自白法則、違法収集証拠排除法則というルールがある(憲法38条2項、刑事訴訟法319条1項)。被告人の自由意思に反して自白を強制し、その他不当な方法で集められた供述や証拠物は、有罪の認定に使ってはならないというルールである。問題は、このルールの存在そのものではない。覚せい剤取締法違反・大麻取締法違反から強盗殺人罪・危険運転致死罪まで、全く同じようにこのルールを用いていることによって生じる被害者の違和感である。
法律家は、法律用語を駆使するプロである。そこでは、一般的な言語ゲームとは異なった部分的・2次的な言語ゲームが展開される。部分的言語ゲームの網の目に入ってしまえば、そのゲームの適切な遂行が、思考パターンの固定ということになる。そこでは、大麻取締法違反も危険運転致死罪も、同じ構成要件という枠で一括される。法律家は、これ以外の思考方法によっては、もはや裁判を遂行することができない。
部分的言語ゲームは、まさに人工的なゲームである。裁判とは、有罪・無罪を争う裁判ゲームであり、当事者が専門用語を駆使して争う法廷ゲームである。そのゲームのルールが自白法則や違法収集証拠排除法則であり、これは罪の重さによって変えられていない。憲法38条2項がそのことを表している。被告人の防御権という視点においては、大麻取締法違反も危険運転致死罪も全く同じである。弁護士は、被告人の無罪や軽い刑を求めて争い、検察官や裁判官もこれに応じる。自白の強要や不正な捜査が疑われたならば、どんな事件であろうとそれを問題にして争う。これが人工的なゲームのルールだからである。
犯罪被害者遺族が耐え難いのは、まさにこの点である。自白法則や違法収集証拠排除法則というルールは、人間の生死という存在形式とは何の関係もない。弁護士が被告人の無罪や軽い刑を求めて争うことは、無銭飲食や痴漢、大麻取締法違反から危険運転致死罪まで全く同様であって、人間の生死とは何の関係もない。専門用語を駆使して争う法廷ゲームは、単に罪を裁くだけのゲームであり、最愛の人の命を奪った人間の罪を裁くことは、その中の1つの表れにすぎないということである。弁護士は、大麻取締法違反も危険運転致死罪も同じように、当然のように自白の強要や不正な捜査を槍玉に上げて戦いを挑む。
条文の中における「人を殺した」という言語は、単に構成要件に該当する被告人の行為である。従って、その言語レベルは、「100円のボールペンを万引きした」「大麻を吸った」と同等である。裁判ゲームは、これ以外の思考方法によっては遂行することができない。この部分的言語ゲームを的確に遂行するということは、そのルールを会得することであり、それはそのような思考パターンに慣れるということである。すなわち、人間の生命と100円のボールペンを同等に並べても、法律家は違和感を持ってはならないということである。
法律家は、法律用語を駆使するプロである。そこでは、一般的な言語ゲームとは異なった部分的・2次的な言語ゲームが展開される。部分的言語ゲームの網の目に入ってしまえば、そのゲームの適切な遂行が、思考パターンの固定ということになる。そこでは、大麻取締法違反も危険運転致死罪も、同じ構成要件という枠で一括される。法律家は、これ以外の思考方法によっては、もはや裁判を遂行することができない。
部分的言語ゲームは、まさに人工的なゲームである。裁判とは、有罪・無罪を争う裁判ゲームであり、当事者が専門用語を駆使して争う法廷ゲームである。そのゲームのルールが自白法則や違法収集証拠排除法則であり、これは罪の重さによって変えられていない。憲法38条2項がそのことを表している。被告人の防御権という視点においては、大麻取締法違反も危険運転致死罪も全く同じである。弁護士は、被告人の無罪や軽い刑を求めて争い、検察官や裁判官もこれに応じる。自白の強要や不正な捜査が疑われたならば、どんな事件であろうとそれを問題にして争う。これが人工的なゲームのルールだからである。
犯罪被害者遺族が耐え難いのは、まさにこの点である。自白法則や違法収集証拠排除法則というルールは、人間の生死という存在形式とは何の関係もない。弁護士が被告人の無罪や軽い刑を求めて争うことは、無銭飲食や痴漢、大麻取締法違反から危険運転致死罪まで全く同様であって、人間の生死とは何の関係もない。専門用語を駆使して争う法廷ゲームは、単に罪を裁くだけのゲームであり、最愛の人の命を奪った人間の罪を裁くことは、その中の1つの表れにすぎないということである。弁護士は、大麻取締法違反も危険運転致死罪も同じように、当然のように自白の強要や不正な捜査を槍玉に上げて戦いを挑む。
条文の中における「人を殺した」という言語は、単に構成要件に該当する被告人の行為である。従って、その言語レベルは、「100円のボールペンを万引きした」「大麻を吸った」と同等である。裁判ゲームは、これ以外の思考方法によっては遂行することができない。この部分的言語ゲームを的確に遂行するということは、そのルールを会得することであり、それはそのような思考パターンに慣れるということである。すなわち、人間の生命と100円のボールペンを同等に並べても、法律家は違和感を持ってはならないということである。