴史・平岡町編

        平岡町をゆく(3) 印南野台地のはなし(2) 平岡町は海の底

 「印南野台地は、かつて海の底であった」と言われて、信じることができますか。

 海の海の底だったのです。

 それでは、印南野台地は、どのように形成されたのでしょうか。

 図を見てください。この図は24・5万年前ごろの海岸線・水際線(推定)です。(図は『加古川市史(第一巻)』より)

 現在の印南野台地は海の底です。

 この海に川を中心として周辺から土砂が流れ込みました。

 土砂は、海底では比較的平に堆積します。

 今度は、印南野台地にあたる海底の部分の隆起がはじまりました。

 そして、比較的平らな海底であった海底が徐々に地上に姿を現しました。これが印南野台地です。

 印南の台地の隆起のようすは一様ではではなく、東の隆起が大きく西の平岡・野口辺りでは規模の小さな隆起でした。

 現在でも印南野台地の隆起は続いています。

 隆起の速度は、二俣辺りでは年間0.125mmで、東の明石市魚住町辺りでは0.35mmとなっています。

 印南野台地の誕生には、隆起作用の外に気候変動という、もう一つの要素が加わり特徴ある台地を作りあげています。

 気候変動と印南野台地については、次回のブログで調べることにしましょう。

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