日本国憲法は、価値相対主義を保障している(21条1項・表現の自由)。しかし、この価値相対主義は、法哲学的なパラドックスを抱えている。価値相対主義そのものは、価値絶対主義でなければならないからである。価値相対主義自身を価値相対主義だとしてしまえば、それは単に相対的な理論に過ぎず、価値相対主義を真理として保障することができなくなる。そうかと言って、価値相対主義そのものは価値絶対主義であるとしてしまえば、それは価値相対主義ではなくなってしまう。
哲学的に突き詰めれば、複数の価値が並列している価値相対主義は、ニヒリズムの恐怖そのものである。絶対的な真理が不明であれば、その絶望的な状態に恐れおののくしかない。相対的な真理にすぎないものを相対的であるとわかっていながら主張することは、単にニヒリズムを増幅させる行為である。従って、そこでは個々の相対的な価値判断をめぐる争いなど成立しなくなる。
法解釈の争いは、根本的には価値判断をめぐる争いである。これは価値相対主義を前提としており、絶対的な真理などないという建前である。しかしながら、その相対的な真理にすぎないはずのものが、相互に大声で自己の正当性を主張している。本来、価値相対主義においては多様な価値観の共存が許容され、すべての理論は同じ正当性を持つはずであった。にもかかわらず、法解釈の争いにおいては、その相対的な理論の中の1つが絶対的であるとして主張されることになる。これは、もはや価値絶対主義と呼ぶにふさわしいだろう。
ウィトゲンシュタイン哲学からすれば、これは独我論の伝達の問題の変形として捉えられる。徹底された独我論と純粋な実在論が反転するならば、価値絶対主義と価値相対主義は一致する。すなわち、徹底された独我論からすれば価値絶対主義であり、純粋な実在論からすれば価値相対主義である。そして、これは相互に無限に反転する。
価値絶対主義とは、一神教のような原理主義に限られない。価値相対主義を前提としつつも、「自分はその中の1つの立場を正しいと思い、それを支持する」と言えば、それは価値絶対主義に反転する。それと同時に、1つのオピニオンを絶対的なものとして、別の位置にあるオピニオンを説得しにかかることによって、それは自らの相対性を証明してしまう。
徹底された独我論からすれば、自分では価値相対主義を前提にしているつもりであっても、あるオピニオンの1つないし複数を支持している状態であれば、それは価値絶対主義である。これに対し、純粋な実在論からすれば、自分では価値絶対主義を前提にしているつもりでも、他の人が別の価値観を支持していること自体を認めている状態であれば、それは価値相対主義である。オピニオンや立場の内容に入り込む限り、価値相対主義と価値絶対主義は相互に無限に反転してしまう。
ここで絶対的なことは、次のことだけである。「価値相対主義」という文字で価値絶対主義という意味を表すことはできず、「価値絶対主義」という文字で価値相対主義という意味を表すことはできない。ウィトゲンシュタイン哲学からすれば、この絶対性だけが自然と浮かび上がってくる。
哲学的に突き詰めれば、複数の価値が並列している価値相対主義は、ニヒリズムの恐怖そのものである。絶対的な真理が不明であれば、その絶望的な状態に恐れおののくしかない。相対的な真理にすぎないものを相対的であるとわかっていながら主張することは、単にニヒリズムを増幅させる行為である。従って、そこでは個々の相対的な価値判断をめぐる争いなど成立しなくなる。
法解釈の争いは、根本的には価値判断をめぐる争いである。これは価値相対主義を前提としており、絶対的な真理などないという建前である。しかしながら、その相対的な真理にすぎないはずのものが、相互に大声で自己の正当性を主張している。本来、価値相対主義においては多様な価値観の共存が許容され、すべての理論は同じ正当性を持つはずであった。にもかかわらず、法解釈の争いにおいては、その相対的な理論の中の1つが絶対的であるとして主張されることになる。これは、もはや価値絶対主義と呼ぶにふさわしいだろう。
ウィトゲンシュタイン哲学からすれば、これは独我論の伝達の問題の変形として捉えられる。徹底された独我論と純粋な実在論が反転するならば、価値絶対主義と価値相対主義は一致する。すなわち、徹底された独我論からすれば価値絶対主義であり、純粋な実在論からすれば価値相対主義である。そして、これは相互に無限に反転する。
価値絶対主義とは、一神教のような原理主義に限られない。価値相対主義を前提としつつも、「自分はその中の1つの立場を正しいと思い、それを支持する」と言えば、それは価値絶対主義に反転する。それと同時に、1つのオピニオンを絶対的なものとして、別の位置にあるオピニオンを説得しにかかることによって、それは自らの相対性を証明してしまう。
徹底された独我論からすれば、自分では価値相対主義を前提にしているつもりであっても、あるオピニオンの1つないし複数を支持している状態であれば、それは価値絶対主義である。これに対し、純粋な実在論からすれば、自分では価値絶対主義を前提にしているつもりでも、他の人が別の価値観を支持していること自体を認めている状態であれば、それは価値相対主義である。オピニオンや立場の内容に入り込む限り、価値相対主義と価値絶対主義は相互に無限に反転してしまう。
ここで絶対的なことは、次のことだけである。「価値相対主義」という文字で価値絶対主義という意味を表すことはできず、「価値絶対主義」という文字で価値相対主義という意味を表すことはできない。ウィトゲンシュタイン哲学からすれば、この絶対性だけが自然と浮かび上がってくる。