犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

日常言語と法律用語

2007-04-09 18:13:02 | 言語・論理・構造
裁判員制度の導入に先立って、法廷における難解な専門用語のわかりやすい言い換えが試みられている。しかし、法律の専門家の間からは、一般用語ではなかなか大切なニュアンスが伝わらないという悩みが述べられている。それもそのはずである。専門用語とは、まさに日常的ではなく人為的に作った言語だからである。

法律家は、法律用語に対応する現象がこの世に存在し、それを専門用語である法律用語のみによって正確に言い表していると信じている。そして、論理的に不明確かつ曖昧である日常用語では、その現象を正確に言い表すことはできないと考えている。しかし、ここで見落とされている重大な事実がある。それは、法律用語など知らなくても、この世のほとんどの人間は普通に生活をしているという事実である。

難解な専門用語の言い換えは、日常言語によってなされるしかない。すなわち、専門用語は日常言語によって説明される。法律用語辞典は、専門用語から日常用語への言い換えをまとめたものである。すなわち、日常言語は専門用語を説明することができる。専門用語とは、日常言語を前提とし、その先に人工的な概念を構築するものである。すなわち、専門用語は不可避的に日常言語に依存している。

これに対して、専門用語によって日常言語を説明することはできない。日常言語は、専門用語に依存していない。日常言語は1次的であり、人間の言語活動の基盤である。このような論理的な順番を捉える限り、「日常言語は不明確であり専門用語に及ばない」という認識は、話が逆である。日常言語を習得してない人間は、専門用語も習得できない。「まず専門用語が存在しており、それを日常用語で言い換える」という作業には困難が伴う理由である。

裁判は国民に身近なものでなければならず、難しい専門用語は言い換えられるべきであるという意見は、大昔からある。このように社会に向かって主義主張を叫んでいるだけならば、話は簡単である。問題なのは、言い換えようとしてもなかなか上手く言い換えられないという現実に潜む原因である。これが法律学の領域を超え、言語学や分析哲学にまで関係することを知ったとき、法律家は途方に暮れてしまうだろう。

宮崎哲弥編著 『人権を疑え!』

2007-04-09 18:10:46 | 読書感想文
法学部で初めて憲法の授業を受けた学生が混乱するのが、人権規定の私人間効力の問題である。憲法学の通説においては、憲法の人権規定は公権力と私人との間についてのみ適用されるものであり、私人間の争いには憲法の人権規定は直接に適用されず、民法の一般条項の適用においてその趣旨が考慮されるにとどまるとされる(間接適用説)。これは、三菱樹脂事件最高裁判例(昭和48年12月12日)で確立した判例法理である。私人は、人権規定の名宛人ではない。

しかしながら、現代の我が国における「人権問題」の文脈は、この枠を遥かに超えている。公共機関は私人である国民に対して人権啓発活動や人権教育を行い、「守ろう人権」「広げよう人権」といった標語が普通に使われ、人権週間には人権作文コンテストが行われる。「暮らしの中に憲法を」「憲法を生かす生活」といった政党のスローガンもある。法学部の学生が混乱するのは、我が国一般的な現状と、憲法学の間接適用説とのギャップである。

このような人権概念の混乱について、宮崎氏はこの本で7年も前に触れている。しかし、憲法学者は未だにほとんど触れたがらない。その理由は、宮崎氏も指摘するとおり、論理的要請よりもイデオロギー的要請を優先させていることに基づく。論理的に見れば、人権の対公権力性を前提とする限り、人権は単に相対的なルールとなり、絶対普遍の真理でも何でもなくなるはずである。公権力は人権を守らなければならないが、一般私人はその名宛人ではなく、人権など守る義務など全くないからである。しかし、反公権力のイデオロギーからは、「人間が生まれながらにして固有している権利」という人権の絶対性を捨てるわけにはいかない。私人は憲法の人権規定など関係がないとして無視するのではなく、公権力に対してともに戦い、権力の濫用を監視しなければならないからである。

かくして、我が国では人権概念がずっと混乱している。あたかも2つの人権概念が存在するかのようである。1つは狭義の人権であり、法律的意味の人権、憲法学における人権である。これは私人間に直接適用されない。もう1つは広義の人権であり、道徳的意味の人権、社会学における人権である。これは私人間にも直接適用される。人権概念のインフレ化と言われるが、これは国民に向かって人権の対公権力性を説明しようとしなかった憲法学者の責任も大きい。

犯罪被害者の人権をめぐる概念の混乱も、この延長線上にある。人権派と言われる人々は、「暮らしの中に憲法を」「憲法を生かす生活」といったスローガンを掲げ、あたかも私人間にも人権規定が直接適用されるように述べる。そこで、犯罪被害者がその人権を主張しようとすると、今度は人権の対公権力性の大原則に戻り、犯罪被害者の人権という概念はあり得ないと述べる。これが2つの人権概念の間で振り回されている被害者の苦しい状況である。