犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

言葉の定義と意味

2007-04-17 18:52:45 | 言語・論理・構造
法律学は、厳密な定義によって言葉の意味を明らかにしようとする。例えば、刑法208条の2(危険運転致死傷罪)においては、「正常な運転が困難な状態で四輪以上の自動車を走行させ」という文言の一言一句について、被害者そっちのけで研究が進められている。しかし、定義はしょせん定義である。ここでは、言葉とは何か、言葉の意味とは何かという本質問題は避けられている。このような専門用語の狭い世界で完結しようとする鈍感さが、一般人や被害者に疎外感をもたらす。

ソシュールが提示した言語の恣意性は、のちに「言語論的転回」というパラダイムの転換をもたらした。すなわち、言語は人為的で恣意的な差異の体系であり、指示対象物を意味したり伝達したりする道具ではなく、現実を構成する実践そのものであることの発見である。言葉の表現(シニフィアン・意味しているもの)と内容(シニフィエ・意味されているもの)との関係は恣意的である。その関係に必然性はなく、それにもかかわらず、それが了解される体系のなかでは必然化されている。このような地点に立ってみると、言葉とは何か、言葉の意味とは何かという問題は恐ろしく困難であることがわかる。

これを厳密に述べようとすれば、このようになるだろう。「言葉」も言葉である。従って、「言葉」という言葉も、言葉によらなければ言うことができない。また、「意味」にも意味がある。従って、「意味」の意味するところは、意味の意味だと言うしかない。「言葉」は「意味」を持っている。すなわち、「言葉」という言葉の意味が言葉であり、「意味」という言葉の意味は意味である。言葉は意味を持っているからこそ言葉であり、意味は言葉の中でしか意味たりえない。

法律家は、法律の条文も言葉であって、言葉を大切にすべきだと考えている。しかしながら、言語哲学による追究に比べれば、やはり考えが浅い。言葉を定義して先に進めるのは、この世のとりあえずの決め事のレベルであって、言葉の意味とは何かという本質問題は避けられている。「正常な運転が困難な状態で四輪以上の自動車を走行させ」という文言の一言一句について、その定義ではなく意味を考えようとするならば、人間は一気に途方もない地点にまで飛ばされる。

ソシュールは、「観点に先立って対象があるのではなく、観点が対象を作り出す」と述べている。これはシニフィエの同一性の根拠であり、同じ記号が同じものを把握させることによって、違う記号が違うものを把握させるという言語の構造をよく表している。言語とは記号であり、それは同一性と差異の構造である。法律の条文も、このような言語規則の上に作られた人工的な記号である。よって、法解釈によって可能となるのは、あくまでもその時その時の政治的な定義にすぎない。定義を超えた客観的な意味を探究しようとしても、すべて言語の恣意性の中に消えてしまう。

藤井誠二編著 『少年犯罪被害者遺族』 第3場

2007-04-17 18:48:01 | 読書感想文
第3場 本当の償いとは何ですか ― 村井玲子さんとの対話

刑法の主語は加害者であり、少年法の主語は加害少年である。このような法律の構造は、戦後50年間の国民が被害者を見落としていたことと連動している。法律がそのようになっているならば、世論はわざわざゼロから物事を疑ったりしない。村井さんは、このような日本社会の言語に丸め込まれそうになりながら、自分自身の力で状況を言語化してストーリーを作った。「その人生」における「その被害」は世界に1つであり、社会の常識に負けて言語化ができなければ、その「その被害」を語る言葉は永久に逃げてゆく。それを引き出した藤井氏の手腕には敬服するしかない。

村井さんが修復的司法に抱いた不信感は、欺瞞的な支援の大合唱に対する本能的な違和感によるものであろう。支援者が被害者遺族に共感するために最も有効な方法は、自分も同じ目に遭うことである。これは動かぬ真実である。「被害者遺族に共感したい」という意見を突き詰めるならば、それは「自分の家族が犯罪被害で死ぬことを望んでいること」に行き着いてしまう。これも論理の必然である。この絶望的な事実を直視した上で、自分も同じ目に遭わない限りは絶対にわかり合えないという残酷な大前提を受け入れることによって、初めて被害者遺族の支援の意味が見えてくる。

これに対して修復的司法のパラダイムは、この一番絶望的な部分を見ていないため、話が上滑りしている。自分を絶対的な安全地帯に置き、自分の家族が犯罪被害で死ぬことはないという根拠のない自信を前提として、被害者遺族に支援を与えようとする。これが最大の欺瞞である。犯罪被害は修復できるという結論の先取りは、欺瞞的な結論にすべてフタをする。もともと綺麗ごとでは済まされない話である以上、綺麗ごとのストーリーを描くことは、すべて偽善となる。第1段階から第4段階といった車の教習所のような技術は、「その人生」における「その被害」は世界に1つであるという哲学的な真実を隠蔽する。赦すことが正しいという空気に飲まれてしまえば、哲学的懐疑は永久に終わりである。

村井さんは、「私が知っている被害者遺族の人たちから、『それをやりたいんだよ』と言われて、私がやったことは間違っていなかったんだ、自分がやったことはそういうことだったんだと思いました。誰に教わったわけでもないし、むしろ誰も教えてくれなかった」と述べている。哲学なき社会では、自分の頭1つで哲学を始めるしかない。少年法の厳罰化に反対する立場は、村井さんに対して「厳罰派」とのレッテルを貼るだろうが、これは鈍感な態度である。自分自身の力で状況を言語化してストーリーを作る作業においては、いかなる派閥や団体も頼りにならない。「その人生」は世界に1つだからである。