近代刑法のシステムは、壮大かつ精密な体系を作り上げた。それが、細かい条文と厳格な裁判制度である。大多数の国民は、犯罪の処理という社会的な大問題について、専門家に一任することになった。それが、人間にとって不可欠な哲学的思考を封じさせる端緒となった。
このような専門家による解決が無力さを呈するのは、封じていたはずの哲学的問題が湧き上がってくる時である。それは、人間の生死が問題になった時に最も厳しく表れ、犯罪被害者遺族によって最も先鋭的な形で持ち込まれる。人間の生死の前には、どんな問題も色あせる。裁判の公正などといった天下国家の問題は、人間の生死という絶対的な事実の前には一気に説得力を失う。
裁判が公正であろうとなかろうと、死んだ人間には何もわからない。犯罪被害者遺族にとっては、最愛の人間が存在しなくなってしまったこの世の問題は、いずれにせよ大したものではない。公正な裁判の実現の議論などは、死者を置き去りにして、その周りで関係ない人達が大騒ぎしているようなものである。肝心の本人のみが不在である。
しかしながら、近代刑法の壮大なシステムは、犯罪被害者遺族をそのカテゴリーに強制的に取り込む。このような状況となれば、遺族に残された道としては、「死を無駄にしない」という方向に賭けるしかなくなる。これは政治的な争いである。被害者遺族は知らず知らずのうちに、そのような勝負に参加させられてしまう。
しかし、本来、人間の生死は政治ではない。断じて政治的な争いではない。しかも、人間の生には無駄なものが一つもないように、その死にも無駄なものなど一つもない。死を無駄にするもしないも、そもそも死が論理的に無駄になるわけがない。にもかかわらず、被害者遺族は、「死を無駄にするかしないか」という本質からずれた勝負に参加させられてしまう。
このような争いは、勝っても負けても空しい。もしも犯人が死刑を免れたならば、「死が無駄になった」という文脈に強制的に取り込まれる。そうかと言って、犯人が死刑になったときには、「それでも死者は帰ってこない」というその先のより深い問題に直面させられる。哲学的問題が法律的な問題によってねじ曲げられ、振り回された結果である。
犯罪被害者遺族が「死を無駄にしない」という方向に賭けることは、間違いではない。間違いなのは、そのような勝負を強制している近代刑法のシステムの方である。
このような専門家による解決が無力さを呈するのは、封じていたはずの哲学的問題が湧き上がってくる時である。それは、人間の生死が問題になった時に最も厳しく表れ、犯罪被害者遺族によって最も先鋭的な形で持ち込まれる。人間の生死の前には、どんな問題も色あせる。裁判の公正などといった天下国家の問題は、人間の生死という絶対的な事実の前には一気に説得力を失う。
裁判が公正であろうとなかろうと、死んだ人間には何もわからない。犯罪被害者遺族にとっては、最愛の人間が存在しなくなってしまったこの世の問題は、いずれにせよ大したものではない。公正な裁判の実現の議論などは、死者を置き去りにして、その周りで関係ない人達が大騒ぎしているようなものである。肝心の本人のみが不在である。
しかしながら、近代刑法の壮大なシステムは、犯罪被害者遺族をそのカテゴリーに強制的に取り込む。このような状況となれば、遺族に残された道としては、「死を無駄にしない」という方向に賭けるしかなくなる。これは政治的な争いである。被害者遺族は知らず知らずのうちに、そのような勝負に参加させられてしまう。
しかし、本来、人間の生死は政治ではない。断じて政治的な争いではない。しかも、人間の生には無駄なものが一つもないように、その死にも無駄なものなど一つもない。死を無駄にするもしないも、そもそも死が論理的に無駄になるわけがない。にもかかわらず、被害者遺族は、「死を無駄にするかしないか」という本質からずれた勝負に参加させられてしまう。
このような争いは、勝っても負けても空しい。もしも犯人が死刑を免れたならば、「死が無駄になった」という文脈に強制的に取り込まれる。そうかと言って、犯人が死刑になったときには、「それでも死者は帰ってこない」というその先のより深い問題に直面させられる。哲学的問題が法律的な問題によってねじ曲げられ、振り回された結果である。
犯罪被害者遺族が「死を無駄にしない」という方向に賭けることは、間違いではない。間違いなのは、そのような勝負を強制している近代刑法のシステムの方である。