犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「覚える」という単語を覚えるということ

2007-04-26 19:21:46 | 言語・論理・構造
言葉が脳内現象である以上、自己の意識と他者の意識は本来的に断絶している。法解釈も事実認定も、すべては断絶の世界である。他人の心の中を覗き込むことはできない。世界全体を見渡す「神の視点」はない。これに気づいたとき、人間は言語ゲームを「していざるを得ない」ことに気付く。

他者の脳の中には神経細胞があり、そこに他者の心と言葉があるはずである。しかし、すべては自分の心と言葉から類推するしかない。それ以上進めないからである。人間はそうであるにもかかわらず、辛うじて他者とコミュニケーションすることができる。ここで、言葉はコミュニケーションの手段だと言っている限りは、この驚くべき言語ゲームの構造に気付くことはできない。驚くべきこととは、単語の1つ1つを取り上げてみて、自分がその言葉をいつどこで覚えたのか、思い出すことができないということである。これが、人間は言語ゲームを「していざるを得ない」ということである。

そもそも、自分は「覚える」という単語をどうやって覚えたのか。これはパラドックスである。今こうして生きている人間は、誰しも「覚える」という単語を最初に覚えた瞬間があったはずである。3歳から5歳の間のどこかで、それを学んだ瞬間が必ずあったはずである。しかし、それをいつどこで覚えたのか、それを覚えている人は絶対にいない。なぜなら、「覚える」という単語を覚えたことを覚えているためには、それ以前に「覚える」という単語を覚えていなければならないからである。これは無限後退に陥る。記憶力の問題ではなく、論理の問題である。これに気付いてしまうと、人間は言語ゲームの網の目の中に投げ込まれ、絶対に逃げられないことが実感できる。そして、言葉をコミュニケーションの手段として使いこなすという態度の甘さが見えてくる。

人間は、一度も自分の意識の中での言葉の意味の理解が、他人の意識の中での言葉の意味の理解と同じであるとはっきりと確認したことはない。にもかかわらず、それを前提に言葉を話しているならば、それは言語ゲームのルールを守っていることである。人間は否応なしに言語ゲームの網の目の中に投げ込まれている。日本人は日本語で文章を書いているが、その文字はその人間が発明したものではない。生まれたときには、すでに前の時代の日本人の誰かが作った言語ゲームに参加してしまっているしかない。

この恐るべき事実は、日常会話にもあてはまるし、言葉を厳密に定義する専門用語にもあてはまる。そもそも、専門用語を定義するには日常会話の単語と文法に頼らざるを得ない以上、法定立や法解釈なども、2次的言語ゲームの遂行という形にならざるを得ない。故意・過失の認定も同様である。こうしてみると、人間が法律を使いこなすという態度は、いかにも恐れ多いことがわかる。法律家は一言一句に心血を注いでいると自負することがあるが、これも恐れ多い態度である。

池田晶子著 『人間自身 考えることに終わりなく』 第Ⅱ章「麻原彰晃の死刑確定について思うこと」より

2007-04-26 19:18:03 | 読書感想文
犯罪者が裁判において否認し、黙秘し、弁解をするのはなぜか。法律学からは、例によってこのような解答が返ってくるだろう。どんな凶悪犯人にも人権があり、国家権力による刑罰権に対しては防御権が認められなければならない。これは全くその通りである。それでは、そのような理論を主張したくなる根底の動機は何か。これを遡って行くと、やはり実存的不安の状況が見えてくる。それが死の恐怖である。

死刑判決を受ける可能性のある犯罪者にとっては、この実存的不安は決定的である。しかしながら、いかなる犯罪者にとっても、この不安は確実に存在する。それは、人間は生きている以上、1秒1秒死に近づいているという事実によってもたらされる。拘置所で未決勾留されている間にも、一度しかない自分の人生の残り時間は、1秒1秒確実に減っている。刑務所で懲役3年とも5年ともなれば、その残り時間は一気に奪われる。人間が少しでも軽い刑を求めて戦い、執行猶予を求めて戦うことは、人間が死の恐怖から逃れられない以上は必然的である。

犯罪被害者のことを考えれば、自分の人生の残り時間を差し出しても、これを償わなければならない。これは論理的に正しい。しかし、そうは言っても、やはり自分の人生は自分の人生であり、自分の生死は自分の生死である。1秒1秒死に近づいているのは、他でもないこの自分である。これも絶対に逃れられない人間の存在の形式である。一度しかない自分の人生であるから、拘置所や刑務所などに入っている場合ではない。人間の存在形式がこのようなものである以上、犯罪者が自分の罪を棚に上げて否認し、黙秘し、弁解をすることは必然的となる。

刑罰は国家権力による人権侵害である。これは全くその通りであり、法律学的には正しい。しかし、それは刑罰の1つの側面しか見ていない。刑罰とは、人間の人生の残り時間を強制的に減らすものであり、それによって実存的不安と死の恐怖をもたらすものである。弁護士が長々と主張する法律の理屈は、それはそれで正しい。しかし、犯罪者がそれを援用したくなる動機を掘り下げてみれば、そこには必ず哲学的な問題がある。

近代刑法の理論によって、刑罰は国家権力による人権侵害であるという側面のみが絶対化されることによって、被害者の見落としは必然的となる。犯罪者の側の実存的不安の動機は、刑法の人権論の主張につながる。これに対して、被害者の側の実存的不安の動機は、刑法の人権論の主張につながらない。犯罪者は、その実存的不安と死の恐怖によって、裁判では否認や黙秘や弁解をする。しかも、そのような犯罪者の行動は、国家刑罰権に対する正当な防御権として認められることになる。

裁判の法廷とは、犯罪者の実存的不安が端的に表れる場所である。一般社会では到底通用しないような稚拙な弁解が、大真面目で述べられる場所である。犯罪者は、自己の戦いは国家刑罰権に対する正当な防御権であると述べて、死の恐怖を表面には出さない。しかしながら、そのような正当な防御権を主張したくなる根本的な動機は、やはり死の恐怖に他ならない。まずはこの事実を直視する必要がある。

どんな凶悪犯人にも人権がある。しかしながら、凶悪犯人がその人権を主張したくなるのは、死の恐怖からである。従って、死の恐怖からの逃避が目的であり、人権はそのための手段にすぎない。すべての根底には、人間の生死という存在の形式がある。このような事実を直視すれば、凶悪犯人が自分の人権ばかりを主張して、被害者を軽視しても、被害者はそれほど真面目に憤慨する必要がなくなる。凶悪犯人は死の恐怖から逃れるために、使える理屈は使おうという程度の話であって、崇高な人権論は手段にすぎないからである。