犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

法とは言葉そのものである

2007-04-30 19:37:49 | 言語・論理・構造
「法」とは何か。辞書の定義によれば、「社会秩序を維持するために、その社会の構成員の行為の基準として存立している規範の体系であり、裁判において適用され、国家の強制力を伴うもの」である。そこで終わらせてしまえば話は簡単である。しかし、問題はその後である。その定義に出てくるそれぞれの単語も、辞書の中においてはまた定義がなされている。すなわち「社会」「秩序」「行為」「体系」といった語の意味は、辞書の中において、またそれぞれに定義がなされる。

このような単語の定義は無限に広がり、相互に依存して循環する。例えば、「社会」とは、「人間の共同生活の総称。また、広く人間の集団としての営みや組織的な営み。人々が生活している現実の世の中。世間。ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり。仲間意識をもって、自らを他と区別する人々の集まり」と定義される。こうなってくると、「法」とは何かを厳密に定義するためには、「人間」「共同」「生活」「集団」「営み」「組織」「現実」「世の中」「世間」「区別」「意識」といった単語すべての定義が必要になり、際限なく広がってゆく。これは気が遠くなる話である。

このように、言葉の定義は辞書の中において永遠に循環する。しかし、学問を構築するには、取りあえず証明する必要のない明らかに自明な法則、すなわち公理を前提としなければ始まらない。これは、自然科学ですら用いられている方法である。それでは、法律学における公理とは何か。このように考えてみると、人間が絶対に逃れることができない公理に気がつく。それが、「言葉」である。すなわち、「言葉」という言葉である。「法」も「社会」も「秩序」も「行為」も「体系」も、すべては言葉である。言葉とは、「社会」「秩序」「行為」「体系」といったすべてのものを包摂する上位概念である。言葉という言葉を定義するためにも、やはり言葉が必要である。

法律学とは、条文の意味を解釈する学問である。そして、条文とは「法律などにおける箇条書きの文章」と定義される。さらに、文章とは「書いた言葉」と定義される。このように、法律学も言葉がなければ成立しえない。いかなる法律学上の優れた理論も、日本語や英語といった言語がなければ、発表のみならず研究そのものが不可能である。すべての法律学の記述には、言語を要する。この意味で、法律学における公理は言葉である。すなわち、「法」とは言語による構成物である。「法」とは、そのものが言語であり、言葉そのものである。言葉が法律を作っている。これは分析哲学からは常識であるが、多くの法律学者が見落としている事実である。

山文彦編著 『少年犯罪実名報道』

2007-04-30 19:34:12 | 読書感想文
山氏は、なぜ少年の実名を報道しなければならないと思ったのか。匿名では意味がなく、実名でなければならないと思ったのか。それは、殺された被害者の生命の重さが命ずるところでしかあり得ない。山氏による覚悟の実名報道は、殺された人間の生命権を含んだものであった。

多くの国民は、少年側による山氏に対する損害賠償請求訴訟に違和感を持った。それは、殺された被害者の生命の重さと、自らのプライバシーの重さとを天秤に乗せた少年の鈍感な態度に対してである。さらには、その天秤において、被害者の生命よりも少年のプライバシーのほうが重いと判断した弁護団の人権感覚に対してである。このような違和感はごく正常である。地球よりも重い人の命の前には、プライバシーの主張など寝言に等しいはずだからである。

しかしながら、実際の話はもっと不条理であった。被害者の生命の重さは、そもそも天秤に乗らない。これは、人権というカテゴリーの必然的な限界である。死者に人権はない。法律的な人権論においては、人間の生死という哲学的な問題を扱うことができない。そこで、山氏が法律的正義を超えて哲学的正義を追求しようとするならば、残された道は1つしかない。それは、死者の人権の代わりとして、生きている人間の人権のカテゴリーを使うことである。かくして山氏は、表現の自由や知る権利の主張の中において、殺された被害者の生命権を主張するしかなかった。

人権のうちで最も重いものが生命権であることには疑いがない。憲法13条は、アメリカ独立宣言を受けて「生命、自由、幸福追求」という順番で書かれている。プライバシー権が3番目の「幸福追求」であれば、1番目の「生命」には劣後するはずである。しかしながら、この「生命」も、天賦人権論という変形ニヒリズムにすぎなかった。天与の権利は神の代替物であり、人間の生死に関する哲学的な難問を扱う力はない。人権論からは、どう頑張っても死者に人権はない。そこで、法律的には正当である理屈が、哲学的にみれば全く筋が通らないといった現象が多発することになる。

山氏が行った方法は、人権論を哲学的に救済するという意味を持っていた。国民の間に人権感覚が定着するには、やはり「人権のうちで最も重いのは生命権である」という原則が示されることが必要であり、これは哲学的にも受け入れられる。これに対して、人権派によって「死者に人権はない」という理屈が大声で喧伝されるならば、国民の間に人権概念に対するマイナスイメージが生じてしまう。表現の自由の主張をもって被害者の生命権を主張する方法は、法律論では語りきれない哲学的な内容を持っていた。

これに対して、山氏を批判する立場は、表現の自由の主張の裏にある被害者の生命権を見ようとはしなかった。単純に表現の自由・知る権利とプライバシー権・少年法の理念とを比較して、雑誌が売れればいいのか、営利主義のセンセーショナリズムだと批判することになる。この反応も当然といえば当然である。法律論のカテゴリーでは、そもそも哲学的な問題を扱うことができない。金儲けのための報道だと思えば、物事はそのように見えてくる。物事は、その人の見たいようにしか見えないからである。