犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

部分的言語ゲームとしての裁判ゲーム

2007-04-27 19:26:07 | 言語・論理・構造
自白法則、違法収集証拠排除法則というルールがある(憲法38条2項、刑事訴訟法319条1項)。被告人の自由意思に反して自白を強制し、その他不当な方法で集められた供述や証拠物は、有罪の認定に使ってはならないというルールである。問題は、このルールの存在そのものではない。覚せい剤取締法違反・大麻取締法違反から強盗殺人罪・危険運転致死罪まで、全く同じようにこのルールを用いていることによって生じる被害者の違和感である。

法律家は、法律用語を駆使するプロである。そこでは、一般的な言語ゲームとは異なった部分的・2次的な言語ゲームが展開される。部分的言語ゲームの網の目に入ってしまえば、そのゲームの適切な遂行が、思考パターンの固定ということになる。そこでは、大麻取締法違反も危険運転致死罪も、同じ構成要件という枠で一括される。法律家は、これ以外の思考方法によっては、もはや裁判を遂行することができない。

部分的言語ゲームは、まさに人工的なゲームである。裁判とは、有罪・無罪を争う裁判ゲームであり、当事者が専門用語を駆使して争う法廷ゲームである。そのゲームのルールが自白法則や違法収集証拠排除法則であり、これは罪の重さによって変えられていない。憲法38条2項がそのことを表している。被告人の防御権という視点においては、大麻取締法違反も危険運転致死罪も全く同じである。弁護士は、被告人の無罪や軽い刑を求めて争い、検察官や裁判官もこれに応じる。自白の強要や不正な捜査が疑われたならば、どんな事件であろうとそれを問題にして争う。これが人工的なゲームのルールだからである。

犯罪被害者遺族が耐え難いのは、まさにこの点である。自白法則や違法収集証拠排除法則というルールは、人間の生死という存在形式とは何の関係もない。弁護士が被告人の無罪や軽い刑を求めて争うことは、無銭飲食や痴漢、大麻取締法違反から危険運転致死罪まで全く同様であって、人間の生死とは何の関係もない。専門用語を駆使して争う法廷ゲームは、単に罪を裁くだけのゲームであり、最愛の人の命を奪った人間の罪を裁くことは、その中の1つの表れにすぎないということである。弁護士は、大麻取締法違反も危険運転致死罪も同じように、当然のように自白の強要や不正な捜査を槍玉に上げて戦いを挑む。

条文の中における「人を殺した」という言語は、単に構成要件に該当する被告人の行為である。従って、その言語レベルは、「100円のボールペンを万引きした」「大麻を吸った」と同等である。裁判ゲームは、これ以外の思考方法によっては遂行することができない。この部分的言語ゲームを的確に遂行するということは、そのルールを会得することであり、それはそのような思考パターンに慣れるということである。すなわち、人間の生命と100円のボールペンを同等に並べても、法律家は違和感を持ってはならないということである。

高橋シズヱ・河原理子編 『<犯罪被害者>が報道を変える』

2007-04-27 19:21:43 | 読書感想文
犯罪被害者に対する取材や報道が、単なる興味本位やスクープ、視聴率獲得のためになされることは論外である。問題なのは、社会正義のための取材や報道が、結果的に報道被害をもたらしてしまう場合である。すなわち、事件や事故の悲惨さを伝え、二度と同じことが起こらないように警鐘を鳴らし、命の尊さを訴えるための取材や報道が、被害者にとっては報道被害と感じられてしまう場合である。正義感があふれる故の報道被害である。

これは、国民の側の知る権利も同様である。興味本位や覗き趣味は論外である。しかし、事件や事故から教訓を得て、被害者と怒りを共有し、悲しみを分かち合い、社会全体で考えて行こうという正義感ですら、犯罪被害者に対しては逆に作用してしまうことがある。そのような国民のニーズに応えようとすれば、マスコミの正義感が煽られ、よりインパクトのある取材や報道によって世の中に強く訴えたいと思ってしまうからである。そこでは、マスコミによる勝手なストーリーが作られることが多い。

ここで、マスコミの権利と犯罪被害者の権利について法律論で調整しようとするならば、問題の核心を取り逃がすだろう。確かに、マスコミの権利は取材の自由・報道の自由・国民の知る権利への奉仕(憲法21条)などであり、犯罪被害者の権利は人格権・肖像権・名誉権・プライバシー権(憲法13条)などであり、両者の対立構図を描くことができる。しかし、両者は抽象度が違いすぎる。マスコミが命の尊さを訴え、事件や事故から教訓を引き出そうとし、社会全体に貢献しようとすることは、非常に抽象度が高い。これに対して、被害者が無神経にマイクを向けられたり、いきなり写真を撮られたり、報道陣に囲まれて自宅に入ることができなかったりすることは、極めて個別具体的な生活利益の問題である。

マスコミによる犯罪被害者の取材と報道は、それが正義感によってなされる限り、権利であると同時に義務となる。取材と報道は、使命感と義務感によってなされるものとなる。そこでは、国民に対して二度と同じことが起こらないように警鐘を鳴らさなければならず、それを実現することが絶対的な正義となる。これは必然的に報道被害を引き起こす。マスコミにおける抽象的な正義と、被害者における個別具体的な利益とは、全く矛盾するものではなく、完全に両立する。そうであるが故に、それ自体では絶対的な正義である取材と報道が、同時に被害者にとっては報道被害となる。

マスコミの正義感あふれる取材と報道は、それが社会正義の実現をもたらし、被害者救済にもつながることを信じてなされるものである。単なる興味本位や覗き趣味でなければ、それ以外ではあり得ない。内容は形式に規定される。しかしながら、それが実際に社会正義の実現をもたらし、被害者救済にもつながるか否かは別の話である。社会正義が実現すると思っているのは、あくまでもマスコミの側だからである。自己を正義の側に置き、それが被害者の救済につながると思っているならば、その欺瞞は被害者に見抜かれるであろう。それは正義の押し付けだからである。正義であるならば、それは単に正義であるというそれだけのことであり、押し付ける必要もなければ、あえて実現する必要もないはずである。