犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中嶋博行著 『罪と罰、だが償いはどこに?』

2007-04-05 20:30:21 | 読書感想文
1人の人間が犯罪で命を落とすことの理不尽さを正面から捉えることは、人間から生死を遠ざけている戦後民主主義の文脈では難しい。「人生」や「人命」といった概念は、もともと法律学の文脈には存在しない。刑法や刑事訴訟法、少年法の中にも存在しない。刑法208条の2は危険運転「致死傷」罪であり、刑法211条は業務上過失「致死傷」罪であり、全治1週間の怪我と死亡とを同じ条文に定めている。これも、世の中はそういうものだと思って見てしまえば、そのようにしか見えなくなる。

法律家の文章は、小難しい専門用語と独特の言い回しによって高尚なことを論じているような錯覚を与えるが、これも国民に対して権威を示すための技術にすぎない。特に、「人生」や「人命」といった概念を語ることについては、最初から放棄している。会社などの法人も、法律上は「人」である。失踪宣告がなされた人間は、仮に生きていたとしても、法律的には死んだものとして扱われる。これが法律の条文の中の「人」であり、「生死」である。

人権という概念は、500万年の人類の歴史において、わずか200年前に発明されたものにすぎない。これを単純に歴史の発展段階として捉えてしまっては、ヘーゲルの弁証法は台無しである。自己の生死の弁証法を見据えなければ、なぜこの自分が他の時代ではなく、今この時代を生きているのかという視点を見落とす。過去と未来の弁証法という視点によるならば、200年前を見ることによって200年後も見えるし、500万年前を見ることによって500万年後も見える。憲法は「歴史の経験」に基づいて「永久」の時間軸を持ち込んでいるが、これでは「人生」や「人命」といった概念は語れない。

人権論における性善説は、その善性について、どんな凶悪犯人でも反省して更生する可能性を持っているという意味で捉える。これは、善性を外部から与える転倒であって、論理的な形式としての善悪を捉えているわけではない。善性を将来における更生の可能性と結びつけてしまえば、この一瞬における人間の存在の形式を取り逃がす。被害者遺族が凶悪犯人の更生など望む気になれないのは当然である。善悪の弁証法と生死の弁証法を統一的に捉えるならば、人を殺した者は死んでお詫びをしたくなるのが当然であって、犯罪者はそのような葛藤の中では更生する余裕などないはずだからである。

犯罪の被害者や遺族が刑事裁判の法廷で民事上の損害賠償を請求できる附帯私訴制度の導入を盛り込んだ刑事訴訟法の改正案が閣議決定され、中嶋氏が提案している「新人権主義」に向けて制度が動き出した。これまでは民事裁判と刑事裁判で結論が異なることがあったが、このようなドタバタは法治国家の自己矛盾を端的に示している。法学者は、民事訴訟は私的自治の原則が支配しており、刑事訴訟は無罪の推定の原則が支配しており、「だからこそ」両者で結論が異なることは正しいのだと言いたがる。このような結論に至ることは、むしろ法律学の高尚さを示すものだという理屈である。これに騙される国民も哲学がないが、法律家の理屈もその場しのぎの苦しい弁解に過ぎない。