犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

概念法学の誘惑と後遺症

2007-04-12 18:53:46 | 言語・論理・構造
「言葉の裏を読む」という言葉がある。「言葉の裏を読む」ことそれ自体が言葉である。「言葉」は言葉であり、「裏」も言葉であり、「読む」も言葉である。ウィトゲンシュタインの沈黙は、言葉によって表側しか語れないにもかかわらず、その言葉は同時に裏側を語っているという奇跡と恐怖を指し示している。しかも、その言葉が裏側を語っているそのことも、言葉によってしか語れない。やはり、人間は語りえぬものについては絶句するしかない。

論理実証主義と法実証主義は、ウィトゲンシュタインの手法を引き継ぎながら、科学主義の流れに乗って客観性信仰に走ってしまった。法律学の分野におけるこの極端な例が、「概念法学」である。これは、制定法の無欠陥性と論理的完結性とを仮定し、法令の条文を忠実に検討し、法概念の体系を形式論理によって構成することを法学の任務とする立場である。概念法学という命名は揶揄であり、条文操作が机上の空論になりがちであるという法律学の陥穽を示している。法律家が概念法学を笑えないのは、人間であれば誰しもその誘惑に魅力を感じてしまうということである。20世紀前半の法律家は、概念法学こそが時代の先端の真理であるとして、大真面目に机上の空論を掲げていた。

法実証主義が隆盛を極めた原因は、自然法論の没落の反動であった。科学主義の流れは、宗教的な自然法主義を時代遅れだとして見下し、法律言語を形式論理によって完璧に構成しようとした。これは20世紀前半の時代の空気であり、今でも想像に難くない。そこでは、ウィトゲンシュタインの手法の一部だけが上手く変形され、利用されていた。当然ながら、哲学のない技術だけが先行することになる。結局、「悪法も法なり」とする法実証主義は、第2次世界大戦によるドイツ・ナチスの悲劇に加担する結果をもたらした。

法律学は、この法実証主義の行き詰まりを、自然法論の再評価によって埋め合わせようとした。かくして、法実証主義は、ウィトゲンシュタイン哲学からは完全に離れてしまう。法実証主義は哲学のない技術となり、自然法論は哲学のない宗教となる。一方では、人権や民主主義が疑い得ない真理として君臨する。他方では、法律単語は1つ1つ厳密に定義されることにより、日常言語のような不明確さがない完璧な言語であるとされ、それを扱っている法律家に特権意識やエリート意識を生じさせる。これは、ウィトゲンシュタインの手法を引き継ぎながら、完全に逆を行ってしまっている。

犯罪被害者が発した言葉の裏に、どれほどの沈黙の深さがあるのか。その沈黙は言語以前のものであるが、人間は言語によって「それ」を語らずに示すしかない。この「それ」を感じ取るためには、法律言語の厳密な論理は、単に有害である。被害者の言いたいところを共有するには、実際に発せられた言葉よりも、その間や気配というものが重要となる。法律言語の厳密な論理によって語り得るものは、この世のごく一部の事象にすぎないからである。法律学がこの地点に立てないのは、一方では過去の概念法学の後遺症によるものであり、他方では新たな概念法学への誘惑によるものである。

小西聖子著 『犯罪被害者の心の傷』 後半

2007-04-12 18:49:28 | 読書感想文
性犯罪における最大の2次的被害は、法廷に証人として呼ばれて、被告人側の弁護士から反対尋問を受けることである。そこでは事件の内容について詳しく聞かれて、嫌でも事件について思い出すことを強制させられる。ここでは最初の心の傷を思い出す上に、さらなる心の傷を負う。

このような2次的被害の防止にとって最も好ましいことは、被害者が法廷に呼ばれないことである。これは論理的に疑いようがない。そして、そのためには、被告人がすべてを自白して反省し、被害者の捜査段階での供述調書を不同意にしないことが最も望ましい方法である。これも疑いようがない。被害者の2次的被害の防止という目的から考えれば、これが論理的に最高の選択肢である。

しかしながら、憲法は被告人に否認する権利を保障し、反対尋問権を保障している。これを綺麗ごとでなく論理的に突き詰めれば、憲法は被害者の心のケアを第一に考えていない。被告人の人権の前には、被害者の2次的被害の防止を劣後させているということである。ここでは、心理学の文脈は、完全に法律学の文脈にその主導権を譲っている。PTSDやトラウマの理論は、被告弁護側に供述調書への同意を強制することもできなければ、供述調書に証拠能力を認めさせることもできない。

もちろん現在では、ビデオリンクや遮へい板など様々な方策が用いられている。しかし、これらはあくまでも次善の策である。2次的被害の防止にとっては、被害者が裁判所に呼ばれることがなく、事件について質問されないことが最善策である。この単純な事実だけは、どうしても否定できない。現在のシステムにおいては、法律学が反対尋問権の存在を宗教的に押し付けており、心理学がその事後処理に走り回っている構図が固定している。このような心理学と法律学の力関係を前提とする限り、被害者の心のケアという文脈は、不可避的に被害者の人権の問題を精神的問題として矮小化してしまう一面がある。

犯罪被害者の2次的被害である心の傷が最高潮に達するのが、無罪判決が出てしまったときであろう。2次的被害を防ぐためには、裁判所が無罪判決を出さないことが望まれる。これも論理的に疑いがない。しかし、裁判所はそのような理由で有罪・無罪を決めるわけではない。これも綺麗ごとでは済まない事実である。

無罪の推定というイデオロギーは、被害者に対して、被告人を「条件的に」憎むという不自然な心理状態を強要する。そして、被害者は裁判が有罪になるのか無罪になるのか、不安定な状態の中で生活をしなければならなくなる。すべては裁判所に委ねられ、自分ではどうすることもできない。これが、心理学の文脈が法律学の文脈に主導権を譲っていることに基づく、被害者の2次的被害である。