犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小浜逸郎著 『「弱者」とはだれか』

2007-04-08 18:56:13 | 読書感想文
強者・弱者の二元論で物事を考えるのは簡単でわかりやすい。しかしながら、社会にはこのような構造が固定的に存在しているわけではない。戦後50年の間、強大な国家権力を背景とする捜査機関に対して、被疑者・被告人は弱者であることに決まりきっていた。そして、このような既成事実に追随することが人権意識の発達の成果であると信じられてきた。近年になってようやく犯罪被害者保護の流れが出てきたのは、かような強者・弱者の二元論に対する率直な違和感と、素朴な正義感に基づくものである。もっとも、犯罪被害者こそ真の弱者であるという「弱者競争」に流れることは意味がない。強弱の形式は、あくまで相対的なものである。

政治的な強者・弱者の二元論は、人間の実存に関する微妙な問題を、すべて大雑把な社会的問題の文脈に取り込んでいる。被疑者・被告人は、自らが弱者であることを声高にアピールするようになり、そのルサンチマンを隠蔽する誘惑に駆られることとなる。これが戦後民主主義の欺瞞の構造であった。ここから、被疑者・被告人に対する遠慮の構造が生じてくる。被疑者・被告人は弱者として聖化され、人間の自然的な感情に逆らうような理論が人権感覚の成熟の成果であると信じられてきた。

近代文明は個人の欲望の追求を許容する社会であり、政治はその摩擦の調整をしているにすぎない。このような社会においては、個人の自由といっても、それは自ら自問自答した上での実存的な自由ではない。近代社会のシステムは、犯罪という人間の実存に関わる哲学的な問題も、すべて平板な理屈に変換してしまった。どんなに高尚な近代刑事法の理論も、その根底は被疑者・被告人の下世話な欲望に支えられることとなる。人間であれば早く刑務所から出て遊びたいし、罰金を安く済ませて遊びに使いたいと思うだろうが、近代刑法はこの欲望を制度的に認めている。近代社会の刑事裁判は、被疑者・被告人が自らを防御する場であって、犯罪被害者のこと考える義務などない場所である。

強大な国家権力の前では被告人は絶対的な弱者であり、何よりも誤判の恐れを排除しようとすることから、「疑わしきは被告人の利益に」の原則が導き出される。この原則と、個人の下世話な欲望の追求を許容する近代社会の原則が結びついたとき、戦後民主主義の欺瞞的な構造が発生する。無罪判決を受けた被告人の中には、真に冤罪の者の他に、下世話な欲望のために犯罪被害者を無視した真犯人が大量に混じってくる。近代社会においては、冤罪を防ぐためにはこのような構図も「やむを得ない」と問答無用で決められた。ここにおいて、犯罪被害者の存在が構造的に見落とされることとなる。ここでは、真犯人であるにもかかわらず無罪判決を受けてしまった者の実存的な苦悩など生じようがないし、そのような視点からものを見ることすらタブーとなる。