犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

高橋シズヱ・河原理子編 『<犯罪被害者>が報道を変える』

2007-04-27 19:21:43 | 読書感想文
犯罪被害者に対する取材や報道が、単なる興味本位やスクープ、視聴率獲得のためになされることは論外である。問題なのは、社会正義のための取材や報道が、結果的に報道被害をもたらしてしまう場合である。すなわち、事件や事故の悲惨さを伝え、二度と同じことが起こらないように警鐘を鳴らし、命の尊さを訴えるための取材や報道が、被害者にとっては報道被害と感じられてしまう場合である。正義感があふれる故の報道被害である。

これは、国民の側の知る権利も同様である。興味本位や覗き趣味は論外である。しかし、事件や事故から教訓を得て、被害者と怒りを共有し、悲しみを分かち合い、社会全体で考えて行こうという正義感ですら、犯罪被害者に対しては逆に作用してしまうことがある。そのような国民のニーズに応えようとすれば、マスコミの正義感が煽られ、よりインパクトのある取材や報道によって世の中に強く訴えたいと思ってしまうからである。そこでは、マスコミによる勝手なストーリーが作られることが多い。

ここで、マスコミの権利と犯罪被害者の権利について法律論で調整しようとするならば、問題の核心を取り逃がすだろう。確かに、マスコミの権利は取材の自由・報道の自由・国民の知る権利への奉仕(憲法21条)などであり、犯罪被害者の権利は人格権・肖像権・名誉権・プライバシー権(憲法13条)などであり、両者の対立構図を描くことができる。しかし、両者は抽象度が違いすぎる。マスコミが命の尊さを訴え、事件や事故から教訓を引き出そうとし、社会全体に貢献しようとすることは、非常に抽象度が高い。これに対して、被害者が無神経にマイクを向けられたり、いきなり写真を撮られたり、報道陣に囲まれて自宅に入ることができなかったりすることは、極めて個別具体的な生活利益の問題である。

マスコミによる犯罪被害者の取材と報道は、それが正義感によってなされる限り、権利であると同時に義務となる。取材と報道は、使命感と義務感によってなされるものとなる。そこでは、国民に対して二度と同じことが起こらないように警鐘を鳴らさなければならず、それを実現することが絶対的な正義となる。これは必然的に報道被害を引き起こす。マスコミにおける抽象的な正義と、被害者における個別具体的な利益とは、全く矛盾するものではなく、完全に両立する。そうであるが故に、それ自体では絶対的な正義である取材と報道が、同時に被害者にとっては報道被害となる。

マスコミの正義感あふれる取材と報道は、それが社会正義の実現をもたらし、被害者救済にもつながることを信じてなされるものである。単なる興味本位や覗き趣味でなければ、それ以外ではあり得ない。内容は形式に規定される。しかしながら、それが実際に社会正義の実現をもたらし、被害者救済にもつながるか否かは別の話である。社会正義が実現すると思っているのは、あくまでもマスコミの側だからである。自己を正義の側に置き、それが被害者の救済につながると思っているならば、その欺瞞は被害者に見抜かれるであろう。それは正義の押し付けだからである。正義であるならば、それは単に正義であるというそれだけのことであり、押し付ける必要もなければ、あえて実現する必要もないはずである。

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