犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

論理実証主義と法実証主義

2007-04-07 20:23:11 | 言語・論理・構造
論理実証主義は、20世紀前半の哲学史の中で、特に科学哲学において重要な役割を果たした。経験論に基づいて形而上学を否定し、言語分析によって厳正さを求める思想である。そして、この論理実証主義を法学に応用した考え方が法実証主義である。この立場は、経験的に検証可能な社会的事実として存在する限りにおいての実定法の文言のみを法学の対象とする。

20世紀前半は、言葉に対する関心が高まった時代であった。ウィトゲンシュタインを初めとする英米系の分析哲学や、フランス系の構造主義の隆盛がその表れである。レヴィ=ストロース(Claude Gustave Levi-Strauss、1908-)を祖とする構造主義は、もともとソシュール(Ferdinand de Saussure、1857-1913)の言語学を契機としている。

法実証主義は、このような言語分析の厳正さを受け継いでいる。条文は言葉であり、判決文も言葉である。法実証主義は言葉の重要性を説き、条文の一言一句を精密に解釈し、形而上学の影響の残る自然法論を排除しようとする。しかしながら、その手法はウィトゲンシュタインの哲学からは遠く離れてしまった。それは、「条文は言葉である」ことを追究しすぎた結果、逆に「条文は言葉である」ことを見落としてしまったという皮肉である。哲学なき論理実証主義は、あくまでもウィトゲンシュタインの亜流にすぎない。

『論理哲学論考』における前期ウィトゲンシュタインの思想の中心は、言葉や命題は、事実を写し出す写像であるというものである。ここでは、人間の主観的な判断や検証できない命題が退けられている。言葉は事実を写し出す写像であり、事実と対応している言葉が真理であるとされる。『論理哲学論考』のこの部分を発展させた思想が論理実証主義であり、さらにこれを法学に応用した考え方が法実証主義である。

しかし、論理実証主義や法実証主義は、『論理哲学論考』の哲学的な核心部分を故意に落としている。それが独我論であり、語り得ぬものへの沈黙である。実証的な社会科学の手法は、形而上学の排除を押し進めるがゆえに、哲学を捨てた。これによって社会科学は客観的法則性を把握し、法律や政治経済など各分野ごとの系統的認識を作り上げ、実用性を獲得した。これはこれで社会的に有用であるが、ウィトゲンシュタインの哲学からは離れてしまった。法律学は、皮肉にも「条文は言葉である」ことを見落としている。これが、専門用語の厳密性によって、専門家が一般人を疎外するという現象を生み出した。

後期ウィトゲンシュタインは、自らの前期の思想を撤回した。法実証主義は、ウィトゲンシュタイン本人が間違いだと宣言したにもかかわらず、前期の手法をそのまま受け継ぐものである。条文は事実を写し出す写像であるとして、事実と条文との対応を厳密に検証するのが法実証主義である。しかし、本人がこのような「要素命題の相互独立性」を撤回している以上、これはウィトゲンシュタイン哲学そのものではない。

永井均・小泉義之著 『なぜ人を殺してはいけないのか?』 第1章・第3章

2007-04-07 20:16:21 | 読書感想文
なぜ人を殺してはいけないのか。この問いは語るに落ちている。それは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いには意味があるが、「なぜ人を殺してよいのか」という問いには意味がないからである。なぜ人を殺してはいけないのかという問いは、人を殺してはならないという答えを先取りしており、その問い自体が答えである。

このような哲学的な問いを考える多くの人間は、実際には殺人事件など起こしていない。このような問いは、机上の空論である。これに対して、実際に殺人事件を犯した人間は、その事実関係や量刑を争うことに夢中であり、このような哲学的な問いには直面しない。留置場で自問自答することもないし、ましてや法廷で裁判官に質問する人間などいない。これは、「語らない」に落ちている。殺人行為を否認するのは、人を殺すことは悪いことだという大前提を受け入れている証拠である。

法律の条文は、人間の行動を法律要件と法律効果という人為的な言語の中に押し込める。刑法199条においては、人を殺すことが法律要件であり、死刑・無期懲役・5年以上の有期懲役が法律効果である。ここには、人を殺すことが悪いとは書いていない。これ以上のものを読み込むことは、法律の条文を超える。刑法199条が存在することは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いの答えにはなっていない。刑法199条は、最初に条文を並べたときに、たまたま199番目に来たものにすぎない。ちなみに1つ前の198条は贈賄罪であり、哲学的な問題とは無縁の金融犯罪である。

殺人行為とは、法律的に述べれば、「生体を死体にすること」である。それ以上でもそれ以下でもない。しかし、哲学的に述べれば、「人間の人格・人生を消去すること」である。被害者遺族が裁判所に傍聴に行くと、その無味乾燥で機械的な手続きの流れを目の当たりにして、さらに悲しみを深くすることがある。これは、裁判で扱えるのは法律的な意味での殺人のみであり、哲学的な意味での殺人は扱えないことによる。

裁判においては、常識的には加害者に殺意があったとみられる事件でも、その証拠が弱いことから、軽い傷害致死罪(刑法205条)で起訴されることも多い。これは、法権力の無能を隠蔽するための法的命名の作用である。実際に加害者に殺意があったならば、傷害致死罪による判決は誤判となるはずである。しかし、法律学における「誤判」という言葉は、実際には加害者に殺意がなかったにもかかわらず重い殺人罪に問われた場合にしか使用しないことになっている。「誤判」という法的命名は、検察官に殺人罪での起訴を躊躇させる方向で作用している。危険運転致死傷罪(刑法208条の2)の適用が難しいのも、法権力の無能を隠蔽するための法的命名の作用によるものである。