近代法律学における人間像は、何よりも人間が理性的な存在であり、自己が確立していることを大前提とする。まずは「自分」がいて、そして「他者」がいるという順番である。しかし、冷静に考えてみれば、これは人間の数だけ「自分」が存在するという話である。どの人間にとっても「自分」がいて、そして「他者」がいるという状況にすぎない。それでは、「他の自分」ではない、「この自分」とは何なのか。そう考えても、やはり人間の数だけ「この自分」がいるという話に戻ってしまう。近代法律学における人間像は、このような人間の実存的な部分を単純に切り落としている。しかし、犯罪被害者の問題は、まさにこの切り落とされた中にある問題である。
「自分」から「他者」という順番を根本的にひっくり返した哲学者に、レヴィナス(Emmanuel Levinas、1906-1995)がいる。レヴィナスは、ハイデガーの『存在と時間』から出発しつつ、それを自分と他者の関係、すなわち「他者論」として構築した。ハイデガー哲学における存在者の現前は、レヴィナスにおいては「顔」というキーワードで語られる。人間の数だけ「自分」がいれば、これは区別できない。日本には1億2000万人の「自分」がいて、世界には65億人の「自分」がいるならば、「この自分」と「その自分」を区別することができなくなる。自己中心的な犯罪者の気分もこのような点にあるだろうし、それによって被害を受けた者の悲しみもこのような点を避けては通れない。
レヴィナスの哲学によれば、「自分」とは「他者」を通じて初めて現れる。すなわち、他者との関わりの中で、初めて自分の位置が確定する。人間の数だけ「自分」がいるならば、他者からみれば自分は「他者」である。自分とは「他者の他者」である。日本には1億2000万人の「他者の他者」がいて、世界には65億人の「他者の他者」がいる。これも考えてみれば当然のことである。例えば、「夫」であり「親」であり「上司」である者は、その存在を「妻」という他者と「子」という他者と「部下」という他者に依存している。「自称夫」や「自称上司」には何の意味もないからである。
法律や裁判のパラダイムが被害者を苦しめるのも、まずは「自分」がいてその後に「他者」がいるという単純なモデルがあって、その「自分」が被告人に固定されていることに基づくものである。18世紀の近代刑法のパラダイムは、レヴィナスが20世紀に提示した問題など知る由もない。これは、人間の必然的な存在形式に対する洞察の深さがない。近代裁判制度は、人工的な「自分-他者」の関係を国民に押しつけている。そこでは、「被疑者-警察官」「被告人-検察官」「被告人-裁判官」などの関係が生じさせられる一方で、「加害者-被害者」という関係だけが人為的に消されている。
「自分」から「他者」という順番を根本的にひっくり返した哲学者に、レヴィナス(Emmanuel Levinas、1906-1995)がいる。レヴィナスは、ハイデガーの『存在と時間』から出発しつつ、それを自分と他者の関係、すなわち「他者論」として構築した。ハイデガー哲学における存在者の現前は、レヴィナスにおいては「顔」というキーワードで語られる。人間の数だけ「自分」がいれば、これは区別できない。日本には1億2000万人の「自分」がいて、世界には65億人の「自分」がいるならば、「この自分」と「その自分」を区別することができなくなる。自己中心的な犯罪者の気分もこのような点にあるだろうし、それによって被害を受けた者の悲しみもこのような点を避けては通れない。
レヴィナスの哲学によれば、「自分」とは「他者」を通じて初めて現れる。すなわち、他者との関わりの中で、初めて自分の位置が確定する。人間の数だけ「自分」がいるならば、他者からみれば自分は「他者」である。自分とは「他者の他者」である。日本には1億2000万人の「他者の他者」がいて、世界には65億人の「他者の他者」がいる。これも考えてみれば当然のことである。例えば、「夫」であり「親」であり「上司」である者は、その存在を「妻」という他者と「子」という他者と「部下」という他者に依存している。「自称夫」や「自称上司」には何の意味もないからである。
法律や裁判のパラダイムが被害者を苦しめるのも、まずは「自分」がいてその後に「他者」がいるという単純なモデルがあって、その「自分」が被告人に固定されていることに基づくものである。18世紀の近代刑法のパラダイムは、レヴィナスが20世紀に提示した問題など知る由もない。これは、人間の必然的な存在形式に対する洞察の深さがない。近代裁判制度は、人工的な「自分-他者」の関係を国民に押しつけている。そこでは、「被疑者-警察官」「被告人-検察官」「被告人-裁判官」などの関係が生じさせられる一方で、「加害者-被害者」という関係だけが人為的に消されている。