犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

他者との関わり

2007-04-02 19:45:34 | 時間・生死・人生
近代法律学における人間像は、何よりも人間が理性的な存在であり、自己が確立していることを大前提とする。まずは「自分」がいて、そして「他者」がいるという順番である。しかし、冷静に考えてみれば、これは人間の数だけ「自分」が存在するという話である。どの人間にとっても「自分」がいて、そして「他者」がいるという状況にすぎない。それでは、「他の自分」ではない、「この自分」とは何なのか。そう考えても、やはり人間の数だけ「この自分」がいるという話に戻ってしまう。近代法律学における人間像は、このような人間の実存的な部分を単純に切り落としている。しかし、犯罪被害者の問題は、まさにこの切り落とされた中にある問題である。

「自分」から「他者」という順番を根本的にひっくり返した哲学者に、レヴィナス(Emmanuel Levinas、1906-1995)がいる。レヴィナスは、ハイデガーの『存在と時間』から出発しつつ、それを自分と他者の関係、すなわち「他者論」として構築した。ハイデガー哲学における存在者の現前は、レヴィナスにおいては「顔」というキーワードで語られる。人間の数だけ「自分」がいれば、これは区別できない。日本には1億2000万人の「自分」がいて、世界には65億人の「自分」がいるならば、「この自分」と「その自分」を区別することができなくなる。自己中心的な犯罪者の気分もこのような点にあるだろうし、それによって被害を受けた者の悲しみもこのような点を避けては通れない。

レヴィナスの哲学によれば、「自分」とは「他者」を通じて初めて現れる。すなわち、他者との関わりの中で、初めて自分の位置が確定する。人間の数だけ「自分」がいるならば、他者からみれば自分は「他者」である。自分とは「他者の他者」である。日本には1億2000万人の「他者の他者」がいて、世界には65億人の「他者の他者」がいる。これも考えてみれば当然のことである。例えば、「夫」であり「親」であり「上司」である者は、その存在を「妻」という他者と「子」という他者と「部下」という他者に依存している。「自称夫」や「自称上司」には何の意味もないからである。

法律や裁判のパラダイムが被害者を苦しめるのも、まずは「自分」がいてその後に「他者」がいるという単純なモデルがあって、その「自分」が被告人に固定されていることに基づくものである。18世紀の近代刑法のパラダイムは、レヴィナスが20世紀に提示した問題など知る由もない。これは、人間の必然的な存在形式に対する洞察の深さがない。近代裁判制度は、人工的な「自分-他者」の関係を国民に押しつけている。そこでは、「被疑者-警察官」「被告人-検察官」「被告人-裁判官」などの関係が生じさせられる一方で、「加害者-被害者」という関係だけが人為的に消されている。

河原理子著 『犯罪被害者』 前半

2007-04-02 19:44:01 | 読書感想文
犯罪被害者遺族の苦悩は、犯罪捜査という「公益」と、大切な人の死という「私的な部分」とのせめぎ合いに基づいている。大切な人の死は、それが犯罪によるものであろうとなかろうと、極めて個人的なものである。このような個人の人生に関する問題の前には、「公益」などという天下国家の些事は姿を消す。しかしながら、大切な人の死が犯罪による場合には、近代法治国家は「公益」によって「私的な部分」を強制的に奪う。

このような被害者遺族の苦悩は、近代法治国家における捜査から裁判に至る制度そのものが被害者を疎外するシステムになっていることに基づく。近代立憲主義と民主主義は、刑法や刑事訴訟法の精密な条文と裁判制度を生み出した。これらの壮大な構築物は、個人の人権を定めていることにより、逆に必然的に全体主義となる。「私的な部分」は、強制的に「公益」に取り込まれる。この点に関しては、人権論も反人権論も同じ穴のムジナである。

近代法の理念は、それが「近代法の理念」であることによって、まさに普遍的ではないことを示している。普遍的なものであれば、それは時代を超えて真実であり、古代にも中世にも真実であったはずである。時代を超えた真実とは、人間は大切な人の死を悲しむ存在であるということに尽きる。そして、それが他者による殺人行為によってもたらされた場合には、さらなる深い悲しみと怒りを伴うということである。現在も歴史の真っ只中であり、今後も「近代法の理念」はいくらでも変わりうるが、人間が大切な人の死を悲しむ存在であることは変わらない。

犯罪被害者遺族の立ち直りを軽々しく論じる立場は、人間が生死という弁証法的な事実をそのまま生きている現実を見落としている。人間は、通常の病死や寿命であっても、大切な人の死を悼む。そして、仏壇に手を合わせ、墓参りをして、いつまでも故人を偲ぶ。大切な人の死という現象は、残された人間にとっては、その人の最期の瞬間の記憶と切り離すことができない。ここで被害者遺族に立ち直りを求めることは、「殺されたこと」と「死んだこと」とを切り離すよう要求することに他ならない。そのような器用な心理状態を作ることなど、人間にはもとより不可能である。

これと同じように、「罪を憎んで人を憎まず」という心理状態も、人間には不可能である。他人を憎んだり憎まなかったりするのは人間であって、その人間が生死という弁証法的な事実を生きているという現実を見るならば、このような議論は明らかに無理である。「罪を憎んで人を憎まず」という格言は、実際にはそのようなことは無理難題であるという逆説を前提とした上で、欺瞞的に意味を持つにすぎない。