犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

養老孟司著 『自分は死なないと思っているヒトへ』

2007-04-22 18:25:12 | 読書感想文
裁判とは、自分がいずれ死ぬことを忘れている人々の集まりである。裁判官も弁護士も、いずれ自分は死ぬべき存在であることを忘れて、目の前の裁判に熱中している。この人達が、殺人罪や業務上過失致死罪、危険運転致死罪の裁判をしているのだから、被害者遺族にとってはたまったものではない。

被告人は、「一生かけて償います」「一生かけて冥福を祈ります」と述べる。つまり、長生きして償って、その後は死ぬということである。もちろん、被告人は実際には償うことも冥福を祈ることも忘れるだろうが、それでも何十年かすれば死ぬだけである。被害者遺族のほうも同様である。事件のショックから立ち直ってもいずれは死ぬし、立ち直らなくてもいずれは死ぬ。この事実は誰しも否定できない。否定できないからこそ、人間はそれを見ないようにする。そして、目の前の裁判において、他人の死の周りをグルグル回っている。

養老氏は述べている。日常から死が失われたことは、その社会を作っている人間の理解力が減少することを意味している。現代人は、死を病院の中に閉じ込めてしまった。そして、人間の死は現実ではなくなり、人間が自分の頭の中で意識できるものだけを現実として受け止めるようになった。都市の中で暮らしている人間には、人間の死に対する観念がなくなり、死を前にしてうろたえてしまう。そこで、様々なタブーを置いて、そこから先は考えないという形で仕切りを作った。これが都市化であり、意識化であり、脳化である。

このように考えてみると、法律の世界で近代化や民主化と言っている事態とは、脳科学における意識化や脳化と同義である。脳化社会は何でも管理しようとして、細かい条文を作る。ここでは当然、死者はモノであるとされる。死者には人権がないからである。これは法律的には全く正しい。そして、殺人罪や業務上過失致死罪、危険運転致死罪の裁判は、死者や遺族のためではなく、あくまでも被告人のために行われる。意識化、脳化による体系としては完璧である。ただし、それは死を扱いつつ死を忘れている背理である。わからない死を恐れて、わかる死を扱うことだけに集中している。

裁判官や弁護士も、プライベートでは墓参りをしたり、仏壇に手を合わせたりしていることは当然である。そして、身内や親しい人の葬式においては、死者に語りかけているだろう。これらの行為は、死者がモノであるというならば、あり得ない話である。このように見るならば、殺人罪や業務上過失致死罪の裁判そのものが、壮大な演技である。法治国家における人間は、公平中立の裁判という建前を追求することによって、自分がいずれ死ぬことを忘れることができる。やはり、被害者遺族にとってはたまったものではない。