犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

死を無駄にしないための争い

2007-04-04 19:53:47 | 時間・生死・人生
近代刑法のシステムは、壮大かつ精密な体系を作り上げた。それが、細かい条文と厳格な裁判制度である。大多数の国民は、犯罪の処理という社会的な大問題について、専門家に一任することになった。それが、人間にとって不可欠な哲学的思考を封じさせる端緒となった。

このような専門家による解決が無力さを呈するのは、封じていたはずの哲学的問題が湧き上がってくる時である。それは、人間の生死が問題になった時に最も厳しく表れ、犯罪被害者遺族によって最も先鋭的な形で持ち込まれる。人間の生死の前には、どんな問題も色あせる。裁判の公正などといった天下国家の問題は、人間の生死という絶対的な事実の前には一気に説得力を失う。

裁判が公正であろうとなかろうと、死んだ人間には何もわからない。犯罪被害者遺族にとっては、最愛の人間が存在しなくなってしまったこの世の問題は、いずれにせよ大したものではない。公正な裁判の実現の議論などは、死者を置き去りにして、その周りで関係ない人達が大騒ぎしているようなものである。肝心の本人のみが不在である。

しかしながら、近代刑法の壮大なシステムは、犯罪被害者遺族をそのカテゴリーに強制的に取り込む。このような状況となれば、遺族に残された道としては、「死を無駄にしない」という方向に賭けるしかなくなる。これは政治的な争いである。被害者遺族は知らず知らずのうちに、そのような勝負に参加させられてしまう。

しかし、本来、人間の生死は政治ではない。断じて政治的な争いではない。しかも、人間の生には無駄なものが一つもないように、その死にも無駄なものなど一つもない。死を無駄にするもしないも、そもそも死が論理的に無駄になるわけがない。にもかかわらず、被害者遺族は、「死を無駄にするかしないか」という本質からずれた勝負に参加させられてしまう。

このような争いは、勝っても負けても空しい。もしも犯人が死刑を免れたならば、「死が無駄になった」という文脈に強制的に取り込まれる。そうかと言って、犯人が死刑になったときには、「それでも死者は帰ってこない」というその先のより深い問題に直面させられる。哲学的問題が法律的な問題によってねじ曲げられ、振り回された結果である。

犯罪被害者遺族が「死を無駄にしない」という方向に賭けることは、間違いではない。間違いなのは、そのような勝負を強制している近代刑法のシステムの方である。

河原理子著 『犯罪被害者』 後半

2007-04-04 19:24:09 | 読書感想文
弁護士は、どんな凶悪犯人であっても、被告人の側に立って弁護を行うことが仕事である。犯罪被害者遺族が苦しんでいるのは、被告人の側に立つ人間が存在することではない。そもそも「側に立つ」とはいかなることか、その条件の理解に苦しんでいる状態である。被害者遺族は大切な人の側に立ちたいのに、その人は殺されてこの世にいない。この「側に立つ」ための条件を奪った被告人にのみその条件が満たされているという逆転が、被害者遺族に混乱をもたらしている。

近代法治国家においては、捜査はあくまで公判の準備のために機械的に行われるものである。そして、公判はあくまで被告人が有罪か無罪かを決する場として設けられている。これが犯罪被害者に疎外感をもたらす。精密で巨大なシステムが確立してしまった現在では、この構造は強力である。公務員には公平中立性が要求されており、税金を使っている職務であり、法律に規定がないことを積極的に行えば不祥事となりかねない。それどころか、公務員には被害者に感情移入しないことが職業倫理上求められる。そこで、被害者を無視することが職務熱心さの現われとなり、自らの仕事に誇りを持っていることの証拠となる。

このような近代刑事裁判は、社会科学の客観的法則性を至上命題とする。ここでは裁判官の恣意を排することが要求され、客観的に法的安定性を持った事実認定と法解釈が求められてくる。これによって、公平中立な裁判制度が可能となり、国民の司法制度に対する信頼が確保できるという建前である。このような客観性は、物事を「人の身になって考えない」ことによって確保される。また、裁判官は「自分やその家族が被害を受けた場合のことを想像しない」ことによって、裁判の客観性が確保される。

一般人の常識は専門家の非常識である。これは近代刑法の理論によるシステム化、細分化によってもたらされている。敗戦による日本国憲法の誕生、過去の教訓を生かした刑事被告人の諸権利の条文、戦後半世紀の枠組みの構築は、歴史の偶然と必然である。そして、ようやく犯罪被害者の存在が気付かれたことも、歴史の偶然と必然である。これを過渡期という表現で言い表すならば、実存的な真剣さが失われてしまうだろう。いかなる人間にとっても、この瞬間は一瞬において過ぎ去る。そして、ただ一回の人生は、その生まれる時代を選び取ることができない。

犯罪被害者の問題は、コペルニクス的発想の転換を伴う。この転換は、法律学が20世紀の現代哲学における言語論的転回に気がついていたならば、もっと早くにもたらされるはずのものであった。これも、近代刑法の理論によるシステム化、細分化の歪みである。人権感覚の厚みや深みというメタファーも、突き詰めれば[ジンケン]というシニフィアンと、「対国家権力性」というシニフィエとの間の恣意性の問題として捉えられる。近代刑法の様々な理論は、犯罪被害者にとって「壁」と感じられることがあるが、これもすでに近代刑法の文脈に乗ってしまっている。コペルニクス的発想の転換をするならば、この「壁」というメタファーも否定されることになるだろう。