犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島義道著 『哲学者というならず者がいる』 その2

2007-04-25 19:05:51 | 読書感想文
専門家の常識は、一般人の非常識であると言われることがある。法律万能主義は、犯罪被害者の人生までも条文の中に押し込めて説明しようとする。犯罪被害者の裁判制度への違和感は、哲学から法律学への違和感でもある。

あまりに細分化しすぎた近代刑事裁判の理論は、哲学的視点から大局的に捉え直してみる必要があるだろう。これによって、被害者保護法制についても新たな視点が開けてくる。以下に、「自分は社会問題にまったく興味がない」と公言している中島氏の文章を引用する。


p.108~109より抜粋

現代人は、犯罪や事故が起こると、原因を追及するが、その場合最優先されるのは科学的原因である。しかし、こと人間の行為になると、法則も力もきわめて複雑になる、不確定になる。たしかに、あのダンプカーが歩行者の群れに突入して3人の児童を殺した過程は確認された。この過程はどこまでも細かく記述できるだろう。だが、これだけではまだ原因は完全に解明されていないとわれわれは考える。もう一つ足りないものがある。それは、運転手のからだに潜む「心の動き」を含めたディスポジションである。事故が起こったのは、彼が「酩酊していたから」であり、「不注意だったから」なのだ。

われわれがある現象の原因を問うということは「見えないもの」の世界へ足を踏み出すことである。その一部は科学的法則に支配された物質の関係に行き着くことによって、うまく説明できるが、そうでない膨大な現象についても、どうにかして納得したいという思いを消すことはできない。だから、みんなこぞって納得できる「見えないもの」を仮定し、それがこの現象を引き起こしたというお話を拵え上げ、安心したいのである。


p.137~138より抜粋

大衆が自信に満ちている時、そしてエリートがそれにへつらう時(つまり、現代日本)こそ、哲学が必要なのではないかと思う。だが、それは多くの政治家や評論家の語っている意味内容とはまるで違っており(むしろ逆である)、どの時代のどの社会においても、じつは「善い」とは何か「悪い」とは何かを知ることは、おそろしく難しいということを徹底的に認識することである。

そして、ライプニッツの言うように、ほんとうに物事の真相に分け入ってみれば、犯罪行為に至る因果関係など複雑怪奇でわかるはずもなく、ニーチェの言うように、とりわけ被疑者の「意志」や「動機」などふわふわととらえどころのないものであり、もしかしたらすべてはただのフィクションではないのか、という問いである。

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